初めてのビール作り

 Masuda Takayoshi

1997年4月28日

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     1. きっかけ
     2. 材料発注
     3. 最初の醸造
     4. 醗酵から瓶詰まで
     5. 試飲
     6. その後

   関係者一覧(登場順)

   Masuda:私。1950年1月生まれ、男性。突然ビール作りに興味を持つ。酒類
    にはあまり強い方ではない、というより、ほとんど下戸。

   配偶者:私の配偶者、女性。

   ジョン:シアトルに住んでいた友人、奥さんの君子さんは日本人。かって名古
    屋の大学で先生をしていた時の自転車仲間。96年4月より立教大学の先生。

   井上先生: シアトルに住み、ワシントン大学で研究していた東大医学部の先
    生。現在は東京に戻っている。

   ワルケンス:ベルギー国ゲントの住民、電気系会社の技術者。1950年1月生ま
    れで子ども3人という、私と全く同じ状況。1980年の夏、毎昼、毎晩ビール
    をご馳走してくれた。

   中藤夫妻:近所の友人。岐阜県福岡町のきのこ山のナチュラル・ビレッジとい
    う入会別荘地にログハウスを持っている。私もこのログハウスを建てる手伝
    いをした。きのこ山は何軒かとの共同使用権をもつ。
 
   宮下: 機械技術者、かって麻雀ブームの時は給料より麻雀収入の方が多く、バ
    ブルの時代には株で3階建ての美容院を建てた。奥さんは美容師。現在、畑、
    ヨット、自転車、ビール作り、酒類を飲む、燻製製造等の無数の趣味を持つ
    が、全て本格的。

   ポール:名古屋の大学の先生。身長190cm以上の為、きのこ探しが苦手。ビー
    ル、自転車、陶芸が趣味。彼のコンピュータが英語システムの為、日本語で
    メールを出せない面倒がある。

   堀部:登山グループKinley会(きんれいかい)の永代名誉会長。特許事務所勤
    務。登山家。裕福にもかかわらず、貧乏学生時代の習慣でめぼしい粗大ゴミ
    を拾ってくる。尚、Kinley会はMckinley山とは無関係。
 
   秀実:Kinley会員。自動車金型ゲージ設計家。酒類に強くない。醸造所に自宅
    を提供してくれる。

   大沼:Kinley会員。自転車、マラソン、テニス、畑仕事を好む。それらのあと
    のビールをもっと好む。初回の醸造場所を提供してくれる。



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1. きっかけ

 1995年6月、配偶者と共に米国ワシントン州シアトルへ友人ジョンを訪ねて遊びに行った。ジョンとは名古屋での10年来の付き合いで、最近はワシントン大学にいる。彼の家に滞在中のパーティで、ワシントン大学医学部で研究中の東大の井上先生がビールを持ってきてくれた。ジョンの奥さん君子さんが、ここの英語学校で井上さんの奥さんと同級であった、ということから知合いになったという。このビールが井上さん手づくりのビールで、強いホップの香りの独特のものであった。
 このパーティで、多くのアメリカの地ビールにも出会え、アメリカのビールがバド、クアーズ等の単なる除渇飲料だけではない事を知った。翌日近所のスーパーマーケットLarry'sで、地ビールが$1〜$2と、除渇ビールの倍の値段である事も確認できたが、売り場面積から見てもかなり人気があることがわかる。

 井上さんの話では、近所にビール材料を何から何まで売っている店があり、そこでモルトを挽いてもらって買ってくる、との事。常に同じレシピで作っているが毎回味が異なり、そこが面白いらしい。後日(1996年1月)Eメールで尋ねたところ、彼は、The Complete handbook of (home) brewing.(Dave Miller)を参考に、The Cellarsという店でMalted Grains(English Pale)をCrushしてもらい、ホップはFresh Leaf Hops 、イーストはLiquid Beer Yeast Culture(German Ale)を使っている、という。またビール作りで一番重要な事は、として以下のように教えてくれた。

        「ビール作りは理科の実験と同じです。醸造学ですから。正しい操作が肝心です。
                a)  ビール瓶はよく洗浄した後、アルミホイルで口を包み、オーブンで150度4時間加熱し滅
                  菌します。すべての容器およびチューブなどはハイター等で漂白消毒し、その後よく洗っ
                  ておきます。ビール作りで使用の途中で洗浄が必要な場合は、流水で洗った後、消毒用ア
                  ルコールを霧吹きして拭き取ります。
                b) 温度管理、pH 管理はできるだけ厳密に行います。」
 その後、シアトルのレストランでビールを注文するときに銘柄を尋ねると、バドやミラー以外に地ビールをいくつか紹介される事も何回もあった。この米国旅行は、自家醸造とマイクロブリューワリーを知った旅でもあった。その後の米国出張時の観察によると、Samuel Adam's Boston Aleなどは結構全国的に人気のあることがわかった。

 10数年前にベルギーに出張した時、味が千差万別の無数のビールの存在を出張先のワルケンスに教えて貰った事がある。その会社ではランチタイムに社内食堂で好きなビールを注文でき、それぞれのビール毎に専用のグラスで供され、それは新しい経験だった。また、ちょうど夏至の頃で11時ごろまで明るかったが、夕食の後は毎晩カフェで、現地の連中と彼等の薦めるビールを飲みながら暗くなるまで過ごした。

 1994年、子供たちがそれぞれ大学高校中学に入り手が離れたので、初夏に配偶者とともにベルギーオランダを鉄道と自転車で巡る旅行をした。この貧乏旅行では安宿に泊り、スーパーで買ってきたsterraやJupilierとかの¥50くらいの廉価品を冷蔵庫がないために室温で飲むといった貧弱なビール状況であった。この旅行はビール醸造に目覚める前の旅であるから、それほどビールに注意せず、食事時はワインを飲んでいた。今思えば、醸造所見学や、色々なビールの味見ができたのにと、残念である。しかし、この時、ぬるいビールはしみじみ美味しいものだと思った。

 1995年10月28日に、ジョンとサイクリングした6月のシアトル周辺のスライドを、自転車仲間に見せた。その時、仲間の一人宮下が最近東急ハンズでビール材料を買ってきてビール作りを始めた話をした。なかなか旨いらしい。

 翌日10月29日、岐阜県のきのこ山にログハウスを持っている中藤さんが、そこできのこ探しときのこ料理のパーティを開いた。ビール好きで有名なポールも参加していて、彼が最近ビールを作っている話をした。彼に詳しく聞いてみると、米国に帰国する度に材料を買って持ってくるらしい。また、米国の親族に郵送を頼んだ事がある、オールモルトのビールである等、色々の事を教えてくれた。

 後日、材料を買った店名住所電話をEメールで教えてくれた。San Francisco近郊のSan LeandroにあるWilliam's Brewingという店である。しかし、そこは輸出をやってないそうだ。早速シアトルのジョンにEメールでカタログを依頼した。11月21日にカタログが航空便で届く。ジョンが電話でカタログを取り寄せてくれて、それを日本に送ってくれたものだ。


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2. 材料発注

whole Hops            Pellet Hops 

 William's Brewingのカタログはレターサイズ40ページの物で、作り方の説明、用具、キット、個別材料、書物等が詳しく載っている。そのカタログを見て色々ビール作りの勉強を始めると同時に、図書館にあるビール関係の本の乱読を開始する。「手造りビール事始」平手龍太郎他(雄鶏社)、「手造りビールマニュアル」日本自家醸造推進連盟編著(日本文芸社)、「旨い『自』ビールの造り方」平手龍太郎(ハート出版)、の3冊をまず読み、自家醸造についての勉強をする。ここで、1989年からコンピュータのハイパーカードで書いている日記を「ビール」で検索したら「旨い『自』ビールの造り方」平手龍太郎(ハート出版)を94年9月5日に、「地球ビール紀行(世界飲み尽くしビール巡礼)」村上満(東洋経済新報社)を94年9月16日に読んでいることに気がついた。その頃に一度興味を持ったようだが、あまり記憶がない。

 William's のカタログと、前掲の日本自家醸造連盟関係の本の説明との間のレベルにギャップがあるので、誰かに指導を求める必要を感じ、ビール好きのポールに応援をもとめた。

 それから、内緒の話ではあるが実は狭い我が家での醸造を配偶者から固く禁じられていたので、Kinley会の連中を仲間に入れようと煽動を始めた。Kinley会とは23年ほど前に発足した山登り団体で、最近は山に登るよりもその前後の温泉やキャンプ料理、スキーなどに活動の重点が移ってきているので、ビール作りが活動内容に追加されてもなんら問題は起こらない。Kinley会のなかの堀部、秀実、大沼の3人がビール作りに参加を表明したので、ここで4人でビール作りを始めることが決定し、「Kinleyビール」という無登録商標も決定された。これで醸造場所も確保される。「Kinleyビールカンパニー」の成立は私の自家醸造のキーでもあったのだ。Kinley会ビールグループには、とりあえず「手造りビールマニュアル」を読むように連絡する。

 12月13日、Kinley会の堀部と2人で名大前の喫茶店The Owlでポールと会う。ポールは、Home Breweryという用具一式のセットと、Brewing Kitsという材料をセットにしたものを買うことを薦めた。それまで、漬物樽やビニルチューブ等をDIY店等で調べていたが、この方が輸送料はかかるが設備がすっきりするので、堀部も賛成してその用具キットを注文することに決めた。そして、ジョンにEメールでHome Brewery with Pale Ale kitを注文してくれるように依頼した。

 このキットには、澱漉しバルブ及びエアロック付の醗酵タンク、プライミングタンク、打栓器、キャップ、殺菌剤、チューブ類、撹拌匙、温度計、比重計、ビール自家醸造の本、ビデオテープ、モルトエキス6ポンドに苦味ホップ、芳香ホップ、液体イースト、プライミングシュガーが含まれていて、$89.90であった。このキット以外に必要なものは瓶とモルトを煮る大鍋だけである。大鍋は30リットルのステンレス鍋をポールが持っているので、とりあえず必要に応じて借りる事とし、瓶はKinley会員に小瓶ビール以外飲まないように指示を出し、早急に50本の小瓶を集めるようにした。

 近所の酒屋で一番安い小瓶はハイネッケンで¥188であったので、それ以降市販ビールと言えばハイネッケンという日々が続く。なぜ小瓶かというと、実は私は酒好きにもかかわらず小瓶1本で完全に酔ってしまうほど酒に弱いので、中瓶や大瓶では一度に飲み切れないのだ。しかも、その小瓶1本も配偶者と二人でグラス1杯づつ飲んでいるのだ。他の3人には小瓶を無理に付き合わせている事になる。

 自家醸造ビールを教えてくれた自転車仲間の宮下が、12月23日の、自分で作ったビールと燻製のパーティに招待してくれた。Kinley会から私と大沼の二人が参加した。砂糖でアルコール分を増加させたビールでも十分美味しい事を経験した。彼はNBビールの元にホップを追加して香りを強めていると言っていた。彼は畑を持っているからやがては大麦栽培から始めたいらしく、既に二条大麦の種の入手方法まで調べてあった。

年末はKinley会恒例の一泊二日家族温泉スキーで、乗鞍高原温泉スキー場で過ごす。しかし、これはスキーの後で温泉に入りビールを飲むだけで、ビール作りとは全く無関係。1月5日に京都サイクリングに行くが、これも昼食時に飲むだけで、ビール作りとは無関係。

 1996年1月5日にWilliam'sからジョンの所に購入品が届き、ジョンは翌日に郵便局で船便で名古屋まで発送してくれた。ポールの話では液体イーストは保存が利かないから航空便で送るべきであるが、冬は船便でも問題無いとの事。運賃$43.56+保険$2.45、計$46.01であった。William'sへは私のクレジットカードで支払ったから、ジョンに$46.01の借りとなる。これは次回の注文の運賃とまとめて米国銀行の小切手で支払う事をジョンが了承してくれたので、ポールに小切手を作ってもらい、郵送する。ポールには相当する日本円で支払う。

 1月14日に追加の材料として、 Brown Ale kit $26.90 、 English Bitter kit= $25.90、栓150個 $2.50= をEメールでジョンに依頼する。1月24日に次の材料がジョンの所に届き、翌日名古屋に発送してくれる。今回も、船便で送ってもらい、この郵送料は保険料込で$44.09。ジョンからは「ビールの箱があまりに重かったのでまだ腕が痛い」というEメールが送られてきた。その翌々日「腕が動かなくて今週はずっとフートンの中にいる。ビールの為に私の人生は終わった」とEメールが来る。  この間に、人生の終わったジョンは、井上先生から教えてもらったThe Cellarsの店に出かけて行き、カタログを名古屋に送ってくれた。シアトルの地図を調べると、The Cellarsはジョンの家から北の方に僅か3Kmの距離である。もっと早く知っていたら店に行けたのに、と無理な事を考えてしまう。カタログがすぐ届いたが、まだ何を注文して良いかわからないので、しばらくWilliam'sのキットで経験を積むこととした。

 2月10日に最初の荷物が配達されるが、不在のため郵便局に戻されてしまう。これは用具一式とPale= Aleキットである。早速Kinley会とポールに連絡を取り、2月18日に作業する事とする。12日月曜日の昼休みに郵便局に行くが、非合法物品と判断されるおそれもあるため、かなりびくびくするも、問題無く無税で受け取ることができた。第二陣の荷物は3月11日に届くが、これは6週間以上かかったので、ひょっとしたら没収かと、随分心配した。郵便局で荷物を開封した跡があるのでチェックはされるのだという事がわかった。それなら大目に見てくれているのだろうか、それともモルトエキスもイーストもホップも材料単独ではなんら非合法ではないので、許されるのであろうか。


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3. 最初の醸造

大鍋での煮込み

 最初の醸造はPale Aleである。2月13日に液体イーストWyeast English Brewery Yeastの培養を開始する。イーストは急激な温度変化を避けるように指示してあるので、温度計と共に発砲スチロールの小箱に入れておいた。しかし真冬のため、無人の自宅は昼間でもかなり温度が低下する。心配のあまり、小箱を毎日持ち歩き、昼は暖房の職場に置く。なかなかイーストパックが膨れてこないので心配するが、16日過ぎに漸く膨れ始め、18日朝にはパックがじゅうぶん膨れて、イースト醗酵が進んでいることがわかる。

 会社の同僚で藤岡町に住んで自家井戸を持っている人に、ポリタンクに約20リットルの水を17日に持ってきてもらう。18日にポールの家にポールとステンレス大鍋を迎えに行き、ついでに彼の自作Red Aleを1本貰ってくる。この大鍋は彼が近所のラーメン屋さんから借りている物で、時々完成ビールを持っていき、借り続けている。

 大沼の家に13:00に集合する。最初は、全ての器具の使い方と殺菌方法をポールが説明してくれる。装置セットの中にはビデオテープも含まれていたので、作業前に皆でそれを見ると、William氏とおぼしき人物が30分程かけて全工程を行い、味見までしている。それと別にWilliam Moore著の約70ページの「Home Beermaking」という本が1冊付属されている。この本はそのうちに抄訳を作りKinley会ビールグループに配布する事とする。

 大鍋に「藤岡の水」を15リットルほど沸かし、7ポンド(約3.2Kg)のモルトエキスを溶かし込み麦汁を作る。モルトを煮始めると、強烈な匂いが台所に立ち込める。換気扇により、その匂いは家の外にも流れ出しているので、事情を知る人が近くを通れば密造がすぐにばれると思う。ポールは、彼の故郷米国メイン州のメイプルシロップ小屋でシロップを煮詰めている匂いとよく似ている、と言う。麦汁はホップを入れる前は懐かしい水飴の味がするが、沸騰5分後にホップを投入したら、漢方薬の様な変な味になってしまう。ホップはGoldingのペレットホップで、さらに沸騰55分後にも少し投入する。沸騰60分後に火を止め鍋に蓋をしたまま風呂場の浴槽に浸ける。時々浴槽を撹拌して、鍋の温度を早く冷めるようにする。

 器具の消毒を開始する。ペットボトルを2本拾ってきて、装置セットに付属の殺菌剤SDP茶さじ1杯を1ガロン、つまり簡易的に1.5リットルペットボトル2本、のぬるま湯に溶く。醗酵タンクのバルブとエアロック一式、温度計、比重計をボールに入れた殺菌剤溶液に浸けて30分ほど放置する。それから、バルブを洗浄してから醗酵タンクにバルブを取り付け、醗酵タンクに撹拌匙と殺菌剤溶液1ガロンを入れタンクいっぱいに水で薄め、蓋をして30分ほど放置する。SDPとは無臭の塩素系殺菌剤らしいが、僅かに塩素の臭いがする。温度計、比重計、エアロック一式は十分水洗いしておく。この間に、ポールが持ってきたRed= Aleを飲み、人体も内部から少し殺菌する。

 約1時間後、浴槽につけた鍋の中の麦汁温度を殺菌した温度計で測定する。風呂場で鍋の蓋を開けるため、その前に、霧吹きで80%のエタノールを浴室内に噴霧する。このエタノール噴霧をこれから「お祓い」と呼ぶ。麦汁の温度は80?(27℃)位であったので、醗酵タンクに移す準備をする。醗酵タンクをゆすり全体に殺菌剤液をまわらせた後、殺菌剤液をバルブから流し、十分水洗いし、タンクの蓋と内側を軽くお祓いする。鍋をゆっくり傾け、底の沈殿物をかきたてないように醗酵タンクに麦汁を静かに流し込む。沈殿物が僅かにタンクに流れ込みそうになった時点で停止し、残った麦汁は捨てるようにポールが指示する。かなり多いが、未練がましく捨てる。

 醗酵タンクの5ガロン(約18.9リッター)の印まで「藤岡の水」を加える。ここで、殺菌「お祓い」済のおたまで比重計の容器に麦汁を掬い込み、初期比重を測定する。このキットの仕様では1.044以上と示してあり、測定値は1.048である。醗酵タンクの表面に液晶温度計ラベルが貼ってあり、麦汁温度が計れるようになっているが、この時の温度は記録し忘れた、多分65?(18℃)位と思う。尚、米国製のキットは全てヤードポンド華氏表示のため、対応表を作り、常時それでメートル法補正を行っている。

 約2インチ(5cm)の厚さに膨らんだ液体イーストパックをよく揺すり、鋏で封を切って中身を麦汁に加える。殺菌「お祓い」済みの約50cm長の撹拌匙で撹拌する。すぐに蓋をし、蓋の穴にゴム栓でエアロックを差込み、エアロックに水を約1/3入れる。あとは、醗酵タンクを台所から部屋の隅に移して、おしまい。それから夕方まで、人体の内部殺菌を続ける。

発酵タンクとエアロック


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4. 醗酵から瓶詰まで

    

プライミング          打栓器

 これからは、大沼が醗酵タンクを管理をする。醗酵開始の夜は、「さて居間の隅に置いたビールの状況ですが、三脚を支柱代わりにしてその上にテントの内張りを乗せ空間を作りました。pm9:00の室温15℃なので内張りの中で60wの電球を点灯させておきました。pm10:30の内張り内部温度14℃、朝もう一度見てみますが15〜18℃をキープするのは結構難しいかもしれない。他の手段も考えてみます。ときどき状況を報告します。」というEメールがKinley会に流れた。時節柄60〜65?(15〜18℃)を保つのはなかなか難しいらしい。

 2/21のEメール:「さて居間の隅に置いたビール容器ですが、昨夜から下にウレタンマットを敷き胴体に毛布を巻きつけ、頭からは段ボール箱をかぶって座っています。まったくおかしな格好で笑えてきます。昨日朝は寒かったので居間の室温は11℃しかありませんでした。しかし2階の部屋と比べても差は無く、朝と夜に台所でファンヒーターを点けるぶん居間の温度も2〜3℃上昇するので、まだここの方が良いと思います。この寒さが去ってしまえば程良い温度になると思います。今年の冬は特に条件が悪そうです。今日帰ってから段ボールの帽子をとってみたら、ぷく〜ぷく〜と上からゆっくりとガスが出始めていました。イーストギャルがぼちぼち活動し始めた様です。旨いビールが出来上がるのを期待しています。それでは皆さん今週はゆっくりスキーを楽しんできて下さい。」

 2/22のEメール:「2/22(木)pm7:30、居間の室温15℃(2階の室温13℃)、Pale Ale 嬢の脈拍38回/分、頑張ってやっているみたいです。」脈拍とはエアロックのガス抜き回数の事で、後になってイーストが「屁こき娘」と呼ばれるようになる。

 23、24日は大沼は東京出張、他はKinley会のスキーで、全員名古屋から居なくなった。24日に突然屁こき娘の活動が止まったらしい。誰も居ないのでおろおろした大沼の奥さんから他のKinley会員の家に電話連絡が走りまわった。おろおろしたMasuda配偶者がポールに電話したら、「多分、問題無い」という返事だ。結局、そのまま放置しておく。2/29のEメールでは、「その後イーストギャルは全く静かになり、中で生きているのか死んでいるのかさっぱり分かりません。相変わらず体に毛布と寝袋を巻き、頭から段ボールを被っています。今度集まったら皆で生死の確認をしたいとおもいます。」

 皆の都合を調整して、次に集まるのは3/3(日)と決定する。3/1のEメール:「ビールの比重を計ってみました。ビールの比重1.020。シリンダーに取った液体は何となくビールの臭いがしました。」目標比重が1.017以下なので、少し高いが、3/3までには何とかなるだろう、と判断する。

 3/3の13:00に大沼宅に集合する。この日のために集めたハイネッケン小瓶約50本を洗浄しつつ、プライミングタンクと撹拌匙、バルブ、チューブ類をSDP水溶液で殺菌する。小瓶はポールの指導に従い、飲む毎に洗浄してあるので、濯ぐだけで良いみたいだ。醗酵タンクバルブから比重計シリンダに原ビールを移し比重測定をすると、なんと1.019で、目標1.017より高い。次の休日まで待てないので見切瓶詰をすることに決定する。タンク、撹拌匙、バルブ、チューブ類を水洗しバルブをプライミングタンクに取り付け、エタノール霧吹きの「お祓い」をする。景気づけに台所天井も軽く「お祓い」する。

 プライミングタンクにコーンシュガーをいれる。この糖分が瓶詰後に醗酵して炭酸ガスの圧力を作り出す。醗酵タンクから約1mのチューブで原ビールをプライミングタンクに移す。醗酵タンクはバルブの部分に工夫がしてあり、イースト残渣がプライミングタンクに流れ出ないように澱漉しサイフォン構造になっている。残渣が約10mm、原ビールがその上に約5mm残るが、気にせずに捨てる。撹拌匙で激しくかき混ぜてコーンシュガーを原ビールに溶かし込み、プライミングタンクに醗酵タンクの蓋で蓋をするが、エアロックは外しておく。

 瓶のエタノール洗浄、原ビールの瓶詰、栓打ちを流れ作業で行う。1時間弱で小瓶に49本の瓶詰が終了する。ここで、William Mooreの「Home Beermaking」の勧めに従って、瓶の栓にマジックで瓶詰日付を記入しておく。この栓の日付は、後で#2のビール醸造を行った以降に、すごく有益であることがわかる。つまり、保存中の瓶を上から見るだけで種類と飲み頃がわかり、いちいち瓶を持ち上げてラベルを確認する必要が無くなるのだ。装置一式を洗浄して本日の作業は終了する。各自12本づつ持ち帰り、2次醗酵の温度管理は各自の責任で行う事とする。3/8にポールから「瓶詰成功おめでとう!! さあ、これから2、3週間待って、彼女の味をみなくっちゃ。Congratulation of your successful bottling!! Now just wait two more weeks and see how she tastes. 」とEメールが入る。ビールはやはり女性なんだ。


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5. 試飲

 ジョンが1月25日に米国から発送してくれたビール材料が3月11日に名古屋に届いたので、3月12日にEnglish Bitterのイースト培養を開始し、3月16日に醸造開始とする。3月16日に秀実宅にポールの大鍋と醸造装置一式、Pale Ale各1瓶を持って集合する。English Bitterのモルトを煮込んでいる間にPale= Aleを飲む。栓を開けたとたんにシュポッと音が鳴り、ひと安心する。泡立ちも良く、思ったより美味しい。各自の1本を4人で分けて飲むが、4本が全て異なる味なので驚く。少しブドウ糖っぽい味がする、と言う意見が秀実から出たため、あと1週間2次醗酵を続けてから飲むことにする。その日は#2English Bitterを仕込んで解散する。

 3月23日は、いよいよPale= Ale解禁の日。少し前にジョン夫妻がシアトルから帰ってきたので、この日に中藤夫妻、ポール夫妻を招待して我が家でパーティをやる事になった。ポールも彼の作ったRed AleとWheat Beerを持ちより、中藤夫妻はベルギービールを買ってきて、ビールパーティとなってしまった。Pale Aleは、なんと1週間で全く違うすばらしい味になっている。ブドウ糖風味は無くなり、全体の味が調和している感じだ。でも相変わらず瓶毎に微妙に味が異なっている。


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6. その後

 English Bitterは3月29日に瓶詰をした。それからBrown Ale、Porter、Red Aleと醸造を続け、初夏になって醸造を休憩し、10月からIndia Pale Aleで再開した。さらに再びRed Ale、Brown Ale、India Pale Aleと続けている最中である。その間、醗酵タンクの蓋が吹っ飛んだり、ステンレス大鍋を買ったり、いろいろなことがあったが、それはまた別の話。

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