扇情線上

           
さぼさぬけ

「ねえ、頂戴」
 私は彼にねだる。白衣と眼鏡で俗世間をシャットアウトしたようなふりをしている彼に、すり寄って、囁く。私と彼の間にあるのは背の低いテーブルただひとつ。そんなもの、その気になれば易々と乗り越えられる。私は身をもって彼にそれを証明する。
 テーブルの上に膝をつき、体重を半分預けて、上半身は椅子に座る彼の脚へ縋り付く。そのまま伝うようにして、彼の腰へ腕を回し、肩に手をかけ、唇を耳元へ寄せる。
「お願い、欲しいの」
「ダメだよ、体が持たない」
 彼はふいと顔を背けて、私の身体を押し返す。
「それは貴方の? それとも、私?」
「君の身体に決まってるだろ」
 私を気遣うようなふりをして彼は言う。青臭い嘘。でもそれが、彼の良いところ。こんな時の無愛想な彼も、私の情欲を刺激してやまない。
「私は平気よ」
「ダメ」
 彼は強情だ。そんなところに惹かれたのだけれども、こんな時くらい素直になってもいいのに、といつも私は思う。
「だって、ほら」
 彼の手を取って、その指先を私の耳の後ろへ押しつける。ひやりとした感覚に、思わず身震いをした。そのままゆっくりと、彼の指先ごと、私は首筋を撫でる。
 動脈の上。こんなにも、脈が速いのだと。貴方を思っているのだと。医者の彼に、これほどはない愛の囁き。いつの間にか彼の指先はひとりでに私の首筋を行き来するようになる。冷たさが首を上下して、感覚は脊髄を伝う。
「脈が速いよ」
 ぽつりと、彼が言う。そうよ、と私は返す。
「情緒不安定なの」
 腰に回した手を少しずつ前に移動させて。彼のために染めた唇で、可愛らしい耳朶を甘く噛む。
「飲ませて」
「…ダメだよ、昨日だって」
「昨日は、いっぱいくれたわ」
 腰から離れた手は彼の膝から足の付け根までを撫でる。そのたびに彼が目の前の頬を染めていくのが、嬉しくてたまらない。
 調子に乗って、彼の頬に顔を寄せる。不規則な生活で少し荒れた彼の頬に、私のファンデーションが擦れる。
「だから、十分だろ」
 彼の声が震えている。たまらなく愛おしい。彼の喉にかみついて、震えるそこに所有の証をつけたら、どんなに甘美な気分だろう。
「ダメよ、足りないの」
 私の口紅が、彼の頬を染めた。
 そこで彼はギブアップ。
「今回だけだよ」
 彼は何度そう言っただろう。家に帰ったら手帳につけた正の字を数えてみよう、と思考の端で思う。
「鍵は?」
「ここに入る時にかけたわ」
 彼の片手が性急にカーテンを閉め、誰も見ていない秘密の空間を作り出す。
 私は彼が取り出したそれを口に含む。じんわりとした苦い味。それでもそれが私を別の世界へ導いてくれる物だと私は知っているから。その味が愛おしくてたまらない。
 上目遣いに見れば、彼が困ったような顔をしていた。
「おいしい?」
 彼の問いに私は微笑んで、トランキライザーを飲み下した。

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