人生、上を向いて歩かなきゃいけないことはない。
例えば下を向いて歩く人間は、空から雨が降ってきたことに気づかないだろう。頬に雨粒があたって初めて、頭上の曇天に気が付くのだ。
上を向いて歩く人間は、地面に穴のあることに気づかないだろう。穴に落ちて初めて、自分が進退きわまりない状況に陥ったことに気づく。
どちらがいいか、それは明白だ。だから私は下を向いて歩くことを旨としている。
そして今日も私は俯いて歩いていた。すれ違う人と目を合わせることもなく、足下をすくわれないようにだけ注意して歩く。
それが私の日常だ。
けれど、今日は非日常だったのだ。俯く私の目線に、彼女はまるで狙ったかのように目線を合わせてきた。彼女はガードレールの元に座り込んでいたのだ。彼女の方も驚いたのだろう。慌ててはにかむような笑いを浮かべた。私は驚いたが、彼女に応えてやる義務はないと思ったので、そのまま目線を逸らした。
「あのっ」
彼女の声を私は無視した。そしてそのまま歩調を早める。
「待って」
彼女は私の服の袖をぐいと引っ張る。私はそれを振り払おうとした。しかし、彼女の力は思いのほか強い。
「離せ」
「や」
「離せってば」
「やー!」
そんな押し問答が何分か続いて、先に折れたのは私の方だった。何よりも、衆目に耐えられなくなったのだ。私は他人から注目されることが好きではない。
「私に何か用なのか」
「わたし、遙のいもうとなの」
ため息を吐きながら私は彼女に尋ねる。ふわふわとしたいかにも女の子らしい服装をした少女は、私よりも少し背が低い。
「アナタ、遙の恋人だよね」
少女はじっと私の瞳を見つめながら言う。遙とは、私の元同級生の名前だ。大学で、同じゼミを専攻していた。
そして、先月、死んだ。バイク事故だったと聞いた。そういえば、事故が起きたのはこの辺りだった。白昼の事故で、私が帰宅してすぐのことだったらしい。ガードレールは奇妙な形に曲がったままになっている。
「うそ。同じ大学にかよってたでしょ」
彼女は私が嘘をついていると言わんばかりの目線で訴える。こういう、目は口ほどに物を言うタイプが私は酷く苦手だ。論理的な弁舌が通用しにくいからだ。
「確かに私は遙を知っている。しかし、恋人ではない」
半ばあきらめの境地で、私は言う。それが彼女に伝わるかどうかは定かではないが、とりあえず自分の立場を明らかにした、という確証が欲しかったのだろう。
足元が不確かなのが、一番いけない。
「でも、でも、遙はアナタの写真をもってたの。それって、恋人じゃないの」
「違うよ」
彼女の瞳にじわりと涙が浮かんでくる。
「遙はまいにちアナタのことを考えてたんだよ。わたしにはなしてくれたもん。悠さんが好き、だいすき……って」
悠とは私の名前だ。そこまで言うからには彼女の話は本当なのだろう。遙が私に友情を超えた思いを抱いていた、というのも嘘ではないのかも知れない。
けれど、もはやそれを確かめるすべはないし、何よりも私にとって遙はただのゼミの友人でしかなかったのだ。
「それで? あなたは私に何を望んでいる? 言っておくけれど、死んだ人間とつきあうことなんて物理的に不可能だ。遙は可哀想だったとは思うが、同情する余地はない。事故をしたのは本人の不注意だ」
唇は私の意図した以上になめらかに歌う。彼女は眉根を寄せて寂しそうな表情をする。
「きかせてほしいの。遙のこと、好きだった?」
「いいや」
私は目を細めて否定した。これ以上彼女の顔を見てはいられなかった。
「あ」
ふと彼女が空を仰ぐ。
「雨が降りそう」
私もつられて上を見た。空は雲一つ無く蒼い。
「雨なんか、降らないよ」
しかし。
雨水は私の頬を撫でた。
「ありがとう」
彼女の頬にも雨が伝っていた。
「おねえちゃんのこと、好きでいてくれて」
ただの同級生だった。私と、遙は。足元が不確かなのが、一番いけない。見果てぬ夢を描いて空を見上げるよりも、地に足をつけて凡庸に生きたいと思った。
けれど、それならばなぜ私は今こんなにも悲しいのだろう。どうしてこんなにも心が痛むのだろう。
「ありがとう」
もう一度、彼女は言った。私は頷き、そしてそのまま顔を上げることはなかった。
彼女の形を残したままのガードレールを、私の雨が染めた。