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歌劇「フィガロの結婚」

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 オペラの全盛期はいつかという問いに、作品が最も多く作られた時という観点から答えるなら、18世紀ということになろう。しかし、この時代の作品のほとんどすべては既に忘れ去られ、わずかなものだけが今日舞台にかけられるにすぎない。そのわずかなレパートリーのうち、現在最もポピュラーな曲がこの「フィガロの結婚」である。しかしこれが最もよくこの世紀を代表しているかと言えば、それは必ずしもそうとはいえない。1786年という、それまで旧体制で支えられてきたオペラというジャンルが、その基盤を失いつつあった時に書かれたこの作品には、相応ずる時代の姿が投影されている。
 ところで、この曲が初演されたウィーンのブルク劇場は、この時代のこの都市または宮廷のオペラ活動の中心であった。もう1つケルントナトーア劇場があるが、その重要性はこの時代ではブルク劇場に劣ると言わざるを得ない。このブルク劇場は1783年のシーズンからすっかり体制が入れ替った。それまで続けられていたドイツ語によるオペラ上演(「後宮からの誘拐」もその1つである)がはかばかしい成果を挙げないため、このシーズンから、ドイツ人を中心とするオペラ上演グループはケルントナトーアヘ追いやられ代ってイタリア人を中心とする新しい座組が行われた。これに伴って、アダムベルガーやフィッシャーは去り、ストラーチェ、ブッサーニ、マンディーニ等、「フィガロの結婚」の上演に関係する主要な歌手達が雇い入れられた。この変化によって当然、演目はイタリア語のものが採用される。1786年と87年のシーズンの夏の数ヵ月間、イタリア語オペラが上演されない日に、閉場中のケルントナトーアのメンバーがここでドイツ語オペラを演じているが、そうした例外を除けば、ほとんどイタリア・オペラ一色に塗りつぶされている。「フィガロの結婚」が初演された1786年のシーズン(おおむね4月の半ばから2月一杯がシーズンで3月は休場)では18のイタリア・オペラが演じられているが、パイジェッロ、チマローザ、サリエリ等のイタリア人の作曲家が並び、ドイツ人作曲家としてはモーツァルトのほかディッタースドルフの名が見えるだけである。この18回のうち新作はモーツァルトのを含めて4つだけである。この中にマルティン・イ・ソレーレ作のブッファ「ウナ・コーサ・ラーラ」(稀な事)が含まれている。モーツァルトは「ドン・ジョヴァンニ」で、この曲の1旋律を借用しているが、このオロヘラはこの時点での最大の当り狂言であり、恐らく人々はこの旋律をよく知っていただろうと思われる。もう1つのサルティの作品も「ドン・ジョヴァンニ」の完成のころまでに同じ1つの劇場で40数回演じられている。
 このようにブルク劇場におけるモーツァルトの作品は、おびただしいイタリア作曲家のオペラ・ブッファの洪水のような浸入を前にして異色の存在であったといえよう。したがって、後年ロッシーニに熱狂してべートーヴェンを忘れたウィーンの聴衆や彼に余り好意的でなかった宮廷よりも、彼を心から迎え入れてくれたプラハの人々のほうが彼にとってずっと親密な情を抱かせたに違いない。
作曲の経過 1780年代の作曲者の書簡の少なさが、作曲の経過を彼自身の口から引き出す作業を難しくしている。代りに台本作者ダ・ポンテの言葉によって(のちに刊行された手記)、モーツァルトとダ・ポンテとの触合い、作曲のきっかけについて述べれば、
「……モーツァルトについて言えば、彼の途方もない天才が、広大・多様かつ至高のテーマを求めていることが私にはすぐ理解できた。ある日、彼とこの素材について話をしていたら、彼が私に『フィガロの結婚』というタイトルのボーマルシェの喜劇を簡単にドラマにすることができるかと尋ねた。私はこの申込みが大いに気に入り、それを引き受けた。しかし、ここに乗り越えねばならない大きな困難があった。少し前、皇帝がドイツ人の劇団がこの喜劇を上演するのを禁じたが、彼はこの喜劇がきちんとした観客にとってあまりにも気ままに書かれていると言ったことである。それでは、いかにすればドラマとして上演できるであろうか。フェツラー男爵が寛大にも、テクストに相応する代価を私に与え、もしこの作品がウィーンで上演不可能であれば、ロンドンあるいはフランスで演じられるようにしようと申し出てくれた。しかし私はこの申し出を断り、テクストと音楽をひそかに書いておいて、私の責任で、よい機会があればそれを劇場支配人または皇帝にあえて見せるつもりであった。……夜を昼についでテクストを書き、彼はそれに音楽をつけた。6週間ですべて準備できた……」。
 6週間というのはダ・ポンテの誇大な表現かあるいは作品の大体の骨組のことであり、完全なものに仕上がるにはほぼ6ヵ月を要していると思われる。
初演 1786年5月1日、ブルク劇場で初演された。この時のポスターには「イタリア語のジングシュピール」と題されている。この上演の時ウィーンに滞在していた父レオポルトは、同年5月18日付の娘への書簡で「……あなたの弟のオペラの2回目の演奏では5つの曲が、3回目の時には7つの曲がアンコールされましたが、とくに小二重唱は3度も歌われました……」と報じているように、作品は成功で、この年のシーズンだけで9回、同じ劇場で繰り返し上演され、87、88年のシーズンには取りあげられなかったが89年のシーズンには13回も上演されている。初演と2回目の演奏はモーツァルト自身がチェンバロを弾きながら指揮をした。なお89年の上演の折に、作曲者に2つの新しいアリア(1577年および1579年)他いくらかの書替えを試みている。
基本資料の所在 ベルリン国立図書館(自筆楽譜)。
演奏時間 序曲と第1幕約1時間、第2幕約50分、第3幕約45分、第4幕約45分、合計約3時間20分。
楽器編成 フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦合奏。
台本 ボーマルシェの喜劇に基づきロレンツォ・ダ・ポンテ(1749-1838)が作成。ボーマルシェの3部作、「セヴィリャの理髪師」、「フィガロの結婚」、「罪ある母」の第2部にあたるもので、第1部はすでにペトロセッリーニ、パイジェッロの組合せで1782年ペテルスブルクでオペラ化して上演され、この世紀のブッファの人気作品の1つとなっていた。ブルク劇場でも1783年8月13日に初めて演奏され、以後も繰り返し上演された。ダ・ポンテがこれに刺激を受けて「フィガロの結婚」のオペラ化を思いついたであろうことは十分想像されうる。
 初演のときの印刷台本の序文の中で、台本作者は、
「劇を上演するために割り当てられた時間、劇の上演の中で一般に実施し得る登場人数の一定の数、またそのほか、慣習、場所、観衆にとってしかるべき見地や便法、これらがあの優れた喜劇を翻訳せずに、模倣と言うより、むしろ抜書と言いたいものに仕上げた理由である。このために俳優は原作の16人から11人に切りつめられ、しかも、そのうち2人は同じ人が演ずることができるようにした。さらに、1幕全体、最も優美な場、あちらこちらに散りばめられた見事な警句や機知に溢れた字句を取り除き、その場所に、カンツォネッタ、アリア、合唱そのほかの音楽に受入れられやすい言葉、すなわち散文でなく韻文のみから成るものを入れて置いた」
と述べている。この「抜書」等によって原文のもつ体制批判の雰囲気が大幅に後退し、ありきたりのブッファのテクストに近づいたことはペトロセッリーニの場合と同じである。
登場人物 アルマヴィーヴァ伯爵(Br)、伯爵夫人〔前作におけるロジーナ〕(S)、スザンナ〔伯爵夫人の小間使〕(S)、ケルビーノ〔伯爵の小姓頭〕(S)、バルトロ〔セヴィリャの医師で元のロジーナの後見人〕(B)、バジリオ〔音楽教師で前作ではバルトロの家に出入りしていた〕(T)、マルチェッリーナ〔女中頭〕(MS)、ドン・クルツィオ〔裁判官〕(T)、アントーニオ〔庭師〕(B)、バルバリーナ〔庭師の娘〕(S)、その他。
時と所 セヴィリャ近郊の伯爵邸。