||√||(かさ)

           
さぼさぬけ

 傘がないの。

 都会では自殺する若者が増えている。それは、もう随分と昔のこと。最近では、自殺する中年が増えている。家族も、職もある、働き盛りのおじさん達が中央線を止めている。
 その日の天気予報は夕方から雨。私は帰路を急いでいた。中央線は今日も、その車両一杯に人を詰め込んで線路を駆け抜ける。そして。
 激しいブレーキ音と共に、私の身体は後方へと引っ張られる。背中に人の感触。胸にも人の感触。重みで肺が押しつぶされそうで、私は思わず咳き込んだ。そして思う。ああ、またか。
 しばらくして車内アナウンス。「当列車は人身事故のためしばらくの間停車いたします。お急ぎの所誠に申し訳ありません」そして思う。ああ、やっぱり。周囲は不審にざわつき始め、少し向こうのサラリーマン風の男性が携帯電話を取り出して電話をかけ始める。内容はおおよそ想像が付く。
「すみません、ちょっと人身事故で中央線が止まってしまって。ええ、今電車の中です。なるべく早く、そっちに向かうようにしますので」
 ちょっと、人身事故で。
 そんなありふれた言葉で、その人の一生は片付けられる。そう、人が死んだって、他人にはそんなものなのだ。
 しばらくして電車は動き出した。私はいつもの駅で電車を降り、先頭車両をふと眺めてみた。どこかに肉塊がこびりついていたりだとか、返り血が飛んでいたりだとか、そんなことを期待していたのかも知れない。けれど中央線は日常のまま、血の臭いすらかぎ取れなかった。
 変わって、私の鼻をついたのは雨の匂い。埃っぽいアスファルトが湿る、あの独特の匂い。ああ、と、私はため息をついた。
 都会では自殺する中年が増えている。
 けれど、問題は今日の雨。
 全ての関係は希薄で、人が死ぬことよりもきっと自分が不幸せにならないことの方が重要。
 私は慌てて駅を飛び出す。アパートまで走って帰ろう、そう思っていた矢先に雨の粒は一層大きくなり、アスファルトを真っ黒に染めていく。
 傘がない。
 私は駆け抜ける。雨は降りしきる。そこに中央線を止めた誰かの姿は微塵も存在しない。
 明日の朝刊のどこかにきっと、その誰かの記事が載るだろう。けれど私はきっとそれを読むことはない。遺族は悲しみに暮れるだろう。けれど私はきっと彼らを知ることはない。そしてまた降るだろう雨のことを、ほんの少し気にするだけだ。

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