席田と戦争

 昭和20年の太平洋戦争中に、席田小学校から北方周辺に(上保から郡府)にかけて、突然
飛行機の滑走路の工事が始まった。
全国から多くの兵隊がきて、工事をしたが作業の道具は、小さなスコップなどで、ほとんどが手作業であった。
当時、席田小学校が兵隊の宿舎になり、体育館は工事の道具や、飛行機の原材料の置き場として、使われていたために生徒たちは、勉強ができなく国のために、勤労奉仕作業をしていた。
また、滑走路とわからないように、芝生や草を敷きつめたり、小屋を作り農地に装ったりもした
が、一度も、この滑走路は使われることもなく終戦をむかえた。
地元の人も、当時極秘に行われていたために、詳しく知っている人も少ない。
              
            

             

@滑走路

当時の滑走路一部

A平和塔

昔は、今の席田小学校の中央玄関付近に、この平和塔があ
りました。
校舎新築のために現在は、本校南の糸貫東幼児園の隣に祀られています。
この塔には、日清戦争から太平洋戦争で亡くなられた郷土の
人々の精霊が祀られている。
また、太平戦争では、105名が帰らぬ人となった。

平和塔