The 3rd Report with Preaching and History of Buddism
研修レポート3「伝道」「仏教史」
教団に批判的な知人にその理由を聞いてみました。
1.戦争責任が明確な形でとられようとはしていない
・千鳥が淵全戦没者追悼法要が門主親修ではなくなってしまった
・50回忌、50周年の後は具体的な取り組みがなされていない
・戦犯ともいえる瀬島氏が本山の重要な責任役員となっている
・戦争遂行のために発布された「門主消息」が失効していない
・1940年の「聖典削除・改訂指令」が撤回されていない
・1939年の「聖徳太子奉安様式」の達示が撤回されていない
2.国家神道・天皇制に対して毅然とした対応をしていない
・御影堂に見真大師の勅額を掲げたまま法要を行なっている
・元号不使用が部局で異なっていて不徹底である
3.いまだに真俗二諦論を克服できていない
・「浄土真宗の教章」の宗風の「信者はつねに言行をつつしみ、
人道世法を守り」は真俗二諦そのものの表現である
・ポストモダンの教学の名のもとに真俗二諦が合理化されている
・信心の社会性が強調されているが、教学的に深められていない
・末寺は日常の法務か兼業に忙しく、真諦を貫ぬけていない
4.基幹運動が事実上は部落解放運動だけになっている
・差別発言問題での「和解」の正確な意味内容が伝わっていない
・相次ぐ差別事件への対応に追われて主体的な取り組みに欠ける
・部落解放同盟の言いなりになっていて、内実が伴なっていない
・「寺班」「僧班」など教団自身の差別体制がそのままである
・基幹運動は研修の消化に追われて、運動になっていない
これらを聞いての私の感想は、基幹運動の評価が異なっている
以外は納得できる内容であり、このままの教団では21世紀には
生き残れないという危機感を覚えた。蓮如フェスタに浮かれての
百ヶ日法要や阪神淡路大震災の復興には冷淡でいながら莫大な維
持費のかかる2つの会館をつくって世間に喧伝している教団の現
状は、宗祖親鸞聖人はもちろん蓮如上人の遺志にもそむく、大変
に深刻な事態に置かれていることを改めて認識させられた。
釈尊滅後より3世紀中頃までの仏教教団の歴史的展開について
釈尊入滅後の教団は、舎利崇拝・遺物崇拝・経典崇拝などを中
心として展開していった。なかでも舎利崇拝は、在家信者を中心
に行なわれ、のちには仏塔信仰として急速に発展した。
釈尊入滅によって中心者を失った教団には、多くの異なった見
解を唱えるものが、次第に現われはじめたため、長老たちを中心
に第一結集が行なわれた。第一結集以後の教団は、長老たちの保
守派と若い比丘たちの進歩派とが、互いに対立しはじめていた。
この傾向は、仏教の地方発展によって、一層拍車がかけられ、仏
教教団は地方的な分派の傾向をとり、各地で教団の独自の展開が
起った。
釈尊滅後百年頃には戒律に関する解釈をめぐって、保守的な立
場をとるものとの対立が表面化し、長老たちが第二結集を開いた
のに対して不満をもった進歩的な大衆部と保守的な長老たちの上
座部の2部に分裂した。これを根本分裂という。
根本分裂後、紀元前1世紀頃までに、教団は分裂に分裂をかさ
ね、18部あるいは20部におよぶ部派に分裂した。これを枝末
分裂と呼び、ここに部派仏教の時代を現出した。各部派独自の経
蔵・律蔵に加えて論蔵があらわれ、いわゆる三蔵が成立した。
紀元前2世紀頃から、「釈尊の根本精神にたち帰ろう」という
大乗仏教運動が次第に大きく展開していく。釈尊入滅以来、比丘
の学問的仏教教団と並行して存在した仏塔信仰者の集団が、大乗
仏教の源流となったのである。
大乗仏教が各地に発展し、教団としての組織が整うと、教団は
出家の菩薩と在家の菩薩とから構成されるようになるとともに、
法師の勝れた思想と伝道によって、教団の基礎が確立され、大乗
仏教はインドの各地へと発展していった。
紀元前後から紀元3世紀頃にかけて、いわゆる初期大乗経典が
成立した。これら経典に示される思想を統一し、学問的に組織づ
けたのが、ナーガールジュナ(龍樹)である。
(中央仏教学院通信教育部専修課程2年次課題第1回提出レポート)
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