■モーツァルト作品解説■    [HOME]   [年代別目次]

ヴァイオリン協奏曲 第7番 ニ長調

K271a=K271i

 ふつう「第7番」と呼ばれる3つ目のニ長調作品は、モーツァルトの手になる最後のヴァイオリン協奏曲ではなく、「第6番」変ホ長調K268よりも前に作曲されたものと考えられるが、変ホ長調と同様、いろいろ曖昧が点が多い。モーツァルトの自筆原稿は、現在すでに散逸してしまっているが、19世紀前半パリではなばなしく活躍した作曲家、指揮者、そしてヴァイオリン奏者のフランソア・アブネックが所有していたと伝えられる。彼によるとこの自筆原稿には、イタリア語で「モーツァルトのヴァイオリン協奏曲、ザルツブルク、1777年7月16日」と記されていたとのことである。アブネック所蔵のこの草稿から、ウジェーヌ・ソーゼーというヴァイオリン奏者が、自分の師であるとともに義父でもあり、またアブネックの師にもあたる、当時非常に有名だったヴァイオリニスト兼作曲家のピエールー・マリー・バイヨのために、1835年に写しとったのが、現在なお、パリの私的なコレクションに保管されているが、この譜では、モーツァルトの自筆原稿に書かれた上述の言葉はそのままフランス語に直されて載せられている。ところが、草稿の写しはもう1つある。それは、ウィーンの有名な蒐集家アーロイス・フックスが所有していたもので、1878年、ベルリンの国立図書館にゆだねられた。ブライトコプフ・ウント・ヘルテル杜から、アルバート・コップマンによって1907年に出版された総譜は、フックスの所有していたこのコピーに基づいているが、この出版が行われてから、さまざまた点が問題となり、論議の的となった。もちろん、この曲がモーツァルトによって作曲されたことには間違いないし、また、フランスの若い女流ピアニスト、ジュノム嬢のために書かれた変ホ長調の「ピアノ協奏曲」K271に共通する特徴がみられる点で、1777年7月という日付も正当なものと考えられるが、他方、たとえば独奏ヴァイオリンに対して要求されている技術(重音奏法、高いポジションといったもの)、あるいはオーケストラの書法(たとえば管の用い方、ヴィオラの独立的な動き)などを検討してみると、1777年、マンハイム=パリ旅行に出発する前のモーツァルトが書いたとは思われない点も相当多い。この点では、各楽章の構成も同様で、たとえば、独奏ヴァイオリンの自由な主題が再現部では省略され、第1主題ですら短縮されている第1楽章や、非常に単純で明澄た性格のために、1777年当時の緩徐楽章の一般的な特徴であるロマンティックな感じとはまったく対照的なアンダンテ、そして、1778年パリで作曲されたバレエ音楽「レ・プティ・リアン」KAnh10=K299bの第6曲ガヴォット、アレグロのなかに流用されている結尾主題をもったフィナーレのロンドと、いずれも、マンハイム=パリ旅行時代のモーツァルトをしのばせるものである。
 こうした点から、モーツァルトは、1777年の夏に1曲のヴァイオリン協奏曲を仕上げたが、のちにそれを作り直したということが考えられる。しかし、その場合、最初の形が、改作の場合、どの程度まで生かされているかは、はっきりとは決めがたいし、また、この曲にみられる10度の跳躍とか高音の走句は、前述のバイヨが自分の演奏を目当てに付け加えたものと思われるが、それも、どれがバイヨの加筆であるかというところまでは決定しがたい。ド・ヴィゼヴァたちは、この曲の成立と完成について、モーツァルトが、マンハイム=パリ旅行に出発する直前、パリあたりで演奏会をひらいた時に演奏しようと考えて、1曲の規模の大きいヴァイオリン協奏曲を作曲したが、旅行の途次受けたさまざまの影響によって、曲の構成はしだいに変化していき、かつ、帰国してから、なお、大きた変更を加えたので、この協奏曲は、ウィーン時代のピアノ協奏曲にみられるような複雑さ、難解さをみせるものとなってしまったのではないかと推論を下している。しかし、現在なおこの曲が真正なものかについてさまざまた疑義が提出されている。
作曲年代 1777年7月16日、ザルツブルク。ただし、その後多くの変更が加えられたものと考えられる。
基本資料の所在 失われてしまっている。
演奏時間 約26分。
楽器編成 独奏ヴァイオリン、オーボエ2、ホルン2、弦5部。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ ニ長調 4分の4拍子。協奏風ソナタ形式。
第2楽章 アンダンテ ト長調 4分の3拍子。
第3楽章 ロンド アレグロ ニ長調 4分の2拍子。