■モーツァルト作品解説■    [HOME]   [年代別目次]

ウィーン四重奏曲

概説

 1773年3月、最後のイタリア旅行から帰郷したモーツァルトは、4ヵ月後の7月16日から9月25日にかけて、ふたたび父親とともにウィーンに旅行した。この旅行の目的は、ウィーン宮廷に職を得ることにあったが、宮廷の態度は冷たく、また、グルック、ヴァーゲンザイル、ヴァンハル、ミスリヴィチェク、サリエリ等々と、有力な音楽家のひしめくウィーンでは、17歳の青年作曲家にそうした機会が訪れるはずもなかった。この旅行は、そうした意味では失敗であったが、いうまでもなくモーツァルトの作曲家としての成長にはきわめて重要な意味をもっている。
 1770年前後のウィーンは、前古典派の数々の中心地に対して、すでにはっきりと芸術的な優位を明らかにしつつあった。このことを象徴的に示すのが、いわゆる音楽上の〈シュトゥルム・ウント・ドランク〉の潮流である。この潮流は1774年には終息し、音楽史の1エピソードに終ったが、ロマン主義の先駆現象と評されるように、音楽を高級な娯楽としてではなく、個人の内面の表現として把握しようとするものであった。
 そうした転換を一身に体現したのは、すでに指導的作曲家として認められていたハイドンであった。ハイドンにとって、ミラノの巨匠サンマルティーニは、すでに「ぬったくり屋」にすぎぬ存在と感じられており、この時期のハイドンの大胆な独創性と強固な論理性に支えられた作品は、ハイドンの創作史の最初の頂点を形成している。多数の短調交響曲とならんで、この時期のハイドンの創作の核心をなしているのが、ハイドンとしては10年ぶりに、おそらく自発的に着手した一連の弦楽四重奏曲である。「作品9」(1769−70年?)、「作品17」(1771年)、「作品20」(1772年)の3つの作品集は、弦楽四重奏曲を「作品33」の直前にまで導いた歴史的な意義からだけでなく、固有の芸術的な力をそなえている点でも重要な作品群である。
 ウィーンに滞在したモーツァルトは、8月に4曲、9月に2曲と6曲の四重奏曲を作曲した。この連作の場合も具体的な作曲事情は不明で、有力な出版者アルタリアとの接触を図ったか、誰かの注文を受けたものと推測されている。
 ハイドンの圧倒的な影響のもとに書かれたこの連作は、半年前の〈ミラノ四重奏曲〉とは、全般的な作曲水準の向上は別にしても非常に異なったスタイルを示している。主な点を列挙すると、まずメヌエットを定着した4楽章形式をとっていること。メヌエットの位置は2曲で第2楽章となっている(K170、171)。フーガ・フィナーレの採用(K168、173)。変奏曲形式の第1楽章(K170)。第1楽章のソナタ形式は、展開部を主に第1主題で構成する傾向をみせている。イタリア風のフィナーレから解放されたメヌエットは、ハイドン的な諧謔味に特徴づけられている。さらに、ハイドンからの楽想の借用も2、3にとどまらない。また、序奏を取り入れてハイドン以上に大胆な形式実験をみせる第4曲K171、初めての短調作品の第6曲K173のように、モーツァルトの個性を前面に出した作品も、ハイドンの精神に勇気づけられたものといえよう。
 こうした影響は、10年後の〈ハイドン四重奏曲〉の場合のように完全に内面化されたというよりは、かなり直接的な形であらわれている。そのためか、研究者の評価は、たとえば「われわれは、モーツァルトが偉大な模範に対してとまどいを感じ、注意深い仕事で、確信が欠けたものを補おうとしている印象を受ける」(H・アーベルト)、あるいは「非常にすっきりしない楽曲」(アインシュタイン)というように、モーツァルトの作品に対するものとしてはかなり否定的である。アインシュタインは、「父親の命令のおかげで成立したのだと仮定したい」とも述べているが、こうした論調にふれると、とまどっているのは研究者自身のようにも感じられる。「作品20」の高みを超えるためには、ハイドン自身も10年の成熟期間を必要としたこと、ハイドンに挑戦して十分な芸術的成果をあげた作曲家が、当時17歳のモーツァルト以外には存在しなかったということは忘れてはならないであろう。