DISCLAIMER:「ベルサイユのばら」の著作権は、池田理代子先生および池田理代子プロダク
ションにあります。
この作品は作者が個人の楽しみのために書いたもので、営利目的はありません。
Author: miki
Email: miki@he.mirai.ne.jp
Date: 07/12/2000
Category: オスカルがハーブによせて語る想いと女性調香師のこと
Spoiler: 「香りの世界を探る」 中村祥ニ著 朝日選書 1998年
      「香りのレシピ」 森田洋子著 小学館文庫 1998年
      「フェードル」 ラシーヌ作 渡辺守章訳 岩波文庫 1993年  

Authors note: この作品はたね様の7月企画で載せていただいた作品です。
たね様、転載を快くお許しくださりありがとうございました。多少加筆修正してあります。
個人で楽しむ以外の無断転載・再配布は、ご遠慮願います。

Sillage
(シジャージ)
〜残り香〜

狂おしい想いに分別が敗れていくようだ。
気がついた時には恋の虜で、五体は鎖にがんじがらめ、
嬉しい愛の軛に身をもがいても何の役にもたちそうもない。
いや、身をもがく必要すら感じない。
このままでいい…ずっと…このままで…
彼の腕の中で身じろぎもせず、胸に顔を埋めたまま、目を閉じそのままで…

しかし、わずかに残った理性は、このままではいけないと告げる。
彼をそばに寄せてはいけない。まして口づけなど…
彼を愛するならば…、なおのこと病がうつるようなことは、
決して、決して…してはならないのに…
出来るはずのない行為に想いを巡らせてもしかたない。
彼を手放すなど…、彼と別れるなど絶対にできるはずがない…
私だけではない。彼だって今さら私と離れることなどできないはずだ。
私はため息と共に、さらに彼に縋りついた。

「ため息なんてついて…、どうしたんだ?
それに…今夜はやけに甘えるんだな、珍しい。」
黒曜石の隻眼が優しく問いかける。
「…嫌なのか?アンドレ」
「まさか!?至上の喜びですよ。マ・シェリ」
私を抱く腕にさらに力がこめられる。

「珍しいと言えば…、今日は部屋に薫る匂いまで違うじゃないか?
いつもの少し甘いが爽やかな、鼻を近づけなければわからないような
弱い香りの黄水仙じゃないな。
これは…う〜んと…、ラベンダーとローズマリーかな?」
「当たりだ。おまえ…最近、耳だけでなく、鼻まで良くきくな。アンドレ」
「…そうか。香りを当てたご褒美は?オスカル」
「ご褒美?」
「美しい恋人の…艶やかに濡れて輝く唇がいいな。」
「…バカ…」
反論は封じられ、甘い口づけだけが与えられる。
私を酔わせる黒髪の恋人の唇、私をとろけさせる黒い瞳とその微笑…

侍女のローズ・テヴナンは、調香師の娘だった。
彼女の父のつくる香水は、私の母のお気に入りで、
爽やかで穏やかな香りが自慢だった。

しかし、ローズの父親は亡くなり、まもなく母は、
店と後継ぎの息子のために一番弟子と再婚した。
そうすれば、新主人が親方を継ぐことができるからだ。
ローズは父や弟を上回る調香の才を示していたが、
女であるために道は閉ざされていた。

しかも、義理の父は、次第に彼女の若さと美しさに興味を示すようになった。
彼女は、身の危険を感じるようになり、とうとう決心したようだった。
ある日、屋敷に彼女の母の供をした時に、私の母に自分の作った香水を売りこみ、
侍女として雇って欲しいと頼みこんだのだった。
私の母は事情を聞き、同情して雇いこんだ。

ローズの作る香水は、たちまち私のお気に入りになった。
女性らしさを押さえ、なおかつ、貴族の嗜みを損なわず、軍人の私が
纏っても似合う香水を、彼女は作り出した。

「調香師の臭覚は敏感ですから、人の体調の変化さえわかりますわ。
でも、いつも感じすぎると疲れるので、必要な時以外は
感覚を押さえておくのです。」

そう言いながらも、私の調子の悪い時には、カモミールのお茶を、
落ち込んだ時や眠れない時には、マジョラムを、
美しさのためには、薔薇浴やラベンダー浴を…
お茶、沐浴、室内香など…いつも私のために
彼女の知識を生かし、何くれとなく世話をしてくれた。
ロザリーが身近にいない今、妹に世話されるような嬉しさを、私は感じていた。

でも、ローズを気に入った女性は私だけではなかった。
以前、私に急な結婚話が持ち上がった時、若いけれど、気の利くローズを
アンドレの嫁にしたいと、ばあやは密かに考えたらしい
侍女たちが噂話をしていたのを耳にした。

彼に私を諦めさせ、ひ孫の顔をみるべく、ばあやなりに考えたのだろう。
しかし、アンドレは、案の定ばあやの話に興味を示さず、
ローズ自身も彼には興味がないようだった。
心の中では、ばあやには悪いが、私はほっとしていた。
愚かな私は、その時は気づかなかったのだ、ローズの心に…。

重苦しく、忙しない世の動きは、ローズの心遣いをもってしても、
なお私を落ちつかせることはできずに、強い酒に走らせた。

そして、もう一つの悩みも私の心を重くした。
アンドレへの愛を自覚するようになっても、彼の目を傷つけたことは、
私に彼へ愛の告白を躊躇わせた。

…彼を愛していても、これ以上、私に縛り付けてはいけない。
「愛している」と言ってはいけないのだ。
そばにいてくれるだけで満足しなくては…

しかし、あの時…父上に成敗されようとした時、すべての私の決心は崩れた。
彼に愛を打ち明けずにはいられなかった。
しかし、彼への愛が深まるにつれ、私の病は重くなっていった。
まるで命を削り、彼を愛することに注ぎ込んでいるかのようだった。
吐血したことをいくら隠しても、ローズの鋭い臭覚にはごまかしがきかなかった。

ただ、それを私に指摘するのではなく、それとなく、体を労わるように囁いてくれた。
その日から、私の部屋には優しいラベンダーとローズマリーの
香りが満ちるようになった。

「ラベンダーは、ラテン語のラワーレ(洗う)から来て、
最後はイタリア語のラバンナ(洗濯)に落ちついたそうですわ。
そういう名前の由来があるくらいですから、
お部屋の空気を綺麗にしてくれるそうです。」

「でも、アロマテラピー(芳香治療法)では、病を完全に治すことはできません。
…世の中が落ちつきましたら、是非、私の一族の故郷であるグラースや
南仏へいらして下さいませ。美しいところですわ。
ラベンダーやローズマリーのおかげで、あちらでは胸の病も少ないのですよ。
きっとオスカル様もお気に召され、お体の調子も良くなりますわ。
アンドレとお二人でゆったりと過ごし、お医者様の言うことを聞いていれば、
すぐに元気になれますわ。」

「私の一族の女性達は、皆アロマテラピーに詳しいので、昔は魔女扱い
されたほどですのよ。私は、頼りになる侍女でございましょう。オスカル様」
彼女らしい言い訳で、私の病に効くものを何くれとなく、準備してくれた。

出動前夜の夕方、ばあやの部屋で、二人きりで話しをしていた。
ばあやは、アンドレと私のパリへの出動に不安を隠しきれないようだった。
長い間、実の肉親のように、いや、肉親以上に親身になって世話してくれたのだ。
無理からぬことだった。
しかも、唯一の肉親であるアンドレまで連れて行こうとしているのだ。

「ばあや、ごめんね…。私は悪い子だ。いつまでも…」
「何をおっしゃっていらっしゃるのですか?オスカル様
ご無事にお帰りくださればいいだけのことです。」

涙でクシャクシャになった顔を私に向け、無理に微笑もうとした。
私からのアンドレへの愛の告白は、彼女がひ孫の顔を見る機会すら、
間接的に奪ったのかもしれない。

私には…彼女の夢を実現してあげる時間はないだろう。
ばあやは、私にあふれんばかりの暖かい愛情を長年注いでくれたと言うのに…
私は何を与えてやれるのだろうか?
私が残せるものは、儚い希望を漂わせる残り香だけだ。

「婆や、手を出して…。ローズに聞いた話だが、
ローズマリーは、いろいろな感覚を蘇らせてくれるそうだよ。
私達が出かけている間に、体を直しておいておくれ。
ローズマリーは、香りが長く続くから、記憶を象徴するそうだ。
婆やが、約束を忘れないように、これを私からの贈り物にするよ。
このローズマリーの葉の香りが消えぬうちに帰ってくるよ、急いでね。
元気になって、また美味しい料理を作って待っていてくれ。」
私も無理に微笑み、彼女を慰めた。

そのあとで、沐浴の準備をローズに頼み、私は、恥ずかしさを押さえて彼女に尋ねた。
「あ、あのね…ローズ…肌が綺麗になり、髪が輝くような香油は何かな?」
彼女は、珍しく自分の容姿を気にする私の様子に何かを感じたらしく、
「それならば、今日は…ええと…、薔薇浴にいたしましょうか?オスカル様
肌を美しく整え、しっとりとさせるだけでなく、女性にはいろいろと効きますのよ。
髪には…カモミールがよろしいでしょうね。」
優しく答え、いそいそと準備を始めた。
彼女の言うとおり、薔薇浴は、私自身の気持ちをも高めてくれた。

その後、アンドレが私の部屋を訪れる前にローズがローズマリーを持って現れた。
「オスカル様、父の受け売りですが、ローズマリーは元来ラテン語で
ロスマリネと言い、海の露を意味したそうですわ。
その上、古いフランス語では、アンサンシェとも呼び、
香木を意味して、香りを楽しんだそうです。
ロマンチックではございませんか?」

「でも、実はもっとすてきな意味がありますのよ。
ローズマリーは、永遠の愛と貞節を誓うシンボルとして、
結婚式の日に用意されるものだったそうです。
とてもすてきだとお思いなりませんか?オスカル様
これは私からオスカル様への贈り物でございます。」
私は、心の中の決心を見透かされたようで、恥ずかしかった。

懐かしい香りがして、ふと目をさました。
昔、アンドレと二人で草むらで寝転がり嗅いだ夏草の匂いだ。
心配そうなアンドレの顔が目の前にあった。
ああ、そうだ。これは、彼の匂いだ。私の安らぐ唯一の場所…彼の腕の中だ。
大丈夫と…応えるかわりに彼の首に腕を巻きつけ、口づけをせがんだ。
始めて彼と愛し合った私は、しばらく気を失っていたらしい。
やっと二人の心と体が結びついたことに深い喜びを感じた。

彼の素肌の温かさに包まれながら、私は後悔していた。
「どうして…」
彼の顔や髪を弄り、愛を囁く唇を指でなぞる。
「何…オスカル?」
「…どうして…もっと早くおまえを愛していることに気づかなかったのか?
どうして、もっと早くおまえと愛し合わなかったのか?」
「…ふふ…そうだな、どうしてかな?俺ではわからないよ。」
私の髪に口づけし、取り戻しようがない過去を悔やむ私を慰めてくれた。

「でも、今は俺の腕の中にいる。それだけで十分だ。
…俺の美しい恋人は、頭の中身もいっぱい詰まっているくせに、
意外とお馬鹿さんだな。…俺が今とても幸せだってわからないのか?」
「私は…とても愚かな人間だ。それだけは判ったから、お許しを。モン・シェリー」
「当たり前だ。人間なんて、皆愚かな存在さ。俺なんておまえよりずっと愚かさ。
身分違いでも、俺はおまえを愛さずにはいられなかった。」
「私の恋人は哲学者だったのか?…ふふふ…」
「人は誰でも恋をすると哲学者になるのさ。オスカル」
「そうなのか?」
私は面白そうに微笑んだ。
「忘れないでくれ、オスカル。世界中で一番おまえを愛しているのは、俺だ。
だから、明日も、決してムチャをしないでくれよ。」
もう一度私を強く胸に抱きしめて、額に優しく口づけをしてくれた。

おまえを本当に幸せにできるだけの十分な時間は、私には残されていないだろう。
子供のように私の胸に顔を埋めてみたり、幸せそうに口づけしたりする彼が、
たまらなく愛しかった。
こんな私をずっと愛してくれて、いつも支えてくれていたのに、
私が彼に与えられるものは、病を持つ体と狂おしいほどの彼への想いだけだ。
再び、彼の唇が落ちてきて、もう何も考えられない。

「おまえの吐息は…酔うほどに甘くて、妖艶な真紅の薔薇の香りのようだ。オスカル」
私は美しい隻眼の男によって、愛と美の女神ウェヌスに囚われた哀れな女になった。
明日の朝からは、軍神マルスとともに戦わなければならない。
愛しい男の前では、上官ではなく、ただの女として存在したい。
少しでも長く、少しでも美しく…

「薔薇の花びらを敷詰めたcouche nuptiale(クーシュ・ニュプスィアル:
婚姻の褥)に相応しい俺の花嫁だ。愛しているよ。オスカル」
再び愛を重ねた。私はただ嬉し涙で、彼が霞んで見えなかった。
長い睫を伏せ、私を抱きしめたまま眠りに落ちる彼が、
私にとても満足したようで嬉しかった。
「愛している…アンドレ、愛しい私の夫…誰よりも、誰よりも…」

出動の朝、ローズが私の朝の支度を手伝いに来た。
出かけようとすると、彼女は私の頬に口づけの許しを請い、
「…オスカル様とアンドレが…幸せになりますように…ずっと…ずっと…
私からも、神様にお祈りしておきますわ。」
優しく微笑み口づけし、私に囁いた。

その時始めて、彼女の気持ちが私の中へ不思議な力で流れ込んだ。
彼女はアンドレに興味がないわけではなかったのだ。
私は自分の迂闊さを呪った。でも、いまさらどうすることも出来なかった、
「…許してくれ…ローズ、すまない…。」
突然、許しを請うともしれない涙が私の頬を伝わった。

「…オスカル様…何をおっしゃっていらっしゃるのですか?
…さきほど、彼と廊下ですれ違いました。
すれ違いざまに薔薇の残り香がいたしました。
そして、ラベンダーとローズマリーもいつもより濃く香りましたわ。
彼はとても穏やかに微笑んで朝の挨拶をしてくれました。とても幸せそうでした。
私の好きな方は、オスカル様の幸せが一番の願いですから、
オスカル様がお幸せならば、私も幸せです。」
「…ありがとう。ローズ…そうだな。もっともっと幸せになるよ、二人で。」
小柄な彼女の額に感謝の印に口付けをした。
「いってらっしゃいませ、ご無事でお早いお帰りを…オスカル様」
「ああ…、行ってくるよ。ローズ」

多分…この部屋には、もう二度と戻ることはないだろう。
彼女の顔を見るのも…これが最後かもしれない。
二人とも予感はしたのだが、互いにそれ以上話さなかった。

私は微笑み、彼女が差し出したローズマリーの葉を握り締め部屋をあとにした。
私達が立ち去った部屋には、多分…ラベンダーとローズマリーと、薔薇と…
そして、私とアンドレの残り香がいつまでも薫るだろう。
彼と二人で過ごした長い年月と、私達の愛のかわりに…
永遠の愛と貞節を醸し出すだろう。

FIN

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