仲間たちのつぶやきシリーズ               

    
 
          親父(タイプ5w6)のこと
        
                                   
                                                          小太郎

 
親父は、明治45年生まれで、もうじき92歳になる。これまで出会った人物を思い浮かべてみても、親父ほど変わった人間はいなかったように思う。

 結婚する前の私の家族は6人で、私は三男坊である。母親は、9w1で、2人の兄は、タイプ2w1である。私は9w1で、1のウイングは重いほうである。 末っ子の妹は6w5である。

 ついでながら、二人の兄は一卵性双生児です。私は母親似である。兄たちは父親方の誰かに似ているようだ。

 4人の子どもがいたわけだが、親父が遊んでくれたことは一度もない。叱られたこともない。たぶん、4人の子どもたち全員が叱られたことはないと思われる。

 また、親父と勉強に関することや友だちのことなどで、話し合ったことはない。むろん、進学先や就職先などについて尋ねられたこともなければ、忠告されたり説教されたことも無い。結婚についても、なにか言われたことは一度もない。関心や興味もないみたいである。そして、子育て全般について、無関心だったと言える。

 しかし、清潔に関することならば、よく気がついた。例えば、汚れた足で家に入ろうとすると、雑巾で力任せに拭き清められた。風呂に一緒に入ると、皮膚が赤くなるほどゴシゴシと磨かれた。
 ところが、電気器具が壊れても、修理をしたことはない。家事や食事などにも、全く関心が無いことは、子どもの目から見ても明らかだった。オヤジは、父親らしからぬ人である。 

 決まりきった日課

 
親父は、毎朝4時半に起き出して、カマドに火をくべ、ご飯を炊いた。その後に、家の周囲を見回り、それから居間でじっくりと時間をかけて新聞を読んでいた。炊き上がった飯を神棚に供えるのも父の役目である。
 その後で朝食を食べ、7時きっかりに勤務するため家を出た。勤務が終わるのは5時だが、寄り道することはなく、毎日きっかりと6時に帰宅していた。

 帰宅すると、まず庭の花や、畑の野菜に水やりをする。家事を率先して手伝うことはないが、頼まれると嫌がることはなく、頼まれたことだけを、かなりおおまかに雑にこなした。

 
夕食後は、新聞を持ち出して、必要な記事があるとハサミで切り抜いた。その後、金銭出納帖と日誌を付けて、すぐにさっさと寝床に入ってしまう。テレビは全く見ない。寝床の近くで、子どもたちがケンカしても、大声で会話していても、すぐに大いびきをかく。神経が太いところがあった。

 カマドが無くなってからは、散歩と称して、近くの海岸に出掛けるようになった。定年後には、散歩する時間が長くなったという違いはある。ほぼ60年余もの間、判を押したような生活をしているようで、日課も決まっていた。

 海岸は、自宅から徒歩で20分くらいのところにあるが、時計や傘などの落し物を拾ってくる。この海岸は、海水浴のできるきれいな砂浜で、周囲には松林がひろがり、散歩にはうってつけのところである。

 親父は、
落し物に荷札を付けて、物置の棚にきれいに並べて保管する。荷札には、拾った日時と場所と時間まで記入する。まるで、私設の保管所のようであった。どうしてだか知らないが、交番に届けたりはしなかった。私用に使うわけでもなかった。何の目的があってしていたのか、よく分からない。

 朝の排便も、日課のように出さないといけないらしい。子どもが4人もいるのに、親父の厠の滞在時間が長すぎて、毎朝のように子どもたちはウナッタ。子どものために自分の日課を変更することは全くなかった。

    

 記帳マニア

 
夕食後は毎夜のように、金銭出納帖を取り出して、おふくろ(彼には妻)に尋ねる。おふくろが購入した食料品や日用品の金額を尋ねるのだ。その他も、くまなく項目別に記載していた。無駄使いを注意することはなく、ただ出納帖に書き込むのが目的のようだ。それが終わると、次は日誌と、順序も決まっていた。

 毎年のように、年末近くになると「当用日誌」を買う。日誌は常時、居間の定まったところに置いてあるので、誰でも読むことができた。書いてあることは、月日と天候と、一日の出来事だけであった。

 例えば、「3時に郵便局で、○さんに会った」「小松菜の種まきをした」「12時15分に震度○の地震」等々。「6時に畑で○さんに会って話をした」というものもあるが、話の内容は書いてない。傍から、子どもたちが覗き込んでも、素知らぬ顔して書いている。

 おふくろが、「父ちゃん、出来事だけじゃなくて、様子なども書いたら?」と、たまに声をかけていた。子どもたちも、「何で、出来事だけ書くの?」と尋ねたりした。すると、「聴かれたときに、すぐに答えられる」と、いつも同じ答えが返ってきた。

 しかし、「誰がそんなことを聞くのだろう? 」と、子ども心に不思議に思っていた。刑事事件でも起きたら、参考になるかも知れない情報だなと、後から思うようになったが。

 変わったところでは、分厚い冊子の「日本全国地名総覧」に、記帳することだ。新聞などで、市町村名が変わったり、合併して町名が変わったという記事が載ると、それを書き込む。
 なお、あまり丁寧な字ではないが、必要な記事を、余白の部分に、町名を変えた年月日まで書き込むのである。

 
   
. ファイルマニア

 新聞記事を切り抜くようになったのは、いつ頃からなのか知らない。尋ねたこともないが、たぶん、私が生まれる前からだろう。切り抜く作業は、92歳になっても変わらない日課である。

 ハサミと糊と台紙は、いつも日誌のそばに置いてあり、関心がある記事だけを切り抜いて、それを台紙に糊付けしてファイルする。
 台紙は、新聞の折り込み広告であり、それを重ねて、千枚通しで穴をあけ、綴じ紐で結わえたものである。ページを書き込み、表紙の裏面には目次を設ける。冊子としての最小限の体裁が備わっていて、誰が見てもすぐに内容が分かるようになっている。
 冊子ごとに内容が違い、うまく分類している。主に、
農業や健康、神社関係などが多い。

 親父の実家は、代々神主の資格を持っており、親父も同様で、神社の祭りや地鎮祭によばれる。神社に関する新聞記事には、 とりわけ関心があり、記事に載った神社に、詳細を訊ねるために、手紙を出したりする。返事が来ると、必ず礼状を出している。

 また、「姓」にも関心があるらしく、変わった姓が新聞に掲載され、その人物の住所まで載っていると連絡を取り、姓の由来を尋ねる。むろん、その返事の手紙も、そのままファイルの中に一緒に綴じておく。

 遠方の知り合いから果物や菓子などの荷物が届くと、県名が書かれた部分を切り抜く。贈答してくれた人の名前と住所、品物と個数と日時なども、その切り抜きに書き加えて、ファイルに糊付けする。地名総覧に書き込むことなども考慮すると、私設役所みたいだ。

 料理の記事まで切り抜くことがあるが、それはどうやら主婦の役目だと思っているようで、切り抜いたものをおふくろに差し出すだけである。
 子どもたちが「どうして、そんなのを綴じるの? ゴミと一緒じゃない? 」と聴くと、怒りもしないで、いつものように、「人に尋ねられたり、いざというときに役に立つ」と返答する。人と付き合わず来客のない家だったので、一体、誰に見せるのだろうとよく思った。 

 

4人と付き合わない、暮らし方を変えない

 家には、仕事関係の人たちが来宅したことが一度もなかった。近所づきあいもしない人だった。友人もいないようで、人と付き合いをする気が全くない人である。

 また、自分の仕事内容を子どもたちに話すこともなかった。中元や歳暮の時期になると、上司と思われる人の住所を、おふくろが聴き出して、おふくろが手配をしていた。そういうことにも無関心で、感知も関与もしない。

 しかし、正月の年始の挨拶は欠かさずにしていた。親戚だけの年始まわりである。親戚の伯父たちが我が家にやって来ると、初めは話に参加するようなフリをするが、早くもその場で眠る。大口をあけて、いびきをかいて熟睡する。客がいてもおかまいなしだ。酒に弱いからだと思っていたが、そうではないらしい。

 食事の中身について、注文をつけたことはない。共働きの妻をいたわって「今夜は外食にしよう!」などと言ったこともない。腹が減ると、一人でご飯と漬物だけで済ます。自分の身支度なども、一人でやってしまう。

 おふくろが時々、「父ちゃん、今日はそんな格好はいやだわ!」とつぶやくが、一向に意に介してなかった。夏になると、家の中では褌(ふんどし)一枚のことが多く、その格好で新聞を読んでいると、横から男の一物が顔を出していた。

 おふくろがたしなめても、そのスタイルを変えることはない。「動くと汗かくから…」と言う。汗をかくことをかなり嫌う。腕時計をする時は、その下に包帯を巻くのであるが、汗を嫌ってのことだろう。しかし、クーラーを買うつもりはないらしい。昔からの生活の仕方をけっして変えない。

 

5親父の道楽は、採集・宝くじ・本

 私が小学校の高学年のころだったと思う。親父と兄貴と一緒にキノコ採りに出かけたことがある。親父の記憶力の良さは知ってはいたが、この時ばかりは驚いた。サマツという茸を取りに行ったのだが、迷うことなく現地について、大量に持ち帰ったのである。親父の実家が近くにあり、子どものころに出かけたきりなのだが……。

 また、山芋掘りも忘れられない。ムカゴ(山芋のツルに出る小さなイモ)を見つけ出すと、芋の周囲半径50cm程を、丁寧に掘り進める。深さ1mほどの先端まで、芸術品のように掘り進めるのである。私が急いで掘り始めると、必ず制止する。家事は雑で、ファイルの仕方も雑なのだが、採集は好みらしく、かなり注意深く掘る人だった。

 親父は、農業学校を出ているので、農業や栽培などに詳しく、足腰が弱るまで、毎日のように畑を耕していた。また、「晴耕雨読」という言葉をよく使っていたことが思い出される。 

 ところで、親父は「宝くじ」は必ず買う人である。毎月のように買い、新聞で当り外れを確かめる。外れてもグチを言わず、残念に思っている様子もない。当ったことは無いように思うが、恒例のように買う。

 年末のジャンボ宝くじは、地方では当らないと思うらしく、当選がよく出る京都など大都市の売り場まで出向く。朝早くから鈍行列車で2〜3時間もかけても買いに出かけるのである。

 京都に行くと、神主の仕事で使う物もたまに購入するようだ。宝くじを買い、旅のチラシを手に入れて、たまに本を購入して帰宅する。子どもたちが「どうせ当たらないのに、どうして買うの?」と聴くと、笑っているだけだった。

 そして、足腰が弱くなってきたのか私に電話してくる。宝くじを名古屋駅で買って来るようにと言う。年に一度くらいしか息子の家に電話してこないが、用件は宝くじなのである。親父は、本当にくじが好きらしい。

 年賀状のお年玉つき番号も、当選番号が報道されると、その夜のうちに当り外れを確認する。どうしても理解できないのは、年賀状を送った相手とその番号も、メモすることだ。相手がくじに当るのさえ確認したいらしい。

 親父が金を使うとしたら、宝くじと本などの書籍類だけである。最も多いのが辞典類である。県の歴史に関するものや、野菜や花の栽培に関する本も多かった。雑誌類や小説の類は一切なく、読んでいるところも見たことがない。


 戸締り・天災には容易周到

 
雨戸を閉めるのも、親父の日課である。少し高台にあり、風通しの良い家だった。夏は夕涼みしながら、子どもたちが宿題をするため、風の当るところに机を置いて勉強する。

 すると、早寝する親父は、外にまわって雨戸を一つ一つ閉め始める。自分が早く寝たいために、やるべき事をやってしまおうというのだ。

 子どもたちが「暑いから、やめてよ!」と叫ぶと、しばらくの間は中止するが、少し経つと同じ事をする。何度頼んでも聞く耳がなく、子どもたちのことなど考慮しない。「元の木阿弥とは、父ちゃんのことだね!」とよく言い合った。

 また、台風接近のニュースが耳に入ると、新聞とラジオで確認して、風当たりの強い玄関のガラス戸や窓に板を打ち付ける。子どもたちは、板持ちをさせられた。太い五寸釘で外から頑丈に打ち付けられ、玄関からは出入りができなくなる。

 それで勝手口から出入りした。台風が長引くと不便になるのか、玄関の下のほうに打ちつけた板を取り外す。腰を低め、かがんで出入りさせられた。家の景観とか、人の出入りに不便であることなど、お構いなしだ。

 
近年は積雪が少ないが、子どもの頃は大量の雪が毎年のように積もり、雪退けが冬季の仕事の一つである。積極的に家事をすることがない親父だが、台風と同様に、雪対策についても万全だった。

 早朝からバンバ(木製のスコップ)を持ち出して、出勤前に汗をかきかき玄関先の雪をどかした。庭などは勤務終了後にやるが、夜遅くまでかかった。ところで、服装はというと、すっぽり頭から被った「目出し帽」に、よれよれのオーバーコートで、あたかも強盗スタイルである。 
 

 珍しい一面 

 小学校の頃、授業参観は母親が来た。親父には来てもらいたくなかった。親父は小柄で坊主頭で、年寄り臭く見えたからだ。よく考えたら親父は40代なのであるが、その頃から60歳くらいには見えた。

 感情的なところはなく、淡々と日課としてこなしていた。しかし、一度だけ、親父が感情を高ぶらせたことがある。親父が50歳、おふくろが40歳の頃である。

 共働きをしていたおふくろが、会社の一泊慰安旅行に出かける日のことだった。あまり正確には記憶していないのだが、親父が「母ちゃんは、きっと好きな男がいるから出かけるんだ!」と、取り乱して涙声で叫んだのである。癇癪を起こして、床を叩いていたのも覚えている。しかし、おふくろは予定通りに旅行に出掛けた。親父もそれ以上に押し止めた気配はない。

 こんな場面は、後にも先にもたったの一度である。ふだん感情的なところを全く見たことがないので、かなり驚いた。おふくろは地味で女っぽさはなく、そのような疑いを持たれるような人ではなかった。親父と同じように、毎日判で押したような生活をする人で、贅沢はせず楽しみを追うこともないのである。
 
 親父には、兄が一人いた。どうやらタイプ7w8らしく、子どもの頃からいじめられていたようだ。祖母が、長男よりも次男である私の親父を溺愛したからではないかと思われる。

 また、親父が結婚してから、兄弟間で何か良くない出来事が持ち上がり、その兄から罵声を浴びたようだ。それ以来、親父は兄を許していない。兄とは決して顔を合わせないようにしていた。兄の墓にも参らない。死んでも許さないらしく、意志が強くて頑固でもある。しかし頑固というよりも「頑迷」だと私には思われる。


 やっと親父がわかってきた

 
おふくろが怪我をして入院したときも、頼まれた品物は届けるが、それだけのことである。病人の身の回りの世話をするわけではなく、労わりの声をかけるのでもなく、バスの発車時間が来るとサッサと帰ってしまう。

 ごく最近のことだが、おふくろが半年余りも入院していたが、親父は一度しか病院に行っていない。しかも、それはおふくろが入用なものがあり頼んだからであった。たぶん、自分が入院しても、私たちに見舞いを求めないだろう。入用なものを届けてくれとは言うだろうが……。

 親父は、自分の健康だけには十分な配慮をする。しかし、家族が病気しても、心配したことはない。それどころか、不安そうな様子や寂しがっているような様子さえ一度も見たことがない。

 他人のために自分を抑えるとか辛抱したことはない。しかし、自分も他人のために辛抱することもない。恥知らずだと思うようなえげつないエピソードもあるが、恥ずかしくて書き出せない。

 エニアグラムで、「世界の中心にいると自己認識しているタイプ」という理論を知って、それはまさに親父のことだと思った。厚顔無恥で自己中心的には違いないからだ。

 自分の関心のある話(神社などの)を一方的にするだけで、相手の話に耳を傾けたことはない。尤も、相手が尋ねてくると答えるだけで、自分から話しかけることはなかった。

 現在、耳が遠くなり、周囲の話が聞こえないのだが、不自由している様子はまるで無い。

 親父は謎の人物だった。エニアグラムでタイプ5という人種がいることを知って、ようやくと親父の行動が理解できるようになったが。エニアグラム理論では、タイプ5は「おじいさんタイプ」だそうだ。まさに、親父は「父親」というよりは、「祖父」だと思ったほうが納得できる。