念仏者の課題としての環境問題
五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
皆さん、寒い中をようこそお参りくださいました。
ご讃題で頂いたのは、私どもの地域では「おとりこし」(報恩講)で読誦させていただいている「五十六億七千万」のしめくくりのご和讃です。親鸞聖人が善鸞さまを義絶された厳しい体験をふまえた八十五歳の時のご和讃であるとうかがっています。何を五濁悪世といわれたのか、私たちはどうしていくべきなのか、環境問題をテーマとして考えてみたいと思います。
最近では、環境ホルモンの問題が大きくとりあげられるようになってきました。大気や土壌や水中にばらまかれたダイオキシンなどの有機塩素化合物をはじめとする合成化学物質が、生物の性ホルモンの働きをかき乱して、生体の雌雄の区別を曖昧にさせたり、人間の若い男性の精子を減らしたりしているという恐るべき事実が報告されています。
ダイオキシンに限らず、自然破壊と環境汚染の問題は並べあげればキリがありませんが、私たちにとっても他の生物にとっても、その「いのち」にかかわる身近な問題です。そして、その問題のすべては、私たち人間の際限のない「欲望」「思い上がり」「悪知恵」がつくりだしたものです。高度経済成長以降、四十年以上に渡ってひたすら追い求めてきた「豊かで便利な生活」が大変に深刻な問題をひきおこしているのです。
世界の人口比では二%弱の日本人が、世界の石油資源の二十%近くを浪費し、アジア・アフリカ・中南米の人々の生活を犠牲にして木材や食糧などの資源を収奪し、贅沢三昧していることが、本当に「豊かな」生活でしょうか。山や川、森や田畑、湖や海に住んで、直接間接に私たちの生命を支えてくれている無数の生き物たちの「いのち」を奪って、目先の利益を貪ることを文明といえるのでしょうか。これこそ仏さまのおっしゃる通り、私たち人間の三毒の煩悩(貪り・怒り憎しみ・愚かしさと偽り)がつくりだした「五濁悪世」ではありませんか。
ところで、「いのちの尊厳」という言葉を近頃よく耳にしますが、政治家や宗教家、教育関係のエライ人が挨拶代わりによく使っているようです。また、そこで使われている「いのち」とは、単に人間だけのことを指しているように聞こえます。
なぜ「いのち」が尊いのか。仏さまの言われる「いのち」とは、単に人間だけに限られたことではなく、また生物学的な生命体だけを指すものでもありません。一つ一つの「いのち」がかけがえのない働き、つまりそれぞれがその能力を尽くして、おのずから支えあい生かしあう働きをしていること、更にその「いのち」の流れが「縁起」の法にしたがって延々と続いていることを示し、だからこそどのいのちも尊いのだと教えておられます。
思えば、地球上に生物が生まれてからざっと三十五億年といいます。その前に銀河系宇宙ができ、太陽系の惑星群ができ、その中に地球という水と大気圏を持った星が現れ、何億年もかけて生物が生まれる条件(縁)が整えられたことも含めて、実に永劫の時間の中に、生物の変化の歴史、つまり遺伝子の連鎖があるわけです。生命の連鎖は「縁起」そのものであり、一々の「いのち」がお浄土の宝の網のように他の全生命と結びつきあっているから尊いのです。どの一つが欠けても他は在り得ない、そんな大事な働きをしている故に尊いのです。
このような壮大な「いのち」の流れの末端にいるのが私たち人間です。そして、人間の「いのち」を頂いたからこそ、仏さまのご本願を聞くことができるのです。
にもかかわらず、地球上の新参者の人間が、聞くべき仏さまの願い、悟りの浄土への教えを聞こうとせず、少しばかりの科学的知見を悪用して、他の多くの「いのち」に対して暴虐の限りを尽くし、逆に己の身をも危うくしています。それが現在なおも私たちが進めている環境破壊の姿なのです。
私たちはこのような環境破壊を手をこまねいて見ている訳にはいきません。なぜなら、環境を守る行動を何もしないで、今のままの生活を続けるということは、それだけで環境破壊に手を貸していることになるからです。蓮如上人五百回遠忌法要の「合い言葉」”できることから始めよう”というのは、できないことはやらないというのではなく、まず、身近なところで自分が気がついたことから行動を起こしていこうということでしょう。この『環境問題』のパンフレットにる「だれにでもできる地球十ケ条」を手がかりにして、私も今日からできることを始めようと思います。それが、阿弥陀如来のいのちに生かされている私のつとめであり、報恩なのです。
どうしてかと申しますと、ご讃題にあげましたように、「選択本願信ずれば」というのは、信ずる信心は自分が信じるというのではなく、本願が南無阿弥陀仏とよびかけ、私の信心と至りとどきます。如来から賜った信心にめざめた時、そこから新たな智慧がわくのです。
だから、私は南無阿弥陀仏を人間の思議をこえた働きによってエゴの私自身が解放され続けていくことを「往生」といただいております。それが「不可称不可説不可思議」と結びつく、そういう目を持ち続けることです。
解放されること、すなわち明るい如来の目をもつことが、私の生き方の軌道修正の原点となります。そこから、世のため人のため、つくさねばならぬ行動力が起こされるのであります。
(98/11/27(金)に行なった教師教習「法話の実習」原稿を修正)
メール 西順寺衆徒のページ 表紙