仲間たちのつぶやきシリーズ                                  

    
               身近にいる7w8の人    

                                        月陰・作

  私の周りには沢山のタイプ7の方がいます。エニアグラムを学んで
よく似た人が一杯にいたと気づくようになったというわけです。そこで
今回は、ふたりのタイプ7w8の人と、私(4w5)との関係を交えなが
ら、まとめてみたいと思います。

    子どもの頃の兄と私

 怖かった兄

 手元に一枚の写真があります。そこには私と並んで写っている兄がいま
す。私が3歳ぐらいなので、兄は小学生1年生くらいなはずなのに、と
ても幼く見えます。ホッペもプックリとしてかなり童顔なほうだと思い
ます。兄は小柄で口数が少なく、おっとりとした感じに見られるので、
からかわれたことがあるようです。

 しかし、いじめられたことは無かったみたいです。なぜなら、相手の子
が二度と立ち向かって来られないくらいに、徹底的にぶちのめしたからで
す。面と向かってではなく、相手の隙をついて、一気に叩きのめしたと聴
いています。さながら、ゲリラの奇襲攻撃みたいです。かなりの痛手を負
った子に、「半殺しにしないと分からないよネッ!」と言うのだそうです。

私もよく兄の気にさわることをして叩かれた後、同じ事を言われました。
兄は、自分に歯向かう相手には容赦しなかったと思います。
 器用な兄

 でも、慕ってくる人にはかなり寛容で、守ってあげたり世話を焼いたり
していました。たとえば、一緒に缶ケリをして遊んでいる子が、足を怪我
して泣いていると、急に優しくなり、家まで送り届けたことがあるそうで
す。「紙ヒコーキ作って!」と頼まれると、サッサと作り、でき上がった
飛行機は長く飛ぶので、喜ばれていたようです。また、虫の取り方を教え
たり、プラモデルを作るのを手伝っていました。プラモデルは、主にロボ
ット系が好みで、組み立てについては、細部までこだわり、動きが不自然
だと改造して、動きやすくします。色を塗るのもこだわり、何度も重ね塗
りをして、重厚な仕上がりにしていたようです。

 ★飛び降り事件
 両親や目上の人には礼儀正しい子どものようでした。しかし、私にとっ
ては、ひたすら怖い兄でした。遊びに行きたくないのを無理矢理連れ出さ
れては、ひどい目に遭い泣かされました。夏になるとプ−ルに行きますが
私の足が届かないところまで連れ出して、いきなり突き放してしまいます。
そして、溺れかかっている私を見て、高笑いします。妹に、いじわるばか
りしたがる兄でした。

 また、マットレスの上に、二階から飛び降りるようにと強要されたこと
もあります。私は兄が怖くて、実際にも飛び降りてしまいましたが……。
その時のことは今でもはっきりと覚えています。二階のベランダの柵は小
さな子だと、簡単にすり抜けることができました。でも怖くて、柵にしが
みついてると、兄が飛び降りるよう催促します。仕方なく飛び降りると、
マットにバウンドして、アスファルトの道路にアゴから落ちて、大けがを
しました。救急車で運ばれ治療をうけましたが、大人になった現在も傷跡
が残っています。
 
  初めて聴いた兄の気持ち

 兄といると、なにかと嫌な目に遭うので、傍に近寄らないようにしてい
ました。それでもすぐに見つかって、「俺を避けたな!」と殴られました。
逃げれば逃げるほど追いつめる兄でした。そんな恐ろしい兄でしたが、近
所の子が私をからかっているの見かけると、すっとんで来て、その子を痛
めつけました。それに、私がお腹をすかせていると知って、おにぎりを作
ってくれたことがありました。
 この時、兄から「おいしい?」と聞かれて、思わず「塩辛い!まずい!」
と正直に答えたために、怒りをかいました。私は、兄の「怒りのツボ」を
よく押してしまうようです。
 つい最近になって兄から聴かされたことがあり、驚きました。「欲しい
ものはすべて買ってもらえたが、母から可愛がってもらってるお前が妬ま
しかった!」とポツリと言ったのです。

      
 母との思い出



 敏捷な母

 母は、私から見ると1.5倍速で動いているような人です。子
どもの頃、手をつないで歩いていると、小走りしないと母に付い
ていけませんでした。ゆっくり歩いている人を見ると、母は小バ
カにしていました。時間をどれぐらい有効に使えるかが、大事な
ことのようでした。いつも私の動きが遅いのを嫌っていて、日常
の身支度は母がすべて先にやってしまいました。例えば、朝起き
たら、温水で濡らしたガ−ゼで顔を拭いてくれました。歯磨きか
ら着替えまで、私がハッと気づいた時には、「一丁できあがり!」
という具合です。
 さて、お弁当については、いろいろな思い出があります。母が
好きだったのか知りませんが、必ずチクワの甘辛く炒めた惣菜が
入っていました。また、朝、おにぎりを作っている母を見て、「
4つ作って欲しい」といつも頼んでいました。その4つを全部食べ
てしまうのですが、「本当は食べられなくて捨てているんでしょ
?」と、母に疑われました。私は、家では小食でしたから、母に
は信じられなかったのでしょう。
 そうかと思えば、運動会となると、重箱4段にぎっしりご馳走
を詰めて来ます。母はおかずを次々と取り分けてくれます。そし
て全部食べるように勧められるので、必死に食べました。しかし、
いつも残してしまい、帰宅してから叱られました。

 母の手料理

  ところで、よく考えると、父(2w1)のいない日の食事は、ワンパタ
−ンでした。土曜日のお昼は、お好み焼き、ウドン、焼きウドンなどです。
夕食は、週に4回、銀のプレ−トに盛り付けた「お子さまランチ風」の食
事でした。それを私は飽きもせずに、「おいしいなぁ〜」と思いながら食
べていました。父と一緒の時の食事は、栄養価は高いかもしれませんが、
私の口に合わないものばかりで、時々苦痛でした。自分では、食事の好き
嫌いはあまりないと思っていたのですが、母が子ども好みのものばかり作
っていたためかもしれません。今思えば、母は食事の用意をするのを嫌っ
ていて、簡単なものばかり作っていたように思います。
 お正月は母にとって一大イベントのようでした。ある正月は、父が不在
でした。その年はいつもの「おせち料理」が無く、小さな重箱の中は、お
饅頭やお菓子が一杯に詰めてありました。子どもの食べたがるものばかり
で、とてもうれしかった記憶があります。そして、お年始参りに行くのか
は分かりませんが、母は、朝から張り切って出かけました。
 普段のおやつは、晩御飯が食べられなくなると考えていたようで、少し
ずつ3種類ほどお皿に取り分けてくれました。でも、小腹を満たす程度の量
にいつも不満でした。
 しかし、その年の正月は子どもたちだけで留守番している間、好きなだけ
お菓子を食べられるので嬉しかったです。夕方近く、母はとても上機嫌で、
お菓子をたくさん持って帰って来ました。幸せそうな母を見ると、なんだか
私も幸せでした。


 ちょっとドライな母
 母は、父の前では従順な人のように見えました。でも父の強引なところを
内心不満に思っていたらしい。「パパって嫌ね!」と耳元で、父に分からな
いように囁いたり、顔をしかめたりしていました。
 母は、父に甘えるのが上手で、大好きな着物をよく買ってもらったようで
す。ただ、ドライなところがあり、父が買ってくれた物でも、気に入らない
と、私を連れて質屋に行きました。着物類などを現金と交換しますが、その
後の台詞がいつも決まっています。「パパには内緒ね!」 
 人から頂いた物をすぐに手放す行為に、幼いながらも私は罪悪感一杯とな
りますが、母はルンルンとした顔つきです。そして、いつもの甘味処に行き
席に座ると「クリ−ムぜんざい2つください!」と、何を食べたいか私には
訊ねないまま注文していました。 
 母は、私に一度も「どうする?」と聞いたことがありません。よその親子
のように意見を言い合うこともありません。「こうしたら?」なんて言おう
ものなら、「親に逆らう気!!」と怒ったからです。そして 「あなたのこ
とは何でもわかる」というのが口癖でした。私は母にこういわれるのが大嫌
いでした。でも特に反抗したことはないです。


  ★怖かった母
 母は、男性には気さくにしゃべられるのに、女性に対しては、なぜか緊張
するようです。社交的で、人の集まる賑やかなところに行きたがるのですが、
女性の多い場では言葉を選んでいるように見えます。どこかに出かけるとき
は、私を一緒に連れて行きます。そして、家の外では母は優しくなるので、
私は嬉しくて、ついハシャイでしまいます。自宅に着く頃には母は疲れ果て
るらしく、「あそこで出されたお菓子を勝手に食べた。意地汚い!」などと
立腹します。
 周りの人からいろいろ薦められても、母の許可なしにするのはいけないこ
とでした。帰宅してからは、叱られてばかりでした。でも子ども心に、その
場で言ってほしいと思いました。人目がないのを見計らって注意されるので
すが、何でそんなに怒っているのか理解できませんでした。キョトンとした
様子の私を見て、「あなたを大事な席に連れていくと、本当にお母さんは恥
ずかしい!」と母は苦々しそうな顔をしました。


 それでも守ってくれた母
 私は小学生の頃、よくいじめに遭っていました。同級生から叩かれたり、
それが怖くていつも逃げているのですが、しつこくからかわれました。それ
を母に知られて、「負けて悔しくないの! やっつけなさい!」と怒られま
した。
 ある日、同級生に母のことをからかわれて、私は初めて泣いて帰りました。
母は素早く父に電話をかけたようで、父は血相を変えて家に帰ってきました。
そして、その同級生の家に電話して、怒鳴っていました。相手の親子があわ
てて謝りに来ました。
 私としては、母から「そう…悲しかったのね」と、悲しかったことを理解
してもらえれば 満足できたのですが……。母に何か告げると、たいてい大騒
動になってしまうので、困りました。


 しいことが大好きな母

 母は楽しいことが大好きです。父が仕事で忙しくて、子どもを遊びに連れ
て行けない時は、母とよく遊園地などに行きました。本当は自分が遊びに行
きたかったので、子どもをダシにしたのだと思います。というのも、平日学
校を休ませてでも遊びに行ったからです。あちこちとよく行きましたが、自
然の中でゆったりするよりは、レジャ−施設の方が大好きなようにみえまし
た。新しい遊園地がオ−プンすると、すぐに子どもを連れて行きます。思い
ついたら、即実行します。

 そして、子どもと出歩くには不釣り合いな服装をします。「よそ行き」と
母が呼んでいるフラメンコでも踊れるような派手な格好なのです。私はちょ
っと恥ずかしいのですが、本人はいつも堂々としていました。


 母に分かってもらえない!

 母は、一見すると人当たりがいいのですが、陰ではその人を嫌がったりし
ています。表の顔と、裏の顔が違うように思います。強そうにも見えますが
とても恐がりです。情に厚そうで面倒見はいいのに、病人には冷たかったり
します。特に皮膚病のような状態はがまんできないようです。私は皮膚が弱
く、ブツブツと湿疹ができたり、ドロドロと液がでる水泡が頻繁にできまし
た。母は皮膚科に連れて行ってはくれますが、薬を塗ったり、包帯の交換は
父に頼んでいました。その場によってクルクル変わる、カメレオンのような
人です。
 母のことは今でも好きです。でも、自分のことは絶対に分かってもらえな
いと、幼い頃からあきらめていました。周りの人から見ると、母は実によく
気がつき、私に手をかけてるように見えると思います。私も、他人からは母
のことばかり気にしている甘えん坊に見えると思います。しかし、私自身が
望んでいることはあまりしてもらえず、心が満たされたことがありません。
望まないことばかりされていると、なんだか心がガラクタで埋もれてしまう
みたいで、重たくなります。また、私にとって、すぐ反応しなくてはいけな
いという緊張感がある人ですが、母のほうでは 「100%愛してる」と言っ
てくれます。しかし、なぜかテレビの中の出来事のような感じで、母のやさ
しさが実感できません。
  エニアグラムを学んで感じたこと
 私の周りの人間をタイプ判定して頂いたところ、タイプ7が実に多いのに
驚きました。実家だけでなく、学校でも職場でも、なぜかタイプ7の人たち
が私に寄ってくるみたいに感じます。そして、思い出して考えてみると、タ
イプ7の人からは、いつも同じ事をいわれ続けているように思います。

 「何考えてるか判らない!」「何言ってるか判らない!」等々です。そし
て、彼ら(タイプ7)から見ると、私はどうも異常な人間に見えるようだと気づ
きました。幼い時から、ずっとそう言われ続けており、自分でも「頭おかし
いのかなぁ????」と思うようになっていました。
 初めてエニアグラムを受講して、皆の前で話をしたとき、「言ってること、
よく分かるよ!」と言われました。深く感じ入るものがあり、涙が出そうに
なったのをグッと堪えました。やっと理解を示してくれる人間に「出会えた!」
と思いました。
 エニアグラムを学ぶなかで、周りの人たちを少しではありますが、受け入れ
られるようになったのではと思います。そして、いつか母との関係を見直すこ
とができて、母の気持ちを実感できる日が来るような気がします。エニアグラ
ムを学ぶということは、私にとって他者を知ることで、自分をよりよく知るこ
となのかもしれません。