■モーツァルト作品解説■    [HOME]   [年代別目次]

歌劇「後宮からの誘拐」

K384

 「後宮からの誘拐」はモーツァルトが作り上げた完壁なジングシュピール(歌芝居)の作品といってよい。加えて彼の最晩年の「魔笛」K620からべートーヴェンの「フィデリオ」、ウェーバーの「魔弾の射手」へつづく純正なドイツ歌劇の発展を考えるならば、この作品はさらにその先駆的位置を占めるものといえよう。
 モーツァルト自身、この作品以前にドイツ語歌劇の作曲を試みてはいた。すでに12歳のおり、「バスティアンとバスティエンヌ」K50(46b)を書いてジングシュピール的な世界にふみ入り、さらに1779年ザルツブルクで1曲のジングシュピールを作曲しようとしていた。それは、未完のままにのこされ、19世紀になってから、楽譜の出版者アンドレによって「ツァイーデ」K344(336b)と名づけられたのであるが、舞台をトルコにとり、捕われたキリスト教徒の青年が、後宮のおとめを語らって逃亡しようとする筋を扱ったものである。「後宮からの誘拐」はこれにつづく彼の作品であって、「バスティアンとバスティエンヌ」が少年時代の作であり、「ツァイーデ」が未完であるから、モーツァルトの手になるはじめての完成されたジングシュピールといえるのである。  この歌劇には、青春の若々しくみずみずしい美がみちあふれているが、事実「後宮からの誘拐」は、モーツァルトの青春の記念碑だったといっても過言ではない。彼は初演後まもない8月4日に、相愛のコンスタンツェ・ウェーバーと結婚式を挙げている。すなわち、この曲が作られていた時期は、モーツァルトにとって短い生涯のなかでも最も幸福な時代であった。横暴な大司教の許をのがれて、自由の都ウィーンにはしり、かつ、愛するコンスタンツェ(歌劇の女主人公も偶然おなじ名前をとっている)を得るという青年モーツァルトのあかるい心情が、こうした作品に映しだされぬはずはない。
 トルコという東方世界に舞台を置くことは、当時好んでおこなわれたことであるが、モーツァルトも、それをたくみに生かして生き生きとした喜劇を作りあげている。とくにオスミーンという存在を活かし、トライアングル、シンバル、ピッコロたどを効果的に使用して、トルコ風のエキゾティシズムを生みだすことに成功している。さらにコロラトゥーラのアリアやペドリロとブロンデの組合せにみられるイタリアの音楽的・演劇的要素、また、第3幕をむすぶヴォードヴィルにみられるフランスのオペラ・コミックの要素と、モーツァルトが、当時のジングシュピール形式をたくみにこなしながら、なお、彼独自の音楽を創造していることも注目すべきことであろう。「フィガロの結婚」K492から「魔笛」におよぶウィーン時代の傑作オペラは、こうした青年モーツァルトのオペラ実践を経て初めて創造されることになったのである。
作曲の経過 1781年は、モーツァルトの生涯における最大の転機であった。故郷ザルツブルクの大司教ヒエローニュムス・コロレードと快をわかち、音楽の都ウィーンで独立した音楽家としての生活がはじまったのである。この新しい生活環境のなかでモーツァルトは創作意欲を燃やしたが、ドイツ語による歌劇作曲の試みはそのとき彼の心をとらえたものの1つであった。−ウィーンに移ってすぐの7月下旬、モーツァルトは、ウィーンの王立劇場の俳優をつとめ、台本も書いていたゴットリープ・シュテファニー(1741-1800)から台本を受けとった。これは、先に着手しながら未完におわった「ツァイーデ」とおなじく、トルコを舞台にしたものであるばかりか、後宮からの逃走を主題にしている点でも似通ったものだった。シュテファニーはモーツァルトの未完の作品「ツァイーデ」を知っており、しかもたまたま台木作家ブレツナー(1748-1807)がヨハン・アンドレ(1741-1799)のために書いた台本を見て興味をおぽえたため、それに手を加えてモーツァルトに手わたしたのであろう。シュテファニーは原作者ブレツナーにことわりなしに手を入れたので、あとではげしい抗議を受けたが、ブレツナーの台本も、じつはいろいろな劇作品をアレンジしたものらしい。この台本は大いにモーツァルトの創作欲をそそったらしく、ザルツブルクの父レオポルト宛の当時の手紙には、この歌劇の作曲についてのかなりくわしい説明がある。
 作曲は、ロシア大公パウル・ベトロヴィチのウィーン訪問の機会に上演することをもくろんで急がれ、8月下旬には第1幕が完成したが、大公の訪問がおくれたため、作曲の速度がにぶったばかりかこの祝典に間にあわず、祝典にはグルックのオペラが使われるようなことになった。この曲の完成は、こうして翌年にもちこされ、第2幕は1782年5月上旬、第3幕は同月下旬になってようやくできあがった。
初演 上演はさまざまの障害にあって延期され、時の皇帝ヨーゼフ2世の命令によってようやく1782年7月16日ウィーン劇場で行われた。配役は、コンスタンツェをカヴァリエーリ、ブロンデをタイバー、ベルモンテをアダムベルガー、ペドリロをダウアー、そしてオスミーンをフィッシャーであったが、なかでもオスミーン役のフィッシャーはすぐれたオペラ歌手として人気があった。また、カヴァリエーリは、のちにモーツァルトの「劇場支配人」K486の初演でも歌手の役をつとめている。初演は大成功をおさめ、繰り返し上演された。グルックがこの曲を賞めそやしたことも知られているが、ヨーゼフ2世が、この歌劇について、音符が多すぎると評したとき、モーツァルトは胸を張って、音符はちょうど必要なだけの量が使われています、と答えた逸話も有名である。
基本資料の所在 ベルリン国立図書館。
出版 ボンのジムロック(1813年頃)。〔初版〕現在まだ新全集版は刊行されていない。
演奏時間 序曲約5分、第1幕約45分、第2幕約50分、第3幕約50分、合計約2時間半。
楽器編成 ピッコロ、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、トライアングル、シンバル、大太鼓、弦合奏。
台本 クリストフ・フリードリヒ・ブレツナーのジングシュピール用台本「ベルモンテとコンスタンツェ、または後宮からの誘拐」を、ゴットリープ・シュテファニーが自由に改編したもの。
登場人物 太守ゼーリム(語り役)、コンスタンツェ〔ベルモンテの恋人〕(S)、その召使ブロンデ(S)、ベルモンテ(T)、ペドリロ〔ベルモンテの召使で太守の庭園の番人〕(T)、オスミーン〔太守の別邸の番人〕(B)、トルコ近衛兵(合唱)。そのほか、地のセリフを語る登場人物として衛兵隊長、船頭クラース。さらに太守の従者たち、衛兵たち、奴隷たち。
時と所 時代の指定はない。トルコ太守の荘園。