仲間たちのつぶやきシリーズ                                    

                    

        
タイプ9w8の父のこと
      

                                                                     
by  芳野

「お前は、あいつ〔母親〕の子どもだった」と、ある日、父がポツリと私に告げました。その意味が呑み込めず、父の顔をジッと見つめていたことがあります。
 父が亡くなって、もう幾年も過ぎてしまいました。年月が経つのは早いものだと思います。結婚して、移り住んだところが遠隔地だったせいもありますが、めったに父親に会う機会がありませんでした。また、会いたいという気持ちも起きず、実家に帰りたいと思ったことさえありません。父も私も、
筆不精で電話嫌い、面倒くさがり屋ですから、どちらも連絡を取ろうとしなかったためとも考えられます。しかし、その父でさえ、「お前はほんとうに、何も言ってこないなあ、無愛想な奴だ」と言わしめたのでした。

 また、なぜか私の奥深いところに、父親に対しての「静かな怒り」みたいなものがありました。エニアグラムと出会って、その理由がわかってきて、改めて父親との関係を振り返る機会を得ました。そこで、父との関係を自分なりに整理してみようと思い立ちました。ちなみに、私のエニアグラムのタイプは2w3です。


  
 
父親の膝は私の居場所 

実家は、小さいながらも自動車関連の会社を経営していました。私が幼い頃は両親がともに働いておりました。とくに母親は、朝早くから夜遅くまで動きまわり、休んでいるところを見たことはありません。私には記憶に無いことなのですが、不景気で仕事がなくて、生活を維持するのが大変な時期だったようです。しかし、父親はドッカリと腰を降ろして、新聞をゆっくりと読み、タバコを呑気そうにふかしていました。たぶん、そんな時に、私は父の膝にススッと入り込んで行ったように思います。
   
 母のほうは、昼間も夫以上に立ち働き、夜は遅くまで忙しそうに家事をしているため、だいたいは父と風呂に入りました。機嫌が良い時は、お湯に浸かりながら、気持ち良さそうに民謡をウナッていました。どんな民謡だったか忘れてしまいましたが、父は、のど自慢だったようです。
 また、よく来客があり、大人たちが話し合っている時、父が手招きするので、私はその膝に乗っかって、大人たちの話をぼんやりとおとなしく聞いていたように思います。
 ちなみに姉が1人と兄が1人いますが、この二人と歳の差が開いていました。末っ子の私は、二人から、「ボウッとしておとなしく、何を考えているか分からない覇気のない子」だとよく言われました。

 さて、小学校に入った頃から、父の膝に乗らなくなりましたが、親戚の子どもが、父に招き寄せられて膝に乗ったのを見たとき、「あの膝はもう私のものではないのだ」と、妙に意識しており記憶に鮮明に残っています。母親との思い出よりも、ずっと詳細に覚えているのですから、不思議です。


 
 
  娘をからかいたがる父

 
小学校の1〜2年までのことですが、近所の友だちに誘われて、駄菓子屋さんに行くことがありました。そこで、母にお小遣いが欲しいとねだりに行くと、いつも「お父さんにもらいなさい」と言われてしまいます。私はイヤイヤながらも小遣いが欲しくて、父親の姿を探し出します。すると、「ここに頬ずりしたら、あげよう」と、ニヤリとします。父の頬には硬いヒゲがびっしりと生えていて、ヒゲが当るととても痛くて、また、そんな行為をすること事態が嫌でした。私が嫌がることを知っていて、父は私をからかって楽しんでいるのです。そんな父を嫌いではなかったのですが、その頃は頬ズリするのがとても嫌でした。
 秋になると近くの神社のお祭りがあり、たくさんの夜店が並びました。父は私の手を引いて、夜店を覗いてまわります。夜店に並んでいたオモチャのピアノを、私が欲しそうにしていたためか分かりませんが、買い与えてくれました。だいたいが、家にはオモチャらしいものは一つもなく、また、私もオモチャを欲しがることはなく、ねだったこともなかったので、それは本当に珍しいことだったのです。
 そして、私に「さくら」「野バラ」などの童謡を教えてみようとしたようです。これも珍しいことなのですが、たぶん仕事がなくて、暇をもてあましていたのではと思います。熱心に覚えさせようとしたみたいですが、私は少しも覚えようとしなかったようです。とうとう匙を投げて、「この子は頭が悪い!」とポツリ。

 なんとなく、その頃から、自分は頭が悪いのだと思い込んでいたように思います。何気ない父親の言葉が、いつまでも自分の脳裏に張り付いているのです。


  
結構、遊び人であった父

 
私は映画を観るのが好きなほうですが、父親も相当に好きなほうでした。近くに映画館が二軒あり、どちらにも連れられて、一緒によく観ました。場内が満員であると、小さな私を肩車して、観られるようにしてくれました。珍しいものとしては、演芸場に浪花節とか浪曲を聞きに行ったことです。むろん、何をうなっているのか、変な節回しだなあと思いつつ、私にはさっぱりとわかりませんでしたが。
 将棋の腕前はかなりよかったらしく、家族や親戚の中で、父にかなう人はいなかったと聞いています。

 また、父は釣りが好きだったようで、釣具店を経営していたこともあったくらいです。海釣にも連れられて行きましたが、確か三河湾の篠島だったように記憶しています。しかし、連れ出しはするのですが、子どもの世話をしたり、楽しませる気持ちは無い人でした。私が船酔いをして苦しんでいる時も、背中を擦ってくれたり、心配して声をかけてくれることはありません。

 夕方近くになると、父はどこかにフラリといなくなりましたが、パチンコをするか、料理屋で同業者と酒を酌み交わしていたようです。日曜日は競馬や競輪など、朝からその手の新聞を熱心に見ていたことをよく覚えています。また、意外と流行をよくキャッチしており、出始めたばかりのものを購入する人でした。ワープロもパソコンも、売り出されたばかりの頃で、使いにくいものでしたが、バソコン相手に将棋を指していたこともありました。パソコンと勝負して「勝った!たいした奴〔パソコンのこと〕じゃないなあ」と自慢していましたが。

  

  
思い通りにしたがる父

 
小学生の頃までは、父親と風呂に入りましたが、中学に入ると、「さあ、風呂に入ろう」と、わざとからかって誘います。そんな時、「フン」とは言わなかったのですが、気持ち的には、まさに「フン!」と言いたくなるほどでした。父親と口をきかず、視線を合わせず、父親がそばに来ると、気づかれないように、そっと避けてしまうのです。父の歯ブラシとか、父の臭いがたまらなく汚らわしく感じて、小さい頃には父親の臭いが好きだったのにと、自分でも訳がわからず、嫌悪感で一杯になったりしました。

 中学3年の頃、私が進学する高校を選んで報告すると、「そこは駄目だ!」と、強引に別の高校を受験するように手配をしてしまいました。私の希望を入れず、勝手に手配するなんてと、憤慨していたのですが、なぜか私は父親とぶつからないようにしていました。それで、直接的にぶつかり合ったことはないのですが、反抗的な態度は、感じ取れたのでしょう。自分の妻〔母親〕に、「お前のしつけが悪いからだ!」と言っているのを、ふすま越しに聞いてしまいました。「私に直接に言えばいいのに、母に言うなんて、ずるい奴だ」と、心の中で父親を軽蔑したりしていました。
 しかし、基本的に父は教育熱心ではなく、成績のことや、私の生活の仕方などで注意されることはありませんでした。また、およそ躾らしい躾もされたことがありません。というよりも、普段は家族のことを気にかけない人で、ここぞいう重大事だけは、指図したがるのではと思います。

 

 
 身勝手で不安感の強い父

 
父が55歳の頃、十二指腸内の胆石摘出手術を受けました。入院している時、父親は、母と姉そして私と、3人の女性たちを常に召抱えるようにしました。まるでお殿様みたいで、女人を幾人も侍らせているような感じなのです。この3人が二人一組になって、交代で看護をするようになっていました。一人が用事でいなくなると困るらしく、確実に、一人をべッドの傍に侍らせるのです。手術のせいか腰痛があり、二人がかりで腰を揉むように指示します。母は看病に疲れて、体調を壊しましたが、そんなことは意にも介しないふうで、わがままな人に見えたものでした。 

 その頃、母親も2〜3度入退院を繰り返していましたが、父は、妻を看護することはなく、見舞いに来ても、顔を出したらすぐに帰宅してしまうのでした。あんなに、妻に看護してもらいながら、なんて男だろうと、私は父親を薄情な人間に感じて、尊敬できませんでした。しかし、そんな父でしたが、一度も文句を言ったことはなく、ただ心の中で、父のような男とだけは結婚しないぞと、硬く決意していたのでした。

 父は一見、おう揚そうに見え、不安感が全くないように見えるのですが、病気には大袈裟なくらい反応しました。自分の病気と死だけが心配事であり、家族の病気や知人たちの死に際しては、いたって平然としていました。そんな父を見て、「自分だけが大切で、私たちのことは心配しない人」と思ったものでした。


 
 見栄っ張りな父

 
私の結婚が決まり、結納の儀を執り行う前日です。帰宅すると、我が家は美しく一新していました。畳も襖も、全部が取り替えられていたのです。父親の意向でした。普段は慎ましい生活をするほうだったと思いますが、特別なハレの日は、かなり見栄を張る人のようでした。

 大晦日から正月過ぎの仕事始めの日まで、和服を着て、一家の主という感じで、主人席でデンと腰を降ろします。一旦、腰を降ろすと、けっして動かず、近くにいる人間をアゴで使い、自分が家族のために動くことはありません。
 また、旅行好きでしたが、一見、高価そうに見える服装に整えます。姉にはネクタイを結ばせ、妹の私には靴をピカピカに磨かせます。どうも、女たちにサービスさせたがるところがあるのではと思います。そして、帽子を被ることもあり、一見、ダンディぽくするのです。
 景気が良くなり、会社の規模も大きくなった頃は、毎月のように同業者と旅行していました。たまに母親も同行することがありました。両親がいないと、私はとても解放された気分になったものです。 

 一番に驚いたことは、私の結婚式の費用を支払う時に、父は全額を支払ってしまいました。普通、支払いは両家の折半になると思いますが、相手に否を言わせずに、支払ったようです。後からその事実を知って、私は顔がカァーとほてってしまったことを覚えています。なんて恥ずかしいことをする人なのかと。見栄っ張りで大盤振る舞いしたがるところが、とても嫌でした。


 
 慕ってくる子を可愛がる父

 エニアグラムを知ってから分かったのですが、父はウイング8があるためか、自分に従順な人間を好むようです。それに関して覚えていることは、「尾っぽを振る犬は可愛い」とよく言ったことです。子どもたちが自分に尾っぽを振って、甘えてくることを望んでいたみたいです。しかし、私は、そんな考え方をする父に嫌悪感を感じていました。たとえ父親でも、「尾っぽを振る」などということは、私にとって屈辱的な行為であり、それを望む父親は、到底に理解できない人でした。

 会社で雇用している人たちは、今思い出すと、タイプ9w1が多く、タイプ2を好まなかったのではないかと思います。タイプ6w7の伯父や、タイプ6w5の従兄弟たちがいましたが、父親に相談したり、しばしば我が家に遊びに来ており、相性が良かったのではと思います。

 ところで、姉は父と同じタイプ9w8なので、気が合うらしくて、父のお気に入りだったようです。また、美形好みがあり、なにかにつけ「アイツは顔がいい」「アレはブスだ!」と言い、美人であった姉は自慢だったかもしれません。兄はタイプ6w5で、私と同じく父に批判的です。父の会社を継ぎましたが、父のことをしばしば「怠け者だ!」と顔をゆがめていました。まさに、エニアグラムで学んだ通りで、父親に不満を持つのも理論通りのタイプです。 


  
父との最後のふれあい
 
 
父が亡くなった時は、涙も出ず、妙にクールでしたが、その三ヶ月前に、父から呼び出されて、実家に駆けつけたことがあります。それまで体調が悪かったようで、風呂にずっと入っていなかったみたいです。たまたま気持ちの良い日だったらしく、「背中を流して欲しい」と私を呼びつけたのでした。

 父親の背中を洗うなど、それまで一度もしたことがなくて、妙なことを言うものだなと思いました。母は先に亡くなっていて、兄と同居していましたが、兄嫁には頼めないことのようです。それなら、姉に頼めばよいものを、そういう時はどうして私になるのかなと思いました。しかし、仕方ない、やるしかないと、背中を流しに行きました。
 その背中を見て、予想以上に衰えているので、何か胸に詰まるものがありました。こんな頼み事を娘にするなんて、「おかしい、近いうちに死ぬのではないか」と予想しました。そして、予想通りだったのですが、死期を自覚していたのではないかと感じさせられるものでした。それが、父との最後の思い出になってしまいましたが……。


  
父とのこと

 
私が父親に素直になれなくて、母親の肩ばかり持つので、父は「お前はあいつの子だ」と言ったのでしょう。たぶん……。しかし、エニアグラムを知ってから、私は本当は「父の子」だったのだと気づきました。

 私が自分の仕事や、これからの生き方で悩み苦しんでいた時期がありました。丁度その頃、父はヨーロッパ旅行したり、孫たちと呑気そうに楽しんでいたようです。その姿を映したビデオを見た時に、父親の屈託のない呑気な顔が、いつまでも忘れられず、イラツキました。

 幼い頃は、かわいがってくれたようですが、成人した後はほぼ無関心で、娘が苦しんでいても、父親は何も知らない人でした。それどころか、知ろうともしなかった。父親というものは、子どもが苦しんでいることを分かっているべきだと私は思うのです。手助けして欲しいと考えたことはありませんが、何も知ろうとしない父を憎んだりもしました。そして、生きている時に、思いっきり父親をなじっておけばよかったと、後悔さえしているのです。

 やっぱり、私はファザー・コンプレックスがあるのだと、つくづくと感じます。本当は、父親にほめてもらいたかったのだと。父親に、「お前はよくやる、偉い奴だ」と言ってほしいのです。一方、母親には逆らったことはなく、親孝行できなくて悪かったと素直に反省できるのです。しかし、父親のことになると、めっぽう厳しくなります。


 
よくよく考えたら、父親は穏やかで寛容で、懐の深いところがありました。実際、それほどひどい父親ではないと思うのです。仕事関係の知人や、雇用していた男性たちからの評判はとても良くて、信頼されていたようです。よく「仏の○○さん」と呼ばれていたぐらいで、父を頼ったり慕う人は結構いました。
 実は、父の墓参りは一度もしていません。でも父は、私の心のなかで、今も生々しく生きているのではと思います。現在、こうして幸せに生きていられるのも、父のお陰かも知れないと思うのですが、まだ父親と和解できていない自分がいます。