■モーツァルト作品解説■    [HOME]   [年代別目次]

プロシア王四重奏曲

概説

 1789年の4月から6月にかけて、モーツァルトは、音楽上の弟子にあたるカール・リヒノフスキー侯に従って、ベルリン旅行を企てたが、この折にポツダムの宮殿で、当時のプロシア王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に会い、その前で演奏を行っている。ウィーンに帰ったモーツァルトを待っていたのは、旅行前にまさるはなはだしい困窮であったが、このことは、フリーメーソンの同志にあたるヨハン・ミヒャエル・プフベルク(1741-1822)宛のたび重なる無心の手紙によって、まざまざと知ることができる。ところで、プフベルクヘの手紙のひとつ(1789年7月12日付)に、モーツァルトは、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世のために6曲の弦楽四重奏曲と、王女フリーデリカのために6曲のやさしいピアノ・ソナタを書いていると記しているが、旅行の際ポツダムで彼自身、王じきじきの依頼を受けたものと考えられる。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、当時の多くの王侯たちと同様音楽を愛し、自らも楽器を弾く素人音楽家であった。彼がよくする楽器はチェロであり、モーツァルトも、王の演奏能力を心にとめて作曲にとりかかったのである。これらの作品を例にとるまでもなく、6曲という数は、当時として注文依頼の際の、最もスタンダードな数量であるが、しかしモーツァルトは、王のための弦楽四重奏曲作曲を半分の3曲だけにとどめている。それが、ニ長調K575をはじめとして、翌年に書かれた変ロ長調K589、およびへ長調K590の3曲に他ならない。3曲を通じる特徴としてあげられるのは、演奏者を意図してチェロのパートが書かれていることであり、チェロは第一ヴァイオリンとならんで表面にでており、高い音域による旋律の担い手としても活躍し、いわば独奏的でさえある。こういった点で、これらの作品は、いわば機会音楽的な要素の濃いものとして、以前の作品、とくに〈ハイドン四重奏曲〉とはまったく異なった性格のものであるが、しかし、それだからといって、芸術的に低いものであるというわけではない。当時の作品に共通するモーツァルトの最後期の様式的特徴は、ここでもはっきりとした形をとってあらわれている。以前の作品に比べてかなり単純な構成をもっている点も同様である。