地ビール醸造所が解禁から4年で全国約200カ所に、既に撤退事例も

( 98/02/18 、日経レストラン )  

 日本地ビール協会(兵庫県芦屋市、小田良司代表)によると、97年末時点で全国の地ビール醸造所は184カ所、総生産量は約3万5000kl(同協会の推定値)に上ることが明らかになった。94年春の地ビール解禁から4年弱で、国内のビール生産量に占める地ビールのシェアは約0.5%に達したことになる。また、酒税法上はビールに分類されない発泡酒を含めると、地ビール醸造所はおよそ約200カ所になるとしている。

 この4年弱の間に、我が国の地ビール業界は大きく変化した。解禁当初は年間製造量100kl以下の小規模醸造・地域限定販売が主流だったが、最近では、年間1000kl超の大型地ビール醸造所が出現。全国流通を目指す動きが目立つようになっている。 例えば、銀河高原ビール(東京都中央区、中村功社長)は、96年の岩手県(年間生産能力3300kl)を皮切りに、97年には熊本県(同1万kl)と岐阜県(同)にも醸造所を開設し、生産に乗り出している。さらに、99年には栃木県でも年間生産能力4万klの地ビール工場を稼働させる計画で、将来的には全国で6カ所、国内シェア1%(約7万kl)の獲得を目指している。

 また、97年に「よなよなエール」で地ビール市場に参入したヤッホーブルーイング(長野県軽井沢町、星野佳路社長)は、当初から年間生産量2000klの生産能力を確保。大手酒類卸を通じて首都圏の小売店向けに販売を開始したのを皮切りに、スーパーなどにも販路を広げている。95年に地ビール事業を立ち上げた御殿場高原ビール(静岡県御殿場市、庄司清和社長)も、今ではグループ3社を合わせた年間生産量は1500klに達している。 その一方で、宮下酒造(岡山市、宮下武一郎社長)のように、「参入企業が増えて、地ビール事業もだいぶ競争が厳しくなってきた」として、今後の醸造設備の拡充に消極的な姿勢を示す業者も出始めてきた。既に撤退した例も現れている。婦人下着訪問販売のシャルレが96年、子会社を通じて神戸市内にオープンした地ビールレストラン「チャルダ」は、98年1月末で閉店した。

 米国の地ビール業界は、毎年多数の企業が新たに参入しているが、撤退する企業もそれと同じぐらいに上るといわれる。日本地ビール協会では、98年末には地ビール醸造所は全国で350カ所にまで増加すると予測しており、米国同様に、淘汰の時代に早くも突入する可能性が膨らんでいる。