The 1st Report of Pure Buddism and Temple with Order
研修レポート1「真宗」「寺と教団」
真宗「真宗で説かれる悪人の意味と、その誤解について」
親鸞聖人の人間観といえば、「愚かで、罪ぶかくて、煩悩に泥まみれになったもの」ということになり(通信教育テキスト『真宗』45頁)、これが悪人の意味するところである。聖人(浄土真宗本願寺派の用語法で親鸞以外は上人)の眼は、生と死を超えた、はるかなる真実−それに依って生き、そこに安らかに死んでいけるようなもの、それは何であるかという一点にそそがれていた(同、46頁)、のであって、出離生死−生死の世界からいかにして離れることができるか、というところに問題があった(同、47頁)のである。自覚覚他どころか、自害害彼−自らも傷つき他をも傷つけているような虚仮不実のもの、それこそ人間の実体である(同、47−48頁)という立場から悪人といっているのである。すなわち、真実なるものとおのれ自身とが向いあって、一対一の対決の中で、つつみかくすことなく自分の心の動きを暴露されたのが(同、48頁)、すべての人が悪人であるという人間観である。
誤解の一つは「なぜ、それほどまでに、人間を悪人あつかいいなければならないのか」「親鸞はよほど自虐性の強い人ではなかったのか」(同、45頁)というもので、日常の世俗生活における善人と悪人といった区分と同一視することによるものである。これは真実の人間観をもてないことからくる誤解であり、親鸞の立場にたって見ることが重要である。
更なる誤解は「悪を是認するのか」というもので、これも日常の世俗生活における悪事と同一視することによるものである。親鸞はもちろん悪事をすすめた訳ではなくて、否定し拒否しなければならないものであるにもかかわらず、どうしてみようもない現前の事実であることを指摘しておられるのである(同、50頁)。どんな宗教であろうと、悪を是認し、悪をすすめる教えがあるはずはなく、ただ阿弥陀仏の慈悲は、そういう悪人の上に一しお憐愍の情をそそがれているのである(同、51頁)。私たちは仏から悲しまれているということの理解が重要である。
寺と教団「日本人の宗教姿勢と浄土真宗の立場について」
日本人の宗教姿勢は(イ)重層信仰(神仏混合)、(ロ)祖先(祖霊)信仰、(ハ)現世利益の3つの特色があると言われるが、いずれも習俗化していて、単純に否定できない状況にある。
(イ)重層信仰(神仏混合)に関しては、浄土真宗の立場からは、神社への参拝はせず、神式の諸行事は行なわず、神棚は撤去するというのが正しい姿勢である。しかし、神社を中心にして行なわれる祭礼の諸行事全てを否定することは現実的でなく、習俗と信仰との区分けも難しいところがある。
望ましいのは、浄土真宗の信仰が深まって、少なくとも人生と家庭生活における諸行事は全て仏式で行なわれるような状況になることである。また、門徒総代と氏子総代が重なるということはせめて避けたい。
(ロ)祖先(祖霊)信仰に関しては、浄土真宗の立場からは、霊魂の存在は否定され、死者への諸行事は全て「死者への追善供養のため、というのではなく、その仏事を縁として、縁故の者が集まって、故人を追悼して仏縁を深める」(通信教育テキスト『おつとめ』45頁)ためであるとされる。しかし、中陰や年忌のいわれ、お盆や彼岸の行事は祖先(祖霊)信仰と結びついていることを否定できない。
望ましいのは、死者への諸行事が、浄土真宗の信仰を深める機会となることである。また、墓石に浄土真宗らしさを現わす「倶会一処」(阿弥陀経にある文言で、浄土では再び一緒になるよという意味であるが、浄土宗でも使われる「南無阿弥陀仏」よりもより浄土真宗らしい?−福井では、逆に、浄土真宗では「南無阿弥陀仏」で、浄土宗では「倶会一処」になっているとのことである−各地の情報をメールいただきたい)と刻むこともすすめられよう。
(ハ)現世利益に関しては、浄土真宗の立場からは、いっさいの願かけやうらないは否定される。しかし、目先の欲望を満たすためだけでなく、病気や困苦をなんとかしたいという切実な願いは強くあるので、最近でも、明覚寺事件やオウム真理教事件が引き起こされる一つの要因となっている。
望ましいのは、浄土真宗の信仰が深まって、本当の意味での利益を平生の信の一念として与えられることである。このことは、教行信証信巻末現世十益にものべられていることである。
(中央仏教学院通信教育部専修課程1年次課題第1回提出レポートに一部補足)