Alice in ?-Wonder- land

           
さぼさぬけ

 夢は見るものではない。実現させるものだ。そんなことを言う輩が世の中には多くいる。つまり、夢を見ている人間が多いということだろうか。
 私はといえば、そろそろ本当に夢と現実の区別が付かなくなってきていた。
 締切まで後三日。文章の神様は一向に降りてくる気配がない。いくら私が健康な若者(と言える年齢なのかは甚だあやしいが)だからといって、二日続けての徹夜のせいで、体はひどく軋んでいる。
「ああ、あかん」
 私は椅子をぎしぎしと揺らした。
 揺らしながら瞼を閉じ、その裏に思い描く。推理作家のミス・アリスが今回はどんな難題に行き当たるのか。枯れ果てた頭の中を、いつまでも年を取らないアリスだけが行ったり来たりする。
「あ〜……おわっ!?」
 急に体がふわりと浮いて、私は宙に投げ出される。椅子を揺らしすぎて、落っこちたのだ。私は背中をしたたか打ち付ける。
「……アリス、何をしてるんだ?」
 目の前には、友人の顔。ちなみに、本気で疑問に思っているらしい。
「いや、ちょっと、宇宙旅行でもと思って」
 私は適当にごまかしておいた。それで彼も納得する。私には、彼の精神構造こそが理解できない。いちど頭の殻を割って、中の構造を調べてみたいくらいだ。きっと、ミステリィよりも驚きの仕掛けがふんだんに詰まっているに違いない。
「それより、何かネタはないんか」
 へらりと笑顔を浮かべて、私は彼に尋ねてみる。彼から私を訪ねてくる、ということは、何か事件でもあったのだろうかと、推理作家の私はそう推測したわけだ。
「俺の仕事は君のネタのためにあるワケじゃないんでね、残念ながら」
「それじゃあアリスはどないすんねん」
「おまえがアリスじゃないか、自分で考えろ」
 彼はそう言うと、手にしていたコンビニの袋を床に放り出す。その中から一冊の本を取り出して、私の方に差し出してくる。
「なんやその本」
「おまえのオトモダチの新刊。さっき読み終わったから、貸そうと思って持ってきたんだ」
「へえ、そらおおきに」
 そろそろ首が痛くなってきたこともあって、私はようやく身体を起こした。頭に上った血液が重力に引かれてすとんと落ちる。
「ああ、そうや、今回は芭蕉にするわ」
「芭蕉? 松尾芭蕉か? パクリじゃないのか、それって」
 彼の持ってきた本の作者が、以前そんな話を書いていたのを思いだしたのだ。
「そんなんええって。作家なんてネタの貸しあいっこしとるようなもんやし。使い方さえ変えれば、同じ話にはならへんやろ。それにこいつ、そういうの好きそうやしな」
 とは言っても、私に松尾芭蕉の心得があるわけでもない。私はまた彼に尋ねた。
「なあ、松尾芭蕉の句ってなにがあったっけ」
「俺の知識は君のネタのためにあるんじゃないんでね、残念ながら」
 彼はそう言って意地悪く笑う。博覧強記の権化みたいな彼が、そんなことを知らないはずがない。おそらく私をからかって楽しんでいるのだ。
「なあ、たのむ」
「たのまれても、困る。自分で調べればいいじゃないか」
「時間がないんや。このままでは原稿も上げられず、担当さんにも見捨てられ、読者からは忘れられ……ああ、もう死んでまう」
 私は泣き落としにかかった。
「仕方ない、教えてやるよ。まあ、無駄だと思うがね」
「はあ?」
「だって、これは夢だからな」

 瞼を開けると私は床に転がっていて、それをのぞき込む友人の顔が見えた。
「ああ、やっと起きたか」
「……なんやったんやろ」
「俺が来た時から、おまえ、寝てたぞ。よくそんな体勢で眠れるもんだな。どうせまた徹夜でもしたんだろう。部屋も酷い惨状だな」
 どうやら過度の睡眠不足に身体の方が耐えかねて、私は眠ってしまったらしい。何ということだ。
 先ほどまで展開されていた光景の、一体どこまでが現実でどこからが夢だというのだろう。
「なあ」
 私は彼に尋ねてみた。
「松尾芭蕉の句って、なんか知っとるか?」
「……ああ」
 彼は少し唇の端をあげたかのように見えた。
「夢は荒野を駆けめぐる、だろ」

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