The 2nd Report of Religion and Buddism and Preaching

研修レポート2「宗教」「仏教」「伝道」





宗教「親鸞聖人の教えを学ぼうと思った理由」


 親鸞聖人が『歎異抄』(第三条)で「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいわく、『悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや』この条、一目そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるかへして、他力をたのみてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなることあるべからざるを、あわれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。」(『浄土真宗聖典(注釈版)』833−834頁)と、どのような行によっても生死を離れることのできない煩悩具足のわれらがひたすら他力をたのみにしてこそ往生できるということを明らかにされたことには大変に感銘をうける。
 また、『歎異抄』(第五条)で「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあいだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもって、まづ有縁を度すべきなりと云々。」(『浄土真宗聖典(注釈版)』834−835頁)と、専修念仏による自由自在な力をもってする衆生救済のてだてによって、自分に関係する者を迷いの世界からさとりの世界にわたすのだと明らかにされたことには大変に引きつけられる。
 ごく一部を抜き出しただけでもこのように魅力的な親鸞の教えには今後の私の生き方の指針となるべきものがあると思う。


仏教「『中道』について」


 菩提樹下で偉大な宗教体験を得られた釈尊には、中道と呼ばれるかってなかった全く新しい人生態度が現われてきた。中道は、快楽(愛欲)主義と苦行(禁欲)主義を否定し、その両者のいずれにも片寄らない、いわば、その両者を排捨し止揚することによって達せられた仏陀の道である。かかる両極端の苦・楽を排する非苦楽の中道は、釈尊以前には見出し得なかった仏教独自の実践的態度である。また、有と空(無)の問題に対する非有非空(無)の中道は、仏教独特の哲学的態度である。したがって、仏教でいう中道は、平面的な理解による中間とか、まん中ということではなく、両極を排捨止揚する、絶対真理そのものへの立体的な理解に基づく、いわば行的主体の中道とでもいうべきであろう。
 日常的な現実生活の事実に即して中道というものを考察すると、それは単に苦と楽との中間という意味ではなく、極端を排除し、対立の調和を実現する中正の道ということになる。楽があれば、その楽を楽としてあるがままに受けとり、苦があればその苦を苦として受けとめて、しかも、そのいずれにも固定せず、執着しないところに、真の「非苦非楽の中道」というものが、現実的に意味をもってくる。そればそのまま自己中心的な我執の心からの解放を意味していることになる。
 このような中道−調和−の実現のためには、まず人生の全体を正しく見きわめることが要請される。宇宙的な全体観・一体観に立つ中正公平な精神が重要となる。中道の中心点は、あくまでも両極端を排し、二辺を離れることによって実現される中正の道、調和の道、ということである。「中」の一字でなくて、「道」がついているが、「道」とは「観」であり、実践・実行を意味している。「中道」とは、静止している状態をいっているのではなく、たえざる躍動態そのものを指している。よって中道は、中の実践、正の実践、調和の実践ということで、「真理の実践」であって、真実の智慧にめざめるということにほかならない。


伝道「僧侶でなくてもなぜ伝道が大切であると言われるのかについて」


 宗祖親鸞聖人は『歎異抄』(第六条)において「専修念仏のともがらのわが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きわめたる荒涼のことなり。」(『浄土真宗聖典(注釈版)』835頁)と言われており、僧俗ともに聞法し、進んで伝道するところにこそ、浄土真宗の真髄があるとされた。
 これをうけて、蓮如上人は『御文章』(一帖一)において「故聖人の仰せには、『親鸞は弟子一人ももたず』とこそ仰せられ候ひつれ。『そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしえきかしむるばかりなり。そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ』と仰せられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は『御同朋・御同行』とこそ、かしづきて仰せられけり。」(『浄土真宗聖典(注釈版)』1083−1084頁。)と述べられていて、如来の教えを謙虚に聞くことから伝道は始まるのであって、如来の使者に徹して、仏の前にひざまづく姿が僧俗ともに伝道になるのであるとされた。
 さらに光真門主は『伝道』(第十号)において「われわれの教団は、同朋教団・伝道教団・聞法 教団などという名前で呼ばれる。それぞれに教団の特徴を言い表わしているが、その中で、念仏者の基本姿勢を示すのは聞法であろう。それは、住職であるか否か、僧侶であるか否かを問わず、念仏者に一貫した姿勢である」(通信教育テキスト『伝道』17頁)と述べられており、伝道は、この「念仏者の基本姿勢」である聞法を通すことなくしては成り立たないことを明確にされた。このように聞法がそのまま伝道であるということは浄土真宗の中心点であり、この点では僧俗に区別はない。


(中央仏教学院通信教育部専修課程1年次課題第2回提出レポート)



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