The WAR of ISHIYAMA and forming the HONGANJI of WEST & EAST

石山戦争と東西本願寺の成立





石山戦争


 織田信長は天下統一の野望をいだき、永禄11年(1568)京都に入った。やがて、本願寺門徒のもつエネルギーが信長の野望のさまたげとなった。そこで信長は門徒の本拠地であり、かつ西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山の奪取をはかり、元亀元年(1570)石山戦争がぼっ発した。本願寺が破滅することは、念仏共同体が解体し、念仏を支えとする民衆の解放運動が否定されることであった。ここに顕如上人は、本願寺の総力を結集して、信長の圧力をはねかえす決意を固めた。全国の門徒が上人の呼びかけに応じて決起した。甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、近江の浅井長政、阿波の三好氏、安芸の毛利氏など有力大名が本願寺を支援し、比叡山も信長に反対する姿勢を明らかにした。本願寺と信長の戦いが一進一退するなかで、比叡山が信長の攻撃をうけて、堂舎が焼かれ、多数の僧が殺害された。本願寺を支援した武田信玄が病死すると、信長は将軍足利義昭を追放して室町幕府を倒し、年号を天正と改めて天下掌握のための圧力を高め、本願寺の攻撃を強化した。伊勢の長島門徒は、「男は退くべからずとの誓いをたて、女は嘆くべからずとの誓いをたてて、心は弥陀の本願にいれ、さらに、命を失うことを悲しまず征伐を恐れず」と必死に戦い、5年間にわたって信長を悩ませた。しかし、信長の「根切り」作戦によって、ついに門徒2万人が全滅した。浅井長政と朝倉義景もまた殺され、越前門徒・雑賀衆も攻略された。本願寺は孤立化し危機におちいった。戦いがはじまって満10年、顕如上人は朝廷のあっせんによって、ついに信長と講和した。


寺基の移転


 顕如上人は石山を退去して紀伊鷺森に移転にした。蓮如上人が石山に坊舎を建立して85年目のことである。顕如上人が移った鷺森は、石山戦争中、本願寺防衛の主力となった雑賀衆の本拠地であった。上人は鷺森に4年間居住した。その間に信長は本能寺の変に倒れ、豊臣秀吉が政権を掌握した。顕如上人は鷺森から貝塚の願泉寺に移ったが、貝塚にとどまること3年、秀吉のすすめで、大坂天満に寺基を定めた。7年後にまたまた京都への移転が決まった。このたびの移転は、秀吉が京都の市街を整備する計画にもとづくものであった。下鳥羽から北で、京都市街に近い場所という指定であった。そこで上人は、六条堀川の現在地をえらび、秀吉から寺地の寄進をうけた。石山を退去してから13年、山科を出て60年にして、ようやく京都に帰ったのだった。
 京都本願寺の御影堂と阿弥陀堂とが整備されて、はじめての報恩講をむかえる直前の、天正20年(1593)11月24日、顕如上人は50歳をもって示寂した。


その後の本願寺


 石山戦争の終結をめぐって顕如上人と長男教如上人の意見が対立し、その後和解はしたものの、一たび生じた溝は消えなかった。顕如上人が示寂すると、教如上人が継職した。しかし、三男准如上人に宛てた譲状(現在の定説では母の如春尼派の偽作とされる)にもとづいて、教如上人は隠退させられ、准如上人が本願寺第12代を継いだ。
 この決定は豊臣秀吉によるもので、本願寺教団を抑え込むために既に豊臣秀吉は現在の西本願寺の寺地を寄進していた。一方、隠退した教如上人は、関ヶ原の合戦の際には徳川家康の陣中見舞いにかけつけた。
 徳川家康が政権を掌握すると、(家康は伏見城での会見で教如上人に本願寺への復帰(継職)を申し入れるが、教如上人はあくまで固辞したため、東方の大物である本多正信の進言を受けて)家康は慶長7年(1602)教如上人に寺地を寄進し、翌年には家康の配慮で上野の妙安寺から、宗祖の木像を迎え、御堂を建立して安置した。こうして一寺(東本願寺)を別立すると、教如上人のもとに加わるものもあった。やがて門徒の集合離散が活発になり、従来の本願寺教団は東西にほぼ半分に分割されて現在に及んでいる。
 このように、東西本願寺の成立には豊臣秀吉と徳川家康の権力争いもからんでいるが、石山戦争の敗北によって戦国大名としての本願寺教団の勢力は失われ、徳川家康は教如上人の境遇に同情して東本願寺教団の育成・保護をはかったとする説が現在では有力である。


(浄土真宗聖典編纂委員会『電子ブック版浄土真宗聖典』本願寺出版社から抜粋・補足



1996-12-8補訂(懺悔すべきアジア太平洋戦争の開戦記念日にあたって)

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