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ミラノ四重奏曲

概説

 第1番に続く弦楽四重奏曲は、およそ2年半を経て、第3回イタリア旅行(1773年10月24日−74年3月13日)の折に6曲からなる連作の形で作曲された。この最後のイタリア旅行は、第1回イタリア旅行の際にミラノ宮廷劇場から注文されたオペラ・セリア「ルチオ・シッラ」の作曲と上演のために企てられたものである。四重奏曲の作曲は、10月28日付のボルツァーノからのレオポルトの手紙に、「あの子は今、退屈なので四重奏曲を書いています」とあるように、11月4日のミラノ到着前に始められ、その後歌劇の完成をまって翌年のはじめにかけてなされた。
 作曲の動機を示す資料は何も残されていない。レオポルトが書いているように「退屈なので」書いたということも大いにありえよう。しかし一般には、6曲1組という当時の四重奏曲出版の習慣に従っていること、またレオポルトが、1772年2月7日付のブライトコプフ宛の手紙で、ヴォルフガングのすぐにでも印刷可能な作品を列挙して出版の意向を尋ねており、そのなかに「……あるいは四重奏曲、すなわちヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロによるものもあります」と書いているところから、出版を考えていたものと推測されている。
 この6曲は、主な作曲地名を冠し〈ミラノ四重奏曲〉と通称されているが、これは様式的にみても妥当といえよう。6曲とも、第1番と同じく、シンフォニアの3楽章形式をディヴェルティメント的に自由に変化させたイタリア風の3楽章形式で書かれており、楽想もイタリア的な歌唱的旋律性に支配されている。しかしながら、ここでもボッケリーニ(「作品2」は1761年作曲、67年パリで出版)、サンマルティー二(「コンチェルティーノ・ア・クアトロ・イストゥルメンティ・ソリ」は1767年作曲)のかなり進んだ作品の直接的な模倣はなされておらず、独自の室内楽的表現が探究されていることが注目される。
 この点で興味深いのは6曲の楽器編成の指示である。最初からソロ編成の指示されているのは第2曲K156と第6曲K160の2曲、指示の欠けているのが第3曲K157、第4曲K158と第5曲K159はオーケストラ、そして第1曲K155では、violeがviolaに訂正され、bassoの上にvioloncelloと書き加えられている。したがって、第1、第4、第5曲については、1772年にザルツブルクで作曲されたディヴェルティメント(K136-138)と同様、コントラバスを補強した弦楽オーケストラを想定して書かれた可能性も残っている(ケッヒェル第六版は、それゆえこの3曲には「ディヴェンティメント」と付記している)。しかしたがら、全曲を書き上げ自筆譜を1冊に綴じた段階で、モーツァルトは全6曲を1組の四重奏曲としてまとめ、全体への例示の意味を含めて、第1曲の楽器編成を前述のように訂正したのであろう。結果的にこの曲集は、交響的な要素から室内楽的な要素までを含んだ、弦楽四重奏曲の過渡的な状態をよく示す曲集となっている。
 こうした技法的な面以上に注目されるのは、第2曲から第5曲までの4曲の短調で書かれた中間楽章のパトス的な表情である。そこには、青年期に入ったモーツァルトの多感な感情の表出をきくことができるが、そうした主観的な感情表現は、当時の祝祭的・社交的な交響曲やディヴェルティメントにはけっして求められない性格のものであった。