■モーツァルト作品解説■    [HOME]   [年代別目次]

弦楽四重奏曲(全23曲)

総説

 モーツァルトは、交響曲の約半数にあたる23曲の弦楽四重奏曲を残した。作曲期間は1770年から1790年までの20年にわたっているが、間に10年ほどの休止期間があり、全体は13曲の初期作品と、ウィーン定住後に書かれた10曲の傑作群とにわかれている。またほとんどの作吊は、当時の室内楽作曲の習慣に従って、様式的なまとまりをもった6曲連作の形で成立している。ところが、生前には〈ハイドン四重奏曲〉ニ長調K499の7曲しか出版されなかったので、ハイドンの場合とは異なり、作品番号によってそうしたグループを示すことはできない。ここでは、慣用の呼称を用いて全体を概観することにしたい。なお、通し番号は旧全集によるものである。新全集はこの種の番号付を行っていないが、その後の研究によっても交響曲のように大きな変動は生じていないので、この番号は作品の実数と作曲順序を正しく示すものとなっている。
 初期作品は、1770年から73年にかけての旅行時代に、旅先で触れた音楽の強い影響のもとに作曲された。当時なお形成途上にあったこのジャンルに対するモーツァルトの意欲と、少年期を脱して青年期に向かう多感な心情の刻みこまれた、モーツァルトの芸術家としての成長を鮮やかに映し出した作品群である。これら13曲は、最初に単独で作曲された1曲と、イタリア様式からハイドン様式への転換を示す対照的な2組の連作からなっている。
〈ローディ〉第1番(K80)1770年3月、ミラノ近郊のローディで。
〈ミラノ四重奏曲〉第2−7番(K155-160) 1772年10月から翌73年3月にかけて、ミラノで。
〈ウィーン四重奏曲〉第8−13番(K168-173) 1773年8月から9月、ウィーンで。
 その後、パリ風のギャラント様式に転換したザルツブルク時代からマンハイム・パリ旅行の時代にかけては1曲の弦楽四重奏曲も書かれていたい。ハイドンもまた、この時期には四重奏曲の筆をおいている。この分野が再開されたのは、ウィーン移住の翌1782年の終り、前年に完成されたハイドンの「作品33」から受けた啓示ともいえる深い感動のもとにであった。モーツァルトは85年1月までに6曲の連作をまとめ、1月15日にハイドンを自宅に招いて聴いてもらったあと、心のこもった献辞を添えてハイドンに献呈出版した。この6曲は、モーツァルトの「最も個人的な音楽」(アインシュタイン)として、古今の室内楽の最高峰を形づくっている。
〈ハイドン四重奏曲〉第14-19番(K387、412〔417b〕、428〔421b〕、458、464、465)1782年12月-1785年1月、ウィーンで。
 翌1786年8月、「フィガロの結婚」完成後に1曲の単独作品が生まれた。〈ハイドン四重奏曲〉圏内にあるこの作品は、友人の出版者ホフマイスターのために書かれたと考えられるところから、この名を冠して呼ばれることが多い。
〈ホフマイスター〉第20番(K499)1786年8月、ウィーンで。
 このあと、モーツァルトの関心は弦楽五重奏曲に移るが、1788年のベルリン訪問後、チェリストとして知られたプロシア王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世への献呈を目的に6曲の連作に着手した。困窮ゆえの多忙のため3曲を完成したところで筆がおかれたが、いずれも晩年の清澄なスタイルを示す傑作である。
〈プロシア王四重奏曲〉第21−23番(K575、589、590) 1789年6月−1790年6月、ウィーンで。