■モーツァルト作品解説■    [HOME]   [年代別目次]

レクイエム ニ短調

K626

 モーツァルト辞世の「死者のためのミサ曲」。作曲者の死によって未完の断片として残されてしまったことから、この作品にはさまざまな複雑な事情がからみ判然としない問題が多いのだが、以下成立事情、作曲の経過、他者による補筆完成の過程とその内容、テクストなどの諸点について順次解説していく。
 曲の成立はウィーンのシュトゥパハに居城のあるフランツ・ヴァルセッグ・フォン・シュトゥパハ伯爵から依頼を受けたことによる。熱心な愛好家であり、自らフルートやチェロを奏すばかりか、自身を作曲家にみせたがるという奇癖までもっていたこの伯爵は、1791年2月に夫人を失った際にも、死者のためのミサ曲、レクイエムを自作と称して奉献することを思い立ち、その代作者としてモーツァルトに白羽の矢を立てたのであった。この作曲依頼は注文主の名を伏せたまま、灰色の服に身を包んだ痩せて背の高い見知らぬ男が携えてきた署名のない手紙を通じてもたらされたため、当時すでに病状昂進で抑鬱状態にあったモーツァルトに、いやがうえにも深い衝撃を与えたであろうことは想像にかたくない。6月(7月?)に注文を受けるや、ただちに着手された作曲は、9月28日初演 予定の「魔笛」の最後の仕上げや、「皇帝ティトゥスの慈悲」の作曲のための中断をはさみながら、死の前日の12月4日まで続けられた。この時点で完全にできあがっていたのはイントロイトゥスとキリエの全部、セクエンツィアとオッフェルトリウムの声と低音のパート(セクエンツィアの「ラクリモサ」のみは8小節目で中断)であった。
 モーツァルトの死後、このミサ曲を完成させることが妻コンスタンツェの焦眉の用件となる。依頼主から注文と同時に契約金の半額をすでに受け取っていたので、完成させなければ残額をもらえないどころか、支払いずみの分まで取り戻されてしまうかもしれないからだ。彼女はまず、夫が生前に高く評価していた同じウィーンの作曲家でアルブレヒツベルガーの弟子でもあったアイブラー(1765-1846)に全曲の補筆完成を依頼し、モーツァルトの自筆譜を引き渡した。しかし、アイブラーはセクエンツィアの「ディエス・イレ」と「コンフターティス」のオーケストレーションを仕上げ、「ラクリモサ」のモーツァルト絶筆後に歌のパートを2小節書き足したところで、自分には荷がかちすぎると判断したためであろうか、この任務を放棄してしまう。数人の作曲家に打診したのち、結局この仕事はモーツァルトの弟子のジュースマイア(1766-1803)が引き受けることになる。彼はモーツァルトの死の直前まで、できあがった部分を師とともに歌い、また完成のための指示を種々与えられていたらしい。アイブラーが直接自分のオーケストレーションを書き込んでしまったモーツァルトのセクエンツィア以降の自筆譜を受け取ったジュースマイアは、依頼主から筆跡の相違を気づかれないようにとの配慮からか、そこに直接書き入れることなく、新たに別のスコアを筆写したうえで、自らの補完部分を書き込んでいった。そこで彼がおこなったことは、セクエンツィアの「ラクリモサ」8小節までとオッフェルトリウムのオーケストレーションの完成、そして「ラクリモサ」9小節以降最後までとサンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイの新たな初手からの作曲、さらに、終曲コムニオのテクストに開曲イントロイトゥスの音楽を転用して全曲完成の体裁を整えること、以上の3点であった。この完成の日付は定かではないが、注文主のヴァルゼッグ伯が受け取ったスコアからいつもの習慣どおり自ら筆写して、「ヴァルゼッグ伯爵作曲のレクイエム」のタイトルのもと、亡くなった妻に捧げる鎮魂のミサ曲としてウィーンのノイクロスター教会で自身の指揮により演奏したのが1793年12月14日のことであった。
 さて、このジュースマイアによる補完版は伝統的に「モーツァルトのレクイエム」として迎えられてきたし、新全集(1964年刊、ノヴァク編)でもそれが決定稿として採用されている。しかしこのジュースマイアの補作がけっして満足すべきものでないどころか、大きな誤りと欠陥を含むとの指摘が初版(1800年)以来なされ、現今ではこの不完全な形を永久に不可変のものとして甘受すべきではない、との意見が目立つようになってきている。
そうした状況のもと、1971年にミュンヘンのパイヤーはモーツァルトの自筆譜を詳細に検討し、作曲家最晩年の様式と音響像を顧慮しつつ、オーケストレーションを大幅に改訂した新版を刊行した。この版ではジュースマイアが機械的に声と管楽器を重複して厚塗りにし、主旋律に3度を補っていたずらに甘美な響きにしている点などを排し、宗教作品本来の理想にかなうべく、すっきりと控え目に楽器が用いられている。このバイヤー版がジュースマイア版に代わって「モーツァルトのレクイエム」として定着するか否かは将来が決めることであろうが、少なくともドイツでは、この版による演奏が確実に増えてきたようである。
 次にテクストについて簡単にふれておこう。これはいうまでもなく11月2日、信仰者の死者の記念日のためのミサ典文に基づく。固有文を含めてのミサの作曲はモーツァルトにとっての初体験でもあった。このミサの正規の典文は以下のとおりである。
1aイントロイトゥス(レクイエム・エテルナムの言葉に始まる−死者のためのミサ曲が「レクイエム」と呼ばれるゆえん)
 bキリエ
2aグラドゥアーレ(レクイエム・エテルナム。後半がイントロイトゥスと異なる)
 bトラクトゥス(アプソルヴェ・ドミネ)
 cセクエンツィア(ディエス・イレ)
3aオッフェルトリウム(ドミネ・イエズ)
 bヴェルスス(ホスティアス)
4サンクトゥス
5ベネディクトゥス
6アニュス・デイ
 コムニオ(ルクス・エテルナ)
 ここで問題にしたいのは、2のうちではcのセクエンツィアにのみ音楽がつけられていることである。しかし2のなかでは最も劇的で変化に富んだイメージを喚起するこの「ディエス・イレ」の言葉に始まるセクエンツィアのみを音楽化することが、18世紀末の支配的傾向だったという(ノヴァク)。したがって、モーツァルトがたとえ全曲を完成させることができたとしても、このうえ2のグラドゥアーレとトラクトゥスに新たに付曲したとは考えられないので、この現存の形態はすでに十分、当時の典礼上の要請に応えているとみなされる。
 「……あの見知らぬ男が懇願し、せきたて、せっかちに私の作品を求めます。私も休んでいるよりも作曲するほうが疲れないので作曲を続けます……私は自分の才能を十二分に楽しむ前に終りに辿り着いてしまいました。だが人は自らの運命を変えることはできません……何事も摂理のままに甘受しなければ……これは死の歌です。未完成のままに残しておくわけにはいきません」。
 これはレクイエムの成立を語るときは必ず引合いに出される、おそらくダ・ポンテ宛てにイタリア語で認められた書簡の一節である。モーツァルトが自らレクイエム−カント・フネーブレに言及した唯一の資料であり、その死生観を知るうえでも貴重な発言といいたいところだが、残念ながらこれはモーツァルトの真筆ではなく、偽作の疑いが強い。
 この「見知らぬ男」の訪問を受ける前の5月9日、モーツァルトはかねてウィーン市参事会に提出していた請願が受理され、聖シュテファン大聖堂の無給の楽長代理に任命された。この新しい職務のためにモーツァルトがペンをとることはついになかったが、これを機に、教会音楽に今一度新たな地平を拓こうと、ひそかに心中期するところがあったかもしれない。そうした意味でも、このミサ曲が未完で残されたことがいっそう惜しまれるのである。
作曲の経過 概説参照。
初演 概説でふれた注文主による初演に先立ち、おそらくスヴィーテン男爵の計らいで、コンスタンツェのために、1793年1月2日、本当の初演が行われたとの説がある。
基本資料の所在 自筆譜はウィーン国立図書館。
出版 〔初版〕1800年、ブライトコプフ社。〔全集〕新モーツァルト全集第1篇、第1作品群、第2部門、第1巻(モーツァルト自筆の全部、イントロイトゥスよりオッフェルトリウムまで)、および第2巻(アイブラーの加筆したセクエンツィア断片と、ジュースマイアにより完成された全曲)。〔実用楽譜〕べーレンライター社(ノヴァク編)、オイレンブルク社(バイヤー編)。
演奏時間 約57分(ノヴァク版による)。
編成 4歌唱声部。バセットホルン2、ファゴット2、トロンボーン3、トランペット2、ティンパニ、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、オルガン。(フルート、オーボエ、クラリネットといった音色の華やかな管楽器をいっさい省いた点、異例な編成といえる)。

第1曲 イントロイトゥス。ニ短調 アダージョ 4分の4拍子。
第2曲 キリエ。ニ短調アレグロ 4分の4拍子。
第3曲 セクエンツィア。全曲の前半での頂点であるこの楽章は以下の6部に分かたれる。
 (1) ディエス・イレ。ニ短調 アレグロ・アッサイ 4分の4拍子。
 (2) トゥーバ・ミルム。変ロ長調 アンダンテ 2分の2拍子。
 (3) レックス・トレメンデ。ト短調 4分の4拍子。
 (4) レコルダーレ。へ長調 4分の3拍子。
 (5) コンフターティス。イ短調 アンダンテ 4分の4拍子。
 (6) ラクリモサ。ニ短調 8分の12拍子。
第4曲 オッフェルトリウム。「ラクリモサ」の8小節目で途絶えたモーツァルトの自筆が声と低音のパートに復活するこの章は2部に分かたれる。
 (1) ドミネ・イエス。ト短調 アンダンテ・コン・モート 4分の4拍子。
 (2) ホスティアス。変ホ長調 アンダンテ 4分の3拍子。
第5曲 サンクトゥス。ニ長調 アダージョ 4分の4拍子。
第6曲 ベネディクトゥス。変ロ長調 アンダンテ 4分の4拍子。
第7曲 アニュス・デイ。ニ短調 4分の3拍子。
第8曲 コムニオ。ニ短調 アダージョ 4分の4拍子。