特集シリーズ                        
                                   

 
 ステファニー・レナト神父〔2w1〕を偲んで

 
                               
1 志なかばの事故死
                                      
 
2003年10月6日、東ティモールの山岳地で、交通事故にて死去された神父がいます。ステファニー・レナトさん〔66歳〕と言います。
 エニアグラムの性格タイプは、2w1で、模範にできる尊敬すべきタイプ2の方だと思っております。レナトさんのことを忘れないために、ここに彼を偲んで、その業績と彼との思い出を書き記したいと思います。

 レナトさんはイタリア人で、カトリックの神父です。私が出会ったのは、約15〜6年前の名古屋市内にあるお寺です。
 レナトさんは、在日韓国人の存在を知り、指紋押捺問題に関わり、自らも指紋押捺を拒否していました。そんな頃に、偶然に出会ったのですが、畳に座っているレナトさんは長い足を折り曲げて座りにくそうでした。

 たまたま近くに居合わせた私に、話題になっている言葉を「漢字で書いて欲しい」と聴かれました。そこでメモに書いて渡すと、それを幾度もなぞって覚えようとしました。レナトさんは來日してから漢字に興味を持ったらしく、その場に居合わせた人に尋ねては、漢字を習得していったようです。

 実は、私はその漢字が書けずに、そばにいた男性に尋ねてメモを渡したのです。日本人でも書けないような難解な漢字を本気になって覚えようとする外国の神父さんに、目を見張ったことを覚えています。

  
事故のレポートが載っているサイト
http://www.jade.dti.ne.jp/~jpj/jp-Stefani0310.html#Anchor19023


2 ニカラグアを支援

 
二度目に会ったのも偶然で、中米の小国・ニカラグアの支援活動でのことです。
 1980年頃のこと、戦乱が過ぎたばかりのニカラグアでは、路上生活をする子どもたちがいて、食べ物にも事欠いて飢餓の淵にいました。また、アメリカ政府は、ニカラグアに厳しい経済封鎖政策を取ったため、医療品が極端に不足して、たくさんの子どもたちが死んでいると報道されました。そんなニカラグアの悲惨さを聞いて、さまざまな人たちが支援活動をはじめましたが、レナトさんも、その一人です。

 ニカラグアへの支援を訴えるために、映画を上映したり素朴画の展示会を催すという計画なのです。友人に誘われて、展示会場予定のところに行きました。次なる展示会の用意をするために困ったことがあるなどと、レナトさんは私に話しかけてきました。どうやら、額縁が整わないようなのです。そこでチョクチョク買いに行く額縁屋を紹介しました。思えば、それがレナトさんとのつきあいの始まりだったようです。

 明日から展示会が開かれるというのに、その日のうちに額縁を用意しなければならない羽目になったのですから、大変なことになりました。一軒の店だけでは足りず、レナトさんと名古屋の町を東奔西走して、無事に間に合わせることができました。そんな離れ業も不思議に負担にならなかったのは、レナトさんの人柄にあったのでしょう。走り廻った日のことが楽しく思い出されます。



 支援活動の風を起こす

 展示会は成功したようで、素朴画は人気を博し、新聞などにも報道されました。支援活動も次第に軌道に乗った頃、私は、我が家でニカラグアの勉強会を催すことにしました。レナトさんに
講師をお願いしましたが、食事をともにすると、「玉ねぎが嫌いだ」と言うので、みんなで「変なイタリア人だ!」と大笑いしました。そして、飾り立てた食卓テーブルが美しいと言って、カメラを向けていたレナトさんでした。

 また、自主上映された映画は「アルシノとコンドル」といい、貧しい少年を主人公にした大変に美しい映画です。ニカラグアの風土とフォルクローレの音楽がうまく溶け込んで、とても気に入っている映画です。それでレナトさんにダビングを頼み込み、多くの人に観てもらう計画を立てました。

 その頃はダビングできる機器を持っている方はめったになく探しまくりました。レナトさんに相談すると、すばやく応じてくれたのでした。彼の手でダビングされたもので、画面は少しボケていて見づらく、ちょっとズボラな一面がありましたが、気さくに相談をかけられる人でした。ウイング1が軽いと判定できるところです。

 その後、成り行きで、「ニカラグアに医療品を送る会」に関わりましたが、精力的に動き回るレナトさんの姿を見ると、なんだか日本人として恥ずかしくなったりもしたのです。彼の真摯な態度につき動かされて、支援活動に参加した人たちは、かなりの数になるのではと思います。


4 明るくて冗談好き

 
ニカラグアの要人を日本に招いた講演会や、中米の音楽会なども、次々と成功させたレナトさんですが、催しを終えた夜は、スタッフみんなで夜の街に繰り出して飲みます。
 レナトさんは酒好きで、テキーラのようなきつい酒を飲み干して、そのまま車を運転して帰宅するので、大変に驚いてしまったことも覚えています。以前は、酒飲み運転について、それほど厳しくなかったので軽い気持ちで飲む人が多かったのですが。それでも驚かされることがよくあり、タイプ2らしい無謀さと大胆さがしばしば見える人でした。

 ティモールでの事故当時、レナトさんが運転していたのか真相は分かりませんが、濃い霧と雨の中を移動している時だったようです。
 レナトさんが、名古屋市近郊の刈谷から小牧の教会に移り住んだ頃に、小牧市内で、日系ブラジル人の少年が、日本人に集団暴行を受けて殺される事件が起きました。早速に両親たちを支援したことも忘れられません。その少し後ですが、外国人就労者へのボランティア活動が認められて、名古屋弁護士会の「人権賞」を受賞(1997年)しています。

 その前後に、著書「日本人の知らない日本」(柘植書房新社)も出しており、いつも冗談ばかり話していて、真面目な話をしたことがなかったので、本を読んで初めて、レナトさんの考え方を知ったのでした。


 
5 東ティモールへ赴任

 
レナトさんが東ティモールに行くと決意したきっかけは「サンタクルス事件」だったと聴いています。1991年11月に、インドネシア軍に射殺された若者がいて、その墓地までデモ行進をしている数千人の人たちがいました。その行進している人たちに向けて、インドネシア軍が発砲したために、死者271人・負傷者382人・行方不明者250人が出たと報告されています。

 レナトさんは、その丁度
時間後に現場に到着したらしく、何か起こるかもしれないという情報があって出掛けたようなのです。そして、実際に大変な事件を目の当たりにしたみたいです。現地の虐殺事件を撮影したビデオをイギリス人から託され、日本へ戻った後に、マスコミを通じて放映されました。

 私もそのビデオが放映される集まりに出かけましたが、まるで映画の一場面のようです。若かりし頃に観た「戦艦ポチョムキン」のワンシーンに似て、背中から撃たれて、人が簡単にバタバタと倒れているのです。

 なお、このような惨事になると予想できたはずなのに、国連関係者は東ティモールから引き揚げています。昨年(2003年)もイラクの件で、国連はその役割を放棄しています。大国に対しては無力で、小国には関心が薄いかにみえ、何のための国連なのかと疑問に感じている人は多いと思います。
   


6 最後に会った日

 
レナトさんは貧しい国を支援する市民活動を後押しするために、第3世界NGOセンター(現在は名古屋NGOセンター)の創設に関わり、初代の理事長に選ばれています。名古屋に住む者として、彼の功績を忘れることはできないと思います。 

 しかし、レナトさんが小牧に移る前頃から、私自身はエニアグラム研究に没頭するようになり、支援活動からは遠ざかってしまいました。

 最後にレナトさんと会話を交わしたのは、布池教会のすぐ近くの路上です。偶然、ばったりと出会ったのですが、丁度、著書「究極のエニアグラム」を出版したばかりの頃で、本を持ち歩いており、レナトさんに手渡したことを覚えています。

 通りを隔てた道路の路肩に立ち、左手でその本を高く掲げて、「さよなら」の合図を送ってくれた姿が忘れられません。

 彼は日本語が流暢で、講演なども日本語で話していましたが、いつかエニアグラムの話もできるかもしれないと、はかない希望も持っていました。しかし、その機会を一度も持てないまま、お別れすることになってしまい、残念と言うよりも虚しい気持ちに襲われてしまいます。

 イタリアのトリノ市で生まれ、自動車工場の労働者であったと話してくれたことがあります。聖職者に転身した理由は知りませんが、その生き方には自然に頭が下がりました。そんな方と出会えたことを感謝したいと思います。

 
2002年にレナトさんは日本を去り、東ティモールに赴任しましたが、それほど経たないうちに事故に遭ってしまい、もう二度とお話ができません。心を通わせられません……。
 しかし、いつも貧しい国、貧しい人々の側に付いた気高い人であったこと、けっして忘れないと思います。ご冥福をお祈りいたします。