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交響曲 第25番 ト短調

K183(K173dB)

 1773年は、モーツァルトの交響曲の歴史を考える上で、きわめて重要な年になっている。というのは、ロビンス・ランドンのことばを借りるまでもなく、この年に「モーツァルトの交響曲様式に本質的な変化」が現れたからである。この年の3月、3回目のイタリア旅行から戻ったモーツァルトは、4曲の交響曲を1ヶ月半の間に一気呵成に書き上げているが、そこにはイタリア色がまだ色濃く残されていた。しかし、同年7月16日から約2ヶ月間にわたるウィーン滞在後に作曲された交響曲ではモーツァルトはイタリアの影響から完全に脱却してオーストリア的性格に向かうとともに、モーツァルト独自の境地へ入り込んでいったのである。その変容ぶりをもっとも端的に示しているのが、「小ト短調」とも呼ばれるこの交響曲「第25番」である。
 ところで、そもそもこのウィーン旅行の目的は、ヴォルフガングがウィーンで何らかの職を得ることであった。その思惑は完全にくずれてしまったが、その代償としてあまりあるほど大きな芸術上の収穫を、モーツァルトは得たのであった。当時のウィーンには、モーツァルトが知己を得てから久しい老大家ヴァーゲンザイル、やがてモーツァルトが親しくつき合うこととなるディッタースドルフ(1739-1799)、ほどなくウィーンの宮廷楽長となり、モーツァルトと覇を競い合うことになるアントニオ・サリエリ(1750-1825)、レオポルト・ホフマン、ヨハン・バプティスト・ヴァンハルなどが活躍していた。ヨーゼフ・ハイドンはまだウィーンに定住していなかったが、彼の音楽はウィーンの音楽会のプログラムにもしばしば登場していた。おそらくモーツァルトは、彼の短調の交響曲を何回も耳にしたことだろうし、ウィーンでの音楽体験が彼の芸術上の糧となったことは明らかである。
 そして折しも彼らの音楽には、新しい動きがあったのである。それは啓蒙主義に反動して、強烈な感情を意識的に表現しようとする、文学界を中心とした一種の精神運動「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)」の影響といわれるものであって、音楽においては、悲愴な情緒表現の追求、短調の偏愛、密度の濃い主題や動機の操作、展開部の重要性の拡大といったかたちとたって具現されたのである。こうした傾向は、ヨーゼフ・ハイドンの場合にはすでに1772年頃から目立ちはじめているのであって、モーツァルトも少なからずその影響を受けたと考えられる。事実1773年には、モーツァルトにも短調の交響曲が現れてくる。
 モーツァルトは、生涯のうちに約50曲の交響曲を作曲した。そのうち短調の作品は、この「第25番」と、後期の大傑作「第40番」ト短調K550の2曲のみである。両方ともがト短調というのも目をひくが、特に前者の「小ト短調」は、モーツァルトのそのころの作品の中でもとりわけ孤立した状態にあり、今までにも多くの人たちの関心をよんでいた。交響曲「第25番」ト短調は、ウィーン滞在直前に作曲された4曲のイタリア序曲風の交響曲や、「小ト短調」の2日前に完成した交響曲「第24番」と比較してみると、形式の上でも表現内容の上でも、驚くべき発展をとげているからである。
 H・アーベルトは、「長い期間にわたるモーツァルトの交響曲作品の中でもっとも重要なものであり、『ルーチョ・シッラ』以来、モーツァルトの中に何回も燃え上がったあの情熱的でペスミスティッシュな気分が、最も激しく表現されている」とし、すでに個々の動機の中にK550の「ト短調交響曲」と共通する面が潜んでいること、第1楽章のシンコペーションによる冒頭音形こそ真にモーツァルト的であることなどを指摘している。ド・サン=フォアは、ウィーンの音楽活動やハイドン、ヴァンハルらの音楽がこの時期の交響曲に影響を与えたとし、かなり入念な筆の運びがあることは認めながらも、「小ト短調」に特別な関心を寄せているわけではない。一方アインシュタインは、交響曲「第29番」イ長調K201(K186a)とともに、この曲は〈奇跡〉であるとして手放しで絶讃している。彼によれば、この時代には、「受難」シンフォニアは常に短調で書かれていたが、「小ト短調」に認められるいっさいのものは、「橄欖山や十字架に寄せる敬虚な想念とは何ら関わりなく、まったく個人的な苦悩の体験」から出たもので、「新しい精神がすべての楽章にわたって明示されている」としている。
 最近の研究の1つは、ラールセン(ハイドン研究家)に代表される。彼はずっと消極的で、ト短調という調性はモーツァルトがたまたまハイドンの一連の短調の交響曲を知ったので選んだにすぎないとし、その際、とくにハイドンの交響曲「第39番」ト短調(1768〜69年頃作曲)との関連性をあげている。実際、これら2曲は、調性や主題の性格もさることながら、当時としては異例な4本のホルン(しかも両者とも2本のト音管と2本の変ロ管である)を使用する点でも酷似している。モーツァルトは、1772年の2曲の交響曲K130とK132でも4本のホルンを用いているが、このK183(K173dB)ではホルンがいっそう効果的に働いている。さらにラールセンは、「たとえこの交響曲にあまり深い心理的な意味を求めることができないとしても、それでもなおこの曲は、この時期のもっとも興味深い作品である」と結んでいる。最近のもう1つの研究はR・ランドンによるもので、彼によれば、「ト短調交響曲」は「モーツァルトの、反逆的な精神よりも、音楽的た意味ではるかに深い根源的な力の現れ」なのである。そして、ここにハイドンやヴァンハルらの影響をはじめてはっきりと跡づけることができるとしている。
 いずれにしろ、「小ト短調交響曲」が少なからず特異な存在であることに間違いはない。また、久々にメヌエットを含む4楽章構成に戻っている。両端楽章はいずれもソナタ形式をとり、なかでも第1楽章ががっちりと構成されていること、両端楽章にはコーダ部が付され、終止が入念になってきたこと、第1楽章のシンコペーションのリズムと幅広い旋律線がこの時代を代表するもっとも特徴的な音形であること、トリオは木管楽器のみに委ねられ、オーストリア的雰囲気をたたえていること、終楽章に2分の2拍子が登場してくること、かなり厚い楽器編成をとることなどが、この作品の特徴といえるし、モーツァルトの心境の変化、および作曲技法上のひらめきが感じられる。
 なお、自筆楽譜では、ファゴットは第2楽章だけに使用されているが、果してそうであったかどうかは疑わしい。音域の高い第2楽章だけが記譜され、他の楽章では低声部とユニゾンで動くという可能性もあり、新全集ではその立場をとって、両端楽章にファゴットを加えている。
作曲年代 1773年10月5日。ザルツブルクにて。成立日に関しては、「第26番」変ホ長調K184(K161a)の「概説」参照
基本資料の所在 自筆楽譜は、ウィーン在住のK・R博士の個人蔵となっている。
出版 [初版] ギュンター・ウント・べーメ社、ハンブルク、1798年。「4曲の交響曲作品4の2」として。[全集]新モーツァルト全集第4篇、第11作品群、第4巻(べーレンライター社)、1959年。(音楽之友社刊、べーレンライター・ミニアチュア・スコアOGT676はそのポケットスコア版)。
演奏時間 約26分(反復を含む。OGTによる)。
楽器編成 オーボエ2(自筆楽譜では第2楽章のみ)、ファゴット2、ホルン4、弦5部。

第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ ト短調 4分の4拍子。ソナタ形式。
第2楽章 アンダンテ 変ホ長調 4分の2拍子。3部形式。
第3楽章 メヌエット ト短調 4分の3拍子。複合3部形式。
第4楽章 アレグロ ト短調 4分の2拍子。ソナタ形式。