■モーツァルト作品解説■    [HOME]   [年代別目次]

歌劇「魔笛」

K620

 非常に多彩な趣を呈しているモーツァルトの歌劇創作活動も、図式的に整理してみると、だいたい3つの傾向に分類できよう。「イドメネオ」「ティト帝の慈悲」がイタリア的なオペラ・セリア、そして「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」などが、おなじくイタリア風オペラ・ブッファという2つのジャンルから由来したものとすれば、残るもう1つの系統は、「バスティアンとバスティエンヌ」にはじまり、「後宮からの誘拐」を通って「魔笛」へと及ぶ、いわゆるジングシュピールの系列である。音楽を地のセリフでつなぐ単純な歌芝居であるこのジャンルは、もともと北ドイツを中心とするものであったが、いつしかウィーンでも盛んになり、お伽歌劇という形で発展していき、諸外国の影響とウィーン民俗音楽の要素も加わって、独自かつ多彩なものとなった。「魔笛」はこのようなジングシュピールの最後の帰結を示す作品でもある。しかし単にそれだけにとどまらない。このオペラはさらにフリーメイスン結社の秘儀や思想とも密接なつながりを示しているものでもある。加えて、音楽的にみればモーツァルトはここで歌劇のあらゆる要素を内包し、それを統一的に表現にもたらすことによって、真に総合的な古典歌劇を創造したのであった。
 様式的な点からみるならば、「魔笛」は類例のないほど多様な歌劇である。パパゲーノとパパゲーナはウィーン風の民謡調の担い手であるばかりか、イタリアのブッフォの音調をもふくみ、またタミーノとパミーナの2人には、イタリア風の詠唱調とドイツ風の歌曲調が巧みに協調し合って存在しているほか、ザラストロは厳粛なグルックのスタイルを、夜の女王はイタリアのオペラ・セリア的様式を示している。そればかりか、バロック的、なかんずくバッハ的なコラールの厳格な様式も見られる。そしてこのように多様な要素は、また相互に緊密な関係を保っており、もはやなにものも打ちこわしえぬ有機的な全体へと統一されているのである。彼らが歌う言葉は、そのまま音楽そのものと化し、音楽的な構成もまた独自の価値を主張している。たとえば調の選択をみると、全曲の基調ともいうべきものは変ホ長調であり、これを中心として、全体は有機的に関連づけられ、長調と短調の対照、各調間の関係、さらに巧みな転調など、少しも乱れをみせることなくおこなわれているが、特徴的な動機や音形の使用も、この曲が秘密めいている象徴性をはなはだしく高めている。
 この象徴性ということにからんで、最後に劇的な内容の点にふれておこう。劇の前半では、最愛の娘を奪われ、嘆き悲しみながら、王子タミーノに娘の救助を依頼する夜の女王は、掠奪者ともいうべきザラストロが悪を代表するのに対し、善を代表しているかのように思われる。しかし、後半になると、この関係は逆転し、ザラストロの手からパミーナを取り返そうと乗りこんできたタミーノは、パミーナと相たずさえ、高僧たるザラストロの試練に身をゆだねる。ひとり黒人モノスタートスだけは、終始悪人にとどまって、後半には夜の女王のもとに走り、滅んでいく。こうした筋の変化が起った原因について、一説には、シカネーダーの商売敵であったマリネッリが経営していたレーオポルトシュタット劇場で、おなじ童話「ルルあるいは魔笛」に取材したペリネト作詞、ミュラー(1767-1835)作曲になる「ファゴット吹きのカスパル、あるいは魔法のチター」が、6月8日に上演され、これが大成功を博したため、物語の筋を盗用されたうえに人気が出てしまったものの二番煎じはとてもできないと、シカネーダーが筋をだいぶ変えざるをえなくなったためだといわれている。しかし、こうした変化の原因は別にあるとみるのが最近の常識である。それは、モーツァルトが作曲をすすめていたとき、単なるお伽噺にあきたらず、作品をより高い倫理性表現の場にしたいという欲求にかられたと考えることである。ここでモーツァルトとシカネーダーが、ともに加わっていたフリーメイスン結社の理念、思想が重要なものとして浮びあがってくる。18世紀のヨーロッパに広く活動を展開したフリーメイスン結社は、密教的な要素をもち、自由・平等・博愛をモットーとし、平和な理想社会の建設を目的としていた。モーツァルトはウィーンに移ってから、これに加盟し、人間的な意味での影響を強く受けたが、音楽の面でも、この時期のいくつかの作品は、この結社と直接の関係をもっている(たとえば「フリーメイスンのための葬送音楽」ハ短調K477等)。当時はカトリックの聖職者さえすすんで加わった結社であったが、保護者であったオーストリア皇帝ヨーゼフ2世が1790年に死んでからは、禁止され、非合法化されることになった。「魔笛」に登場する人物が、当時のフリーメイスンに関係あるひとたちを象徴しているという説も主張されている。主人公タミーノは結社の保護者ヨーゼフ2世、パミーナはオーストリアの国民、ザラストロはウィーンにおける指導者で植物学者のイグナーツ・フォン・ボルン、夜の女王は結社を弾圧した女帝マリア・テレージア、そしてモノスタートスはフリーメイスンに敵対するイエズス会をあらわすものとする。こうしたかたちでフリーメイスンと結びつけることが妥当であるかどうかはさておき、シカネーダーとモーツァルトの2人により、作品の内容的裏付けとして、フリーメイスンの精神の表現が意図されたばかりでなく、この結社の秘儀が第1幕、第2幕を通して劇的音楽的表現にもたらされているというのが最近の「魔笛」研究の結論となっている。
 なお、シカネーダーはこの歌劇の成功に気をよくし、1798年、ぺーター・フォン・ヴィンター(1754-1825)の作曲で、続篇「迷宮」を初演している。また、「魔笛」が与えた影響は、非常に著しく、べートーヴェン、ウェーバーへの直接的影響はもちろん、かのゲー-テさえ「魔笛」の第2部の創作を志したほか、ドイツ・ロマン派作家へも大きな刺激をあたえた。
作曲の経過 モーツァルトは新しい生活の場を求めてウィーンに移ったのであったが、時代は、音楽家がフリーなかたちでひとつの都会で自由に活躍するのには、まだあまりにも早すぎた。そうして苦闘の10年、モーツァルトにはもはや絶望しか残されていなかったといってもよい。肉体の疲労も、もはや回復のすべもないほどのものであったが、しかしなぐり書きした舞曲にも、秋の青空のように澄明な音調が響いていた。モーツァルトはこのようにして最後の年1791年を迎えたのだった。雑多な社交音楽の間に、1月には、最後の「ピアノ協奏曲」変ロ長調K595歌曲「春への憧れ」K596、4月には、最後の「弦楽五重奏曲」変ホ長調K614、さらに6月にはモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K618と名品の数々が生みだされた。
 モーツァルトは、こうした生涯の最後の時期にすでに、1780年の秋から翌春にかけて、故郷ザルツブルクで知り合っていた劇場興行師シカネーダーのすすめで、1曲のドイツ語による歌劇作曲に同意したのであったが、それは正確には同年3月7日のことである。シカネーダーは、かなりの才智と同時にハッタリをも兼ねそなえた典型的な興行師で、みずから作詞・作曲もやり、また俳優や歌手もつとめるという才子であって、ザルツブルクでモーツァルト一家と知り合ったのも、妻とともに加入していたモーザー一座を、1778年に引き継いでの巡業最中のことであった。1789年ウィーンを訪れ、ヴィーデン劇場を手に入れて本拠地とし、なかなかの評判をとっていた。モーツァルトの妻コンスタンツェの妹ヨゼファも結婚後この一座に加わり、モーツァルトとシカネーダーはまた交際を始めていたのである。2人の関係は、さらに、ともに加盟していたフリーメイスン結社を介してもおこなわれ、これは「魔笛」の作曲にも大きな関係をもつこととなる。モーツァルトにしてみれば、少しでも金になる仕事だったらすぐにでもとびつきたいほど困っていた当時であり、また、芸術上の意欲の点でも、母国語で独創的な歌劇の作曲ができるという願ってもないチャンスが与えられたのであったから、二つ返事で承知したのだった。シカネーダーは、妻コンスタンツェを静養に出してしまって、世話するものもいないモーツァルトに、劇場近くの小さなあずまやをあたえ、彼の仕事をはかどらせようとさえした。(ちたみにこの小屋は、現在ザルツブルクに移され、モーツァルテウス音楽院の中庭に置かれ「魔笛の家」と名づけられて、正面にはモーツァルトの銅像を飾り、公開されている。)一意専心作曲に耽ったモーツァルトは、7月には大部分を完成、あとは序曲と第2幕冒頭、それからオーケストレーションを残すのみとなったが、ここで完成は一時中断される。プラハでおこなわれるレオポルト2世のボヘミア王としての戴冠式のために祝典歌劇「ティト帝の慈悲」K621を作曲し上演するため、同地へ赴かなければならなかったし、さらに例の不気味な黒服の使者からの依頼によって「レクイエム」の作曲をひきうけることになったからである。プラハを訪れて「ティト帝の慈悲」を上演したモーツァルトは直ちにウィーンに帰り、ようやく筆をついで、9月28日にのこる序曲と第2幕の「僧侶たちの行進」を仕上げたのであった。したがって初演はわずかに2日後に行われたわけである。
 なお、ここで、台本の成立の問題についてふれておこう。かつて「魔笛」の台本は、シカネーダーではなく、初演のとき第1の奴隷という端役を受け持つなギーゼッケが作ったと主張されたことがあった。ギーゼッケが、シカネーダーの死後だいぶたってから、自分が台本作者だと名乗りでたためである。ギーゼッケは歌劇台本も手がけており、なかんずくウラニツキー(1756-188)という作曲家のために書いた「オーベロン」という台本が、「魔笛」に似かよった題材のお伽噺である点、こういった主張も一顧の余地がなくはない。しかし現在では、やはり「魔笛」はシカネーダーが書いた台本であり、ただシカネーダーは、台本作製の際、ギーゼッケの「オーベロン」の材料を借用し、あるいはギーゼッケから直接の助言を得たと考えるのが適当と思われる。「魔笛」の台本には、まさにシカネーダー的な性格がはっきりと現れているからである。彼はこの歌劇の題材を、当分の著名詩人ヴィーラント(1733-1813)が編集した童話集「ジンニスタン」(1786−1789年)に収められている「ルル、あるいは魔笛」からとったが、そのほかにもこの童話集の他の童話や、既述の「オーベロン」が参考になったと考えられる。また、おなじジングシュピールの作品として、エキゾティックな雰囲気をもつ「後宮からの誘拐」も、遠い淵源となったといってもよかろう。
初演 1791年9月30日午後7時、ウィーン郊外のヴィーデン劇場で行われたプログラムでは「エマヌエル・シカネーダーによる2幕の大歌劇『魔笛』」とうたわれている。出演者はシカネーダー一座に属する歌手たちで、ザラストロにゲルル(モーツァルトは彼のためにアリア「この美しき御手のために」K612を書いている)、タミーノにシャック、夜の女王にモーツァルトの義妹ホーファー、パミーナに「フィガロの結婚」K492のバルバリーナをうたったゴットリープ、パパゲーノにシカネーダー自身、さらに弁者をヴィンター、3人の僧に、シカネーダーの兄ウルバーン、キストラー、そしてモル、3人の侍女に、クレープファー、ホフマン、シャック夫人、パパゲーナにゲルル夫人、モノスタートスにヌーズール、そして、3人の奴隷にギーゼッケ、フラーゼル、シュタルケのほか、3人の童子にナンネッテ・シカネーダー、トゥシャー、ハンドゥルグルーバーが扮した。指揮は初日、2日目がモーツァルト自身、3日目から劇場管弦楽団の楽長ヘンネベルク。初日の評判はあまりたいしたものでなく、とくに第1幕が終ったときの観衆の反応の冷たさにモーツァルトはびっくりしたほどだったが、第2幕では、しだいに活発な反応がおこり、終演のときには、モーツァルトは無理に舞台上に呼びだされた。またこの日、序曲をきいた当時著名な作曲家シェンクは、感激のあまり、思わずモーツァルトに接吻したという。この作品はしだいに評判を増し、モーツァルトが死んでからも続けて上演が行われた。ちたみにベルリン初演は1794年、パリ初演は1801年(もっともこれは「イシスの神秘」と題された翻案ものである)、イギリス初演は1811年、そしてアメリカ初演は1833年におこなわれている。
基本資料の所在 自筆譜はベルリン国立図書館、印刷譜は新モーツァルト全集第2篇、第5作品群、第19巻。
演奏時間 序曲約7分、第1幕約1時間、第2幕約1時間10分、合計2時間17分。
楽器編成 フルート2、オーボエ2、クラリネット2、バセット・ホルン2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦合奏。たお、パパゲーノが持っている鈴の響きは、グロッケンシュピール(鉄琴)で奏されるが、現在ではチェレスタによって代用されている。
台本 ドイツ語。シカネーダー(1751-1812)による。
登場人物 イシス、オシリスの両神に仕えるエジプトの高僧ザラストロ(B)、王子タミーノ(T)、弁者(B)、第1、第2、第3の僧(T、B、B)、夜の女王(S)、女王の娘パミーナ(S)、女王の第1、第2、第3の侍女(S、S、MS)、鳥刺しパパゲーノ(B)、老婆〔のちにパパゲーナ〕(S)、モノスタートス〔マウル黒人で、はじめザラストロに仕えていた〕(T)、第1、第2、第3の童子(S、S、MS)、武装した男第1、第2(T、B)、第1、第2、第3の奴隷。そのほか、僧たち、奴隷たち、従者たち。
時と所 古代。エジプト、イシスとオシリスの神殿の付近。