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−夜詩が愛したふるさと− 「故郷というものは、何年たっても懐かしい、 そして温かいものが待っていてくれる所である。」 −江口夜詩ー ![]() 夜詩がこよなく愛したふる里の山と川 元上石津町郷土資料館館長 辻下榮一 私の小学校時代、夜詩は帰郷のたびに母校である時小学校を訪れている。学校へくると私たちの教室や講堂で手風琴(アコ−ディオン)を弾きながらよく校歌や応援歌などを教えてくれた。そして、みんなで歌ったり、色々な曲を弾いて聴かせてくれた。手風琴の他にトランペットを吹いてくれた記憶も残っている。 「時小学校の校歌」には "緑の風に胸を張り、窓から仰ぐ烏帽子岳・・・”とある。 夜詩がふる里を歌った歌にはいつも、村の前に峯える秀麗な烏帽子岳と中央を流れる清冽な牧 田川が出てくる。「時村音頭」の一節には、 “ハァー 美濃の富士かよ ヨイショ 烏帽子岳 ヨイヨイ 咲いた石楠花(しゃくなげ)自慢の景色 山と川との時の里 ソレ 時村音頭は愉快な音頭 シャンシャンシャシャーンとひと踊り”・・・・と。 ■生家前から望む烏帽子岳 私の母は、夜詩より二つ年上で、いつも語っていたのは、 「源吾はん(夜詩の本名)はなあ、東京で作曲の仕事をしてござっても時々(ふる里へ)帰ってきなさった。源吾はんは一つ(1歳)のときに、お父っつあんに死に別れ 、それ以来お母はんの手ひとつで育てられたんや、源吾はんは親思いやったからそんな母親の待っとってくれる、ふる里が好きやったんや、『帰って来て、この山を見るとひとりでに涙が出てきてしょうがないんや・・・』といってござった。そして『私が今あるのは、ふる里があったからや、この烏帽子岳がわしを生んだんや・・・』と。源吾はんは亡くなるときどんなに時(時村)が恋しかったやろーなぁー・・・」と。 ■夜詩が生まれ育った時地区上集落 夜詩は幼くして別れた父をいつも烏帽子岳として仰ぎ、ふる里にある母を牧田川の瀬音に偲び奮起したのであろう。 ふる里をこよなく愛した夜詩は、実に生涯四千曲もの曲をつくり、大衆音楽の父と親しまれた。 ■上石津町名誉町民 上石津町(現:大垣市)は夜詩の偉大な功績を讃え、昭和45年に上石津町自治功労者に、 昭和49年10月に上石津町名誉町民に推戴しました。 ![]() ![]() ■自治功労者推薦状 ■夜詩に贈られた名誉町民章 ■江口夜詩顕彰碑 江口夜詩が亡くなった翌年、昭和54年、顕彰碑設立発起人によって上石津町時地区下山の時小学校(中学校)跡地に顕彰碑が建てられました。碑の表面には碑文の上部に憧れのハワイ航路の一節が、碑の裏面には、作曲した曲の略年表と、夜詩がふるさとを想った言葉が刻まれています。 ![]() ![]() ■昭和54年に建てられた江口夜詩顕彰碑 ■顕彰碑のある時小学校跡地(校門跡) −−顕彰碑全文−− 明治大正昭和の三代に生き 歌謡曲界を二分した巨星江口夜詩先生は 手がけられた曲数千 一世を風靡したメロディーは演歌に音頭に軍歌に往く処佳ならざるなく或は一億民の志気を鼓舞し熱血を沸らせ或は虚脱の国民に清々しい自由民としての曙光を見出させるなどその社会的価値は広く万民ひとしく評価するところ その間郷土と子女を熱愛した校歌の数々 故郷の自然を基調とした上石津音頭 青少年歌は先生克難の歴史と共に永久に語り継がれるべきであろう 茲に先生の偉徳を仰ぎ永くその業績を讃えるために広く浄賤を集めてこの碑を設立し併せて教学の資に供したいと念願するものである。 昭和五十四年十二月 顕彰碑設立発起人会 ■ふるさとに流れる夜詩のメロディー上石津町時地区では、文化祭、敬老会、盆踊り大会など、地域の行事のなかで必ずといっていいほど、夜詩の曲を歌うプログラムが用意され、「憧れのハワイ航路」「赤いランプの終列車」「心のふるさと」などが歌われています。 (※写真は日本昭和音楽村水嶺湖畔特設会場で開催された、時地区納涼盆踊り大会の様子) 時まちづくり活動推進実行委員会及び時ふるさとづくり実行委員会は、国道365号線から音楽村への入口を分かりやすくしようと、入口の両側に花壇を整備しました。 音楽村にちなんで花を音符の形に植えあります。 またトールペイントで「憧れのハワイ航路」の歌詞を書いた看板も作成しました。 音楽村江口夜詩記念館へのアイキャッチとなっています。 (※写真は日本昭和音楽村入口に設置されたトールペイントの看板)
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