自転車の夏 栗 林  元 プロローグ  ドラゴンへの道 (一) 燃えよドラゴン (二) ドラゴン怒りの鉄拳 (三) ドランクモンキー酔拳 (四) 女必殺拳 (五) 激殺邪道拳 (六) 男組 (七) 少林寺 (八) 吼えろ鉄拳 (九) 八月の濡れた砂 エピローグ 自転車の夏 序章     「ドラゴンへの道」  両拳を顔の前に構えている。これで相手の攻撃に対してがっちりと防御したつもりだったが、その間を、すっ、と抜いて、相手のグローブが飛んでくる。まっすぐ顔に延びてくるので、その動きは見た目には拳が二回りほど大きくなるようにしか見えない。  あっ、と思う一瞬、肇は顔面に二発食らっていた。一瞬遅れた反応で両手のガードが上がったとたん、今度は、ぼんっ、という重い音をたてて体が後ろに飛んでいた。  がら空きになった胴に蹴りを食らったのだ。  防具胴の上からではあったが、心の準備ができていなかったので、水月(みぞおちのこと)にもろに蹴りが入った。倒れた瞬間に息がとまり、顔に血が集まったまま目の前が暗くなる。  起き上がりながら、(一本取られて、これで終わりだな)と思ったが、審判の小島は冷酷にも「浅い、続行!」と叫んだ。  手をついて身を起こし、呼吸が戻った途端に、しびれた鼻から、たらり、と血が落ちた。  咽に流れ込む血をごくりと飲み込むと、鼻の奥から、ぷんと鉄の匂いがする。これは練習なのに、少しは手加減できねえのかと思った。  「栗山、前へ出ろ、下がるな」と全員が応援している。  (くっそう!)  相手の胴を蹴りに行ったが、足がもつれて上がらない。前半の基本練習で「屈伸蹴り」とか「うさぎ跳び」といったメニューをとことんやらされたため、足の筋肉が限界まで張っていたのだ。  繰り出す突きは、いたずらに空を切った。  相手の上級生は、あえて受けを取らずに、軽い体さばきだけで攻撃をかわして反撃してくる。そうしなければ練習にならぬほど肇の攻撃は未熟なのだ。  ぼかぼかと殴られる度に後退したくなる。しかし、一年生に許されるのは、殴られても蹴られても前へ出る根性だけである。下がれば「気合いが足りない」と制裁が待っているかもしれない。それに、少なくとも前へ出れば反撃の機会だけはあった。  実際には、反撃はおろか受けさえできないのだが、それでも入部当時に比べれば多少は相手が見えてきた。  また右の突きがくる、受けは間に合わないが、一瞬首に力を入れて打撃に備えることはできた。  衝撃!  口の中が切れた。昨日も切れたところだ。それでも意識はしっかりある。  相打ちを狙って同時に返した突きは軽くよけられてしまった。  少なくともよけねばならない程度の攻撃は返せたわけだ。  追いかけようとして、また足がもつれそうになり、はっと思った瞬間またスリップダウンした。自分の流した汗で、床の上が光っている。転びもするわけだ。起き上がる肇の耳に、道場の外から楽しげな歓声が聞こえてくる。  隣のテニスコートだった。  ちらりと窓に目を走らせると、揃いのユニホームに身を包んだ男女が「楽しそうに」テニスをプレイしていた。  硬庭部は今日は休みのはずだ。多分、シーズンスポーツ愛好会「ラブキャット」の連中だろう。現在、学内で最大の人数を誇るスポーツサークルである。四季折々のスポーツを楽しく「学ぶ」というのがこの会のモットーだ。  そして学外の専門学校・短大にまでその手を広げているこの同好会は、男女の中が「自由」なことでも有名だった。  肇は、それがけしからん、というほど堅い人間ではなかった。むしろうらやましい。ああ俺も少林寺ではなくあっちに入会すればよかったと思うこともしばしばだ。  あの中に、田中由美子もいるのだろう、と思った。  (くっそう!)  肇は飛び上がるように起き上がると、気合いもろとも前へ出た。やみくもに拳を出し、再び倒されるために前へ出た。 第一章      「燃えよドラゴン」  栗山肇が滑り込むようにして愛知大学に入学したのは昭和五十二年の春だった。一浪の果ての十九歳である。同年に母校の朝日高校から愛知大学に入ったのは、どうやら肇を含めて数人であったらしい。  おおかたの誤解のないように言っておくが、これは肇が優秀であったということではない。高校二年以降、学業を放擲していた報いが来たのである。  なにしろ当時の愛知大学は、中部の私大の中では実に地味な存在で、飛び抜けて人気のある大学とは言いがたかった。進学校として飛び抜けていた当時の朝日から、愛知大学に入学するのは極めて稀なケースだったのだ。  もっとも朝日高校への入学自体が、学校群制度という新しい高校入試制度のおかげである。この入試制度で入った肇は、大幅に母校の学力レベルを下げたという自覚があった。その意味では「公立高校間の学力格差を是正する」という新制度の目的を果たすのには大いに貢献したわけだ。  元来俺は凡庸な学生だったのだ、と最近の肇は納得していた。  学業に関してはそれほどでもないが、学費に関する限り愛知大学は飛び抜けていた。  安かったのだ。  国公立ほどではないが、それでも通常の私学の三分の一以下、公立の倍程度と聞けば、その安さも想像できるだろう。おまけに大学のある豊橋市は物価が安く、当然下宿代も安かった。肇のような赤貧学生には住みやすい街だったのだ。何より、大学側によって、彼らの生きていく環境が整備されていた。  例えば、愛大生の食事レベルを松竹梅の三段階で論じてみよう。まず愛知大学には二種類の食堂があった。  学食と呼ばれる学生食堂ではカレーライスが七十円で食べられた。かつ丼ですら百七十円である。町中の喫茶店でコーヒーが二百円の時代にだ。  この食堂を松とすれば、竹に相当するのが寮食と呼ばれた学生寮の食堂である。金額は学食の三割安、量は三割増し、味は問答無用という大雑把なもので、寮生と一部の体育会系生徒以外はまったく利用しない、いわば「幻の食堂」だった。  キャンパス外れの寮内でひっそりと営業していたので、女子学生の中には入学から卒業までその存在に気づかない者すらいたのである。  ちなみに梅に相当するのは、食パンを買って食うというものだ。肇の場合、副食として、近所の天ぷら屋から「もらった」天カスにソースをかけ、それをパンにはさんで食べるというのに一時凝ったことがあった。  そのころ、名古屋の私大の人気トップである南山大学にもやはり二つの食堂があった。一つはカフェテリア形式の学生食堂であり、もう一つは本格的なレストランであったという。  小さなことではあるが、大学のブランドイメージはこういった小さな事実の積み重ねで定着していくのである。  ちなみに当時、名古屋を中心とする中京圏で、私大文系コース受験のシティ派高校生(勉学重視派)に人気のあるのは断然「南山」であったし、シティ派高校生(遊び重視派)に人気のあったのは愛知学院であった。  「これで本日の練習を終了します」  副将の合掌礼に応えて、部員全員が「ありがとうございました」と合掌礼をする。そして副将小島だけでなく、すべての部員どおしが互いに「ありがとうございました」と怒鳴るような大声で礼をした。  部室へ着替えに向かう四年生(幹部)の後を、おしぼり、マッチ、お茶を持った一年生が追いかける。このあたり、応援団の上下関係が武道系の部に広がり、慣習として定着したものだろうと肇は推測していた。  数年前に応援団を舞台にした漫画(どおくまんの「嗚呼、花の応援団」だ)が流行したが、その中でギャグだと思っていた様々な慣習が、実際に体育会に入ってみると驚いたことに実はまったくの「リアリズム」であるということがわかった。  さて道場と隣接した部室は、夏は暑く冬は寒いという六畳ほどのプレハブで、四十人近い部員が全員入ることは到底できなかった。そのため幹部が着替えをしている間、三年生以下は道場で待っているのだ。  道場では大きな鏡の前で突き蹴りのフォームをチェックする者や、窓枠に腰を降ろして風に肌を冷ます者など、練習後の解放感に浸りながら、皆が思い思いに寛いでいる。  着替えを終えた四年生が、一年生に「準幹部を呼んでこい」と言った。準幹部とは三年生部員のことだ。一般には四年が幹部、三年が準幹部、二年以下が部員となっているのだが、体育会、それも応援団や武道系のサークルでは一年がゴミ、二年が奴隷、三年が人間で、四年が神様などと称されていた。  準幹部の呼ばれた部室の外で、「また括入れかな」と二年の浅野が言った。  「けっ、たまらんな」とつぶやいたのは、同じく二年の朽木であった。  肇たち七人の一年生は、嫌な予感におびえながら立っている。  「括入れ」とは文字どおり「括」を入れることだ。練習に際して、手を抜く者、歯を見せる者などがいると、全員が「気合いが足りない」ということで絞られるわけだ。まれにではあったがビンタなどもある。  つまり旧日本軍のような慣習が残っているのだ。  四年生が部室から出てきた。  「した!」という怒号にも似た挨拶に送られて、潮が引くように帰っていく。  彼らの挨拶はいつも大声が基本だ。先輩の姿を見つけた場合は、たとえそれが町中であれ、合掌礼とともにこの大声を出さねばならない。もしそれを忘れた場合は、「礼を欠いた」ということになるわけだ。「した!」とは「ありがとうございました」とか「失礼しました」の略である。「こんにちは」の略が「ちわ!」、「失礼します、お願いします」などの略が「します!」となる。それぞれ「!」がついているのは前述のように大声だからだ。こういった挨拶の略語は武道の種類、大学などによってまちまちで、例えば応援団・空手などは「おす」だし、その「おす」にしても「おーす」であったり「うぃっす」に近かったりと差があった。  当然、一般の人々からは奇異なものを見る目で見られた。まず大声自体が異様であるのに加えて、合掌礼そのものがやはり珍しい。  それはそうだろう。第一、坊主頭で学ランを着たむさくるしい男たちが大声を出すこと自体、(平穏な社会の中では一種の「暴力的行為」に該当する)のではないかと肇は思っている。カッコで括ったのは、最近、講義で判例などを読む機会が多いため、肇の頭の中が、法的な文体に侵されているせいだ。  当初、この挨拶をするのにはずいぶんと抵抗があったのだが、どうやら挨拶される上級生も時と場所によっては大いに閉口しているらしいとわかった。同期の三浦などは、卒業を控えて髪を延ばしはじめ、短大部の女子学生とにこやかに話している四年生を見るや、「チャンス!」とばかりに、ことさら大きな声であいさつしているぐらいだ。一種の復讐だろう。  部室から、三年生が帰っていく。  どうやら「括入れ」ではないらしいと二年生が噂をしていると、部室から三年生の近藤が出てきた。  一年生に集合をかけると、ついてこい、と言って後も見ずに歩きだす。  何か新しい「括入れ」であろうかと、後に続く一年生の表情は硬くなった。  後から知ることになるが、この「括入れ」は三年から一年というように学年を飛び越すことは絶対になかった。一年は常に二年から「括」を入れられたのだ。  「このあたりでいいだろう」と言って近藤が立ちどまったのは、道場から五十メーターほど離れた芝生の上だった。  ちょうど大学の本部棟が目の前に建っている。明治四十二年に建てられた建物は、かつて陸軍第十五師団の司令部だった物だ。古めかしい木造瓦ぶきの洋風二階建で、白いペンキの壁が緑の多いキャンパスによく似合っていた。  愛知大学は戦後すぐに設立された大学なのだが、この本部棟のおかげで、あたかも戦前からの伝統校のようなムードを学内に漂わせていた。設立当初のメンバー自体が上海の旧帝大東亜同文書院大学の残党ともいうべき教授と学生たちなのでそれも当然だろう。大学の設立も学制切り替えの直前に滑り込んだので、わずか三年だけとはいえ、愛知大学の前身は旧制大学予科、つまり旧制高校なのだった。  じっとその校舎を眺めていた近藤は、振り向くと肇たちを横一列に並ばせた。  「お前たち、寮歌を知ってるか」  「いいえ知りません」と中原が代表して答えた。もちろん一年生の誰もそんな歌を知るはずがない。  確か、入学式でもらったおびただしい書類の中に学生歌のソノシートが入っていたように思われたが、そのB面にでも入っていたかもしれない。もっとも今の時代にそんなものを聞く学生はいないだろうし、ましてや肇はそれを聞こうにも生まれてこのかたステレオとかテープレコーダーとかを持っていなかったからだ。もっともラジオだけは、この春に買っていた。  近藤は道着の懐から紙を出すと一年生に渡した。手書きの原紙から青焼きコピーを起こしたもので、寮歌の歌詞が書かれていた。  「俺が歌うからよく聞いて覚えてくれ。寮歌ぐらい覚えとくもんだ」  近藤はそう言うと腕を組み、半ば目を閉じるようにして歌いだした。  月影砕くる東海に  秋色深く星辰は  古哲の愛知偲ばせて  熱情燃ゆる男の児らの  詩興は翔りて恋ひ慕ふ  魂の故郷さまよはん  硝煙の香消え失せて  欧亜の山河に春来れど  ローマアテネに比ぶべき  ロゴスの憧憬涸れ果てて  濁れる黄河の水を汲む  たたずむ遊子に愁ひ濃し  享楽の嵐吹き荒び  怒涛にただよふああ故国  ・・・・  夕方である。帰宅を急ぐ学生たちが、もの珍しそうに振り返っていく。  そんな視線をいっこうに頓着せず、近藤は朗朗と歌った。  (かっこいい…)と思った。  歌もなかなか良かったが、それ以上に人目を気にせず堂々と歌う近藤が凛凛しくてかっこよかった。  (こんな「凛凛しさ」を俺も持つことができるだろうか)  そう思いながら「凛凛しさ」という言葉も今では死語だなと感じた。  木造校舎に夕陽が映えて、かつての青春映画の中の一シーンを思わせた。  歌い終わると近藤は「お前ら、つらいことがあったらこの歌を歌えばいい。体育会には理不尽な面も多いと思うが、四年間馬鹿になってやってみてくれ」と言った。  「こんなことは嫌でも四年間しかできん」  自転車が長い坂を下っていく。  肇の自転車の隣には少し遅れて都築の自転車が並んでいた。肇の自転車は、実に頑丈な作りである。フレームは鉄で、その上ブレーキはワイヤーではなかった。サイクルといえばスポーツとか青春とかをイメージするのだが、このサイクルは正に自転車と呼ぶのが相応しく、むしろ寿司とかラーメンをイメージさせるのだ。  みんなから出前自転車などと馬鹿にはされていたが、重い上に変速ギアがないだけに下り坂は速かった。  この「出前号」は、下宿生活の足として入学時に両親から買ってもらったものだ。本当は倍ほどの値段のスポーツ車が欲しかった。フレームの材質はクロームモリブデンで重量も半分以下。ドロップハンドルもスポーティーな十二段変速というやつだ。しかし親の期待に反して公立大学に落ちた身でもあり、肇はその自転車で我慢していたのだ。  「常に願望は程々にしておく」という性格、肇自身はこれを長男根性と頭の中で命名していたが、それが身についてしまっていた。  友人たちから出前号と言われる度に、そんな自分の一面を指摘されるようで嫌な気分になった。  今では、四年間この自転車で通してやる、という歪んだ決意さえ抱いている。これもやはり長男根性かもしれない。  下り坂は長かった。  愛知大学のあるのは高師が原と呼ばれる高台で、そこから豊橋駅のある町の中心に向かって長い下りになっていたのだ。  これが登りであったなら、二人は練習後の疲れた体で駅に向かうことなどできなかったであろう。  ちなみに駅と反対に向かうと、やはりなだらかな下りになって伊古部という浜にぶつかり太平洋を臨むことができた。  坂を下ると、チカダというお好み焼き屋がある。二人は自転車を止めるとその中に入った。  入るなり、おばちゃんが「いらっしゃい」と言った。肇も都築も常連である。  「肉玉の大」と肇。  「俺も」と言いながら、都築はクーラーボックスからジュースを二本出し、一本を肇の前に置くともう一本の栓を開けぐいっと飲み干した。そして腰を降ろしながら少年マガジンを取り「空手バカ一代」のページを捜しはじめる。  毎日来ているだけに、それらがすでに淀みのない一連の動作となっていた。  「どれだけでも飲めそうや」と都築。  「深尾はこの間、コーラを一リッター壜で飲んだらしい」と肇が言った。  「そういう手があったか」  「体中の水分が全部汗で出ちまった」  そう言って肇は、壁際の椅子に腰を降ろすと体をずらして壁に背をあずけた。見るからにへばっている。  都築は高校時代、スポーツ部をやっていなかった。肇も同様で、おまけに浪人までしていた。  体力の無さでは、新入部員の中で一・二を争っている二人だったのだ。  「最近勉強してるか」と肇が聞いた。  「馬鹿なこと聞くな、俺達は体育会だぞ、帰って寝るだけに決まっとるやろ。いや帰る前にもう寝とるか…。この間は名鉄を乗り越して岡崎まで行っちまったでな」  お前はどうなんだ、という都築の問いに、肇は「やっとらん」と答えた。むしろ「やれない」というのが本当だろう。  もっとも、二人とも口に出すほどは気にしてはいない。受験生としての生活はこの三月で終わっていたし、就職などの将来はまだ四年先のことだ。  「俺達どんどん馬鹿になるな」  「疑問を抱き始めたらきりないぞ」  先輩たちを見ろ、考えることを放棄して練習に打ち込んでいる、と都築が言った。  「うむ、そうだ」と二人は納得したように己に言い聞かせた。  ちょうどお好み焼きが出てきたのだ。二人はすでに割りばしを手にしている。  こんなことで議論を中断して納得してしまうあたり、二人はまちがいなく体育会系への一歩を踏み出していた。  「兄さんたち、愛大の学生さんやろ」と、おばちゃんが聞いた。このおばちゃん、屋号から想像して、多分、近田さんなんだろうが、肇も都築も単に「おばちゃん」ですましている。  「やっ、よくわかりますねえ」と都築が嬉しそうに言った。  小柄な都築はよく高校生と間違われ、まれにではあるが中学生と間違われたこともあったからだ。坊主頭で学生服を着ていれば、それも無理からぬことである。大学生と言われた都築の顔に嬉しそうな色が浮かぶわけだ。  「そりゃあ兄さんは若く見えるけど、そちらの兄さんの方は大学生にしか見えんもんねえ」  おばちゃんはそう言って肇を見た。  都築は笑い、肇は憮然とし、「まいったな」と頭をかいた。  肇は年の割に老けて見えるのだ。都築の場合とは逆に、学生服によってかろうじて大学生だとわかるのである。  「やっぱりスポーツやってる学生さんはいいねえ」  「そう言ってくれるのは、おばちゃんだけやね。若い娘どもに聞かせてやりたい」と都築。  「体育会はね、もてんのですわ」と肇。  「いや違うな、武道系がもてないんだ」  「もてないというより怖いんだろうよ」  「そりゃそうだ、俺だって援団や空手部の幹部は怖いぜ」  「いわんや女子学生にとっては…」  二人は溜息をついた。  ここ数年の新入学生は、厳しい部を敬遠して楽しい同好会・サークルなどに集中する傾向にあった。おりしも平凡社から「ポパイ」が創刊された年なのである。軽佻浮薄の八十年代は目と鼻の先まで来ていたのだ。  体育会の部、ましてや武団連合などと総称される応援団・武道部は、新入部員獲得期の四月に出遅れると、一握りの部員すら獲得することはできなかったのである。  そのため新入部員の獲得競争は熾烈を極めた。その手連手管の数々は、今で言う霊感商法にも通じるものがあった。  少林寺拳法部も四月当初は、大人で知的で優しい先輩が集まっているように「見えた」のであった。  先輩達は勧誘の時、肇たち新入生を「君たち」と呼び、仏教用語を駆使して少林寺拳法の素晴らしさを説き、ブルース・リーも青ざめるような演武を披露して新入生達を魅了した。  部室のスケジュール表には、「短大テニス部と合同コンパ」とか、「**女子短大少林寺拳法部指導」などといった美味しそうな予定がぎっしりとならんでいた。  それが入部後は「てめえら」と呼ばれ、「理屈より根性」と言われ、スケジュール表は空白になった。今では「短大テニス部との合コン」より「一九九九年に空から大魔王が降臨する」方が現実味が感じられるくらいだ。  ちなみに今年の新入部員の入部動機はざっと以下のようなものである。  肇は勧誘に際しての華麗な演武に魅せられて入部、その後辞めることなどできないということを知り、諦めて部にいるような状態である。本当はマンガ研究会か映画研究会に入りたかったのだが、当時の愛知大学にはまだそんなサークルは存在しなかったのだ。高校時代は天文部であった。  都築は熱狂的なカンフー映画マニアである。ただ、入部した後、「見ること」と実際に修行することとはまったくの別物であることを知り落胆した。練習は、苦しい、痛い、恐ろしいといった要素に満ちており、映画やドラマに不可欠のそういった要素も、普通の人間なら日常生活ではできれば遠ざけておきたいものである。  三浦は、少林寺拳法「短大部」の美人部員に勧誘を受け、その場で入部を決意した。入部後、短大部とは練習もコンパも合宿もまったく「別」であることを知り愕然としている。体操部出身。  中原は、辺境の地・鳥取県で空手の通信教育を受けていたという根っからの格闘技マニア。格闘技の情報に対する飢餓感が冷静な判断力を雲らせてしまったのだ。大学にはちゃんと格闘技マニアの同好会も存在したのであった。野球部出身。  高御堂は剣道二段という唯一の武道経験者である。ドラマ「俺は男だ」で森田健作に影響されて中学時代に剣道を始め、「燃えよドラゴン」のブルース・リーに影響されて大学では拳法を始めるのだ。げに恐ろしきはマスコミの影響力である。  市川は、都築と同じ文学部であったが「俺一人がつらい思いをするのは嫌だ」というまことに身勝手な理由で都築によって勧誘された。都築はまさに屠殺場へ仲間を誘う黒い羊である。  深尾は先に仮入部した応援団から退団するために、やむをえず少林寺拳法部へ入ったといういきさつがあった。少林寺だから応援団も文句が言えないわけだ。もし正式入部の先が少林寺拳法でなければ今ごろ深尾は…、おお恐ろしい。  学校もスポーツ歴もばらばらの七人だが、共通することが一点だけあった。彼ら全員が映画「燃えよドラゴン」を四回以上見ていたのである。ちなみに最高は都築の十四回。まだビデオデッキの普及する前の話だから、彼のこの記録はすべて劇場に通うことによって達成されたものだ。  思えば、このブルース・リーの映画によって、何人の少年たちが自分の人生を踏み誤ったことであろうか。なんとも罪作りな映画である。  豊橋駅へと向かう都築と別れて、肇は狭い路地の続く町へと入っていった。  軽自動車がかろうじて通れる一方通行の道の両側に木造の家がびっしりと並び、玄関先から植木や盆栽がはみ出している。夏には浴衣のじいさんやアッパッパーの婆さんがはみ出してきてスイカを食べたりうちわで身体をあおっていたりする、いわゆる下町である。 少年時代をコンクリートの公団住宅で過ごし、思春期を建て売りの分譲住宅で過ごした肇には「異国情緒」を感じる町であった。まさに国鉄(まだJRではない)のCMでいうところのエキゾチックジャパンである。   雑貨屋を改装したスーパーや、昔ながらの銭湯を横目に、路地を奥まで入っていくと、少し傾きかけた古い日本家屋の前に自転車をとめた。肇の世話になっている下宿である。  「少し」傾いていると言ったが、それは言葉の上の形容ではなく、文字どおり本当に傾いていた。しかも肉眼でわかる程度にだ。  「ただいま帰りましたっ!」と大声で挨拶しながら戸を開けた。  傾いて平行四辺形になっている入り口では、引戸を開けるのにも全力を要したので、挨拶も自然に気合いのような大声になりがちだった。  玄関から廊下をまっすぐ奥まで進むと、食事を取る八畳間があった。大屋さんの家族の茶の間でもある。下宿生は夕方六時ぐらいから九時までの間、随時ここで食事をするのだ。  下宿生は、肇を含めて一年二人、二年一人、三年二人、四年一人の六人であった。  すでに四年の大石と三年の難波が食事を済ませていた。大屋の息子の小学生とテレビを見ながら、食後の一服を楽しんでいる。  彼らは大半の単位を取り終えており、今はアルバイトに精を出していた。  大石は夜間部から昼間部へ転じた今どき珍しい苦学生、難波は下宿より山にいるときの方が長い、いわゆる「山屋」であった。  「ただいま帰りました」  そう言ってちゃぶ台につくと、下宿のおばさんが御飯をよそってくれた。おばさんとはいえ、若いころは伊東ゆかりに似ていたろうと思われるなかなかの美人。おまけに学生たちには優しくて、食事から洗濯まで世話をしてくれる、文字どおりの母親代わりであった。  「栗山君、少し痩せたんじゃない」とおばさん。  「いやあ、絞まったと言って下さい」と、肇は箸を休めずに答えたが、実に嬉しそうである。浪人中にだいぶ肥っていたからだ。  「そうだよな、そんなに食っているんだから」と、難波が笑った。  お好み焼きを食べた後でも、御飯はあっというまに二杯目になっていた。  「すっかり体育会だな」と大石が呆れたように言った。  これだけ食べていても、入学以来三キロ以上体重が落ちていた。それだけ汗を流していたのだ。  食事を終えると、肇は二階へ向かう階段を這い上がった。階段ははしごのように急なもので、練習後の張り切った太股では、手の補助なしでは登りづらかった。  二階は、二十畳ほどの広間をベニヤで仕切って六間にしてある。必然的に学生一人のスペースは三畳から四畳だ。ただし肇の部屋だけは、床の間と違い棚があり、実質は七畳の広さであった。やはりエキゾチックジャパンな部屋だ。この部屋が空いた時、大石と難波が移転を狙っていたのだが、その隙をついて肇が借りてしまったのだ。  この部屋はその広さ故、「奥の院」と呼ばれていた。奥の院には、肇が持ってきた座り机のほかにめぼしい家具は入っていない。その机の前に座り込むと、勢い良く後ろに寝ころんだ。それだけでもう起き上がる気が失せてしまう。  薯虫が脱皮するようにして寝ころんだまま学生服を脱ぐと、大きく欠伸が出た。  机の上には開いたテキストが置いてある。もう二週間も同じページを開いたままほこりを被っていた。その横には、同じようにほこりを被ったケント紙と、先の錆びたペンが転がっている。紙の上の描きかけのマンガは墨汁が乾いてひび割れかけていた。受験の合間ですら描き続けていたマンガだが、ここ最近は描く気力が失せていたのだ。  肇は、万年床から枕を引き寄せると頭を乗せ、右手を延ばして畳の上に落ちている薄っぺらな雑誌を取った。「ヘビーメタル」という米国のコミック雑誌である。「メタルユルラン」というフランスのコミック雑誌の米国版だった。  カラーをふんだんに使って紙質も上等、通販の広告にはスタートレックのグッズが揃って楽しそうだ。しかも執筆陣が豪華だった。メビウス、アレックス・ニーニョ、エステバン・マロート、初めて本屋で手にした時、肇は思わず息を飲んだ。  特に気に入っていたのが、リチャード・コーベンの「DEN」だった。エアブラシの魔人という異名のとおり、その筆致はシュールでありながらリアリティがあり、誰も真似のできない独自の世界を描いていた。特に色使いが抜群。  巻頭カラーを見ながら「やっぱりコーベンは凄い」とつぶやいた。やがて肇はコーベンの作品を求めて「1984」とか「イーリー」「クリーピー」といった雑誌まで買うようになるのだが、それはまだ一年ほど先の話だ。  こんな世界を描けれればな…と思いながら目を閉じた。  うとうとと眠りかけた肇の耳に「栗山、風呂だぞ」という難波の声が聞こえてくるが、どうしても起き上がることができなかった。  これでまた風呂に入りそびれた。 第二章   「ドラゴン怒りの鉄拳」  練習の後、着替えを終えた肇たち一年生に二年生から集合がかかった。東海学生少林寺拳法大会を翌日に控えた夕方である。  道場前の砂利敷の広場に学生服で整列していると、二年生の渡瀬が部室から大きな信玄袋を持ってきた。同じく二年の大田は黒い漆塗りのポールを運んでいる。  水木が前に出た。  「明日の東海大会では、我々二年生以上は全員演武に出場する。よって、大部旗の掲揚と保守は、お前たち一年が行なう。今から旗手と補助を指名するので名前を呼ばれた者は前に出ろ」  そう言った後、「栗山、旗手。高御堂、補助」と指名した。  「おう!」という気合いでそれに答えると二人は前に出た。  渡瀬が、信玄袋の中から茶色い革でできたプロテクターのようなものを出すと、肇に「着けろ」と言った。  大部旗のホルダーである。あの応援団が大団旗を持つときに使うものと同じやつだ。胸の部分には縦の革が上下に走り、腰の部分にはまるで帯のように幅広い革が胴を取り巻いている。  (まるでハードロックバンドかヘルズエンジェルスだ)と肇は思った。ちなみにヘビーメタルロックという名称は、この翌年、ブルーオイスターカルトだかカルテットだかが言いだすので、この時点ではハードロックという言葉しかない。  ポールを入れるサックはちょうどその帯から垂れるようについていて、まるで革製のふんどしか金玉袋のようであった。  この他、旗手と補助は白手袋と学帽を着用する。学帽は、弊衣破帽の「破帽」だ。文字どおりのぼろぼろで、ちゃんと破れていた。  今度は(まさに夕焼け番長だな)と思った。  黒い漆塗りのポールは四本に別れていて、真鍮の継ぎ手で組み立てると全部で六メーター以上の長さになる。大部旗の方は広げると十帖近い大きさで、確かに補助がいるはずだった。  道場の前には元気のない松の木があり、よろよろと枝をのばしていた。また空には電線が何本も走っている。大部旗を掲揚する練習にはグランドまで運ぶ必要があった。  「絶対に地面につけるな」と水木が檄を飛ばした。  そのため大部旗はポールに巻きつけられ一年生が全員でしずしずと運んだ。  グランドに着くとすぐに掲揚にかかった。  足を踏ん張った肇のホルダーにポールの一番下の部分をセットすると、二年生の「上げろ」の号令と同時に一年たちがポールを撥ね上げた。  ホルダーにずっしりと旗の重量がかかる。大きく足を広げ、中腰で後ろに反るようにしながらぐいっと持ち上げた。  素早くポールを回して旗を広げた途端に、ぱん、という音を立てて風をはらんだ大部旗に煽られて片足が浮きそうになった。さらに腰を落とし、ふんっ!という含み気合いで何とか支えた。  風をはらんだ大部旗は重い。木製のポールは大きくしなって継ぎ手の部分でぎしぎしと嫌な音を立てている。  それでも、自分の支えるポールの先で大きな旗が音を立てて翻る様は爽快だ。  二年生も久しぶりに見る大部旗に満足そうだ。  (なかなかいい役じゃんか)と思った。  翌日は不幸にして風が強かった。特に愛知県体育館前の広場は風が強い。  午前八時半、肇は不動の姿勢で大部旗を保持していた。全体重を利用して、風の動きを読みながらバランスを取っている。大団旗を掲揚する応援団旗手の苦労が偲ばれた。彼らは野球の試合中ずっと持っているからだ。  風が動く度に、股間に垂れた革ホルダーがきしんだ。  今朝気づいたのだが、ポールの一番下は黒いビニールテープが巻いてある。  「これはなんでありましょうか」と聞くと、先輩は「何年か前に旗の重さで折れたそうだ」と教えてくれた。折れてぎざぎさになった部分で旗手が怪我をしないようにビニールテープが巻いてあるのだという。もともと構造的に難があったのだろう。どおりで一番下のポール一本だけが短いはずだ。以前はさらに長かったのである。  破帽の下から汗が滴り、鼻の横を通って顎から学ランの胸に落ちた。  隣の高御堂が時々ハンカチで汗を拭いてくれた。高御堂も破帽と白手袋で、どうやらこの「硬派ばりばり」といったいでたちに、少なからぬ満足感を感じているようだ。きっ、と前を向いたその横顔からもそれはうかがえた。  三年以下の部員は、大部旗のもと整列して幹部とOBの到着を待っている。  愛知県体育館前の広場には各大学の掲げる部旗がいくつも翻り、その旗のもと、肇たちと同様に三々五々部員が集合していた。  各大学に特色があった。私服で雑然と集合している公立大学があるかと思うと、頭を剃っている私立大学がある。学ランの背中に般若心経を縫い込んでいる者すらいた。  (ありゃやりすぎだな)と思った。  女子部もかなりある。特に中京女子大の少林寺はなかなかの美人ぞろいで注目を集めていた。おまけにきびきびとしている。黒の支那服もなかなか色っぽく、深尾は「友達になりたいなあ」と言った。高御堂は「武人の妻はかくあるべし」と言ったし、肇は、ああいったしっかりした女の子の級長に「栗山君がんばって」と励まされる副級長・高校二年生、文化祭の前日・・・といったシチュエーションが頭に浮かび、心は瞬く間に別世界に飛んでいった。一方、三浦は単に「ええ尻しとる」と言っただけだった。  どの大学にも共通しているのは部員不足らしい。ここ数年、学生は軟派指向になっていて、体力的に苛酷なクラブや、印象の地味なクラブ(つまりお洒落じゃないということだ)は学生から敬遠されている。少林寺は苛酷な上に地味だったのだ。  すでに道着に着替えて、団体演部の練習に余念のない大学もある。  東海大会の上位入賞校は、秋に日本武道館で行なわれる全国大会への出場権を得ることができた。毎年武道館へ行っている愛知大学にとっては落とすことのできない大会で、そういう意味でプレッシャーがきつかったのだ。  やがてOBと幹部が続々とやってきたが、大部旗を保持しているため肇と高御堂は動かずにすんだ。  肇が旗手になったのは体格のせいだと思っていたのだが、どうやらそれだけではなかった。肇を「OB接待」から遠ざけておくという意味もあったのだろう。なにしろ、OBのタバコに火をつけようとすればマッチを折ってしまうし、近眼でOBを見失ったりと、およそ接待には向いていなかったのだ。  「悪いことは言わん、お前は社会に出ても客商売はせんほうがええ」と言っていた父親の言葉が思い出された。  いよいよ開会式が迫ってきた。  式は入場行進から始まる。五十音順で愛知大学が一番だ。  プラカードの次を大部旗の肇と高御堂が歩く、その後を出場拳士が歩くのだ。  低い入り口をそのまま通ることはできないので、旗はポールに巻き着けて構内に入り、旗手が構内に入ると同時に高御堂がポールを撥ね上げることになっていた。  開会を告げるアナウンスの後、行進曲がかかった。先頭は地元女子大学のバトン部、そしてプラカード嬢が続く。バトン嬢もプラカード嬢も学生服だらけの真黒な会場に少々緊張しているようだ。それでも彼女たちのフェロモンはたいしたもので、練習中に「あっ」と貧血で倒れた彼女に肩を貸して保健室へ向かうというシチュエーションが頭に浮かび、またしても肇は別世界に飛んでいきそうになる。  いよいよ愛知大学の入場だ。  バトン嬢のセクシーな後ろ姿から目を引き剥がして高御堂を見た。  「いくぞ!」と高御堂。  「おう!」と肇が答えた。  客席から見ていると、さぞかし異様だったのではないだろうか。愛知大学のプラカードの後、しばらくは延々と横になったポールが出てくるのだ。  ようやく肇が入り口を通ったところで、高御堂が「せいっ」とポールを撥ね上げた。  歩きながら体重を後ろにかけ、素早くホルダーにポールをセットして持ち上げた。  途端に、ぶつりっ、という音がしてホルダーの「金玉袋」が落ちた。革を繋ぐ鋲の穴がへたって延びてしまっていたのだ。  「あっ!」という高御堂の小さな叫びが聞こえた。上級生たちの間に沈黙の緊張が走ったのが背中に感じられた。  肇は「ふんっ」という気合いを発して、ポールを持ち上げると、ホルダーのウエスト帯と自分の学ランの間にそれをすべりこませた。  (いっ、痛い)  へそのあたりにポールの重みがぎりぎりと食い込んできたが、なんとか旗は倒れずにすんだ。歩きながら位置を調整し、自分の太股の上で安定させた。屋内で風のないことも幸いした。  (死んでもラッパを放しませんでした)という言葉が頭をかすめ、あれはキグチコヘイだったっけ、と思った、  各大学の大部旗の中で愛知大学のものが抜きんでて高い位置に翻り、かつ古かった。  副旗手がついているのも愛知大学だけだ。なにしろ大半の大学は軽そうなアルミ金属製の伸縮式ポールに部旗を掲揚しているのだ。  (あれなら片手で持てるじゃんか)  肇は自分の掲げる大部旗に伝統と名誉の重みを感じた。文字どおりの重さでもある。  大会とはいえ観客は関係者ばかりで、必然的に観客席は学生服の黒一色に染まっていた。何とも地味な大会で、野球のように大学の同級生が応援に来ることもなく、ましてや女の子などが応援に来ることはまちがってもなかった。  肇たち一年は接待に追いまくられ、満足に他校の演武を見ることもできなかった。  それでも無事に大会は終了し、愛知大学は優勝こそ逃したものの、一応上位に入り全国大会への切符を手にすることができたのだった。           *  七月上旬、前期打ち上げ練習を間近に控えた土曜日の午後であった。  練習後の道場は、練習中とはまったく別の顔を見せる。しん、と静まり、窓からさしこむ日差しの中、眠っているようにも見える。  その上級生のいなくなった道場に一年生が残っていた。ちょうどあとかたづけが終わったところだ。  「おいみんな、シャワーへ行こうぜ」と中原が声をかけた。  振り返った肇の鼻の穴には捩じった脱脂綿が二本詰め込んである。またしても乱捕で鼻血を出したのだ。  中原は「ぷっ」と笑って「バカボンのパパだな」と言った。  その中原も乱捕で口の中を切ったらしく、歩きながら時々、ぺっ、と血の混じった唾を吐いている。  シャワー室はキャンパスの反対側にあった。道着を抱えて歩いていく一年生たちを解放感が包んでいた。明日は練習のない日曜日なのである。  前から短大部の女子学生たちが歩いてきた。十人ほどの集団で、鳥がさえずるような歓声が聞こえてくる。  「へーなあ(ええなあ)」と肇が鼻の詰まった声で言った。  「うむ眩しい」と都築。  「俺は右から二番目がいいなあ」と三浦。彼は女に対してすぐ点をつける癖があった。すれ違った後、一人で「八点」とか「惜しい、足が細ければ十点」とか言うのだ。もっとも今日は単に「ええ乳しとる」とつぶやいただけだった。  肇たちはどきどきとしながら歩いていく。当然、鼻の脱脂綿は手で隠している。中原は唾を吐かずに飲み込んだ。  ところがお互いの距離が縮まると、彼女たちは少し声を落とし、目を反らしながら、すっ、と左右に別れた。  それはあたかもモーゼの杖で紅海が割れるかのように。  紅海を割ったのは神の吹かせた東風だが、彼女達を左右に分けたのは、どすの効いた学生服と坊主頭であろう。  すれ違った後、「あの目はやくざを見る一般人の目だ」と高御堂が寂しげに言った。  彼は少林寺の一年にしては珍しく学業優秀で一番インテリである。ところがそのごつい体格が災いして、外見は一番やくざっぽく見えた。  土曜日のキャンパスにはカップルが目立った。  「あっ」と三浦が声を出した。  「どうした」と市川。  「あいつらもう…」  溜息まじりにそう言った三浦に「やあ」と軽く挨拶しながら一組のカップルが通り過ぎた。  ぴったりと寄り添った二人は、それ以上他人が話しかけるのを無言で拒否している。  「同じクラスなんだ」と三浦は悲しげに見送った。どうやら娘の方にまんざらでもなかったらしい。  「ええ女は、あっというまに、人の彼女だでかんわ。みんな青春を謳歌しとるがや」と三浦。  「俺達とは違った青春やな」と都築が言った。  「俺達の青春はこれだ!」と言って、肇は鼻に詰めた脱脂綿を取る と、もう遠くへ行ってしまった短大生の背中に向かって投げた。  そして、中原はまた、ぺっ、と唾を吐いた。  「俺たち、四年間に恋愛なんてできるんかな」と、しみじみ言ったのは深尾だった。  彼は男子校の出身だけに、女に対する免疫が誰よりも弱かったのだ。それだけに彼の言葉には重みがある。  ぶつぶつ言いながら歩いていくと、プレハブ作りのバラックが見えてきた。シャワー室だ。  肇がプロパンのボンベを開け、種火に点火すると、もう室内では水の音がして「ひゃあ冷てえ」という深尾の声が聞こえてくる。  肇が裸になると、「ずいぶん締まったな」と言って都築が腹を殴った。  「ふっふっ、入部以来六キロ痩せたぜ」と肇。  「そりゃもともと肥り過ぎてたんだよ」と市川。  個人差はあるものの、一年生たちの体は締まってきた。同時に、突きと蹴りの「受け」でいつも打撃されている腕や臑は、青痣ですっかり色が変わっていた。  全員が「ゼノール」という湿布薬を愛用していた。この薬、よく効くのだが残念なことににおいがきつかった。なにしろ、クラスメートからは「少林寺の一年は遠くにいても匂いでわかる」と言われるほどだった。  練習中に気が抜けると事故も多かった。幹部が口をそろえて「気合いを入れろ」と言うのもある意味で当然なのである。  この年も、練習中に一年生が過呼吸などの発作を起こして二回ほど救急車を呼んでいた。  湯を浴びると生き返る思いがした。シャワーの音に混じって聞こえてくる「うーん」とか「極楽」とか妙に年よりめいた言葉は市川だろう。   「俺たちゃ、花のキャンパスライフとはもっとも遠いところにいる大学生やろうな」と都築が言った。  誰も答えない。何を今さらというところだ。  「俺は頑張るぞ」と三浦が言った。  「俺もだ」と高御堂。  三浦は「恋愛」に頑張ろうと言ったのであるが、どうやら高御堂は「武道」に頑張ろうと解釈したようだ。  (俺はどうなのだ)と肇は思った。何に頑張ればいいのだろう。  シャワーに打たれながら、肇は自問し続けた。  しかし、答えは出てこない。  (シャワーの爽快さの前に、思考とは何と無力なのだろう)  よし、俺は何か「頑張れるもの」を見つけるよう頑張ろうじゃないか、と思った。きっとそれが見つかった時には、今練習で養っている根性とか気合いが生きるんじゃないのか。そうとでも思わなければやっていけねえぜ。  こうやって適当に思考を切り上げてしまうのも体育会系学生の特徴だった。おかげで内向的だった肇も、すべてのことに対して、かなりポジティブな見方が出きるようにはなったのである。  コップを空けると、隣の席の田中由美子が麦酒を注いでくれた。  肇は少なからず緊張していた。女の子と酒を飲むのは初めてのことだ。いや、真面目な高校生だった肇にとっては酒を飲むこと自体、ほとんど初めてである。  豊橋駅に近い魚定という料亭の二階座敷、クラスコンパであった。  「何故、少林寺なんか入ったんですか」と由美子が聞いた。  (少林寺なんかはないだろ、なんか、とは)と思った。  彼女の言葉に、武道系の学生に対する一般学生のイメージが集約されているといってよいだろう。三年後、都築が卒論をまとめるときの話なのだが、社会学科の彼は「大学体育会と縦社会」というテーマを考えた。そこで教授から渡された参考図書の中にヤクザ社会を扱った「病理集団の研究」という本があり、都築は「俺達は病理集団か…」と嘆いたのである。この論文のために彼は学内体育会の学生にアンケートを実施したのだが、意外にも好意的な意見が多かった。どうやら少林寺四年の都築がやっているアンケートということで、誰も本音を書かなかったらしいのだ。  さて、そうはいっても彼女に悪気はない。緊張を和らげようと会話の糸口を切ってくれたのだ。  しかし、じっと見つめてくる大きな瞳がよけい緊張を与えてしまう。  (か、かわいい…)  もう慣れた筈なのだが、自分の着ている学生服と角刈り頭は、いかにも時代錯誤であろうと思い恥ずかしくなった。  ただでさえ女性との会話にぎこちない肇にとって、このスタイルは「追い撃ち」のようなものだ。  そして、この愛らしい同級生と自分との間にある距離が、実に大きいものであることを感じずにはいられない。  「思い切り体を鍛えるのは、この四年間しかないと思ったんだ」  我ながらつまらない答えだった。それでもこれは、入部以来ほとんど毎日、体育会に籍を置く意味を問い続けて得た、自分なりの最も「合理的」な答えなのである。あんなハードな練習は頭で納得させねば「やってられない」ともいえる。  そんなことより、彼女にもっと話さねばならないことがあるのではないか。俺自身がどんな人間であるかとか、君はどんな人間なのかとか…。  「失敬」  そう言って肇は廊下に出た。手洗いへ立ったのだ。その間に話すことを考えようと思った。  手洗いは混雑していた。初めて酒を飲んで吐いている奴、声高に話しながら宴席の盛り上がりを便所まで引きずっている奴などが、うろうろとしている。魚定には他にも愛知大学のコンパが入っているようだ。時折、遠くの座敷から爆発するような笑いが聞こえてくる。  座敷へ戻ると、席はすっかり乱れていた。肇の席には平田が腰を落ち着けている。由美子の耳に顔を寄せ、ぼそぼそとジョークを飛ばす度に、彼女は頬を染めてはくすくすと笑っていた。女の子のあしらい方が実に上手で嫌味がない。  戻ってきた肇を一瞥すると、「悪いな盛り上がっちまって」とは言うものの、いっこうに動こうとする気配がなかった。  女とろくに話もできない奴は、ここに座る資格はないぜ、とでも言っているようだった。道理ではある。クラスの中でも特に可愛らしい由美子の隣・・・、うかつに席を立った肇の負けだ。  雑誌から抜け出たような服を着た平田は、隣の由美子とよく似合っていた。いかにも今風の「大学生のさわやかカップル」、少なくとも肇の着ている学生服よりは明るく見えた。角刈りに許されるファッションは学ラン以外にはジャージーのトレーニングウェアしかなかったのだ!  肇は新しいグラスと麦酒を手に、空いた席へ移動した。席はいくつも空いている。   肇の在籍する法学部は女子学生が極めて少なかった。その少ない女子の周辺に男子が集まってしまい、それ以外の席はすっかり空いているのだ。  少し敗北感を感じていた。そして、そんなことに敗北感を感じる自分が情けなかった。 「おいっ」と呼ぶ声に振り向くと、廊下に柔道部の武藤がいた。にこやかに笑いながら入ってくると窓際にどっかとあぐらをかき、学生服の襟を開いてせんすで風を送り始めた。そのバンカラな態度が肇を少しほっとさせた。  肇は「よおっ」と近づくと隣に座った。  「何だかお前も浮き上がってるみたいだな」と武藤が笑った。  「みんな女には凄い情熱じゃないか」と肇は冷めたように言った。冷めていたわけではないが、知らないうちにそんなポーズをとっていた。  「うむ」とうなづくと、武藤は麦酒を注いだ。  そして「俺はそういうことは何だか面倒だ」と言い訳がましく言った。どうやらバンカラも照れからくるポーズなのであろう。  武藤も肇も、練習直後に駆けつけてきたため、顔に疲労の色があり、何やら情けないものがあった。  「きっと体育会じゃない奴はエネルギーが余っているんだ。人間のエネルギーは総量が決まっているのかもしれん」と肇。  「何か後ろ向きだぞ、そういう考え」  「そうだな」と、肇が麦酒を注いだ。  お互いの部の話をすると、武藤も体育会の縦社会にうんざりしているのがわかった。もっとも三カ月で二人ともそれを冗談のネタにできるほど慣れてはいた。  「知っとるか、援団に入った柘植の話」と武藤が笑いをこらえながら言った。  「知らん」  「実はな、」といいながら武藤は笑いだした。  五月の連休に行なわれた応援団の新入生歓迎合宿の話だ。柘植たち新入生は、事前に先輩たちから合宿の楽しさをとことん吹き込まれ、あげくの果てに楽しみにすらしていたそうだ。ちなみに駅に集合したとき柘植はギターと吊り竿を抱えていたという。  ところが合宿所に近づくにつれ、徐々に先輩達の言葉づかいが変わってきた。そして合宿所に待っていたのは壮絶な練習としごきだったのだ。  「結局、ギターも吊り竿も無駄になったわけだ」  「いや、幹部さんが喜んで使って下さったそうだ」と武藤。  今にいたるもギターを持参して合宿に参加した新入生は柘植だけである。  盛り上がったままコンパは九時に終了した。しかし、肇には今一つ乗り切れないものがあった。  魚定の表では、男子学生が由美子をはじめとする女子学生を取り巻き、「二次会へ行こう、二次会」とか「車で送るよ、俺のマーク2」などと、口々に誘いながら、お互いに見えない火花を散らしている。  平田は、にこにこと笑いながら、「彼女たちにも門限が」などと言っている。すでにデートの約束を取りつけている余裕だろう。  彼らを適当にいなしながら、由美子たちは豊橋駅に歩いていく。  「じゃあ」という肇の挨拶にも誰も気づいていない。  その賑やかな一団を目で追いかけながら、由美子の姿を探している自分に気づいた。  (俺には関係ない)  彼らに背を向けると、ゆっくりと自転車をこいで下宿に向かって走りだした。  (あんなことはできん)と思った。  その半面、あそこまで自分を捨てて女にぶつかっていける彼らが、うらやましくもあった。  国鉄東海道線の上に架かる跨線橋にさしかかった。歩行者・自転車用の急な斜路になっている。半分ほど登ったところで自転車を降りて押さねばならなかった。とても上までは駆け上がれない。  跨線橋の上で肇は足をとめた。再び、俺にはあんなことはできん、と思った。  橋の上から駅の方を見たが、すでにクラスメートたちの姿はなかった。街の灯だけが、妙に美しく目に映った。  ふいに入学早々、同じクラスの畑田の下宿へ行ったことを思い出した。学食で偶然出会い、そのまま近くの下宿へ誘われたのだ。  ひょろりと痩せた畑田は、肇同様一浪して入学してきた男だ。話術が巧みで大人びた雰囲気を持っていた。いつも顔には皮肉な笑いを浮かべている。それが他人と自分とを差別化するポーズなのだろう。  畑田の下宿は、下宿というよりむしろアパートといったほうがよい造りだ。まだ四月だというのに、すでに一年以上暮らしているような汚れ様だった。  八畳ほどの洋間で、ベッド・ステレオという三種の神器のうちの二つが揃っていた。もう一つの神器・車は、免許を取りしだい中古のスポーツカーでも買いそうな男だった。  畑田は冷蔵庫を開けると、肇に麦酒を勧めながら聞いた。  「栗山君、彼女はできたかい」  「おいおい、入学してまだ一月も経ってないんだぜ」と肇は笑った。  「何のんきなこと言ってんだよ。須藤なんかもう赤沢麗子とデートしてるぜ」  肇は驚いた。同じクラスの赤沢麗子は美人ではないが、なかなかセクシーな娘で、男子学生の注目の的だった。  須藤の方は、これといった印象もなく、まだ話したことがない。  「知らなかった」  「そりゃ君は毎日道場でエイヤーやってるから知るはずもないさ」  そう言った畑田の顔が嬉しそうに崩れ、急に自信たっぷりに見え始めた。  「須藤を見直しちゃった」  そして、俺も早く彼女を作るつもりだ、と言った。  「昔の女とはなかなか会えないもんな」と畑田。  「ほう、故郷に恋人がいるのか」  「当然じゃないか」と言った畑田はますます自信たっぷりだ。  「君はいなかったのか、気の毒に」と微笑みながら、畑田は自分の女性体験をとうとうと語り始めた。そして「女を落とす」様々なノウハウの数々…。  その勝ち誇ったような表情に、肇は少々うんざりした。こいつの頭の中には女のことしかないのだろうか。  だが同時に、自分と同じ年の男女が受験のさなかでさえ恋愛に対していかに情熱を傾けていたのかを知り、愕然とした。  肇にとっての恋愛とかセックスとかは、小説や映画の中のできごとであった。  畑田が大人びて見えるのは「女」を知っているからかもしれない。と言うことは、少なくとも相手の女が身を委ねてもいいと思うほどに、相手の心と面と向かったのであろ。  それに比べて自分はどうだ、と肇は自問した。  (俺はいつも自分自身としか対面していないのではないか)  ショックだった。  (俺は受験だけでなく、恋愛とか性に関しても落ちこぼれてしまったのだ)  線路の彼方から灯が近づいてきた。  ふあーん、という間の抜けた音を立て電車が足の下を走り抜けていった。  今、こうして見つめている街の灯が、彼らの楽しげな青春の象徴のようにも見えた。  俺はそこから何と遠いところにいるんだろう。  突然、由美子の顔が心に浮かんだ。あの娘も、平田や畑田のような奴と恋愛をするのだろうか。  畑田の「二回目のデートで部屋までくればしめたものさ」という言葉が頭に浮かぶ。  (くそっ)  何とも言えぬもどかしさに、肇は「はっ」という含み気合いを発して思い切り夜空を蹴り上げた。そして橋の上から街の灯めがけて上段突き・回し蹴り・足刀蹴りとやみくもに連攻を出した。  足がふらついて、慌ててもたれた自転車といっしょに、がっしゃんと倒れた。  急速に酔いが回ったのだ。  倒れたまま見上げると、低くたれこめた雲が町の明かりにぼんやりと照らされている。青春小説のように星などは出ていなかった。  (俺は何をしているんだ…)  届きもしない攻撃を繰り出して。  妙な疎外感を感じていた。  「女々しい」とつぶやいた。  彼らとの距離がどれだけあろうと、それは問題ではなかった。問題なのは、こんなことで疎外感などを感じる自分の弱さだと思った。  自己嫌悪を感じていた。 第三章   「ドランクモンキー酔拳」  道場は静まり返っていた。窓からは外の熱気が流れ込み、「哲学の森」から蝉の声が聞こえてくる。  耳元で蚊の羽音がする。すでに足を何箇所か食われていた。それでもたとえどこを刺されようとも動くことは許されない。肇たち少林寺拳法部員は、結跏趺坐で瞑目していたのである。練習前の鎮魂行であった。  じっと痒さに耐えて半眼で座る肇の前を、主将の大塚がゆっくりと通り過ぎ道場正面に回った。そして手にした錫杖を床に立て、片膝を床につくとそれを押し倒すようにして床を打った。  ばしんっ、という鋭い音と同時に部員たちが一斉に「おうっ」と気合いを入れて立ち上がる。  前期最後の練習、「打ち上げ」が始まったのだ。二時間の練習は前後一時間ずつに分けて行なわれる。その前半が「突き蹴り」等と筋力トレーニングなどの基本練習。後半が剛・柔の技を養う応用練習であった。  一番苦しい前半の基本を、この「打ち上げ」の日だけは、幹部全員が交代で行なった。  それぞれの幹部が自分の得意とするものを、部員たちととことん行なうのである。  各種の「突き」「蹴り」「受け」等を、何人かの幹部が交代で行なった。それぞれが自分の限界までやって次と交代する。  交代できない三年以下の部員は、この前半で大半の体力を消耗する。残るのは「気合い」のみだ。  交代する幹部を一人二人と数えながら、肇は歯を食い縛ってついていった。さすがに三ヶ月にもなると、脱落するものは減っている。肇も、ぶざまではあっても滅多に脱落はしなくなった。  部員の足元の床が流れた汗で光っている。突き蹴りを出すと道着の袖から汗が飛んだ。突き蹴り前進の際には、床を濡らす汗で転倒することさえあったほどだ。  最後の幹部は予想どおり松浦だった。彼は日頃から通常の練習以外にウェートトレーニングなどをこなしているらしく、部員たちからは「筋力トレーニングの鬼」と呼ばれていた。  「それでは自分の基本練習を始めます」  松浦はそう言うと部員たちを見渡し、「開足中段構え、構えて!」と叫んだ。  気合いと同時に全員が構えた。  「屈伸蹴り、始め!」  松浦は数えながら屈伸蹴りを始めた。  これは膝を屈伸させ、その後に蹴りを出すという二つの動作を一セットにしたものだ。ヒンズースクワットに蹴りをつけたものと考えてよいだろう。とにかく恐ろしく疲れるメニューの一つだ。  四十回まで肇は楽についていった。  五十回で、あと何回か考えた。  六十回で、七十回では終わらないかもしれないと思った。  七十回で、九十回まで覚悟した。  その九十回でもうだめだと思った時、松浦が「ラスト十回」と叫んで、希望が見えた。とうとう百回までやり通すことができたのだ。  まさに幹部と下級生の根性比べである。  松浦は、お前たちについてこれるか、とでもいうように、その後「腹筋」「拳立て伏せ」を挑んで基本を終了した。  打ち上げ練習の後半は、一年から三年までを二組に分けての乱捕練習であった。  練習といっても完全な試合形式で行なわれる。肇にとってもこの形式は初めてだった。東海地区ではかつて試合中に死者が出たこともあり、数年前から大会での試合は自粛されていたのだ。  実際の乱捕では、剣道に似た胴をはめ、股間にも金的用プロテクターを着けた。さらに両拳には十六オンスのグローブをはめ、顔面への攻撃もパンチのみは許可されていた。  乱捕は拳士の性格が現われる。例えば、絶対に相手のペースに乗らず、じっくり構えて一撃で一本を取るタイプ。逆に、ステップワークやフェイントを駆使して自分のペースに持ち込み、乱戦の中から勝機を見つけるものなど。上級生の乱捕は見るべき点があった。 肇の順番は都築の次だった。  都築の相手は二年の渡瀬。体格的にも互角の相手が選ばれていた。お互いに軽いフェイントを混ぜながら上下・順逆といったオーソドックスな攻防をしている。二人とも小柄だが、その分速かった。見ていて驚いたのが都築だ。上達している。特に延びのある上段の回し蹴りなど、体の堅い肇にはうらやましいほどだ。  緊張に静まり返った道場の中、二人の気合いが響いた。わずか数ヶ月でも技の相性というものがあるのだろう。都築は白蓮拳系統の速攻が好きなようだ。  どちらも決定的な有効打が出ないまま時間が過ぎた。結局、渡瀬が優勢で勝った。  「次!」  その声に「おうっ!」と気合いで応え、肇は立った。  道場の中央に進むと、相手と向かい合い合掌礼をした。膝のあたりに力が入らない。緊張しているのだ。  相手は三年の藤山である。身長は肇より少し低いが、力・技・スピードとバランスの取れた巧者であった。  「始め!」  二人は構えた。  藤山は左手を前に立て右拳を顎の下に入れた変則の左前待気構え、相手の攻撃をカウンターで返そうという白蓮拳系統の速攻を得意とする藤山らしい構えだ。  一方、肇は左前の中段構えで、実戦用に拳を少し高めに構えたボクシングに近い構えをとった。  軽くフットワークを使いながら、呼吸を読むようにして間合いを計る。どうしても藤山を中心として円を描かされる形になるのは、三級と二段という格の違いだろう。  藤山はさすがに隙がない。肇が放つ牽制の順突き(ジャブ)は、首をスウェイするだけで軽々とよけられ、ほとんど同時にカウンターの順突きが肇の顔面にびしびしと決まった。  口の中が切れて血の味が広がっていく。  一度でも殴られてしまうと不思議なもので恐怖心はなくなる。膝の後ろに力がこもり、しっかりと踏ん張れるようになる。逃げ場がなくなると人間の中の獣の部分が目を覚ますのであろう。  ところで動いている相手を殴る・蹴るということは、傍で見ているほど簡単なことではない。止っている標的を突いたり蹴ったりするだけでも大変なのだ。しかも、動いているのは当然相手だけではない。自分も激しく動いているわけだ。  まだ数ヶ月の経験しかない一年生ではあったが、後ろへ下がることは許されなかった。攻撃し続けねばならない。前へ出ては殴られるうちに、藤山の攻撃パターンが見えてきた。前へ出ようとする肇の「先の先」を読んで、牽制の蹴りが飛んでくる。それを受けてガードが下段に下がったところへ、順・逆の突きが顔面に飛んでくるのだ。  蹴りを受けねば胴で一本を取られてしまう。しかし、肇の反応速度では、蹴りを受ければ突きへの防御が後手に回るのである。攻撃に受けが追い付かないのだ。  もっともそれがわかるというのは、目だけは動きに着いて行けるようになったということだ。  肇はチャンスを待った。  (来た!)  予想をして待っていたためスローモーションのようによく見えた。もっともそれに反応する自分の動きもスローモーションに見えるから同じなのだが。  藤山の蹴りが胴に飛んでくる。左手で下受け、同時に藤山の順突きが顔面に飛んでくる。次に備えて、その突きはあえて顔面で受ける。歯を食い縛り、脳震盪を起こさぬよう自分からぶつかるようにして左頬で受けた。目は閉じない。こんな時、不思議と痛みは感じない。  藤山の逆突きのモーションがすでに中盤にさしかかっている。  (本当に速い)  無我夢中で逆突きをフック気味に出した。拳に相手の顔面を感じると同時に、自分も強烈な一発を顔面に食らった。  一瞬目の前が白くなる。  (クロスカウンターってやつか…)  「あしたのジョー」の一場面が頭に浮かんだ。思わず膝をつくと、ふっと視界がもどってきた。  「時間、やめ」  藤山の優勢勝ちだった。  それでも一発返すことができた。藤山も口の中を切ったらしい。肇を振り返ってにやりと笑うと、「ちょっと攻めが単調だったな。読まれちまったよ」と言った。  何とも言えぬ充実感がみなぎってきた。今まで感じたことのない感覚だ。  (見えた)  そうだ。相手の攻撃を見極め、それに応じる攻撃が返せたのである。  これは、一つ壁を越えた喜びだ。  防具を外し、後続の者の応援にまわりながら、この感覚は悪くない、と思った。  (俺も少しは強くなっているのだ)  「いいか、今回のコンパは前期打ち上げと同時にお前たち新入部員の歓迎コンパでもある。先輩から注がれた酒はとにかく飲み干せ」と水木が言った。  大学の正門前にある料亭魚勝の玄関前である。一階が居酒屋、二階が座敷になっていた。  愛大生、特に体育会のよく利用する店で、一階の居酒屋には歴代体育会幹部の寄せ書きが貼ってあった。  水木は二年のリーダー格で、自然に一年二年の統制を見るようになっていた。  「苦しくなっても幹部・準幹部の前では苦しそうな顔をするな。やばそうな奴は我々二年が適当な時期を見て休ませるから、安心して飲むように。以上」  水木は話を終わると、各人を持ち場に配置した。  ほどなく、正門の方から幹部とOBたちがやってきた。  一年がかけより、「します!」と怒鳴りながら幹部の荷物を持った。二年は同様にOBの接待だ。玄関に控えた一・二年がバトンタッチして彼らを二階の座敷に誘導する。  やがて開会五分前、玄関番の一人を除いて一・二年全員が座敷に集まった。  座敷には幹部・OBを上座にして座が設けられ、体育会の硬派系各部、主に武道部・援団・球技各部・ヨット・ボートなどから一人ずつ幹部が招待されていた。まちがっても「同好会・愛好会」などの姿はない。  酒は体育会の全クラブから届いており床の間に整然と並んでいる。まるでボーリングのピンを思わせたが、総本数は当然十本を越えている。もちろん三河の地酒「英勲」だ。  乾杯の前に新入部員の紹介があった。七人という「大量」の入部は二年ぶりである。OBの間からは満足そうな声が聞こえてきた。  昨年は六人入部し、一人が家庭の事情で退部していたが、真実は練習に耐えられなくてやめたということだ。  乾杯と同時に酒宴が始まったのだが、肇たち一年生には肴に箸をつける余裕はなかった。ビール壜と徳利を持って幹部・OBらに挨拶にらねばならないのだ。結局、返杯を重ねて、酒だけで胃袋が膨れていく。  「二年水木、軍歌を歌います」という声が上がり、酒でやけくそになった歌が座敷に響いていった。  歌は演歌か軍歌が主である。軟弱な歌謡曲・ニューミュージックは公式のコンパでは「歌ってはいけなかった」。当然この時代、カラオケはまだない。  次々と酒が追加され、床の間の一升瓶がみるみると姿を消していく。そしてその酒も彼らの体内で次々と小便に変わっていくわけだ。  副将尾崎の前に座ると、隣には準幹部の加山がいた。すでにかなり飲まされたようで顔が赤い。  尾崎は二人の前にどんぶりを二つ置くと、それに日本酒をなみなみと注いで、どっちが速いかな、と聞いた。  肇は加山を見た。苦しそうな加山の目が「飲め」と言っている。  二人は同時にどんぶりを持つと、一気に飲み干した。  「加山、一年に負けるなよ」と幹部たちが囃した。  速かったのは肇の方だ。二日酔の怖さを知らないだけにどれだけでも飲めた。  (俺は酒に強いのかもしれん)とも思った。  「栗山、お前強いな」と尾崎が言い、「褒美だ」と、もう一度どんぶりに酒を注いだ。 「ごっつぁんです」と肇がまた飲み干すと、「見事」と言って解放してくれた。  中原が交代で尾崎の前に座った。座敷を見渡すと、すでに市川と都築は酔い潰れて戦線を離脱している。  加山が自分の席から手招きしていた。  「栗山、さっきは恥をかかせてくれたな」と言いながら、どんぶりを差し出した。  とはいえ、その顔は半分笑っている。一気に飲み干そうとする肇に「無理すんなよ」と声をかけてくれた。  一年生は事前に二年生からコンパの様子を聞かされていた。「酔わされる」とは聞いていたが、それほどでもないなと思った。  肇は座が進むにつれ、先輩たちからその飲みっぷりを「化け物」などと言われて調子に乗った。  恐るべきことに(酒は極楽だ)とも思った。  少し飲み過ぎたかな、という気がしたあたりで記憶が曖昧になった。強烈な眠気に目がふさがっていく。無理矢理目を開けると天井が回っている。どうやら手と足を持たれて運ばれているようだ。  次に目を開けると、駐車場の砂利が間近に見えた。  「都築が車の中で吐いちゃったよ」という情けない声が聞こえた。二年の浅間の声らしい。  ひどい頭痛と尿意で目が醒めた。道場の中である。他の一年も寝ているようだ。耳元で蚊の羽音がわんわんと響いた。身体中を食われている。いつのまにか毛布を被っていた。事前に上級生が用意していたものだろう。  立ち上がると天井が揺れている。よろよろと外へ出ると、道場の横にある大きな松の根本に放尿した。この松の木は、尿意を催して道場からよろめきでる者に「ここでしなさい」といわんばかりの絶妙な場所に立っているのだ。  この松の元気のない理由がわかったような気がした。折にふれ小便をかけられていては、どんな木もいずれは枯れてしまおう。枯れてないだけこの木はまだ気合いが入っている。  自分の尿にこもる酒の匂いが吐き気を誘い、そのまま体を折るようにして吐いた。意外なほど量は少ない。すでに大半の酒が体に回ってしまったのだ。  (俺の気合いは今一つだな)  時計を見ると二時を過ぎていた。  道場横の水道で思い切り水を飲み、再び吐いた。それを何回か繰り返すと少し楽になった。後は頭痛だけだ。  蒸し暑い道場に戻る気がしなくて、肇は砂利の上に腰を降ろした。ひんやりとした砂利が気持ち良く、そのまま横になる。星が見えた。  学生服の前を開けて、夜風に肌をなぶらせながら星座を探していると、がたりという音がした。道場の戸が開き高御堂がよろめき出てきたのだ。やはり松の根本に近寄ると、ごそごそと前を開けて放尿し、やがて吐いた。  「おおい」と呼ぶと、高御堂は怪訝そうに闇をすかし、「うん?お前大丈夫か」と言いながらやってきた。  「気持ちいいぞ、ここ」と砂利を叩くと、「なんだ、俺はまたてっきりお前がここでくたばっているのかと思ったがや」と笑った。  肇の横に腰を降ろしながら、ああ気持ち悪い、とぼやいた。  「かなり飲んだか」と高御堂が聞くので、「量はおぼえておらん」と答えた。  「俺はどんぶりで飲んでいたような気がする」  「ああ、お前もか」と肇。  「とにかく床の間の酒を全部消化したことは確かだ。俺が追加を頼みに行かされた」と言いながら高御堂も横になった。  「星が回っていやがる」  「酒に関しては限界まで見たな」と肇。  「ああ、だが俺はもう見たくない」  「同感」  しんとしたキャンパスを風が吹き抜けていく。  「休みはどうする」  「板金工場で肉体労働だ」と肇は答えた。  「君は」  「俺も似たようなもんだ。集中講義が一つ入ってるがな」  そして、お互いにいかにもプロレタリアートなバイトをするんだなと言って笑った。  「ところで市川たちは」と肇が聞くと、「死んだように寝とったが…、見てこようか」と言うなり起き上がった。肇も一緒に立ち上がった。  道場に戻ると、三浦や中原たちが転がっている。  「死屍累累ってやつだな」と高御堂が言った。時々、寝言とも呻きともつかぬ「うーん」という声や、ごぼごぼという空えずきが聞こえてくる。酒の匂いは凄まじいものがあった。  「とても親には見せれんな」と肇。  「あれこそ、まさにそうだ」と高御堂が道場の一角を指差した。  見ると、都築と市川が相打ちといった格好で倒れていた。どちらが吐いたものかも定かでない嘔吐物の大きな水たまりに、二人で顔を埋めるようにして寝ている。見ようによっては、砂漠の放浪者が小さなオアシスに辿り着き、泉に顔を突っ込んだまま息絶えたという趣でもある。  肇と高御堂は無言のまま表に出ると、再び松の根本へ急いだ。  胃液以外何も出ないことはわかっているが、それでも吐かずにはいられない。  とにかく明日から夏休みだった。 第四章   「女必殺拳」  工場内は轟音に満ちている。それでも一定のリズムで繰り返されると、どんなに大きな音も子守歌に変わってしまうようだ。  肇はプレス機のペダルを踏みながらそう思った。左側の作業台に積み上げられた板金を取り、プレス機に差し込むとペダルを一踏み、ガッシャーン、素早くひっくり返してもう一踏み、ガッシャーン。すると一瞬にして平らな板金に凹凸が生まれる。そうやって完成したパーツを右側の作業台に置くと、右隣の工員が待ってましたとばかりにそれを次の工程に流していく。  以上が一セットだ。実に簡単。しかし、これを一定のスピードで一日中繰り返すのは実につらかった。だいいち板金が重い。  (モダンタイムスだな、チャップリンの)  ペースを落とすと、左側には大量に板金が積み上げられてしまう。それがある程度の限度を越えた時は目の前にぶら下がったスイッチを入れる。そうすると「あんどん」と呼ばれる頭上のランプが点滅し、熟練工が飛んできて助けてくれるのだ。  肇は器用な方ではない。むしろ不器用な方である。そのためよく板金を溜め、しばしば「あんどん」を灯した。大半の学生アルバイトが半日程でこつをつかんで、簡単にこなしているのを見ると、我ながら情けないものがある。  点滅する「あんどん」が「くずだよ、ぐずだよ」と言っているようにも見えた。第一、「あんどん」という名前自体、「ひるあんどん」という言葉を思い出させてばかにされたような気がする。  現在、肇が作っているのはスチールデスクの部品らしいが、一日にいったいどれだけの数量を作らねばならないか、といった詳細は一バイトの知るところではなかった。  肇は下宿に近いプレス工場でアルバイトをしていたのだ。もちろん七月から八月までの短期工として働いている。学期中はどうしても一日の中心に道場での練習が座り込んでいるため、バイトは家庭教師が一件だけだ。大金を手にするような労働は長期休暇にまとめてやるしかなかったのだ。  その給与の一部が、少林寺拳法部の夏合宿費用になる。地獄のような合宿のために額に汗して働いているわけだ。  いくら不器用でも三日程で仕事のペースには慣れた。が、本当の試練はそのあとやってきたのだ。  「退屈」である。  まさにその退屈さは、仕事ではなく、宗教におけるある種の「行」を思わせるものがあった。  肇は仕方なく、プレス機に合わせて一・二・三とリズムを取りながら、歌を歌った。最初は井上陽水の「氷の世界」から始めて、かぐや姫、チューリップなどフォーク・ヒットパレードを二まわりほどして昼休みが来る。  午後は、かつて見た映画を頭の中でリプレイしたり、読みかけの小説の先を想像する。そういった名画・名作劇場を二順ほどさせると、最後はこれから描こうとする漫画のシノプシスやコマ割までしてしまうのだ。そうしなければ眠ってしまいそうになる。思えばこういった仕事の合間にフランス語の単語を覚えるとか、轟音に紛れて発音の練習でもすれば大学の成績は上がったのだろうが、肇のような体育会の一年生にそれを期待するのはまちがいだろう。  今日は最初の土曜日だった。この日は朝から、おなじみ頭の中の思い出の名画劇場を始めた。  三本目を終わりかけたところで昼休みのサイレンが鳴った。フェリーニの「道」でザンパノが酔いしれて砂浜に倒れるシーンだった。このシーンではザンパノの泣き声が聞こえてきたのか、それとも波の音しかしなかったか記憶があいまいだったが、波の音だけの方が演出としてはいいなと思った。  サイレンと同時に各種工作機械が電気を落とすので、工場はいきなり静かになる。  肇もプレス機のスイッチを切るとハンドルに作業帽をひっかけ、早足で一番近い出口に歩いた。構内では走ってはいけないからだ。バイト・本工員の区別なく皆が急いでいる。  禁煙の構内でタバコをくわえて、外へ出ると同時に火を着けて一服するニコチン中毒者、肇のように食堂へ一目散に駆ける者…。  食堂に駆け込んで順番待ちの列の一番後ろに並ぶと、すぐ後ろに同じ職場の木村が走って来た。中卒でこの工場に入った木村は、肇と年は同じだが風格といい仕事といい、もう十分に大人であった。  「栗さん速いね」と木村が言った。  「すぐ腹が減るんですわ」と肇は笑った。  トレイにおかずを乗せると、味噌汁と御飯を取ってテーブルについた。  同じ作業服の人間が何百人と座っている様は迫力があった。  おかずと味噌汁でどんぶり二杯の御飯をかきこんだ。三杯目はテーブルの上のボウルに山盛りになっているたくあんをどんぶりにのせて、お茶漬けにして流し込んだ。このたくあんが空腹にはまたうまいのだ。  考えてみると入学以来まずい食べものの記憶がないのだから、肇は慢性的に腹を減らしているのだろう。食堂に入ってからかっきり十五分で食事を終えた。これで外の芝生で三十分は昼寝ができる。  「本当に速い」と木村が驚いたように言った。  「君は走るのも食うのも速い。後は仕事が速けりゃ完全だ」  肇は思わず苦笑した。遅れるといつも木村に助けられているからだ。  「君はこのバイト代で旅行でもするんかい」  「まあ、旅行と言えば旅行ですが、部の合宿です」  「何部」  「少林寺拳法です」  「そりゃ厳しいだろう」  「想像以上でした」  肇は体育会の縦社会に関して少しだけ愚痴った。  「大変だね」  そう言った木村の声は、それでも明らかにうらやましそうだった。  (ああ、)と肇は気づいた。  木村にとってはたとえしごかれようと、好きなことを模索する四年間は贅沢なのである。肇の行は四年で終わりだ。しかし、この木村の行は定年まで続くのである。  肇の愚痴なんぞ勤労青年の彼から見れば、「いい気なもんだ」にすぎないだろう。  生涯の中で(この四年間は重い)と思った。  だからこそ、この四年間を徹底して遊び呆ける連中の気持ちも十分にわかる気がした。  工場はいちおう五時半に終了した。肇はバイトの特権を生かして残業をせずに帰宅していた。自転車のペダルを漕いでいると、時々潮の香が漂ってくる。工場は三河湾に面した神野埠頭の近くにあったのだ。傾いた太陽に長くのびた自分の影が運河の中ほどにまで届いていた。  バイトとはいえ工場からの帰りにはいつも働いているという実感があった。本当に体を動かしているからだろう。家庭教師のバイトにはこういう充実感はなかった。「車輪の下」で、ハンス・ギーベンラートが神学校を中退したあと、肉体労働で魂の救済を得るのと同じことだと思った。少し違うのはハンスが神学校に通う微熱がちな少年だったことに対し、肇は進学校に通う肥満がちな少年であったことだ。  港近くの工場から下宿までは、ゆるやかな上り坂になっていたが、それほど苦にならなくなっていた。あきらかに入学当初より筋力がついているのだ。  ジーンズを買うときも、腰回りでサイズを合わせると太股が入らないというほど足が太くなっていた。ならばリーバイスの**番というように細かく自分のサイズに合ったのを探せばよいのだが、肇はジーンズ専門店には行ったことがなかった。高かったからである。そのため彼のジーンズはいつも腰が少しだぶつき気味の情けないもので、ブランドもスーパーなどで買った無名のものであった。いずれも既存ブランドのロゴに似せてある。「LEE」に似せた「REE」とか「EDWIN」に似せた「EDWARD」とか、とにかくどことも知れぬ偽ブランドが多かった。まさに当時はディスカウントストアが流行り出したころで、そういった笑える商品が多かったのである。  足の筋肉に偏りが出ないよう、愛車「出前号」もペダルだけは足先を固定できるスポーツ車のものに取り替えてあった。このペダルだとただ踏むだけでなく、踏足の逆足でペダルを持ち上げる筋肉も鍛えることができた。  この漕ぎ方のおかげでかなりの急坂をクリアできた。豊橋市内ならもう行けない場所はなかった。そして急速に足が太くなっていったのだ。  下宿へ戻ると、難波の部屋のドアが開いていて、バックパックから溢れ出たコッフェルや携行食などが廊下に散乱していた。  どうやらまた山へ行くらしい。  自分の部屋に入ると、途中で買ってきたアイスクリームにプロテインのパウダーを大匙に一杯ほど振りかけて食べた。病人用のプロテインなので実にまずい。それでもスポーツ用のプロテインなど豊橋のスポーツショップにはまだ置いてないのだからしかたない。  夕食まで、まだ多少の時間がある。  本棚から「キネマ旬報」の最新号を出すと、再録されているシナリオをカッターで切り離した。ボールペンで気になる箇所にチェックを入れると、ホチキスで綴じてデイパックに入れた。デイパックにはビニール袋に入った銭湯の道具も入っている。  一階へ行くと夕飯の準備ができていた。  下宿生の大半は実家へ帰っていたが、大石と難波は残っていた。難波はバイト、大石は教職試験に備えてだろう。  「難波さん、そろそろ山ですか」と肇が聞くと、「おお、明後日から山だ」と答えた。  「死ぬなよ」と大石。  「夏山ですから死ぬことはないと思いますが、まあ気をつけて行ってきますよ」と難波は笑った。  難波の日常は、ほとんど山に捧げられているといってよかった。クラブも山旅愛好会である。愛好会とはいうものの、その実態は限りなく山岳部に近かった。  愛知大学では、かつて薬師岳遭難事件というのがあり、現在は山岳部がない。が、実際にはワンダーフォーゲル部と山旅が、その血を色濃く継いでいる。蛇足だが、ワンゲルの登山ウェアは黒色で、袖にエーデルワイスのエンブレムを付けている。学内で見るたびに肇はかつて望月三起也の漫画で見たナチスのSS山岳部隊を思い出してしまうのだった。  どうやら難波は、今年も薬師に行くのだろう。  「俺はいよいよ教職試験だな」と大石が言った。  「大石先生ってわけですか?ぷっ・・・」と肇は吹き出した。  「笑うな」と言った大石自身が笑っている。  「あの大石さんが先生ですからね」と難波。  「なんだよ、その、あのってのは」と不安気な大石に、「ゆかりさん事件」と答えて難波は爆笑した。  「あっ」と大石は青ざめた。  「ゆかりさんってのは恋人ですか」  大石は「うわっ」と叫んで逃げ出した。  「大石さんが入れ上げて、通いつめたストリッパーだよ」  「えっ、あの真面目な大石さんが・・・」  「すごかったな、花束だもんな、それも毎日」と難波はまだ笑っている。  「もうそれ以上言わないでくれ」という声が廊下から聞こえてきた。  「ビール一本で話をやめます」と難波。  「わかった、お前が山から帰ったら宴会だ」  難波は肇を見てにやりと笑った。  浴室から出ると扇風機の前に立って体を冷やした。まだ九時前だというのに客が少ない。下宿の近くの銭湯だった。  壁に貼られたプロレス興行のポスターを見ながらフルーツ牛乳を飲んだ。番台の婆さんは暇そうにテレビで「ドリフの全員集合」を見ていた。  体を拭いてから壁ぎわの体重計に乗った。もとはえんじ色らしいが今は表面を細かく錆が覆っていて茶色になった体重計だ。  (うむ、落ちはとまったな)  針は七十キロちょうどを指していた。高校・浪人とスポーツから離れていた肉体は、四月からの練習で余分の脂肪をすべて落とし終えたようである。  (今度は筋肉をつける番だ)  工場でのバイトもそのためだった。筋肉がつけばつくほど練習についていける。長期休暇のバイトは、練習のない分、きついものを選んだつもりだった。プロテインパウダーを食べるのもそのためだ。  壁の鏡の前に立つと、自分に不足している筋肉がよくわかった。  (腕と胸にもう少し筋肉が欲しいところだ)と思った。  ちょうど「ポパイ」で「マッチョになる」という特集が組まれたばかりだったのである。  生活は硬派であったが、志向は充分にミーハーだった。この硬派な実生活とミーハーな流行志向との大きなギャップが、(俺の下らぬジレンマの元だ)と感じていた。  たとえば高御堂のように硬派に酔ってしまえば迷いはないし、一般の大学生のように軟派に徹するのも、空しいかもしれないがやはり迷いはないだろう。  「さてと」と小さくつぶやきながら肇は銭湯を後にした。  外は相変らず蒸し暑いが、自転車を走らすと湯上がりの肌に向かい風が爽快だった。髪はもう乾いている。角刈りはこれが(これだけが)よかった。  自転車は下宿には帰らず、豊橋の中心街に向かって緩やかに下って行く。今夜は土曜日、先行オールナイトの映画を見るのだ。  豊橋には映画館が全部で八軒しかなかった。つまり最大でも八日あれば全部の映画を見つくしてしまうことになる。だから先行ロードショーは楽しみで楽しみでしかたなかったのだ。特に「人間の証明」とかの、退屈な大作がロングランでもしようものなら、映画に対する飢餓感は無限大になった。  豊橋駅から東へ向かうと広小路と呼ばれる賑やかな通りがある。多くの商店とともに、酒・パチンコ・映画など「レジャー産業」が集まっていた。  その通りを自転車で走っていくと、ナンパ目的の車が何台ものろのろと通り過ぎていく。すでに何往復もしているらしい。  「ポパイ」から抜け出したようなサーファーカットの若者がカブト虫に乗っているかと思えば、リーゼントで決めたロックンロール野郎たちが車高を下げたローレルを空ぶかしさせていたりする。それぞれの趣味で飾り立てた車を流しているのだ。  車のウインドーからはボリュームを上げた音楽が「しゃりしゃり」と漏れてくる。  (まるでアメリカングラフィティだな)  リーゼントの連中は、オールデイズナンバーか元キャロルの矢沢永吉が多かった。たいてい車のボディやウインドーにE・YAZAWAとステッカーが貼ってある。  サーファーは新人グループのサザンオールスターズを流していた。  歩いている女の子たち(主にミスタードーナツの前がナンパスポットだ)に「ヘイ、彼女」と声をかけている連中を横目に見ながら、肇は自転車のペダルをこいだ。  きらびやかな洋画上映館の前を通り過ぎ、一本奥の通りを松葉公園の方に入っていくと、いかにも小便臭そうな邦画上映館があった。  よく見ると隣がお寺で、日当たりの悪い墓地と背中合わせだ。半地下のトイレに入ると、窓から卒塔婆が見えたりする。風向きによっては線香の煙がトイレに流れてくることもあった。  豊橋東映である。今夜は来週封切る映画の先行オールナイト興行なのだ。  映画館の前に自転車を止めると、肇はポスターを見た。松田優作の初主演映画である。二本立ての添え物にすぎないのだが、そのポスターはかっこよかった。  革のジャケットを着た優作が、右手にライフルを下げて、すっくと立っている。  タイトルは「最も危険な遊戯」、確かギャビン・ライアルの冒険小説に「最も危険なゲーム」というのがあったなと思い出した。  (関係あるんかな)  切符を買って劇場の中に入った。もぎりと同じ場所が売店になっている。そこで夜食用のあんパンと牛乳を買いホールへ入った。スクリーンには豊橋駅前のパブ・レストラン・パチンコなど、本編前のCMフィルムが流れている。写真だけで作られた泥臭い地方CMが、この映画館にはぴったりしていた。東京の大学ならもっと映画が観れるのになと思った。豊橋にはここを含めて八軒しか小屋がなく、しかもその八軒には、日活ロマンポルノや大蔵・新東宝・東活といったピンク映画まで含めてなのである。肇は毎回、そのすべてを見ていた。  豊橋東映の休憩時間のBGMはベンチャーズの「ウォーク・ドント・ラン」だった。ただし演奏はブルー・ジーンズらしい。  中央、前から四列目のいつもの定位置に腰を降ろすと、CMの間に素早く牛乳の栓を抜きパンの包装を開いた。  ブザーが鳴って照明が落ちた。この劇場はお世辞にも清潔ではないが、照明が落ちると本当に暗くなった。つまりその分映像がクリアなのだ。この点、肇の好きな劇場である。ただし音はあまりよくない。劇場のせいではなく、邦画はもともと音が悪いのだ。  スクリーンでは、波濤の彼方からおなじみ東映の三角形マークがやってきた。予告編の始まりだ。肇は予告編もじっくり見る方だった。  (あっ、悦っちゃん!)  あんパンをくわえかけていた手が止まった。志穂美悦子のアクション映画が次回の二本立ての添え物になっているではないか。旧作ではあるが、(これは、見ていない!)  「女必殺拳」の記念すべきシリーズ第一作だ。「燃えよドラゴン」と同様、肇が少林寺拳法を始めるきっかけとなった「因縁」のシリーズであった。  修業の動機としてはまさにミーハーの極み。カンフー映画狂の都築を笑うことはできなかった。  都築は主に香港のカンフー映画を愛好していた。一方、肇は千葉真一、倉田保昭などの東映空手映画を好んでいる。  (うーん、まさに戦う天使…)  スクリーンの中では悦っちゃんが戦っている。華麗であった。そしてその華麗さは決してまがいものではなく、あきらかに本当の練習で身に付いたものとわかった。  ともすれば日常の練習に音を上げたくなるとき、こんなことでは「悦っちゃん」のファンとして恥ずかしい、と自らを鼓舞する肇であった。もっとも、そんな自分が少し恥ずかしいのも確かではある。  (さすがにサニー千葉のJACだ)  肇は真田なんとかという新人もかっていた。  悦っちゃんと千葉真一が天津敏の悪の巣窟に乗り込むところで予告編は終わった。そのシーンはかつての鶴田浩二と池部良を思わせる、おなじみ東映パターンだ。  (伝統の重みってやつかな)と肇は思ったが、今思えばむしろそれは東映という会社にとっての伝統の呪縛と言ったほうがよいかもしれない。  「最も危険な遊戯」の本編が始まった。  ギャビン・ライアルとは無関係だったが、佳作ではあった。拾い物、と思った。休憩時間にデイパックから「キネ旬」のスクラップを取り出し、再録シナリオをざっと読み返した。事前にチェックを入れた場所に印象をメモした。空白の部分には特に気に入ったシーンの構図を素早くスケッチした。  二本目の本編は印象の薄い作品であった。頭の中は「最も・・」のイメージに犯されている。  (これはシリーズになるかもしれん)と思った。  翌日は日曜日だった。かねてからの約束どおり、少林寺拳法部の一年だけで、合宿に備えての自主トレをすることになっていた。  部室に入ると、すでに全員が着替えているところだ。  「よう」と都築が声をかけた。  彼は早く来たらしく道着のまま寝転がって創元推理文庫を読んでいた。  「すごいぞ、これ」と言って見せた表紙には、ラブクラフト短編集と記されていた。彼はSFマニアでもあった。  「おっ、それ読んでない、後で貸してくれ」と言った肇に、「怖いぞ」と笑った。  「特にインスマスの話がぞっとする」  「久しぶり」と言いながら高御堂が入ってきた。道場の隣の芝生で鉄下駄によるストレッチをやっていたようだ。  市川と深尾はすでに道場の中だ。二人で組んで柔軟体操をやっているように見えたが、よく見ると、肩を寄せ合って、隣のテニスコートにいる女の子を見ながらくすくすとHな笑いをもらしている。  三浦は「ふっふっ」と笑いながら幹部の席に腰を降ろしてタバコをふかしていた。駅で買ったらしい平凡パンチのグラビアを見ながら、時折、「ええ尻しとる」などとコメントを述べている。そして一国の将来を憂えるような悲しげな表情で、「ポケットパンチOhって何でなくなっちまったんだろう」と言った。  三浦は肇同様に老けて見えるタイプなので幹部の貫禄があった。いやOBの貫禄と言ったほうが正確かも知れない。  中原は、本棚にある中国拳法の原書を何冊も出してきて拾い読みしながらパンをかじっている。時折パンをくわえたまま、本の中の図と同じポーズを取っていた。  彼は第二外語に中国語をとっていた。中日大辞典を出している愛知大学だけに、中国語を学ぶ学生は多かったが、どうやら中原はこういった拳法関係の原書を読むために中国語をとっている気配があった。  同じような先輩がいたのであろう。それらの本にはすでに色々なメモや、技術的な事に関する走り書きが残されていた。  夏休みに入ってから一週間しか経っていないが、学期中はほとんど毎日のように顔を合わせていた連中なので、ずいぶん長い間会っていないような気がした。  「先輩のいない道場はまったく別の表情をしとる。道場ってやつは普段は眠っていて、俺達が来るときだけ目を覚ますのかもしれんな」と高御堂は言った。  国文科だけに表現が詩的だ。そういえば、彼は以前、好きになった女子学生に歌を送ったことがある。こんな歌だ。  君想う夜の吐息の空しさに       涙流るる頬のほてりよ  まるで大正時代のような叙情短歌ではないか。  「現代感覚を欠いとったせいか、まったく通じんでかんわ」と高御堂は嘆いていたが、肇は歌の現代感覚より高御堂の外見に問題があるのではないかと思った。  当然、思っただけで口にはしなかった。傷つけたくなかったからだ。  高御堂のファッションの定番アイテムを「ポパイ」風に言えば、どすの効いた長い学ランに筋者風の角刈りがマッチ、とどめのワンポイントはレイバンのサングラスで決まりだ、という具合で、どう見ても右翼学生。おまけに顔が市ケ谷で檄を飛ばす三島由起夫なのだ。  こんな男から、いきなり情熱的な短歌を送られた女子学生に肇は少し同情した。  (さぞ怖かったろう)  以来、彼は硬派の美学に殉じることにしたのか先に述べた服装にプラスして素足に下駄で通学している。そして、「怖さ」にいっそう磨きがかかった。  高御堂に言われて肇も道場を見渡した。  しん、と静まりかえっている。  壁に架かった部員たちの名札の中に、太い筆文字で書かれた「栗山肇」という自分の札を見て、ああ俺は武道をやっているという実感がわいてきた。まるで小学校のころにテレビで観た柔道一直線だ。  「さて、やるか」と中原が言った。  いつもの練習と同様に整列すると、中原の号令で基本をやった。突きや蹴りなどを各種百本ずつやって四十分ぐらいで休憩になる。しばらく使っていなかった筋肉が妙に重い。  「ずいぶん鈍っとるわ」と三浦が言った。肇もそう感じていた。上級生のプレッシャーがないせいかもしれない。  「伊古部まで走ろうか」と深尾が言った。  伊古部の浜はキャンパスから十キロほど離れたところにある。  「そういやバイト、バイトで海にも行ってないな」と市川。  「よしっ、行こうぜ」  全員が部室のタオルを手にすると道場の前に集まった。  合宿のマラソン大会に備えて、全員がランニング用のシューズを用意していた。  「こいつはソールが厚くていいぞ」と市川が靴を見せた。  最近出たばかりのジョギングシューズというやつではないか。確かにソールが厚くて、膝や足首の間接に優しそうだ。ただし値段の方もかなり「分厚い」。肇は高校時代から使っていたスニーカーで代用していた。  「小部旗はなしにしようぜ」  「同感」  練習中に長距離を走る場合は、大小二種類の部旗のうち小さな方を掲揚して走った。  二メーターのポールに天地一メーター五十、左右二メーターの旗をなびかせて、一年生が交代で旗を持って走るのだ。  風をはらんだ部旗は、電柱・木の枝などに絡み、いたるところが裂けたり破れたりしている。それをその度に繕うこともまた一年生の仕事なのである。  旗は重く、ただ走ることの数倍疲れた。しかも、先頭を走る幹部は恐ろしく速いペースで飛ばしていく。さらに、走っている間は気合いを会わせて声を上げ続けるのだ。  ここには個人の呼吸の違い、心臓の力の違いなどは、いっこうに考慮されていなかった。  今日は一年だけの自主トレだ。部旗も気合いもなしで走っている。街道沿いの町並みの中、全員が一列になって黙々と走った。  走っているうちに肇は、「ただただ走る」という行為は、本当に個人的で瞑想的なことなのだな、と思った。なにしろ走る以外には「考える」ことしかできないからだ。  汗が流れ始めると、都築は財布を帯に挟んで道着の上を脱いで手に持った。肇は脱がずに風になびかせた。深尾は持参したタオルを首に巻いている。三浦は捩じって頭に巻いていた。  ランニングにタフなのは中原だった。ただ一人道着を乱さず平然と走っている。時折、冗談すら飛ばした。  市街を抜けると、西瓜の畑が青青と続いている。カマボコ型のビニールハウスは、渥美半島の名物であるメロンと電照菊だ。農家も金持ちが多く、当然その子弟も贅沢な連中が多かった。彼らの乗るスポーツカーが畑の中で燦然と輝いている。  肇たちはなだらかにアップダウンする国道を黙々と走った。  国道は伊良湖岬やサーフスポット赤羽へ通じるドライブコースにもなっている。家族連れやカップルを乗せた車が、びゅんびゅんと通り過ぎていった。  豪華なワゴン車にサーフボードを積んだ連中も多い。最近の流行(これもポパイが流行させた)でサーフィンを始めた連中だ。  赤羽は全国でも指折のサーフスポットだ。当然ロングボードの昔からの連中もいるらしい。そういった伝統を受け継ごうという気骨のあるサーファーは、波の高い日の出直後を活動の時間と決めているので、今ごろこのあたりの国道を海に向かって走っているのはファッションとしてサーフィンをやっている軟弱者に違いなかった。波よりも女に乗るというやつだろう。  道路沿いの喫茶店のウインドーに、走っている自分たちが映っていた。ちらりとそれを見ながら、(まさに青春ドラマだな)と思った。そしてすぐその後に(十年前の)とつけ加えて、思わず心の中で、にやっ、と笑った。  肇は徐々に遅れていった。各自の走行能力に応じて、走る順位が決まり、間隔が開いていくのだ。  風に潮の匂いが混じってきた。漁港のようなすえた匂いではなく、砂浜の潮の匂いだ。  気合いを入れて速度を上げる。少しみんなに追いついた。  最後の下り坂で波の音が聞こえてきた。その音に誘われて、みんながペースを上げるのがわかった。  肇も全力疾走した。それでも伊古部の浜に着いたときには、先頭の中原とは百メーター以上の差が開いていた。  「やっぱり中原にはかなわん」と市川が言った。呼吸が荒く、深呼吸を繰り返している。  「高校の時、走り込んでるからな」と中原は笑った。  (それでも自分のペースで走ると意外と楽だな)と肇は思った。  練習中ではどうしてもばててしまうが、今日は走り抜くことができたからだ。考えてみると、入部するまで十キロ以上の距離を走ることなどなかったのだ。その必要もなかったし、その気もなかった。最初から「自分にはできないこと」と決めつけてもいた。  しごかれ、強制されて初めてできたことではあるが、それでも自分にもそんな力があるとわかるのは嬉しかった。  四年間がんばれば、不可能と思っていたことから可能に転じることが、もっともっとあるように思えた。  (要は、その気になることだ。その気になれば不可能なことは少ないだろう)  肇たちは浜の後ろの草の上に腰を降ろして休んだ。日差しはきつかったが、海からの風は爽快だった。  打ち寄せる波を見ているうちに、眠気が襲ってきた。仕事からも先輩からも解放されて、波の音を聞きながら目を閉じると、なんとものどかでいい気分だ。至福というやつかもしれない。将来とか未来からさえ解放された時間だった。  遊泳禁止の浜ではあるが、日曜だけあって意外なほど人出がある。  ピクニックの家族連れ、肌を焼くカップル。帰りじたくのサーファーた ち。  遠くから荒井由美の歌が聞こえてきた。「海を見ていた午後」だった。誰かのカーステレオだろうか。  隣に寝ころんでいた都築がぽつりと言った。  「合宿、がんばろうな」  「おう」と肇は答えた。自信はなかった、もう逃げることだけはやめ ようと思った。 第五章    「激殺!邪道拳」  夜になっても蝉の声が聞こえてくる。蝉の声自体が室温を二三度上げているようにも感じられた。  開け放した窓の前に小型の扇風機を置いて、少しでも外気を取り入れてようとしているが、外気自体が三十度を越えている。たいして涼しくはなるまい。しかも下宿の部屋割そのものが、二十帖ほどの大広間をベニヤ板で無理矢理六部屋に分けてあるため、迷路のように風が通りにくく、人の熱がこもりやすかった。そのくせ冬場には隙間風が入ってくるのだから不思議であった。  空気が抜けにくいかわりに音は通りやすく、例えば部屋でビールの栓を抜くと、たちどころに各部屋から学生達が「ちょっと辞書を借りたいのですが」とか「先輩、行政法で教えて欲しいことが…」とか言いながら現われて、「あっ、ビールですか」「しょうがねえな、まあ飲んでいけよ」「ごっつぁんです」といった展開になる。辞書を借りにくるのにコップ持参もなかろうと思うのだが、この下宿にはそれほどプライバシーというものが存在しなかったということである。  とにかく豊橋の夏は暑かった。今も腕から出た汗が肘を伝って、座り机に向かってあぐらをかいた腿の上に滴っていく。  部屋中に蚊取線香の煙がもうもうと漂っている。いや漂うというよりむしろ充満しているといった方が適当だろう。蚊だけではなく人間までもがくらくらときそうであった。それでも蚊に刺されるよりはましだった。下宿の庭は薮蚊の基地となっていて、特に新陳代謝が激しく二酸化炭素を大量に吐き出している肇は夜毎その集中攻撃にさらされていたのだ。  毎朝、目を覚ますと部屋のあちこちに蚊取り線香にやられた薮蚊の死体が墜落していた。  肇はケント紙の上に置いた折り込み広告をずらしながら一心不乱にペンを動かしていた。マンガを描いているのだ。折り込み広告は、手の汗がケント紙に染み込んで墨汁の乗りが悪くなるのを防ぐためのものだ。  鉛筆の下描きにガラスペンで輪郭線を入れていく時が一番楽しかった。下描きに命を入れてるような気がする。現在描いているマンガは、「暗黒の美神〜シスターダークネス」という十六ページの短編SFホラーだった。  多くのマンガ家同様、手塚治虫の模写から始めた肇なのだが、現在の絵のタッチはむしろ板橋しゅうほうとか寺沢武一などのようにアメリカンコミックス志向の強いものになっていた。当然、大きめのコマ運びで、ぎっしりと背景を描き込んだものになっている。  一部のマンガ家を除いて、大半の日本のプロは手塚治虫の呪縛から抜け出ることができなかった。ルーツを辿ると、そのすべてが手塚か彼の弟子にぶつかることになっている。  劇画ではそれが、さいとうたかおと白土三平にかわるだけだ。だから絵に関する限り、肇は日本のマンガを模倣することはやめていた。  マンガはやはり絵だと思っていた。単に物語を語るなら、それは小説でも構わない。マンガで語るのは、マンガでなければならない、何かがあるはずだからだ。そしてそれが絵だと思っていた。だからこそ、肇は人真似の絵がらをきっぱりとやめたのだった。  絵がらのオリジナリティということでは、肇は「さよならニッポン」という連作を描いた大友克洋に注目していたが、どうせ遠からず「大友そっくり」の絵を描く新人が出てくるんだろうなと思っていた。  絵がらには著作権がないからだ。肇は、プロである寺沢とか板橋の作品の中にさえ、フランク・フラゼッタ、ロジャー・ディーンやボリス・ヴァレイホーの構図のパクリを見つけていた。  絵がらでは手塚治虫から遠ざかろう遠ざかろうとしていた肇だが、ストーリーテリングに関する限りは、終始一貫して手塚信者だった。なにしろ、手塚治虫のSF的アイデアはすべてオリジナルなのだ。かなり小説を読み込んで、映画も見まくっている肇には、多くのマンガの元ネタが見えてしまうが、手塚治虫の作品にはまったく元ネタが存在せず、むしろ元ネタにされる方だった。  今、肇が描いている作品も、タッチは海外志向だが、そのストーリーは手塚の「空気の底」「ザ・クレーター」などの短編集に通じるSFマインドだった。  主人公の男は荒涼たる惑星の上を彷徨う遭難者だ。粗末な衣服と僅かの食料しかなく、必然的に絵においては彼の筋肉を描き込む必要があった。おかげで肇は自分を鏡に映して、何枚もデッサンをとった。ダビッド社のデッサン用テキストまで買っていた。むしろそういう絵が描きたいがためのストーリーであるといってもよかった。  また、今回は人物などを立体としてリアルに表現するため、影を強調したかった。そのため舞台となる惑星は、日差しの強い灼熱の星とし、意図的に黒と白のコントラストのきつい、くっきりとした画面構成を狙った。  ストーリーは次のようなものだ。  宇宙で遭難した男は、惑星上にある人類の中継ステーションまで旅をする。その途中、原住民に追われた美女と出会う。このあたり高校時代に読んだC・L・ムーアの「ノースウェスト・スミス」の影響だ。松本零士のイラスト入りの早川SF文庫である。  原住民は、その女を殺すよう忠告するが、主人公はとりあわない。やがて一夜の契りの後、女は死んでしまうのだが、実はその時、男の肉体には卵が産み付けられているのだ。  翌日、仮死状態となった男の体は変形を始め、やがて双子の娘が生まれる。娘たちは男の体を食って急速に成長し、男の旅を続ける。中継ステーションについた娘たちは、そこの二人の駐在員を見てにっこり笑って舌舐めずりをしてエンドマークとなる。AIPのB級SF映画だとこのエンドマークがどろりと溶けて「?」マークになるところだろう。  これは狩人蜂が獲物を仮死状態にして卵を産み付けることにヒントを獲たホラー色の濃いSFだった。  十六枚という枚数も、アメリカのコミック雑誌に掲載されている作品の長さから割り出したものだった。  この制作は集中できた。合宿までの不安感を紛らわしたかったのかもしれない。何しろ夏合宿は何年かに一度は必ず脱走者が出るぞ、言われるほど過酷だと聞かされていたからだ。  生まれて初めての応募先は「だっくす」というマンガ雑誌を想定していた。同人誌に毛の生えた程度の雑誌だが、それでも一応全国誌だった。肇には雑誌が異端であればあるほど浮上のチャンスが高いように思えたからだ。  マンガに関するかぎり、肇は本当の一匹狼だった。  大半のマンガ家が同人誌から出発しているが、肇は一切関わらなかった。確かに地元の同人誌などを手にする機会は多かったが、どうしてもなじめないものがあったのだ。  原因の一つは、同人の多くがまったくプロへの意欲を持っていないということだ。  絵は描き慣れているが、その絵は既存のマンガ家の亜流に過ぎず、大半の作者についてどのマンガ家の信者か指摘することができた。ストーリーテリングに感しても、まったくお寒い限りだ。九割以上が有名作品の下手なパロディで、中には同じ同人の作品をパロディ化したものさえあった。すべて内部で完結していて、外に溢れるエネルギーが感じられないのだ。  数少ないオリジナルストーリーは決まって「ボーイ・ミーツ・ガール」の女々しいラブコメディで、恋愛と縁のない肇は、お前ら恋愛以外に考えることないんか、と腹立たしくなったほどだ。  厳しく言えば(プロごっこ、出版ごっこ)なのだ。  その反動で、肇の絵はますます海外志向になり、ストーリーはダイナミックなものになった。  しかし、まだうまくはない。絵がこなれていないからだ。一枚につき二日はかけた。つたない技術でも時間をかければ何とかなると思っていたし、事実何とかなった。  スクリーントーンは高かったので、二十パーセントと八十パーセントのものをちびちびと使用していたが、今回の作品ではあまり使わずにすみそうだ。  ペンはGぺん、かぶらペン、硝子ペンの三種類と、手製の竹ペンをベタ塗りに使用し、場合によってはからす口とロットリングを使用していた。  (あと三枚か)  残りページのコマ割はすべて終了していた。あとはストーリーの起伏にあわせて、各コマ内の影を考えねばならない。  下書きノートのコマに鉛筆で仮想光線の向きを色々と矢印で引いてみた。  アップのシーンで、どうしても描いたキャラクターの後ろから光を当て、逆行にしたくなった。  肇は立ち上がると、手鏡を持って電灯の下へ立った。鏡をのぞきながら角度を替えてみる。  小さくうなずくと机に向かい、ざっと顔をスケッチしてみた。おおまかな頭蓋骨を描き、皮にあたる輪郭線を描いてみる。影のトーンはおおよそ二種類必要だろう。真影の部分が黒ベタ、地面からの照り帰しで半影になる部分が濃淡二種類、あと輪郭近くのハイライトはホワイトで充分だ。バックは場合によっては放射状の効果線を入れてもよいと思った。  肇の技量ではなかなか難しい。それでもやってやれないことはない。少なくとも、そういった努力の積み重ねで、高校時代から比べると飛躍的に上達はしていたのだ。  だが、こういった努力がいったい本当に実るときが来るのだろうか。  表に出ることなく埋もれてしまうのが大半なのに、何故こんな努力をしなければならないのだろうか。  (考えないことだ)と思った。  人間は時として損得に関する思考を停止して、突っ走らなければならない時がある。そんなことを考えるようになっていた。          *  高校時代の友人たちと会うのは四カ月ぶりだった。浪人しているから、卒業以来一年と四カ月なのだが、水野も滝も桜井も、つまり肇と一緒にマンガを描いていた三人はそろって浪人し予備校まで同期生だった。だから四カ月ぶりなのだ。  四人は夏休みを利用して、下宿している桜井の元に集合していた。肇にとっては合宿の一週間前にあたる。  桜井の下宿で焼肉をやりながらビールと酒を飲んでいた。もう十時を回っている。  テレビでは戦争映画をやっていた。終戦記念日が近いせいだろう、東宝の八・一五シリーズの一つだった。  肇の持参したマンガ原稿を見ながら、「まだやっているんだな」と桜井が感心したように言った。  「栗山は凝りだすと、とことんだから」と水野。  「しかし、上達したね」と滝が感心して言った。  三人がマンガを描くのをやめていると聞いて、肇は少し寂しかった。  彼らがマンガを描き始めたのは高校二年の時だった。たまたま読んだ「COM」という雑誌のバックナンバーに触発され、四人でSFマンガのリレー競作を始めたのがそもそものきっかけだ。しかし、「COM」自体はその時すでに廃刊になっている。  四人とも、その時までペンと墨汁という道具を使用した本格的なマンガを描いたことがなかったが、全員美術クラスを選択していて美術的センスは悪いほうではなかった。マンガの付き合いの前から一緒に展覧会などに行ったり、栄町や伏見の画廊を冷やかしたりする仲間であった。おかげで初めてにしてはかなりのものが描けたのである。それがまた励みになる。だからまた描く、その繰り返しだった。  なにしろ滝などは県芸大への進学を本気で考えていたほどだから、緻密な絵を描かせればプロも逃げ出しそうだった。  百三十枚ほど描いたが、四人の絵はどんどん変わっていった。うまくなると同時に個性化が進んだのだ。  高校三年になって合作はやめた。それでも受験準備の合間を縫って四人は描き続けた。肇の場合だけは描く合間に受験の準備をした。  特に肇は、このころから「キネマ旬報」を読み始め、絵を描かない時はシナリオを書くようになっていたのである。おそらくストーリーテリングが好きなのであろう。文章に自信があれば小説を書いていたに違いない。  浪人するのは当然だった。このころの受験に対する身の入れかたの違いが四人の進学先にくっきりと現われている。  水野は地元私大の雄・南山大学へ進み、おしゃれなキャンパスライフと有利な就職はもう保証されたも同然である。  滝は公立の愛知教育大学へ進み、教員の世界とそこでの出世は保証されたも同然である。  桜井は補欠とはいうものの国立一期校(当時は試験が一期と二期に分れていた)へ滑り込み、関係者を驚愕させた強運の持ち主であった。  肇は一浪後、昨年合格していた愛知大学のみに再び合格する。縁があったのであろう。しかし、地味ながらも愛知大学はこのころ急速に偏差値を上げつつあり、昨年合格した第一希望の文学部史学科には受からず、第二志望の法経学部法学科へ入学するというオチまでついた。とにかく大学生にはなることができ関係者をほっとさせたのである。  まったく別々の学校に進んだ四人だったが、意外なことに全員が体育会に入っていた。  水野と桜井がヨット部、滝が山岳部、そして肇がご存じ少林寺拳法部である。  長髪をばっさりと切った肇が一番「受け」た。長髪といっても肩まであるわけではないが、それでも一九七五年ごろの高校生はみんな肩近くまでは伸ばしていたので、いきなり五分刈りというのはかなりショッキングなのである。肇が最初に床屋で「五分刈り」と言ったときも、店の人間は「本当にいいんですか」と何度も聞き返し、五分ほど鋏みを入れるのに二の足を踏んだぐらいだ。  「似合うぞ、なかなか」と滝。  「怖い」と言ったのは桜井。  水野は「…!」と絶句した。  もっとも四カ月で変わったのは肇だけではない。ヨット部の二人は真黒に焼けているし、山屋の滝はすっかり痩せて、おまけに小汚くなっていた。  「何でみんな体育会なの」と聞いてみた。  うーん、と考えていた水野が、テレビの戦争映画を指差して、「きっとあれだ、戦争がないからだよ」と言った。  「俺はね、前々から感じていたんだけど、あと五年早く生まれたかったよ」  何故ならば、と水野は続けた。  「七十年安保とかビートルズとかを同時代で体験できただろうからね」  (ああ、わかる)と思った。  肇たちの上の世代は、とにかく好むと好まざるとに関わらず、何かにつけ「燃えるもの」があったのだ。「戦う相手」があったのだ。  それは鬼畜米英であり、戦後の生活であり、民主主義であり、安保でありビートルズであった。  「別に俺は右でも左でもないけど、ああいう祭り騒ぎがないもんな、もう」と滝。  「今は賭けるものなど本当に何もない、まさに拓郎の歌そのままだ」と桜井。  「君たちは幸せだ」と、ことあるごとに大人たちは、太平洋戦争や戦後民主主義のうねりや全共闘の挫折などを語って聞かせるが、その「挫折」すら、肇から見れば「かっこいいじゃねえか」と思えたし、ある意味でうらやましかった。少なくとも翻弄されている時は迷うことは少なかろう。  そう、肇たちは試練なき世代、挫折なき世代であり、同時に祭りなき世代であった。  政治の時代にも数年遅れで届かなかった。学生運動にも魅力がなく、社会主義そのものがもう「かっこよくなかった」。第一、肇の周辺でそういうことをしている人間たちが、魅力の乏しい奴ばかりだったのだ。  (ああ、だからこそ彼らは政治活動をやってたのかもしれん)とさえ思った。だいたいなぜあの若さで一つの思想に凝り固まることができるのだろう。自分に自信がないせいなのか肇は一つの思想や宗教に道を見いだすことなどできなかった。  「共犯幻想すら抱けない、遅れてきた世代ってやつだぜ」と滝。  「五年早ければ、少なくともヒッピーぐらいにはなれたかもしれん、あのフラワーチルドレンっての」と水野がぼやいた。  みんなは漠然と、「ふやけた時代」に対する危機感を持っていたようだ。  だから体育会なのだった。もしそこに体育会がなければ、きっと自衛隊かもしれない。多分、右翼にまではなれなかったろう。  肇自身、体育会の縦社会はうんざりだが、それ以上に嫌なのが、批評ばかりで自分では何も産み出さない、うじうじとした文化系の軟弱者だった。そういった連中の集まったサークルの中では女子部員をめぐる恋のさやあて程度のことが人生の一大事で、「絶交」だとが「友情が終わった」だとか大騒ぎ。  そんな愚痴を聞かされたことがあったが、肇は思わず「男になれ!」と一喝したくなったものだ。もっとも実際には何も言わなかったのだが心の中ではあきれていた。  四人は黙々と飲んだ。  奇妙なことに、こういう席につきものの女の話題が出てこない。四人とも、女に関しては縁が薄そうであった。  一番最初に潰れたのは肇だった。その後、一人また一人と潰れていき、最後に潰れたのが滝だった。このころから滝は異様に酒が強かった。だから飲むときはビールとかは早々に切り上げさせ、日本酒とかウイスキーをあてがって予算を低く押さえるのがこつである。  咽の乾きで目を醒すと時計は二時近かった。肇以外の三人はいびきをかいて眠っている。  ザーザーとノイズを流し続けるテレビを消すと、缶ジュースでも買って来るか、と立ち上がった。  トランクスの上からジャージのトレパンをはいて下宿を出た。  町はすっかり燈を落としている。それでも所々明るい窓は、受験生でもいるのだろうか。  去年までの受験生活を思いだした。一つ一つの窓の向こうにやはり家族がいて、泣いたり笑ったりしらけたりしているのだろうか、と考えると不思議な気分になった。  それまで肇はそんなことを思いもしなかったからだ。  大学に入って一人暮らしをはじめたせいかもしれん、と思った。  たしか桜井の下宿から十分ほど歩いたところに、終夜営業の自動販売機コーナーがあったはずだ。国道沿いで、トラックのドライバーや営業車のセールスが眠気ざましに珈琲でも飲むコーナーである。  そう思って歩いていくと、深夜というのにけたたましいバイクの音が聞こえてくる。見ると、その自動販売機コーナーに少年三人と少女一人がしゃがみこんでいた。  三台の単車が留めてあり、そのうちの一台に乗った少年が、わんわんとエンジンを空ぶかしさせているのだ。  マフラーが改造してあるのだろう。とんでもない爆音で、周囲の家はたまらんだろうなと思った。  他の三人は、「うんこ座り」をしてコーラの缶をくわえながら、エンジンの音に負けないような大声でしゃべっている。  肇はゆっくりと販売機に近づいてコインを入れた。バイクの空ぶかしがやんでエンジンの音が小さくなった。缶ジュースを買うと、プルタブを引っ張って缶を開け、ゆっくり飲んだ。  少年たちが会話をやめてじろじろと肇を見た。まるで値踏みでもするかのように無遠慮な目だ。  肇も少年たちを見た。第三書館から出ている暴走族本(ぞくぼん)でしか見たことのなかった実物の暴走族らしい。  珍しかった。  全員がパンチパーマをかけて髪は金色に染めているが、東洋人の顔にはまったく似合わなくて、どう見ても(孫悟空だな)と思った。  館ひろしや岩城晃一の主演する東映の暴走物映画にリアリティがないのは、そのファッションがアメリカの暴走族を手本にしているせいだと思っていたが、その上に、館ひろしと岩城晃一は利口そうな顔だちをしているからなのだと気づいた。  「何見てんだよ」と「うんこ座り」の一人が言うと、つんっとシンナーの匂いがした。コーラの缶の中にシンナーが入っているのだろう。  肇は無視してジュースを飲み干した。  威嚇するようにひときわ大きくエンジンを吹かすと、「シカトしてんじゃねえよ」とバイクの少年が怒鳴った。こいつは白い特攻服を着ている。夏だというのに首には昔の飛行兵のような白いマフラーだ。  ラリっているのだろう。喋り方が巻き舌になっていて、「シカトしてっじゃ、ねっ、よっ」と聞こえる。  そいつの特攻服を見ながら、(英霊が泣くなあ)、と思った。  「俺達を知らんのか」と特攻服がバイクに貼ったステッカーを指差した。やたらと画数の多い漢字だらけのステッカーだった。  むっ、とした肇は「知らん。初対面だ」と言った。  四人は一瞬唖然としたが、次の瞬間には残忍な笑いを浮かべた。  このままでは喧嘩になるなと思ったが、驚いたことに心のどこかに「それもまた良し」と考えている自分がいた。  「ぶるってるんじゃない、この子」と少女。  肇はゆっくりと背中を向けようとした。  「待てやあ」とバイクの少年が降りた。降りると同時にバイクに積んであった棒状の物を取るのが横目に見えた。  木刀だ。  やばいな。  ゆっくりと立ち去ろうとしたが、早足に近づいてくる足音に、素早く振り向いてにらみつけた。  (まずい)  無意識の内に、腰を落としたファイティングポーズをとっていた。  木刀の少年は一瞬立ち止り、次の瞬間「てめえ」と木刀を振りかぶった。  結果的に攻撃を誘ってしまったのだ。  相手の動きはのろく見えた。左にステップアウトすると木刀は肇の右側をかすめて空を切り、勢い余ってアスファルトを、かっ、と叩いた。  木刀を恐れて外へ逃げた肇は、偶然蹴り間合いに入っている。考えるより早く、木刀を上段に構え直してがら空きになった相手の水月(みぞおち)に体重を乗せた右の足刀を蹴り込んだ。  「うっ」と腹を押さえて前のめりにうずくまろうとする顔面に、一歩踏み出しながら逆構えで体重の乗った左ストレートを叩き込む。  確かな手ごたえと同時に、相手の鼻面が一瞬真白になったように見えた。次の瞬間、すーっと吐き出した鼻息に霧のように血が混じるや、ずるずると鼻水をすするような音をたてて鼻血が流れ落ちた。  (まずい)と、またしても思った。鼻を折ってしまったらしい。練習で鼻を折った奴を見たことがあるからこれは間違いない。  白い特攻服の胸元がみるみる赤く染まっていく。右手から抜け落ちた木刀が、アスファルトでからりと乾いた音をたてた。  がくりと膝から折れるようにして倒れる瞬間、相手の目に浮かんだ脅えの色が、ぐさりと胸にささった。  肇はいきなりダッシュして逃げた。練習の時の倍は速く走ったように思えた。  不思議と誰も追ってこない。  夜の町を駆け抜けた。  途中、何度も後ろを振り返りながら道を変えて桜井の下宿に向かっていたが、どうやら道に迷ったらしい。記憶にない場所に出てしまったのだ。  ちょうど小さな公園があり、肇はそのベンチに腰を降ろして息を整えた。  まだ興奮していた。初めて喧嘩をしたのだ。  (きまったのは三級技の転身蹴りだ)と思った。  興奮していながら、それでも技術的なことには妙に冷静なのだった。習慣とは恐ろしいものだ。  その後、相手の(鼻を折ってしまった)ということで少し嫌な気分になった。が、同時に暴力をかさにきたあのチンピラを同じ暴力で殴り倒したことに対して気持ちよさもある。この残忍な喜びは、傷つけたという嫌な気分より遥かに大きかった。相殺してなお、お釣りがくるほどだ。  今にして思えば、自分一人だったのだから、最初から走って逃げればよかったのだ。いや缶を手にしたときからその場を離れてしまえばいいものを、わざわざその場で飲んでいたのはなぜだ。  (なぜあんなことをしたんだ)と言葉にして自問した。  心の奥で小さな声が(知ってるくせに)と答えた。  (そうだ、「おとなしくていい子」だった俺は一度喧嘩がしたかったんだ。ずっと昔から殴られるだけでなく殴りたかった…)  だからこんなに気分がいいんだろう。  そう気づくと、気持ち良さは半分ほどに減ってしまった。  シンナーでラリったチンピラを殴り倒して、勝った負けたもないもんだ。  刀を持てば切りたくなる、銃を持てば撃ちたくなる。覚えた技を使ってみたかったのだ。自分の中のそういった「卑しさ」に直面して、気持ちの良さは消えた。  (馬鹿なことをした)とあらためて思った。怪我をさせたことより、そんな自分に対してうんざりした。  トレパンの膝に一滴だけ血が飛んでいる。  「取れんな、これは」とつぶやいた。  街のどこかで犬が鳴いていた。 第六章    「男組」  学生服のズボンに白のシャツを着ると、我ながら高校生っぽい。こんな地味な服装で旅をするのは中学校以来だった。というのも朝日高校は制服廃止運動が活発で、学生服以外の私服登校が「試験期間」として学校当局から「黙認」されていたからだ。もっとも、この「試験期間」は学生の勢いで、もう数年に及んでいる。  そのため遠足とか林間学校どころか日常の通学でも、みんなジーンズなどで通していた。当然あの頃のジーンズだからベルボトムだ。  旅行だとこれにチューリップハットが加わり、思い出のBGMはキャロルとかツェップ、D・パープルの名曲のイントロ部分が、ダッダッダーッ(スモーク・オン・ザ・ウォーターね)と聞こえてくる。思えば、あの頃の高校には必ず軽音楽部があり、D・パープルのコピーバンドが各高校に二つはあって…、いやもうよそう。  さて、大学生にもなってこれでは「かっこ悪い」とも思ったが、部の方針なのではしかたない。それに、どうせ今の髪型ではこの服以外で似合うのはジャージのトレーニングウェアのみである。いや一番似合うのは袈裟と数珠かもしれんと思った。  なぜならば、合宿に備えて髪はいつも以上に短く五厘に刈ってあったからだ。これは何も肇だけではない。一年全員が五厘なのである。この五厘刈りというのは、もう刈るという生易しいものではなく、どちらかと言えば「剃る」というのに近かった。なにしろ三日ほど髭を剃らなければ、髭の方が髪より長くなるほどの短さなのだ。  ついに今日から合宿であった。場所は石川県羽咋市。  朝八時半に名古屋駅集合なので、肇は昨夜から小牧市の実家に帰っていた。  肇の頭を見たとたん母は笑った。本来なら、合宿で怪我でもしないだろうかとか、がんばるんだよとかの心配が先に立つのだろうが、中学以来の息子の坊主頭に「ぷっ」とか「くっ」とか言った後は、「きゃはははは」と笑って、会話にならなかったのだ。  父も笑いながら、「荒法師だな、まるで」と言った。国語教師らしく「比叡山の僧兵」でもイメージしたのだろうか。  もっとも肇自身、床屋で鏡を見た時は、これで経の一つでも唱えることができれば、ちょっと「かっこいいな」と思ったほどだ。  一瞬でもこれを「かっこいい」と感じたのだから、俺の美的基準はかなり体育会よりにシフトしてしまったのだろう、と思った。  高校三年の弟は、兄の頭を見るなり複雑な表情をして、「大学の体育会ってのは、みんなそうなのかい」と聞いた。  「ここまで徹底しているのは愛知大学でも少林寺拳法部だけだ」と胸を張って(?)答えると、少し安心したような表情で「ふうん」と言った。  確かに愛知大学で髪を切ってしまうのは少林寺拳法部だけで、空手部も柔道部も髪型に規制はなかった。  空手部と柔道部などは「うちは少林寺拳法みたいに坊主にしなくてもいいよ、長髪許可だよ」というのが部員勧誘の一大セールスポイントだったのである。少林寺拳法部がなくなったら、何をセールスポイントにするのであろうか。おそらく少林寺の面めんにとっては髪型というものは実に軽い問題にすぎないのだろう。  どうやら大学の体育学部を受験しようとしているらしい弟は、兄の頭に自分の未来の姿を重ね合わせてショックを受けたようだった。  その弟の「凄いね」という言葉が少々気になる。高校で「番を張っている」という弟が「怖い」ということは、まさに本当に「怖く見える」のであろう。これでは永久に(恋などできん)ということだ。  一度、高御堂を見せて感想を聞いて見たいと思った。  弟とは喧嘩ばかりして、いつも負けていたのだが、さすがに離れて暮らしていると懐かしさが先に立ち、あたかも友達のように接することができた。  昨夜は、頼まれて技をいくつか伝授しておいたぐらいだ。どうやら女の子がらみで隣の高校の番長から「マークされている」らしい。  「兄貴、苦しくとも四年間続けてくれよな」と弟は言った。  兄貴が大学で少林寺拳法をやっている、と言うと「箔がつく」のだそうだ。  まるで東映映画の中でチンピラが「俺のバックには**組の**さんがついとるんじゃい!」というのと同じではないか。  兄としては「やくざな生き方」を改めるよう諭すしかなかった。  ラッシュ時とはいうものの学生は夏休みに入っているし、盆休みの直前でもあるので、名古屋駅までの電車の中では、それほど混雑を感じずにすんだ。もっとも恐怖を感じた乗客の多くが、肇を避けたせいもある。当然この恐怖はいわれのないものである。外見だけで周囲から恐怖されるのはいい気持ちではなかった。  その路線をホームグラウンドとする不良高校生たちとも同じ車両になった。彼らは二人で五人分のシートに座り、辺りを睥睨しながら大声でしゃべっていた。名古屋駅周辺の「盛り場」へでも行くのだろう。  肇がその車両に足を踏み入れた時から、びんびんと視線をぶつけてくる。弟に言わせれば「ガンを飛ばしてくる」というやつ。肇の身体がでかいということもあるが、何といっても青々とした五厘の頭は目立つのだ。再び弟の言葉を借りれば「気合いの入った頭」というわけ。おまけに高校生のような服装をしているので「商売敵」と思われたらしい。  (情けない)と思った。  それでも肇が「じろり」と見返すと、しばらくして、すっ、と視線を反らして話し声まで小さくなった。  肇は百八十センチ近い上背があって(弟いわく「タッパがある」)一見怖そうな上、目つきが悪かったのが幸いしたのだろう。何も「ガン」を返したわけではなかった。単に目つきが悪いということにすぎない。近視なのだ。  昔、何かの本で山の中で野犬や熊に会ったとき、じっと目を見て相手をすくませるとかいう記述があったのを思いだした。  名古屋駅のコンコースへ着くと、集合場所の時計下には、もう三浦たちが来ていた。  広い構内に青い頭が燦然と輝いていて、これでは絶対にはぐれる心配はなかろうと思えた。  集団とは恐ろしいもので、五厘頭も七人揃うと恥ずかしさとは無縁になる。お互いの頭を見ながら、みんなで散々笑いあった。特に小柄な都築は「マルコメみそ」のCMのようだったし、逆に、ドスの効いた高御堂は、たった今刑期を勤め上げてきたように見えた。  三年生以下の部員はここで集合して、「全員」で合宿地に向かうことになっている。  先輩からは、一人で行くと途中で逃げたくなるからな、というもっともらしい理由を聞かされた。それが、あながち嘘ではなさそうなのが一年生の不安を煽り立てる。  「すげえ頭だな、お前たちの気合いには負けそうだ」と二年が感心して言った。  「えっ、一年は五厘なんでしょ」と聞いた深尾に、水木は「そんな残酷ことさせるのは**工業大ぐらいなもんだぞ」と呆れたように言った。  「しまった騙された」と深尾。  どうやら他の部が、「少林寺の合宿は…」と言っていた噂を、一年が真に受けてしまったのだ。いうなればこれは髪の切り損というやつ。  高御堂が静かに言った。  「いいじゃん、来年から一年生はみんなこうするという伝統にすればいいんだよ」  肇は体育会の中で、伝統的な慣習が誕生する瞬間を見たような気がした。事実、この習慣はこの後何年も続くことになるのだった。  二年生は一年を整列させた。そろそろ準幹部が到着するのだ。  二年の水木が走って戻ってきた。先程から頻繁に電話をかけているようだ。同じ二年の朽木に顔を寄せると、ひそひそと話している。  「もう家は出ているらしい」  「隠れているんじゃないか」  隣の都築が、肇にそっと言った。  「大田先輩、まだ来てないらしい」  「後から来るのかい」  都築は黙って首を振った。  水木たちの会話には、「脱走」とか「行方不明」とかの言葉が混じっていた。  一年生よりは確実に楽なはずの二年生が事前に逃げ出してしまいたくなるほどの合宿…。一年生を覆う不安の影の原因はこれだったのだ。  肇は入部早々の四月に、三日間、練習を逃げたことを思い出した。  厳しい練習と、それ以上に体育会の縦社会に嫌気がさし、大学を辞めてもう一度浪人しようかとまで思いつめていた。  当てもなく電車に乗って、浜松と磐田で一泊したあと、実家に帰って両親に相談した。  母は「嫌なら辞めなさい」と言った。  しかし、父は、ずっと文科系でやってきた息子が体育会に入ったことを、かなり意義有ることととらえていたらしく「ここで辞めたら、お前は一生つらいことから逃げる癖がつく」と言った。  そして「勉強なぞ二の次で、とにかく四年間やってみたらどうだ」と励ましてくれたのだった。  思えば、こんな体験はこの四年間だけで、この機会を逃せば、おそらく一生経験することはできまいとも思えた。  父は「時には何も考えず、ばかばかしいことをばかになってやってみろ」とも言った。  肇も「よしっ、ばかになったつもりでやってみよう」と覚悟を決めたのだった。  蛇足ではあるが、四年後、息子の卒業に際して、父は「本当にばかになるとは思わなかった」と深い後悔をすることになるのである。  さて、そろそろ集合場所に準幹部が姿を現し初めた頃、一人の中年の「おっさん」がやってきた。赤ら顔で酒の匂いがした。醤油で煮しめたような菜っ葉服で、手には破れかけの名鉄メルサの紙バッグを持っている。  少林寺の連中に親しげに話しかけてくる。最初はOBかと思って二年が対処していたが、どうみても「ただのおっさん」だった。  やがて「おっさん」は少し離れたところに引っ込むと、首を傾げたりしながらじろじろとこちらを見ている。  「OBかな」と三浦。  「あんなOB、やだよ」と市川。現役としては当然の感想だ。おっさんはどう見ても浮浪者(差別表現を恐れず当時の言葉を使ってみたが、ちゃんとワープロの辞書に入ってた!)、今風に言えばホームレスだった。  じきに準幹部たちがやってきて、怒号のような挨拶が繰り広げられた。  それを聞いたおっさんは、突然、何を血迷ったのか「ガンバレー!」と叫んだ。  思わず全員が唖然とした。  (やはりOBだったのか?)  「優勝してこーい!」  (?)  この「?」マークは、一年から準幹部までが等しく抱いたものである。  「危ないぞ、この人」と準幹部が言い、全員をホームへ向かわせる事にした。  慌てて移動を初めた肇たちの背に、「ばんざーい!」と言う声が聞こえてきた。  しょうがなく「ありがとう」と言いながら改札を通ったのだが、さらにおっさんは「がんばれー、東邦高校!」と叫んで、部員全員が気づいた。  おっさんは肇たちを甲子園球児と思い込んでいるのだった。名古屋駅の主(当然駅長という意味じゃない)らしいおっさんは毎年高校球児を見てきたのであろう。その彼が間違えたのである。全員が大笑いした。  どうやらおっさんのおかげで、合宿に対する不安は少しだけ軽くなったのだった。  合宿の宿は、羽咋の海岸から三キロほど離れた松風という旅館だった。老朽した造りを見ただけで学生の合宿によく使われているのがわかった。年々建て増しを続けて建物の廊下は複雑に曲折し、さらに登り降りしていた。  おそらく宿のオーナーは老朽化に対応して改築を繰り返し、ある時点を境にして一般の泊まり客に対する利益率の高い仕事を諦め、学生の合宿といういわば薄利多売に転じたのであろう。  宿に着いたのは三時過ぎだ。準幹部がてきぱきと部屋を指定した。その間、一年生の一部が国鉄の駅留めで送った荷物を取りに行った。胴とかプロテクター、部旗、救急箱などが四つの梱包に分けて送ってあったのだ。  部屋は一年・二年の兵隊部屋と準幹部室・幹部室の大部屋が三つだ。一・二年が同じ部屋なのは当然一年生の脱走を二年が監視するためでもある。  幹部たちは四時過ぎに到着した。二台の車に分乗して完全に行楽気分だ。  この合宿を本当の意味で旅として楽しんでいるのが幹部たちだけなのだ。みんなジーンズとかグルカショーツとかの「お気楽」な格好で、「いいじゃねえか、幹部たちは」と二年の朽木は悔し紛れにこぼしていた。  一年生は、幹部部屋に二名、準幹部部屋に一名が常駐し、奴隷として雑用をすることになっていた。二十分で交代ということになっている。  奴隷部屋(当然、一・二年の部屋である。二年生はいわば奴隷頭といったところだ)を整理していると、幹部担当をしていた市川が戻ってきた。時間より少し早い。苦い微笑みのような複雑な表情をしていた。  けげんそうに見つめる肇たちに、「これ」と言って一本の木の枝を差し出した。  何処かで拾ってきたものだろうか、太くて堅そうだ。まだ小枝がいくつもついている。  「何だよ」と三浦。  「幹部さんが、怪我をしないよう、これの小枝を削っておけって」  「まっ、まさか」と言った朽木に市川は「そのまさかであります」 と答えた。  全員の脳裏に閃いた言葉、  愛大精神注入棒!  何というおぞましい言葉であろうか。  「あれを捨てなければよかった」と高御堂が二年に聞こえないようにつぶやいた。  「あれ」について説明しよう。夏休み前に一年だけで部室の掃除をした時のことだった。動かしたロッカーの後ろから五十センチほどの長さの棒が転がり出たのだ。  「なんだ」と拾い上げた三浦が「げっ」と言ってのけぞった。  ほこりにまみれたその棒には、昭和四十*年の年号とともに墨で書かれた「愛大精神注入棒」の文字があった。  三浦の声に集まった一年生全員が、やはり「げっ」と叫んでのけぞった。  棒の使い道についての説明は不要であろう。  「こんなものがあったとは」と高御堂がつぶやいた。  「どうしよう」と肇。  「こんなものがありましたって幹部に見せたら…、いい結果にはならんだろうな」と高御堂が言った。  こんなものを発見したと知れば、幹部は必ず使いたくなる。使われる奴隷はたまったものではない。幸い現在は、こんな棒は使っていないのだ。  おそらく幹部すらこの棒の存在は知らないのではないかと思われた。  「みんな、これは見なかったことにしようじゃないか」と高御堂が言うと、即座にそうだそうだと同意の声が上がった。  結局、その棒は高御堂が捨てにいった。闇から闇へと葬り去ったのだ。  市川が幹部から渡された棒は、太さも長さも「あれ」の二倍以上あった。まさに「あれ」の方がましだったのだ。  「とほほ」と情けない声を上げ、深尾がカッターで枝を削った。なかなか見事な手さばきだ。  「ばれない程度に細くしろ」という水木の指示で、深尾は細心の注意をはらって削った。おかげで、枝は表面をきれいに処理され、まるで工芸品のような出来栄えであった。土産物屋の店頭に飾って置けば、まちがいなく修学旅行の中学生が買ってしまうに違いない。  (すばらしい出来栄え、でも全然嬉しくない)と肇は思った。  一年も二年も喜べるはずがなかった。ただ棒を幹部室に持参した深尾の話では、幹部はその出来映えに感動し、深尾にビールを飲ませてくれたそうだ。そして、「もう一本欲しいな」と言われたのだった。  テーブルに夕食が並んでいる。一年から三年準幹部までがテーブルの前に正座して、幹部の現われるのを待っている。  廊下を足音が近づいてきた。幹部係の都築だ。  「幹部さんがみえられました」という都築の声と同時に幹部たちが入ってきた。  おなじみ怒号の挨拶に向かえられ、幹部たちはおもむろにテーブルにつく。幹部の前には一年生、準幹部の前には二年生が正座している。  結局、大田はやってこなかった。一身上の都合ということになっているが、これは明らかに脱走である。いや、合宿に来ていないのだから、正確には脱走と言うより逃走である。二年生と準幹部は、これが練習の上でどのような形となって現われるかを心配していた。おそらく連帯責任として厳しいしごきになるに違いない。  食事の前に、幹部より合宿日程が告げられた。  明日から一週間、練習は朝一時間、午前二時間、午後三時間の一日六時間であった。  午前・午後の練習は「近く」に借りた町民体育館で行なう。そこまでの移動はランニングである、と言うことだ。  全員が合掌して食事が始まった。一年は幹部の給仕をしなければならない。いちいち「お茶でございます」「お代わりでございます」とやっているので、おちおち食事をしている暇もないのだった。  食事が終わると今度は風呂だ。一年は「お背中流し要員」として幹部と同行する。やはりじっくりと湯につかる暇はないが、結果として準幹部よりも先に風呂に入れた。おまけに幹部からジュースやビールを奢ってもらえる可能性も高い。とはいえ、そんな特典がなくても、風呂は一人でゆっくりと入りたいのが人情だ。  あたふたと夜が更けて、幹部付きの係が部屋に帰ってきたのは十一時近かった。  一年生が全員揃ったところで二年の水木が言った。  「今から、お前たち兵隊のスケジュールを発表する。いいか、朝は朝練の三十分前に起床。準備をして、十五分前に準幹部を呼びに行く。そして十分前に幹部を呼びに行く」  それから、と水木は続けた。  「午前・午後の練習場所である体育館は、ここから片道三・六キロある。準備の者は一時間前に出発する。それ以外の者は三十分前に出発する。可哀相だが移動の時間は練習時間には含まれない。以上」  ということは、往復一時間の二回で練習時間は実質八時間。早朝に海まで約三キロを往復走るとして、一日トータル二十・四キロ走るのだ!  計算をして、肇は(ぎゃっ!)と思った。  まるで陸上部ではないか。  そういえばボクシングにはロードワークがあり、日本拳法部の連中もうんざりするほど走っている。結局、格闘系のスポーツや武道にとっては、走りは欠かせぬメニューなのだった。  他の一年も瞬時にして同じような計算をしたのだろう。声にならぬうめき声が聞こえてくる。アメリカ映画なら、頭を抱えて「オゥ、ジーザス」とか「オーマイガッ」とつぶやくところだ。  とにかく長い一週間になりそうだった。 第七章  「暑そうだな」と都築が言った。  まだ朝の六時半だというのに、日差しが強い。小部旗を立て、旅 館の前に整列した部員たちは、すでに鼻の頭に汗をかいていた。  合宿初日の最初の練習ということもあり、全員の横顔に緊張が漂 っているのがわかった。  「幹部さんがみえられました!」という中原の声が聞こえた。彼 は今朝の幹部接待についている。  早朝ランニングのリーダーは誰であろうか、おそらく走りに強い 小島副将あたりだろうなと思っていると、旅館の玄関ががらりと開 き、案の定、短パンにスニーカーという軽装の小島が走り出て「お 早うございます!」という怒号の挨拶に迎えられている。  (今朝のペースはきついぞ)と肇は覚悟を決めた。  小島は手に昨夜の深尾の作品を持っていた。  「ただいまより早朝練習を始めます。まず柔軟体操。屈伸!」  全員で気合いを入れながら屈伸を開始する。さらに伸脚、アキレス腱、ジャンプと、五分ほど全員で柔軟体操をして体をほぐしたが、それでも体は半分眠っている。  小島が叫んだ。  「行くぞ!」  「おう!」と全員が気合いで応えて走り出した。  「愛大!」  「おう!」  「愛大!」  「おう!」と気合いをかけながら早朝の街を駆けていく。静かな街頭に肇たちの気合いがわんわんと響いた。  犬を連れた親子連れがびっくりしたように振り返る。  前日にコースを検討してあったのだろう、小島は道に迷うこともなく、予想通りのハイペースで飛ばしていく。一年は小部旗を掲揚して走っていた。先頭を小島が走り、その後から二列になってついていくのだ。  部旗はかなりの重さなので、電柱二本の間隔をだいたいの目安として、次の者が手を叩いて合図をすると同時に旗手が交代することになっていた。そして後続の一年は、翻る旗が電柱や立ち木にからまないよう注意をはらうのだ。  狭い歩道をこうやって走るのは、通行人にはかなり迷惑なことであろうと感じた。  部旗をバトンタッチする時が一番危なかった。足元がおろそかになり、凸凹があると転倒の危険もある。逆に足元に気をとられていると交通標識の低いものに頭をぶつけることがある。深尾は6月にこの事故をやってしまい四針ほど頭を縫って白いハゲが残っていた。 通常なら別に気にならないのだが、五厘刈りだとよく目だった。  部旗に気をとられて気合いが小さくなると、後ろから二年生にどやされた。肉体プラス精神の苦痛である。  (く、苦しい)  まだ醒めかけの心臓がどきどきと悲鳴を上げる。  街中に響き渡る気合いの声に、職場に向かう勤め人が好奇に満ち た目を向けてくる。  人どおりのある町中を通り抜けるとやや走りやすくなった。周りには畑が広がりだし、その所々に朝早くから野良仕事に精を出す老人たちの姿が見える。  時ならぬ気合いに、何事かしらんと顔を上げた老婆が、近づいてくる肇たちに目を丸くした。  青々とした頭の若い坊主たちを先頭にした集団が、少林寺の旗を立て、しかも道着の胸には卍のマーク…。  肇は、通り過ぎざま、老婆が深々と頭を垂れて合掌するのを見た。  (そんなにありがたく見えたのだろうか)と思った。それでも、余りの苦しさに笑うこともできなかった。  十五分ほどで海岸に着いた。宿から四キロ前後だろうか。砂というより砂利のような海岸だ。  「調息!」という号令で、部員たちは大きな円陣を組んで深呼吸をした。  肇の呼吸がほとんど回復しないうちに、冷酷にも「五列縦隊!」と号令がかかる。ダッシュだ。  「ダッシュ五本!」  五人一組でダッシュをやらされた。組の中でのどんじりを集めてさらにダッシュ。そのどんじりにまたペナルティのダッシュが課せられる。  肇はすべてのダッシュにエントリーさせられた。走るのは苦手なのだ。  (くそっ、情けない)と思った。こうやって人よりたくさん走らされれば、いずれは追い付いていくのである。  次に待っていたのは基本練習だった。  少林寺とか空手とかの打撃系格闘技が、海岸というロケーションでやることはただ一つ。映画や劇画でおなじみの千本突き・千本蹴りだ。  海に向かって一列に並び、小島副将の気合いに合わせて突き・蹴りを出す。  小島は「精神注入棒」を肩にして全員の間を回り、一年の型を矯正していた。  手を抜いて蹴りの低くなった部員の前へ来ると、蹴り足の前に棒を差し出し、「棒に触らんよう蹴れ」と言った。そうするためには腿を高く上げねばならないからだ。  驚いたことに、合宿を通じて、この棒はこういう使用しかされず、ついに部員の尻に振り下ろされることはなかったのだ。  行きと同じコースを走って帰ってくると、時間はちょうど七時半。準幹部と二年は部屋に引き上げたが、一年生は朝食準備と幹部接待で休む間もない。  朝食はなかなかうまかった。すでに一汗かいて体が目を覚ましているからだろう。  食べ終わって三十分も経たないうちに、先発隊の市川と都築が胴や救急箱などの入った信玄袋を担いで出発した。一人で二つ運ぶことになる。当然彼らは歩きであった。  その後ろ姿を見送って、中原は「まるでシェルパだな」と言った。  午前中も九時を過ぎると、ますます暑くなった。蝉の声が聞こえてくる。高校の頃は、寝ころんで本でも読みながら、アンニュイに満ちた時を楽しんでいたのに…、と思った。  目の前に汗をかいたカルピスのグラスが浮かんでくる。そんなことを考えてはいけないのだった。つらくなるだけだ。  九時半かっきりに部員たちは体育館へ出発した。当然、小部旗を押し立ててである。  もっとも先頭に立つのは準幹部であるから、ペースは配分している。このあと午前・午後の練習は五時間も残っているからだ。  走りだすと、すぐに汗が吹き出してきた。日差しが坊主頭にちくちくと刺さる。  三・六キロと聞いていたが、もっとあるように感じられた。特に大半の一年生は体育館の場所を知らないのだからよけいに遠く感じた。  のどかな田園風景も、走っているつらさで(いい気なもんだがや)と妙にひねくれた感想を抱いてしまう。  小学校や公民館といったそれらしい建物が近づくたびに、  (着いたかな)と思うのだが、その期待を裏切って、先頭の準幹部は通り過ぎていく。  三十分ほど走って先発隊に追いついたところが練習場所として借りている体育館だった。  二年と三年が一息入れている間に、一年は汗を滴らせながら道場の準備を整えた。正面に旗を張り、胴を並べ、おしぼりを準備する。  準備をしながら、これは遠いぞ、と肇はうんざりしていた。  すべての準備が整った十時ちょうどに、幹部が車でやってきた。  鎮魂行の後、基本練習が始まった。ランニングで消耗している肇は早くも顎が出そうだ。部員たちの足元にぼたぼたと汗が落ち、たちまち染みが広がった。  よくここまで汗が出るものだ、と思った。スリップして転倒するのを防ぐため、突き蹴り前進の前に、一年生が床を拭いて回った。  前半が終わり休憩に入ったが、部員たちの並んで座った跡に、汗は人数分の長い染みを作った。  後半は筋力トレーニングが中心になった。これまたきつい。それでも心臓に負担はかからないので、肇は多少エネルギーを回復できたのだった。  みっちり二時間の練習が終わると、幹部はさっと車で引き上げた。  肇たちは再び部旗を押し立てて宿へ走った。  走っていても、周囲を見る余裕などなかった。気合いを入れながら、部旗と前を走る仲間の背中だけを見つめて、自分の頭の中が真白になっていくのを感じた。  「吸う、吸う、吐く、吐く、吸う、吸う、吐く、吐く…」  ああ、まさに行だ。どこかで読んだ「千日回峯」という密教の行を思い出した。  昼食はあまり食べられなかった。幹部の給仕のせいばかりではない。午後から再び練習だと思うとそれだけでげんなりしたのだ。  まだ初日だと思ってさらにげんなりした。  全員が無口である。  野球などのボールゲームならリーグ優勝とか色々な目標があるだろうが、少林寺の練習は基本的に修業であり勝敗とは縁のないものだ。まさに練習の目的は精神力とか一致団結とかの抽象的なものにしかなりえない。そんな抽象物に対してここまでがんばってしまうのだから、俺達ってすごく真面目なのかも知れないと思えた。  食事後三十分で、もう「シェルパ」たちが出発した。今ではこの「シェルパ」は役得であることがわかった。体育館までの一時間、先輩の目から自由になり、おまけにランニングがさぼれるのだ。  昼食後のわずかの時間で、一週間分のシェルパ勤務のシフト表が作られたぐらいだ。  午後は三時間の練習だ。ランニングで体育館に着いた段階で、一年の大半がばてていた。前半の基本は、まさに気合いのみ、今にも倒れそうな気がした。これに比べれば、通常の練習は天国であったと思えた。  幹部は精神注入棒で床を叩いて気合いを入れる。入部以来、一番つらかった。まさに強制されねば絶対にこなせない練習である。  後半の柔法練習でようやく回復した。少なくとも宿へ帰れる程度には回復したのだ。  夕食はついに食べられなかった。少し食べたのだが、後から全部吐いてしまった。  あれだけ汗をかいてもちゃんと小便が出た。珈琲のような色で、これが血尿というやつだった。  (ああ青春小説と同じだわい)と思った。  さすがに二年・三年は体ができているのだろう。どんぶりで何杯もお代わりをしている。  夕食後、準幹部が幹部室に呼ばれた。部屋の外に準幹部たちの「はい!はい!」という気合いの入った返事が聞こえてくる。  次は二年生が準幹部に呼ばれて同様の事が行なわれた。「括入れ」であった。  二年生は戻ってくると一年を正座させた。  「お前たち、今日は苦しかったろう」と水木。  「はい!」  「苦しいだろうが、苦しい顔を見せるな。気合いを入れろ。気合いが抜けると事故のもとだ」  浅間が言った。  「明日以降、OBがちょくちょく顔を出す。とにかく弱った顔は見せぬよう」  「それから」と朽木が言った。  「合宿には夜襲というのがある。夜間特別練習のことだ。まず二日目から三日目が危ない。幹部に付いている奴は十分注意して、気配を感じたときはすみやかに報告するよう。以上」  その後、幹部接待が十一時まで続いて就眠となった。  なまっていた体にいきなりの全力練習で、疲労は激しかった。全員が死んだように眠った。死ねばもっと楽だろうとも思えたが、あいにく人間の体は以外とタフにできているものだ。  翌日も六時になると全員がぱっちりと目を覚ました。緊張していれば大抵のことができるのである。  二日目は、目覚めると同時に全身の筋肉がきしんだ。全員が「うーむ」とか、「痛てえ」などと苦しげにうめきながら身を起こした。  早朝練習のランニングでは、またもや婆さんに合掌をされた。驚いたことに婆さんは二人に増えている。遠くから肇達を見つけると、昨日の婆さんが「あれ、あれ」とでも言うように、もう一人の婆さんに話しかけ、二人で顔を合わせて何やらうなずくと揃って合掌したのだ。明日はお布施をいただけるかもしれんと思った。  幹部も今朝は二人走っている。この婆さんの「朝の合掌」を見るために出てきたのだ。  ランニングは身体の目覚めていない朝が一番きつい。肇は走りながら、心底「逃げたい」と思う瞬間があった。走るのをやめることができるなら怪我をしてもいいとまで思った。  通りを車が走ってくるとき、ふらりと歩道からよろめき出るだけでいいのだ。  結局、肇は毎朝その誘惑と戦いながら走ることになった。  この二日めの昼から飯がまた食えるようになった。合宿のリズムに体が馴れ始めたのだ。  同時に、気合いである程度肉体の限界を越えることができるという気がしてきた。  例えば、「だめだ、だめだ」と思ってだらだらとやるよりは、気合いを入れて、動と静、めりはりを効かした方が疲労が少ないように感じるのだ。  二日目の夜だった。  「失礼いたします」と言って肇は幹部の部屋に入った。  「おう栗山、整体やってくれ」と坂本が言った。  整体術は少林寺の学科にも入っている。早い話がマッサージとかカイロプラクティックのようなもので、これを上手にやってもらうと本当に気持ち良くて、眠ってしまうほどだ。逆に真剣に施すほうは、大いに疲れてしまう。  一年生は練習以外にこういう仕事もあるのだった。  肇はうつぶせになった坂本の上にまたがり整体を行なった。この坂本という幹部は、後輩いびりが上手だった。どんなように上手かというと、周囲だけでなくいびられている本人さえ思わず笑ってしまうようないびりで、これは本人が傷つかないだけでなく、練習の厳しさにちょっとしたゆとりさえ生んでしまうという不思議なものだった。  ぽたぽたと落ちそうになる汗をTシャツの袖で拭いながら、うんうんと気合いを込めていると、「おい、何か歌え」と言われた。  肇は何曲か「ど演歌」を歌った。それしか許されないからだ。  坂本は「栗山、お前、春歌とか軍歌ってあんまり知らんだろう」と言った。  「はあ、知りません」  「教えてやるから覚えて帰れ」  「ありがとうございます」  「俺の後からついて歌えよ」  「はい」  坂本が歌い始めた。  「あなたのリードで島田も揺れる」  「あなたのリードで島田も揺れる」  「チークダンスの悩ましさ」  「チークダンスの悩ましさ」  「乱れるすその…」  言わずと知れた「芸者ワルツ」だ。整体の間、ずっと歌わされた。  「坂本、あんまり変な歌を教えるなよ」と松浦が笑った。  「そんなことないぞ、勉強になったよな」、おい、と同意を求められ、肇は、「はいっ、ありがとうございました」と言った。  それ以外に何と言えばいいのだろう。  「栗山、お前はいい咽しているから、しばらく人間ジュークボックスをやっていけ」と小島が言った。  「はっ?」と言う肇に、「まず押し入れに入れ」と指示が飛んだ。  慌ててお仕入れに入ると外から戸を閉められた。押し入れの中は狭かったが暗やみということもあり、かなり寛いだ姿勢が取れた。幹部接待等で満足に腰も下ろしていなかったから、これは有り難いと思った。  「番号を言うから適当に歌えよ」と小島が言った。  「はいっ」と応えると同時に、「Bの五」と声がかかった。  「う、ういーん」とマイクロモーターの擬音を入れた後、「わわわわぁー、わわわわぁー」と口で伴奏を入れ、「中の島ブルース」を歌った。  「次は何を歌う気かな」とか言いながら、今度は松浦が「Aの二」と言った。  肇はとっさに考えると、今度は「ちゃららんらんらんらんらん」とアップテンポな伴奏を入れて「青い山脈」を歌った。  幹部の笑い声が聞こえてくる。  暗やみの中で何曲か歌っているうちに、外が静かになった。  幹部が何人か出たり入ったりしていたらしいが、今はしんと静まりかえっている。  (早く出してくれないかな)と思いながらも、指示のあるまでは出ることができない。  (これは困った)  そのうち、柔らかな布団の上にいるだけで眠くなってしまい、少しうとうとした。  「失礼します!」と言う声に、はっと目を覚ました。二年の水木と準幹部の笠松の声だ。  (何だろう)と耳を澄ましていると、「実は栗山が、」といきなり肇の名前が出た。  (俺がどうしたっていうんだ)  「脱走しました」  (!)  幹部の坂本が「何っ?」と叫んだ。  部屋の中に一瞬、重い沈黙が漂った。  肇はどうしようかと思ったが、とりあえず軽挙盲動を慎んでじっと息を殺した。  そこへ「ええ湯だった」と、妙にのんびりした声で松浦が入ってきた。  坂本から事情を聞いて「あれっ、栗山、さっきまで押し入れの中で歌っとったがや」と言った。  坂本は「あの後だれか出してやったか」と聞いた。いや、俺は便所にいっとったから、とか、お前言ったろ、とかの幹部たちの声が聞こえた。  「まだ中かもしれんぞ」と小島。  「まさか」と松浦。  「呼んでみろ」、いやいるはずないとか言っているうちに、いきなり坂本が「栗山っ」と呼んだ。  (助かった)と思って大きな声で「はいっ!」と応えると、部屋中に大爆笑が起こった。  「す、すまん、も、もう出ていいぞ」と笑いながら小島が言った。  何とも間抜けだなあ、と思いながら押し入れを開けると、さらに大きな笑いが起きた。  笑い転げる幹部たちの中で、水木と笠松が唖然としたように立っていた。  良く見ると頬が引き攣っている。笑いをこらえていたのだ。  後から聞いた話だが、てっきり脱走と思われて、一年と二年の捜索隊が国鉄の駅まで行ったそうだ。  逆算すると幹部の部屋で丸々二時間は寝ていたらしい。肇は押し入れの中で寝ていたことだけは合宿終了まで言わなかった。 第八章     吼えろ鉄拳  合宿三日目の昼、歳のころは三十ぐらいの男性が旅館にやってきた。通りかかった肇に「愛知大学の合宿はここですか」と尋ねてきたので「そうです」と答えていると、いきなり後ろで「ちわっ!」と叫ぶ者がいる。振り向くと二年の浅間であった。  「先輩ごぶさたしております」という浅間の言葉にOBだとわかり、あわてて「ちわっ」とあいさつした。ずいぶん間抜けなタイミングだった。浅間の目が肇を責めている。  週末ということもあり、仕事を終えた後、こちらへ来たのであろう。  本多というそのOBは温厚な紳士に見えたが、幹部以下三年・二年は目に見えて緊張している。その気配がぴりぴりと一年にまで伝わってきて、おかげで肇たちもわけのわからぬまま緊張を強いられたのだ。  あいさつに関する肇の失敗談はたちまち一年生の間に広まり、以後少しでもOBくさい人物が現われた場合は、とりあえず叫んでみるという方法が採用された。おかげでこの期間、多くの宿泊客が度肝を抜かれることになり旅館にはかなりの迷惑をかけたようだ。  OBの接待は二年の仕事だが、さすがに奴隷経験が一年長いだけに彼らの応対は慣れたものだ。  肇と深尾が洗面所でおしぼりを用意していると、水木がお茶を取りに来た。  「おい、午後の練習はOBが見てるからいつも以上に気合いを入れろよ」  興味をもった深尾が「あのう、本多さんはどんな先輩だったのですか」と聞くと、水木は「俺もよくは知らないが、えれえ怖かったそうだ」と言った。  何でも、今の幹部が一年の時の幹部だそうで、それなら「怖い」というのは当然のことであり、水木の答えは何ら答えになっていないなと思った。  一年生にとって幹部は無条件に「怖い」存在だからだ。  まさにOBとは、現役の部員、特に一年生にとっては謎の人だった。ただ一つ確実なのは、OBが来ると練習がきつくなるということだ。  おかげで午後の練習は血を吐くような熾烈なものとなった。幹部もOBの手前、(指導に)全力を尽くすからだ。  それでも合宿の折り返し地点に近づき、肇たちも体力的に余裕が出てきたようだ。  食欲からもそれは言えた。もう「食べられない、食べられる」というレベルを越えて、果てしなく腹が減っているのだ。さすがに昼間はそうでもないが、夕食から就眠中にかけては、疲労を回復して筋肉を作るために体がエネルギーを欲するのだろう。寝ていても、ものを食べている夢を見るほどだった。  朝食には必ず生卵が出たが、後片付けの時に決まって一個か二個は余っていた。肇はいつも、それをポケットに忍び込ませて部屋に持ち帰り、暇を見つけては飲んでいた。  古釘で殻に穴を開け、チューチューと飲むのだ。  「よくそんな気持ちの悪いことができるな」と都築が言った。  「蛋白質を摂取して筋肉に変えるんだよ」と肇。  もっとも都築も自宅の近くのディスカウントストアでまとめ買いしてきたリポビタンDスーパーを愛飲していた。いつも彼は、一番きつい午後練習の前にこいつを飲むのだった。これは一種のドーピングだろう。  高御堂は合宿が終わるまで髭を剃らないと誓いを立てていたし、三浦は煙草を断っていた。市川は成田山の御守りを首から下げ、二年の中には合宿終了までパンツを替えないという恐ろしい誓いを立てている者さえいた。誰もが何らかのジンクスを持っていたのだ。  苦しい時の神頼みとは、よく言ったもので、何かに頼って、それを心のよりどころにしているわけだ。  この翌年からは、ゲータレードとかXL1とかのスポーツ飲料が少林寺部内で爆発的に流行るのだが(これを流行らせたのは、またしても雑誌ポパイ、ああ、あのころは総ての若者がポパイに踊らされていたのだ)、まだこの年には発売されてなかった。  食欲の次は睡眠だ。  二年と三年は、隙を見つけては眠ることができるが、忙しい一年はそうはいかない。  勢い、幹部室の外で待機しているときなどに、いつでも起きれるように立ったまま、壁にもたれてうとうとすることになる。  鎮魂行の最中に船を漕ぎかける奴もいた。  特に午前の練習前の鎮魂行は睡魔との戦いで、瞑目しているわずか一分強の間に夢を見ることすらあったのだ。  このとんでもない合宿の様子を見て「本当に鬼のような先輩たちだねえ」と旅館の女中さんたちは目を丸くしていた。そして時々一年生にこっそりとみかんやジュースなどを差し入れしてくれたのだ。  特に可愛らしい顔の深尾が同情と人気を集めていた。  「もてるなあ」と三浦がからかう度に、深尾はいつも憮然とした表情で「あまり嬉しくない」とこぼした。  残念なことに女中さんたちは母のような年令の方ばかりで、淡い恋など芽生えようもなかったのだ。  (青春小説とは全然違うわい)と思った。  この夜は演芸大会が行なわれた。OBが差し入れたビール券が使用されたのだ。  大会に先立って、いつものように二年から注意を受けた。  「いいか、芸とはいえ気合いを入れてやれよ」と水木が言った。  たかが芸に「気合い」も何もなかろうと思うのだが、そこが体育会なのだ。  「各自、必ず一つは芸をすること」という言葉に一年生全員が腕を組んで考え込んだ。  第一、そんな芸達者ばかりが揃うはずがない。聞けば、一・二年は必ず芸をしなければならないという有無を言わせぬ決まりなのだ。  これはもう試練である。  肇は無芸であった。いや大半の人間がこの種の「芸」とは無縁のはずだ。それを無理強いするところに問題がある。  とはいえやらねばならない。それも「気合い」を入れて。  どうしたものかと頭を抱えていると、高御堂が肇に助け船を出した。  「俺と一緒にピンクレディをやらないか」  「えっ」と肇は聞き返した。  高御堂とピンクレディというアイドルの組み合わせが、ぴんとこなかった。彼の風貌にはおしゃれで華やかなアイドルより、「苦節十年北から南、日本全国地方を周り、ついに咲きます演歌の花が、」という方がしっくりくる。  第一、彼と「芸能」という言葉があまりにそぐわない。むしろ「興行」のほうがあいそうだ。歌謡曲にしても、彼には「唐獅子牡丹」とか「網走番外地」といった、いわゆる筋ものというか盃ものといおうか、つまりやくざっぽいものがぴったりしそうだったからだ。  驚いた肇の顔を見て、高御堂は「俺だって好きでやるわけじゃない。これが体育会の宿命なんだ」とニヒルに笑って見せた。  「そうだな」  二人は部屋の隅に行くと、口で「ちゃんちゃん」と伴奏を入れながら「振り」を合わせた。  「カルメン77」だった。  我ながら情けない姿だ。五厘の頭で、しかも短パンから毛むくじゃらの足を出して踊るのだから。  肇は心の中で両親に詫びた。ついでに弟にも詫びた。  肇をだしにして箔をつけようとする弟の姿が目に浮かんだ。  「俺の兄貴は大学でなあ…」、ピンクレディをやってるんだとは言えないだろうなと思った。  意外にも、高御堂は歌の振りをよく知っていた。  「違う!ここは腰をツイストさせるんだ」とか「かかとは上げる」とかの注意を受けながら、肇もなんとか「振り」をマスターしていった。  肇は心の中に浮かんだ疑問を消すことができずに、レッスンが一段落したところで思わず、「なあ、お前、本当はピンクのファンなんだろう」と聞くと、高御堂は「そこらのガキと一緒にするな」と言って烈火のごとく怒った。音楽に関する会話の中で、高御堂はいつも歌謡曲を軽蔑し、キング・クリムゾンとかイエスだとかプログレッシブ・ロックを崇拝していたからだ。そのためハード系を好む肇がディープ・パープルとかレインボウ、キッスなどと言うと、まるで「困ったぼうやだ」とでも言いたげな表情で苦笑するのであった。  さて一方、都築は二人と反対の隅で壁に向かい腕を組んだまま「ぶつぶつ」と何かをつぶやいている。いったい何を考えているのだろうか。  旅館の大広間を借りて、いよいよ演芸大会が始まった。  心底リラックスしているのは四年生だけである。  三年はまだビールに気を奪われるだけの余裕があったが、二年は一年がしくじらないよう気を配っていて、ビールどころではなさそうだ。  それでもよく冷えたビールはうまかった。三日間の練習で体中の水分が全部入れ替わっているのだろう。ビールは文字どおり五臓六腑に染み渡った。慢性的に水分が足らない状態の体にビールを一気に流し込み、(うまい!)と思いながら「ぷはー」と息を吐きだした。  さっそく一年から芸が始まった。  声帯模写とかもの真似などが主たる芸である。もっとも、みんな体育会各部の誇る芸達者を見慣れているので、己が芸の拙さを自覚しながらの演技である。実に盛り上がらない。気合いの空回りだ。  そんな中で都築が異彩を放った。幹部からテーマをもらい即興で歌を歌ったのだ。  幹部の指定した「合宿」というテーマは、哀感に満ちた演歌のメロディにでまかせの歌詞をのせ、一曲にまとめ上げた。  「一年生」というテーマは、黒っぽいブルースのメロディで一年の日常を歌い上げ、感動を呼んだ。もっともブルースのルーツを辿れば黒人奴隷に行き着くわけで、これはまさに現在の都築達の状況にぴったりなのだ。  「見事!」  「あっぱれ!」とやんやのかっさい。  幹部の坂本が「都築、よかったぞ、もう一度同じ歌を頼む」と言い、全員が爆笑した。繰り返せる筈がない。  緊張で冷汗をかいた都築が席に戻ると、高御堂と肇の番だった。  二人は演武を披露するかのように前へ進み出て、合掌礼をした。  「一年、高御堂」  「一年、栗山」  声を合わせて「ピンクレディをやりまーす」とハモって「構え」た。  高御堂にリードされながら、口で伴奏を入れ歌って踊った。  一年の中で一番ごつい高御堂と二番目にごつい肇のピンクレディなのだ。やればやるほど「受け」た。  高御堂は気合いが入っていた。というよりも喜々としてやっているのだ。「体育会の宿命さ」と言っていたわりには、頬は喜びに紅潮している。陶酔と言ってもよいだろう。  (やはりファンだったのだ)  ついに高御堂の弱点を見つけたぞ、と思った。  この夜こそ、少林寺拳法部にピンクレディ要員の誕生した記念すべき夜だった。  思えば当時、ピンクレディの人気は赤丸急上昇中で、大学のサークルコンパでは必ず一組のピンクレディ要員がいたのである。  一方、キャンディーズ要員はどうかというと、これが意外に少なかった。人気が先月の解散宣言でピークに達したあと、じりじりと下り坂になっていく上に、芸達者(ないしは恥知らず)を三人必要とするため、キャンディーズ芸は後継者を育成することが難しかったのである。  この夜から始まった肇の試練(高御堂にとっては至福であろう)は、結局ピンクレディの解散まで続くことになるのである。           *  合宿が終わった解放感に、みんな浮かれていた。列車の中で先輩の悪口を言いながらジュースをがばがばと飲み、駅弁をおかずにパンをぱくぱくと食べ、ついでに冷凍みかんをさくさくと食べ、こんなに食べてもまだ腹が減っていると思った時、これは夢なのだと気づいた。  合宿はまだ半分しか終わっていないのだ。見るのは、合宿が終わったという夢と、ものを食べている夢ばかりで、将来とか、政治問題とかを暗示する夢はおろか、この年頃に相応しい性欲に関する夢すらまったく現われず、肇は我ながら情けないと感じていた。交尾期以外の犬や猫が夢を見るとしたら、やはり食い物の夢ばかりなのではなかろうか。  もしここに悪魔が現われ、「今すぐ合宿を終わらせてやる。そのかわり七十年の寿命を六十年にするがいいか」と聞かれたなら、肇は何の迷いもなく「五十年でもかまいません」と言ったに違いない。  よくドラマの中で「肉体の傷より深い胸の痛み云々」という台詞が出てくるが、そんなことを書くシナリオライターたちは、きっと本当の肉体の苦しみを知らないんだろうなと思った。  今現在の肉体の苦痛の前には、失恋も孤独も挫折も疎外感も恥も、ちっぽけなものに過ぎないのだ。そんなメンタルな苦痛は贅沢なのである。  「起床!」という叫び声に、一瞬にして覚醒した。まさに陳腐な表現だか「ばねのように飛び起きた」のだ。  「夜間特別練習!」と言う声が聞こえる。声の主は廊下らしい。幹部の声だ。  「夜襲」である。  本来は、夜間特別練習の略で「夜習」なのだろうが、幹部以外の部員にとっては「夜襲」以外の何物でもない。  「三分以内に表へ集合!」  肇は飛び起きざまにすぐ道着の下を着ていたが、驚いたことに、さらに素早く着替えて表に走る者がいた。道着を着て寝ていたとしか思えない。  肇は、道着の上をはおりながら帯を持ち、走りながら着た。  玄関前では、一番早かったらしい都築が、整列の基準となって右手を上げ、そこへ部員たちが「わっ」と駆け寄って整列していく。  幹部が精神注入棒を持って玄関に立って、「後三十秒、二十九、二十八、…」と冷酷なカウントダウンを始めた。  しかし恐るべし、後十五秒の段階で全員が整列しているではないか。軍隊経験も何もない、ちょっと古い言い方で表現すれば「戦争を知らない子供達」である肇たちも、緊張のあまりこういうことができてしまうのだ。  それでも一番早かった都築は、帯が少し長かった。胴へ二回巻くところを一回しか巻いていないのだろう。市川は中原の帯をしていたし、中原は何と浴衣の帯をしていた。ただ、白帯なので夜目にはなかなかわからない。中原は平然としていたが内心は冷汗だろう。  「只今より、夜間特別練習を始めます。夜なので気合いは含み気合いとする。ランニングも気合いは入れないこと」と大塚が言った。  「出発!」という大塚の号令で、部員達が駆けだした。  全員が駆け足で近くの公園まで移動する。気合いがないとはいえ、真夜中に三十人近い人間が立てる足音は意外に大きく街中に響いた。家の中でこの音だけ聞いた者は、さぞかし不気味であろうと思った。  公園では基本練習が行なわれた。内容はいつもと同じだが、密度が違った。恐怖感もあった。  幹部がぐるぐると部員の間を回り、手の抜きようがなかった。  「手押し車!」  二人一組で手押し車をやらされた。それも握拳で…。  スピードが遅いと何度でもやりなおさせられる。かといって大きなピッチで拳を運べば地面とすれて拳は怪我だらけとなる。そこで小刻みなピッチで拳を素早く動かす必要があるわけだ。  手押し車のほかにも、うさぎ飛び、かえる飛び、あひる、フェンスに向かっての肩車スクワット、屈伸蹴りなどのメニューがやつぎばやに繰り出された。  まさに体力消耗運動のフルコースである。それでも、寝起きでしかも夜中という異様な状況なので、びっくりしている肉体は苦痛を感じる暇がないのだろう。通常からは信じられないようなメニューを何とかこなしている。当然、幹部の発する恐怖感も理由の一つだ。  「これで夜間特別練習を終わります」と坂本が言ったときには、全員が「ほっ」と緊張を解くのが感じられた。  三十分程かと思ったが、後で時計を見ると一時間近く経っていた。  「かわりに明朝の練習はなし」と言って幹部たちは部屋へ帰っていった。  ぐったりとして部屋へ戻りかけると、水道のところで高御堂が手を洗っていた。  「まいったぜ」と言って手を見せた。  拳頭のマメ以外の場所が切れて血だらけだ。肇も一箇所だけ擦り傷ができて血がにじんでいるが、高御堂はもう血みどろといった方がいいぐらい出血している。無茶苦茶に手押し車をやったせいだろう。  「お前は加減を知らんからだ」と肇。  「最終日まで何とかもつさ」と高御堂は笑った。  部屋へ戻るといい匂いがした。  「おお!」と全員の口から声が漏れた。  見ると、部屋の中央には握り飯を山盛りにした大皿が三つ並んでいるではないか。  (こ、これは・・・)  「幹部の差し入れだ」と水木。  「夜襲の恒例」と朽木が笑う。  「うおー」とか「ごっつぁんです」とかの声が飛び交い、たちまち握り飯は消えていく。  「夜襲」には驚かされたが、この空腹に握り飯はありがたかった。鬼の幹部も粋なことをやるわいと思った。単なる鬼ではないのだ。  その夜は夢も見ずに寝た。  合宿はまだ半分しか終わっていないが、逆に折り返しを回ったところとも言えた。つまり半分は乗り切ったのだ。  握り飯を食っただけで、指折数えた打ち上げまで後わずかという気になった。我ながら単純である。 第九章    八月の濡れた砂  二台の乗用車のトランクに、二十五人分の昼食と着替えを積め込むのは至難の技だった。  「後ろの席には荷物を積むなよ、怪我人が乗るかも知れんからな」と幹部は恐ろしいことを平然と言った。  荷物を積み終わって額の汗を拭うと、時刻は十時を過ぎていた。  愛大少林寺の面々は、旅館前の駐車場に散らばって、思い思いにウォーミングアップを行なっている。  準幹部は駐車場の日陰の部分でアキレス腱を延ばしていた。二年生はその反対側で軽くジャンプしたり、その場で足踏みをしたりしている。そんな具合に学年ごとに何となく集まって、体を動かしながらも口数は少なく緊張感が漂っている。  合宿四日目の練習は「マラソン大会」と称される海までの長距離ランニングなのだ。  全員が道着の下に海水パンツを着用し、海水浴の態勢を整えているが、何事によらずシゴキのネタとなる愛大少林寺のこと、そう簡単に楽しませてもらえるはずがない。  コースを知っているのは幹部だけ。ゴールの浜を知っているのも幹部だけだ。ただ、おおよそ二十キロのコースを走らねばならないということだけが明らかにされていて、その試練の果てに昼食が待っているのだ。  当然、その距離は自分のペースではなく先頭を走る幹部のペース(いつものハイペースだ)に無理矢理合わせて走る。おまけにあの小部旗を守りながら、なおかつ気合いを途切らすことの許されない地獄のランニングなのである。  幹部たちは先ほどから部屋に閉じ篭り、コースのどこでサポート隊の車を待機させようかといった打ち合わせに余念がない。  ウォーミングアップを続ける一年部員たちは、この先の二時間近いランニングを考えて暗澹たる気持ちになっていた。  もっとも恐れているだけではなかった。同時にそれを気合いに転ずるべく、必死で精神を集中させている。さらにリラックスしようと冗談を飛ばしたりして努力していたが、その冗談も少し湿りがちだった。  深尾は携行するタオルに思いきり水を染み込ませている。走りながらこっそりと水分を補給するためだ。  肇は長めのタオルを用意した。腕の振りが疲れた際、首に掛けたタオルを掴んで少しでも腕を楽にしようというわけだ。どうせ現地で腕立て伏せなどが待っているに違いない。  他にも、足のマメの部分に念入りにテーピングを施したり、痛めている関節にあらかじめ薬を擦り込んでおいたりと、一年の全員が自分の体に対してできうるすべての手を打った。  これらは全部二年生が教えてくれたことだ。そのノウハウの数々が、彼ら二年生の過去一年間の苦労を雄弁に物語っていた。  体力・経験とも豊富な三年生は余裕の表情だ。なにしろマラソン大会の日は、午前・午後の練習の替わりに、走るだけでいいとも言えるからだ。  肇は道着の帯を少しきつめに締め直し、運動靴の紐も締め直した。  二年生たちは全員鉢巻きで統一し、完走を目指していた。  幹部の松浦がカメラを持ってふらりと出てきた。  「写真を撮るぞう」  学年別の記念写真だ。  準幹部は全員が胸の前で腕を組んで、まるで寮歌を歌うかのように不敵なポーズで撮った。余裕である。  人数で劣る二年生は、全員が拳を大空に突き上げた瞬間をパチリ。気合いが入っている。  一年生たちは部旗を支える高御堂と肇を中心にして「七人の侍」のポスターのポーズをとった。やけくそである。  松浦はシャッターを押しながら「この中でゴールの栄光の写真に残れるのは何人かな」と言って、「ふっふっふっ」と笑った。  幹部達が次々と旅館から出てきて、車の準備が整った頃には、太陽はほとんど真上に来ていた。  気温は三十度を超え、日陰のほとんどなくなった景色は光で白っぽくにじんで見える。  整列する部員達の前にやってきた小島は、全員の顔を一通り見渡すと号令をかけた。  「出発!」  「おう!」  全員が気合いで答えて、走り出した小島の後ろから二列縦隊で続いた。  「愛大!」  「おう!」  「愛大!」  「おう!」  気合いが響いた。  先発隊とサポート隊の車が発進した。  幹部たちはVサインを示しながら、「がんばれよ!」と叫んで肇たちを追い抜いていった。  午前十時半、長距離ラン「マラソン大会」の開始だった。  歩道に立っている電信柱を二本過ぎるごとに、旗手を交代して走り続けた。  さすがにいつもより多少はペースを落としていたが、二十分も走っていると、部旗のはためく音よりも、自分の気合いの声よりも、息づかいの方が大きく聞こえていた。  先回りしたサポート隊の車から、幹部が七キロ地点と書いた紙を差し出している。思わず気合いが小さくなった。  あと十三キロもあるのだ。  「気合いを入れろ!」と二年生が叫んで、一年のけつを叩いた。こうすることによって彼ら自身をも鼓舞しているのだ。  (もうだめだ、もう遅れる)と思いながら、さらに何分か走り続けた。  自分が遅れると旗手の負担が増えて、一年全体が次々と倒れてしまう。昨年の夏合宿では、一人残った朽木が最後まで旗を守ったということだ。  それでも肇は遅れていく。一メートル、二メートルと遅れては、気合いを出して何とか再び追いついていく、そしてまたじりじりと遅れていくのだ。  市川も遅れた。残った一年が旗を守りながらどんどん前へ進んでいく。  三年の近藤が隣を併走しながら、「がんばれ、追いつけ」と励ましてくれた。  (申し訳ない)と思った。  やがて五十メーターほど遅れたところで、「最後まで投げるなよ」と言い残して、近藤は集団に戻っていった。  ダッシュで追いかけて行くのだ。  恐るべきタフネス…。  遠ざかる近藤の背中を見ながら(彼らに追いつけるのはいったい何年後なのだろう)と思った。  いや、そもそも追いつけるのだろうか。  肇は自分の弱さを恥じた。その途端、足が止まってしまう。大きく大きく深呼吸をして息を整えようとしたとき、腹筋が妙な具合に震えると胃の中のものが喉元に込み上げてきた。  思わず身体を二つに折ると側溝に吐いた。朝食と胃液が出て、多少体が軽くなる。それでも心臓がパンクしそうだ。  道路の端に腰を降ろすと目の前が暗くなった。自分の呼吸を六十ほど数えたところで立ち上がった。  息を整え、今度は自分のペースで走り出した。走りながら少しでもペースを上げようとした。  もう止まるまい、と思った。追いつくことはできないが、歩いてしまえば差は広がるばかりだからだ。  左手に海岸、右手には畑が広がっている。その中を肇が走る細いサイクリング道路と車道が二本並んで延びていた。  「はっ、はっ」という自分の息づかいの他には、波の音と蝉の声だけが聞こえてくる。  何とのどかな光景なのだろう。  合宿初日以来、走りながら景色を見るのは初めてだったと気づいた。  三十メーターほど前を市川が走っていた。さらにその百メーター前を高御堂が走っている。  二人の姿は、かげろうのゆらめきの中で時計の様に規則正しく動いていた。  見つめる肇もまた機械の様に正確に足を出していく。  すでに心臓と肺は走りのリズムを取り戻していた。それが景色を見る余裕を生んだのだろう。逆に今では腿が上がらなくなっていた。まるで他人の足のようだ。結局、持久力は心臓の筋肉の方が足より強いということなのだ。  それでも足は止まることなく機械的に駆けている。  前へ。  前へ。  前へ。  ああ、俺の頭の中は何と真白なんだろう。  周囲を通り過ぎる景色がまさに景色だけの意味しか持たず、それに何の意味を与えることもなく、自分自身は何も考えず、ただただ足を出している。こんな感覚は初めてだ。  そう思うと、肇にはこの真白な瞬間が極めて貴重なものにさえ感じられた。先輩からも、同輩からも、日常からも、未来や将来からさえも切り離されたこの感覚は、とことんの苦痛の果てにだけ許された麻薬のような境地なのかもしれなかった。  ゴールの海水浴場に着いたのは一時半だった。  直前にゴールしていた市川が苦しそうに立っている。それでも倒れ込んだりしないのは、愛知大学の少林寺拳法部がそういった甘えたポーズ(つまり、脱落したけど最後まで走り通しました、というようなポーズだ)を嫌う団体だからだ。  走り通すのは当然で、みんなに着いていけなかったのはやはり恥ずかしいことである。  立ち止ると、全身から一斉に汗が吹き出した。  浜では、すでにゴールした一年生連中が砂浜に座って休んでいる。やはり平然と座っているが、よく見ると表情は燃え尽きていた。指の先まで完全に疲れているのだ。もしここにアグネス・ラムが現われて「うふふ」と笑いかけてきたとしても、誰も笑い返すことができなかったに違いない。  手渡された缶ジュースの冷たさが感動的で、肇はしばらくその缶を頬に当てていた。その後一息で飲み干したが、水分がどんどん体に吸収されていくのがわかった。  松浦が「さて記念撮影といくかな」と言ってカメラを出した。  先頭と共にゴールした栄光組は、誇らしげなVサインで写真に映った。  肇を含む全体の四分の一が脱落組だった。  脱落組は砂浜に横たわり、その横で栄光組が合掌している写真を撮った。まさに戦死である。  (ああ情けない)  昼食は握り飯とお茶だ。さらにスイカが出たが、このスイカの甘さは、疲れた体には実に美味だった。  腹がふくれてようやく周囲を見る余裕ができた。  夏休みも終わりに近づいていて、海の波は高かったが、それでも家族連れやカップル、若者のグループなどで、浜べは眩しいほど色鮮やかだった。  「こんな世界があったんだな」という三浦の言葉が印象的だ。そういえば合宿に入ってからはテレビも見なければ新聞も読んでいなかった。完全に俗世との交流がなかったのだ。  高御堂は「裟婆の空気は久しぶりだ」と言ったが、知らない人が聞いたら務所帰りだと思ったに違いない。  以前のようにカップルをうらやましい、と思う元気もなかった。  一年全員が「あしたのジョー」のように真白に燃え尽きていたからだ。  それでも昼食の後、さらに一時間の基本練習があった。みんな覚悟していたので、特にへたばるということもなかった。わざわざこういった場所まで来て、千本突き蹴りをやらずに帰るわけがない。つまりこれは約束事のようなものだ。  肇は左の膝に少し違和感を感じながら練習をした。  道着を着替えて電車で宿へ帰った後も、膝の違和感はなくならなかった。  六日目、ついに合宿打ち上げの日が来た。  早朝ランニングの合掌する婆さんは、ついに十人を越えていた。しかし、残念なことにお布施はもらえなかった。  ランニングから戻った時、肇の膝が曲がりにくくなった。水が溜まっているのだ。無理に曲げると、ぎゅるるる、と関節の間を水が動くのが感じられた。それにすごく痛い。しかし、一人だけ弱音を吐くわけにはいかなかった。故障は肇だけではないからだ。  深尾は腰がおかしくなっていたし、都築は股関節が痛んでいた。高御堂の手は直っていないし、市川もやはり膝をやられていた。  さらに連日の柔法技の練習で腕が腫れ上がっていた。少林寺拳法の柔法は関節を痛めるのではなく神経を短絡させるような痛みが特徴だ。回数を繰り返すと腕の筋肉の内側から腫れてくる。どれくらい腫れるかというと腕時計のベルトがきつくなるくらいだ。  とにかく一年の一人でも弱音を吐けば、全員が総崩れになりそうだった。  誰もが歯をくいしばった。泣いても笑っても練習は後二回、合わせて五時間だけなのだ。  午前中の練習では基本の後、演武の練習が行なわれた。  午後の打ち上げ練習で演武大会が行なわれることになったのだ。  「優秀組には賞品もあるぞ」と言った上で、幹部が組を決めていった。  一年は三年と、二年は二年どうしで組を作った。肇は三年の近藤と組んだ。  「膝はどうだ」と近藤が聞いた。  「何とか保ちます」と肇。  打ち上げ目前で見学になっては、きっと後悔するだろうと思った。一年全員がそう思っていたようだ。  近藤は演武内容を決めていった。  演武とは、技の流れを構成して演じることである。近藤は肇のために二・三級技、自分のために初段の技を入れて構成した。  合掌礼の後、左右に別れて近藤からの攻撃で天王拳の攻防を二つ、肇からの攻撃で龍華拳の投げ技・龍王拳の抜き技から三合拳の攻防が続いて、最後は龍華拳の投げ技で肇が決められて締めくくることになった。  一番の課題は、近藤の速度に肇がどれだけついていけるかということだった。  何度も何度も繰り返すうち、乱捕りだけでは得られない攻防のめりはりが解かってきた。  「いいか、俺のこの二連攻は、タンタン、ではなく、タタン、と行くんだ。だからお前の受けはタタ、そして反撃をするわけだからタン。わかる?つまりタタンに対してタタタンといくわけだ」  言葉ではやはりよくわからない。  打ち上げ日だけあって、学年を越えて全員がこの演武大会に燃えていた。  昼食後の自由時間にも一年と三年の組は旅館の庭で練習をした。  都築と笠松の組はスピードを生かして、流れの核に白蘭拳の攻防をすえていた。  三浦と夏川の組は龍華拳のかなり高度な投げ技を練習している。  二年の組はチームワークを生かしたスピーディーな演武を組んでいた。  幹部達は、そんな部員を眺めながら、「気合い入っとるがや」と少しうれしそうだった。  いよいよ午後の練習が始まった。今日だけは幹部も体育館まで自分の足で走ってきた。  打ち上げ恒例の幹部全員基本が終わり、十分の休憩の後、演武大会が始まった。  道場中央に白いビニールテープで仕切った演武場が作られた。その対角線の位置に審判役の幹部が座り、さらにその周囲を囲むようにして部員が座った。当然正面には採点用のノートを手にした幹部たちが座る。  一年生が交代で時間計測係となった。通常の演武は一分三十秒から二分の間で行なわれる。  道場正面には賞品の酒やジュースが置かれていた。  「演武大会を始めます」と宣言した後、大塚が言った。  「第一組、笠松・都築組!」  「おう!」と気合いを上げて、二人が中央へ進み出た。  合掌礼のあと、いきなり、ぱぱぱん、と打撃の音を立てて天王拳・地王拳の攻防が始まった。  (お!)と思った。  都築がうまくなっているのだ。気持ちのよいめりはりがついている。  各組の演武が進むにつれて、一年生がみなうまくなっているのに気づいた。動きから完全に固さが抜けている。  (俺はどうだろうか)と不安になった。  「第六組、近藤・栗山組!」  「おう!」  肇は近藤と道場中央へ進んだ。  正面へ礼。  向き合って互いに礼。  一呼吸置いて「おう!」と気合いを入れ、近藤は左前中段、肇は右前中段に構えた。  近藤が素早く踏み込み上中二連攻、肇はそれを受けて右上段の順突きを返すが同時に中段蹴りをカウンターで返される…。  緩急をつけて演武は進んでいく。道着の袖と裾が、突き蹴りの風圧で「ぴしぱし」といい音をたてた。  最後の投げ技が決まった瞬間、肇は「やった」と思った。ミスなしで終了したからだ。  不安だった最後の受け身も無事できた。合宿中に同じ技で深尾が着地に失敗して腰をやられていた。  柔道のように畳の上でなく、板の間で練習をする少林寺だからこそ受け身は必ず足から着地してショックを殺す高度な技術なのだ。  最後の礼をして席へ戻るとき、近藤が「いい線いくかもしれん」と言った。  全員が演武を終了した。  幹部は集まって採点を集計している。  「ほう」とか、「まあ順当」などと言っているのが聞こえてくる。本命とか対抗と言っているのを聞くと、どうやら「賭け」ていたらしい。  「只今より成績を発表する」  一位は笠松・都築組。  二位は水木・朽木組。  近藤・栗山組は三位に入った。  (奇跡だ)と思った。どうやら構成がよかったらしい。賞品はジュースだった。  最後の筋力練習は、みんな勢いでやっつけた。残っている体力すべてをぶつけているのだ。腕立てや屈伸蹴りの一回一回に(終わった、終わった、わっしょい、わっしょい)という、みんなの心の声が聞こえてくる。  長い一週間の練習の終わった時に、疲れていればいるほど満足感は深いに違いない。  やがて練習は終わった。  道場に整列した部員たちの前に立ち、主将の大塚は全員の無事を確認するかのように、ぐるりと顔を見渡すと言った。  「これで合宿の練習日程をすべて終了します」  「ありがとうございました」と全員が合掌した。そしてお互いに合掌したまま、「ありがとうごさいました」、「ありがとうこざいました」と言い合った。  みんなの顔が生き返っている。喜びに溢れていた。心の声が聞こえてくる。  合宿を乗り切ったのだ。  これでもう明日の朝は走らなくてもいい。  これでもう家へ帰れる。  これでゆっくりと飯が食べれる。  ゆっくりと風呂に入れる。  髭が剃れる。  新しいパンツをはける等々。  旅館までの帰り道は、主将と副将を先頭に歩いて帰った。  全員が歩調を取って、整然と進む。  「左、左、左右」  「左、左、左右」  「一、一、一二」「おう」  「一、一、一二」「おう」  「歩調、歩調、歩調とーれー」  「一」  「とーれー」  「二」  「とーれー」  「三」  「とーれー」  「四」  「とーれー」  「一」「おう」「二」「おう」「三」「おう」「四」「おう」  「一二三四、一二三四」  歩調の声にも気合いが入った。  「学生歌!」と大塚が叫んだ。  全員が愛知大学学生歌を歌いながら旅館まで歩いた。いつもより時間がかかっているはずなのに、あっというまに帰ってきたように感じた。  この日の夕食が合宿打ち上げコンパになっていた。  大広間に並んだ膳は、いつもの倍以上の皿数で、最終日の夜にして初めて旅らしい食事にお目にかかったわけだ。  ビールと日本酒が用意されていたが、日本海の幸にはやはり地元の酒がよく合った。  OBの姿もなく、今夜は無礼講の趣だ。  一年生は、無事合宿を乗り切ったという喜びと満足感で内心大いに盛り上がっている。  二年生は、もうすぐ準幹部だ、という喜びを噛みしめていた。  準幹部も、もうすぐ幹部だ、という喜びを噛みしめていた。  幹部は、たいした怪我人もなしに無事合宿を終了したことに満足していたようだ。  一年はビール壜と徳利を持って、幹部・準幹部の席を回った。その合間に芸を披露する。肇と高御堂のピンクレディはまたしてもリクエストされた。  座が盛り上がったころに、合宿の無事終了を祝って旅館から刺し身が差し入れられた。  「ありがとうございます。こりゃ来年も来なけりゃな」という大塚の言葉に、おかみの顔が青ざめた。  おかみにしてみれば、騒々しい客が今夜限りでようやく消えるという嬉しさ余っての差し入れなのだろう。聞くところによれば、今までの合宿は文化系のサークルが中心で、体育会それも武道系の部の合宿はこれが初めてだったらしい。  「男女関係の乱れだけは心配せずにすみましたわ」と称賛されたが、肇たちの年頃の男にとっては、男女関係の乱れほどうらやましいものはないのだ。文系サークルっていいじゃないかと思った。  新入部員歓迎と違い、一年も今回は酒で潰されることはなかった。むしろ、合宿を乗り切ることによって、ようやく肇たちから「新入」という言葉がとれ、一人前の「部員」として認められたのだろう。先輩たちの言葉からもそれはうかがえた。  肇は幹部の中では「筋力トレーニングの鬼」と言われている松浦の前に座っていた。  盃を返しながら松浦が言った。  「栗山、俺はお前が一番最初に倒れてまうかと思っとったが、よう頑張ったな」  意外な賛辞に思わず嬉しくなった。  「でも自分は合宿を通じてお荷物になっとったんではないかと反省しとります」  「まあ、それでもお前は逃げなかったからな」  「ありがとうございます」  実は、と松浦が言った。  「俺も一年の頃は体力なくてな、お前みたいにどべになってはダッシュや拳立て伏せや屈伸蹴りをやらされとったら、三年の時には逆にみんなを抜いとったわ」  「信じられません」と肇。  「お前もそうなれるぞ、体もでかいし」  そして「絶対四年間続けろよな」と言った。  確かに一番つらいと言われる最初の年の夏合宿は済んだのだ。  「後はどんどん楽になるし、覚えるのが楽しくなるさ」  そう言った後、「俺達はもう卒業だ」とつぶやいた。幹部達の実質的な活動は、この合宿が最後なのだ。  「一年、歌だ、歌うたえー」と誰かが叫んだ。  一年が、ばらばらっと立ち上がり、学生歌と寮歌を歌った。  最後の愛知大少林寺拳法部部歌は、全員が立ち上がって肩を組んで歌った。  血と汗ながしたその数が       己を磨く石となる  怒涛波打つ東海の       潮に薫る義和門拳  ああ・・・・愛大       少林寺拳法  三河の空にこだまする       愛大男児の意気高し  千里の道は違えども       永久に結びし友と友  ああ・・・・愛大       少林寺拳法  深尾は感極まって泣いていた。それを見て都築が泣いた。  他の一年は泣きはしなかったが、それでも鼻の奥が少し「つん」とはなっていた。  肇は思った。  (この合宿で頑張ったことは、俺達の勲章だ)  打ち上げコンパの後、幹部達は駅前の繁華街へ繰り出していった。準幹部は、一・二年を解放すると、やはり外へ遊びに行った。二年生も、土産でも買ってくる、と言って宿を後にした。  みんな自由の空気を吸いに行ったのだ。  高御堂が「海を見に行こう」と言いだした。今夜はどこへ行っても先輩に出くわすだろうから、いっそ「海でも見に行こまい」というわけなのだ。  旅館の女中に、「出かけてきます」と一言いい残して、一年達は表へ出た。  肇と市川は膝をかばって、少し足を引きずっている。  「深尾、お前、腰の方はだいじょうぶか」と聞くと、「だいじょうぶ、杖がある」と行って棒を見せた。  なんと愛大精神注入棒だ。  「いいんかよ、そんなもん持ちだして」と都築が驚いて叫んだ。  「ええって、コンパの後、幹部が捨ててこいって言ったんだから」  これには全員が驚いた。  肇は、はっ、と思い当たった。先輩達のとる、体育会特有の右翼的ポーズは、まさにポーズに過ぎないのではないか、と。第一、精神注入棒とは言うものの、結局誰も精神注入をされていない。この棒自体がポーズなのだろう。  肇は少し嬉しくなった。  (案外まともじゃねえか)  「いくぞ」と言って、深尾は棒を杖にして歩きだした。  いつも早朝に走っていたコースを、こうして夜歩いているというのは妙な気分だった。景色がまったく違って見える。  合宿が終わったんだな、ということをしみじみ感じた。  「こんなところに地蔵があったぜ」と市川が言った。  見ると、海岸沿いの松の木の根本に小さな地蔵と祠があった。  「いつも走ってたから気づかなかった」と中原。  しばらく歩くと、シャッターの閉まった酒屋の表に、ビールとジュースの自動販売機があった。  「おお」と言って、三浦がその自動販売機に駆け寄り頬ずりをした。  そして「毎朝ここを通るたびに、お前でジュースを買いたくて…」と泣く真似をした。  笑いながら、全員が三浦につられてジュースやビールを買った。  三浦はビールの缶を満足そうに見ながら、「これで、この地に思い残すことはないな」と言った。  いつもは海岸沿いにもっと先まで走るのだが、今夜はここから浜に降りた。  砂利のような砂を踏みしめ、真っ暗な海に真正面から向き合うと、波の音が大きく迫ってきた。  「太平洋もいいが、日本海もいいな」と中原が言った。  「男の海だな」と高御堂。  三浦はビール缶のプルタブを引っ張ると、  「合宿を無事乗り切った乾杯をしよう」と言った。  全員が缶をぶつけ合った。  「合宿の無事終了を祝って」と三浦。  「俺達の青春に」と高御堂。  乾杯!  潮の香を肴に、全員がビールをあおった。  肇は体の中に、押さえ切れぬエネルギーが高まるのを感じた。大きく息を吸い込むと、うおー、と叫んだ。  「俺も」と言って高御堂が叫んだ。  都築も中原も…、全員が叫んだ。  やがて高御堂が言った。  「寮歌が歌いたい。昔の青春を気取るわけじゃないが、何となく寮歌が歌いたい」  「よかろう、歌おうじゃないか」と肇。  「そんな古くさいことはごめんだが、お前らにつきあって俺も歌うわ」と三浦が言った。そして「本来なら夏はビーチボーイズなんだがしょうがない」と笑った。  当然、三浦の本心ではない。ムードに酔う自分に照れているのだ。  いいではないか、今夜だけ俺は酔うぞ、と肇は思った。素晴らしき青春映画そのものではないか!  「波の音に負けるなよ」と高御堂が叫んだ。  「あたりまえだ」と答えて全員が歌った。  月影砕くる東海に  秋色深く星辰は  古哲の愛知偲ばせて  熱情燃ゆる男の児らの  詩興は翔りて恋ひ慕う  魂の故郷さまよはん  硝煙の香消え失せて  欧亜の山河に春来れど  ローマアテネに比ぶべき  ロゴスの憧憬涸れ果てて  濁れる黄河の水を汲む  たたずむ遊子に愁ひ濃し  享楽の嵐吹き荒び  怒濤にただよふああ祖国  何れの日にか美はしき  理想の彼岸へ至るらん  汝の救ひは汝なりと  願ひも悲壮ああ我等  迷へる羊を導きて  愛知の白馬にまたがりて  真善美聖の旗かかげ  集ふ紅顔騎士五百  高師が原にいや高し  気宇と意気地を見よや友  暗雲晴れて松籟は  東海の野に飄々乎  そそぐ緑の月光は  一掬交はす盃に  珠玉を燦と沈めたり  仰げば帰郷る雁一群  歌い終わると、急に回りが静かに感じられ、波の音と、風に揺れる松並木の音が胸に迫った。  夏が終わろうとしていた。  (この夜は、一生忘れないだろう)と思った。 エピローグ   自転車の夏  「栗山君!」と階下からおばさんが呼んだ。  夏休みも終わりに近い土曜日の午後だった。今日はバイトがない。  「はい!」と答えて部屋の戸を開け、首を突き出して階段を見下ろすと、「変な手紙が来てるのよ」とおばさんが階下でA4くらいの茶封筒を振っていた。封筒は二つある。  (何だろう。ちょっとやばいのかもしれない)と思った。  やばいというのはどういうことかというと、自宅から通学している友人が、エッチな本の通販の宛先に肇の下宿を利用したりすることがあったからだ。当然、肇自身のものもある。  受け取った封筒を見ると、住所はこの下宿だが、宛名はゴア様となっていた。  「あっ、これは自分のペンネームです。マンガの…」  肇は、リチャード・コーベンのアングラ時代のペンネームを使っていたのだ。ちなみにゴアとは血ノリとか痂とかいう意味があり、いかにもアングラなペンネームである。  けげんそうなおばさんを残して、部屋に帰ると急いで封を切った。  どちらの封筒からも出てきたのはマンガの同人誌だった。一つは横浜、もう一つは博多からだ。どちらも全国を対象とした同人誌らしい。  心当りがないなあ、と思って同封してあった手紙を読み始めた。  「貴殿の(ぱふ)に載った原稿を見て…」  (おお、ということは選に残ったか?)と思ったが、どうやら入選ではなく選外佳作というお情のコーナーに一ページだけ紹介が入っていたらしい。ちなみにこの月から「だっくす」は「ぱふ」と誌名を変えることになっていた。  とにかく「プロを目指しているなら、お前も参加せい」ということらしい。それにさりげなく「女の子の同人も多い」と書いてある。  (なかなか痛い所を突いてくるなあ)と肇は苦笑いした。  とりあえず(ぱふ)を買ってこなければ。選外佳作でも寸評ぐらいは載っておろう。自分の作品が、プロからどう評価されているか見たかった。  階段を駆け降りて、玄関の靴を三秒で履くと、肇は愛車「出前号」を引き出して走り出した。合宿で痛めた膝は、もう完全に治っている。  駅前の本屋を目指して全速力でペダルを漕いだ。  晩夏の日差しがじりじりと頭を焼く。髪はようやく二分刈りぐらいにまで伸びていた。  東海道線に架かる跨線橋が見えてきた。自転車用に斜路にはなっているが、歩道橋なみの急斜面だ。いつもは半分ほど登ったところで自転車を降りて押していた。  肇はサドルから腰を浮かすと、ペダルを踏んだ。  ぐいぐいと加速する。  (今日こそ上まで行ってやる)  「出前号」は勢いをつけて斜路を駆け上がった。半分まで登って勢いが落ちそうになったところで立ち上がり、一歩一歩踏み締めるようにペダルを踏み、じりじりと登る。  スポーツサイクルならギアを落とすところだが、あいにく「出前号」は実用自転車だ。もともと変速ギアなどというしゃれたものはない。  ぎしぎしと悲鳴を上げる「出前号」に、肇は心の中で叫んでいた。  (がんばれ、がんばれ、俺もがんばる)  ほとんど止まりそうになりながら、ついに前輪が斜路を登りきった。  (やった!俺は合宿で確実に強くなっている)  そして、ふいに肇はこの無骨で決してスマートではない不器用な「出前号」に強い愛着を感じているのに気づいた。  ああ、こいつは俺なんだ。  そう思うと何だかこの自転車を褒めてやりたくなった。  (ようし)  ペダルに一踏み力を加えると、肇は思い切って体重を後ろにかけた。  その瞬間、「出前号」はその姿に似合わず、ぐいっ、と前輪を持ち上げると、見事なウィリー走行をやってのけたのだ。  目の高さで回るスポークにキラキラと陽光が反射する。「出前号」は胸を張って「どんなもんだい」とでも言っているようだった。 (終わり)