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デン声ブン語

2001年3月11日
「無限の戦い」
今回も掲示板の戦いについて書いてみたい。実は私はYAMAHAのマジェスティという大型のスクーターで通勤をしていまして、その関係上、大型スクーターの方達が集まるサイトの常連でもあります。最近ここの掲示板で、半キャップのヘルメットに関する論争がありました。
その内容は半キャップのヘルメットは「危ないから被るな」という意見に対し「規格を通っていれば法的な強制力はない」から個人の自由だ。というものが発端でした。
実に紛糾しそうなテーマですね。実はこのテーマはパソコンにおける「MAC対WIN」に匹敵するテーマで、自動二輪系の掲示板では必ず一度は起きるという「ハシカ」のような論戦です。
でもなぜ紛糾するのでしょう。
それは、「危ない」という錦の御旗を立てた総論と、細かなケースで対応した各論の戦いだからです。これでは結論など出ませんね。出てくるのは個々のレアケースの事例とだんだん感情的になる正論をぶつ総論だけです。
とはいえ、これをインターネットのことだけと言って笑ってはいられません。実は、昨年末の「バトルロワイヤル」論争もそうでしたね。悲しいのは、当事者達がこの「総論対各論」の泥沼に入っていることにちっとも気づいていないということです。
ただ、私個人としては、議論で各論を戦わしているときにいきなり「総論」を出してきて、ちゃぶ台をひっくり返すようなことをするのは、議論をストップさせてしまう行為だと考えます。

極端な例)
恋人がレイプされそうな時に恋人を救うため暴力で相手を傷つけた事に関して。
「でも暴力はいけない」と総論をぶつ。

「暴力はいけない」というのは正論で、誰も反対できません。が、今回のような事例を考えるとき、そんな総論を出すのは大間違いでしょう。
同じ様な使い方で、「戦争はいけない」「不公平はいけない」「差別はいけない」など、主に頭でっかちな「教育」「思想」などの世界で、この総論対各論の戦いは今も繰り広げられています。こういった「無限の戦い」は、人間がもう少し賢くならない限り、それこそ無限に続けられるのでしょうなあ。

2001年3月6日
「喧嘩腰の人々」
体に障害がある人たちを、マスコミは「〜に不自由な人」などという。
さしずめ私などは「髪の毛に不自由な人」であるが、先日電車の中でやはり「不自由な人」を見た。
ちょっと満員の通勤電車の中、携帯電話をかけている女子高生がいたと思っていただきたい。
そのそばに立っていた中年の紳士がいきなり車両中に響く大声で、「常識をわきまえたまえ!」と叫ぶなり携帯を取り上げて電源を切ったのである。当然この後は、醜い言い争いの阿鼻叫喚。高校生は捨てぜりふを残して次の駅で降りていきましたな。
この光景を見てどう思いますか。
電車の中は異様な沈黙に包まれましたね。この紳士、再三携帯を切るように注意していたわけではない。じっと怒りをためたまま、「いきなり爆発」しちゃったわけですね。言っていることはもっともで全く反論の余地はありませんが、こりゃ怖い。
ところが当のご本人は、「正義を守った勇者」(本人はそのつもりだったのだろう)よろしく鼻の穴を広げて立ちつくしている。できれば、その勇気(噴飯もの)をやくざや右翼やチーマーに向けてほしいものだ。
この場合、まずは、そっとその子の肩でもたたいて、携帯を切ってくれとジェスチャーでもしたらどうだったのだろう。
これは典型的な「表現の不自由な人」「コミュニケーションの不自由な人」ですな。
この例を挙げるまでもなく、今の世の中はこういった「表現の不自由な人」「コミュニケーションの不自由な人」であふれている。
別の例を挙げれば、インターネットの世界でも、掲示板などにそういう方を見かけることがある。 「いきなり喧嘩腰」で登場してしまうのですな。ちょくちょくこういった掲示板バトルを見ますが、まずはよくある表現を検証してみましょう。
例)間違い等をを指摘する場合
普通のケース「それは違います。**と混同しているのでは?もっとも、この混同はいろんなところでよく見かけますけど」
喧嘩腰のケース「それは違うよ、**と混同しているんじゃないの?よくいるんだこういう奴」
この違いがわかりますか。喧嘩腰の方はおそらく、これが喧嘩腰だとは意識していないんだと思う。
やはり「表現の不自由な人」「コミュニケーションの不自由な人」ですね。この場合に不幸なのは、親切で指摘しているのだろうけど、末尾の「よくいるんだこういう奴」だとか、フランクなつもりの砕けた表現が、「馬鹿にしているような印象」を与えてしまうことです。さらにまずいのは、そうやって馬鹿なおまえに指摘してあげる、というような優越感や気持ちよさを味わっているようにとられてしまうということです。
顔が見えないインターネットですが、礼儀は実社会と同じです。上記のような喧嘩腰のセリフを面と向かって他人に言えますか?
人に教える立場の学校教師、塾教師の中には時々いますね、こういう礼儀知らずが。
自分より若輩のもの弱い者と同様、やくざや右翼やチーマーや自分の上司・雇用者たちにも同様にそう話すのなら、それは認めます。そうでなく、インターネットで顔が見えないのをいいことにこういう語り方をするのであれば、それは単なる臆病な卑怯者でしょう。

いったいいつからこんな風になったんでしょうね。
私は、おそらくテレビドラマのせりふからこうなっていったんではないかと思います。特に、80年代以降のドラマは、家族や友達などが内面の葛藤をセリフで説明するという安易なものが増えました。
特に初期の橋田ドラマなどは、実社会でそんなことを口走ったら絶対人間関係の修復不可能なセリフで満ちていましたから。
そんなドラマを見て育ってきた連中に、「礼節」とか「謙譲」とか「相手の気持ちを慮る」ということを説いても無駄かも知れません。いやな世の中です。

2000年10月27日
そこが間違っているんだよ。
長野県に誕生した作家知事・田中康夫氏。まずはおめでとうございます。
さて、先日、新知事として初めて県庁に登庁し、県の職員猛反発との報道がありました。
幹部曰く「抽象的表現で、これでは右なのか左なのかもわからない」と言葉尻を捉えた大人げない台詞には、県民ならずともカチンときた方が多かったのではないでしょうか。
これは翻訳すれば、「私たち県職員は、上からの指示がなければ右も左も判断できません」ということです。民間企業なら即リストラでしょう。まあ、この程度のことは、我々民間人はみな承知の上ですから全然平気ですが、問題は、この幹部が「上の指示がなければ右も左もわからない」ということが「組織として大変まずい」ことなのだ、という意識がないことです。意識がないからこそマスコミの前で声高に「恥をさらすような台詞」が言えるんでしょうね。
「今までの私たちのやり方が悪かったのか」
悪いからこそ田中知事が誕生しちゃったということにも気づいていないんだから、この「問題意識の低さ」は致命的です。県民ならならずとも、田中知事の苦闘が予想され、応援せずにはいられない気分です。

2000年4月22日
本当に腹が立つのはこの点だよ
ようやく環境万博に進路変更できた愛知万博だが、海外からの指摘がなければ、あのまま住宅計画込みで進んでしまったであろう。世間一般の怒りとかあきれたと言う点は、環境を破壊する、という点よりも、その理屈の幼稚さにあったのではないだろうか。小学生でも見抜くことができる「屁理屈」を海外からの指摘でようやく改めた、という幼稚さに腹が立つのである。
同様の怒りは元大阪府知事横山ノックのセクハラ事件にもある。「指を入れた、しゃぶった」というのはひどすぎるが、まず初期の怒りは、ノックが素直に「すんまへん、わしエロダコやもんで」と謝らず(謝ってどうなるものでもないが)に、知事の権力でもみ消そうとした点に集中した。庶民派を気取って当選したのにそれはないだろう。しかも復帰するつもりだ。彼の当選自体が大阪府民のシャレだったことがわからない幼稚さ。シャレになりませんね(笑)
さらに振り返ればさるタレント議員の学歴詐称問題もそうだ。「奥さん、学歴など関係ないぎゃあ」といった雰囲気の彼が、実は学歴コンプレックスを持っていたということが、支持者の熱を冷めさせたのである。
政策を見渡すと、国に借金だけが残った「金券バラ撒き」政策が上げられる。あれも国民の怒りの対象は、政策内容そのものより、まるで小学校の学級委員会で出てくるような政策を何の恥じらいもなく提出した政治家(その平均年齢は国際的にも非常に高齢)達の幼稚さにある。
彼ら自体が幼稚なのではなく、そんな幼稚な理屈で国民を騙し通せると考えていることが許せん。まったく俺達を舐めとる、としか思えない。

1998年1月25日
怒るときは怒れ(1998になってから書いた、これから日付入れねえとな)
今朝の新聞で読んだこと。
「日韓漁業交渉停止に対する報復で韓国の漁船が監視船目前の自主規制水域で操業」という ことである。ことの是非はともかく、こういった場合の日本の抗議は甘すぎないか。
竹島問題にせよ、とにかく既定事実をつくってからその状態を長期に安定させ、 事実上の決定にするというのは韓国のお手のもの。まさにこれは韓国が最も非難する 旧日本帝国のやり口そのものである(笑)
しかし、それもいいだろう。問題は日本の対処のしかたである。旧日本軍を庇うために 暴言吐きまくりの政治家も、現実の政治問題では何も言うとらんやないの。
過去は過去。きっちり誠意あるけじめをつけようよ。 それが今現在の日本人の生活を左右してもらっては困る。
韓国の新聞に意見広告でも載せたらどうだ。税金使ってもいいぞ。それに、韓国の ジャーナリズムは、日本の腐敗文化を糾弾しながら、同時に日本の衛星放送の番組表 を掲載してるぐらいだ、金さえ払えば意見広告ぐらい載せてくれるだろうし、韓国の 外貨準備高にも貢献できる。
何とか、本当の日本のことを知って欲しいなあ。
12月10日
日本人(1997の暮れ頃書いた)
今朝の新聞で読んだこと。
京都の地球温暖化会議の会場前で、在日ブラジル人の夫婦がたった二人で「暴力反対のキャンペーン」を しているというものだ。
実はこのご夫婦は、実の息子(14歳)を対立する日本の少年グループとの抗争 の中、リンチによって失っているのである。しかも、その少年は実は対立グループとはまったく無関係。 つまり、まちがって巻き込まれて死んだのだ。私の住んでいる愛知県小牧市である。
マスコミの扱いは小さかった。外国人の出稼ぎが珍しくないせいかもしれない。

さて、実は私は、あの「服部君事件」の服部君と同じ旭が丘高校の出身である。あの事件のときは マスコミの反響がすごかった。アメリカが反発して裁判に影響したぐらいだ。
旭が丘はリベラルな進学校で知られ、その出身者も政財界から文化人にいたるまで華やかだ。 寄付金もすぐ集まる。
しかし、事件の重みはどうだろう。ブラジル人少年のリンチ殺人は「服部君」より軽いのだろうか?

以前、夕暮れ時の公園でイラン人の父娘を見た。小学三年ぐらいの娘にさかあがりを教えているのである。
べそをかきながら一生懸命練習している娘とはげましている父。 じつは父親も逆上がりができないのである。
彼女は、エキゾチックな風貌や、その貧しい服などで、学校でいじめられてはいないだろうか?
その父親の気持ちになり、なんだか目頭が熱くなってしまった。俺にも娘がいるからだ。
かつて、日本人の美徳は、弱い者に優しいということではなかったのか。また弱者もそれなりに毅然として やせ我慢をしていたように思う。またたとえそうできなくとも、それが颯爽として、毅然として、 日本人としてカッコイイあり方だ、という民族全体の美的基準だったはずだ。
外国人の少年を集団で殺す日本人の少年たち・・・。
俺は思う。今の日本人はすごくミットモナイ。
あの夕方、昔の日本人なら、「おせっかいかなあ、」という含羞に頬を染めながら、父娘に逆上がりを 教えるためベンチから腰を上げたに違いない。今度は、俺もそうしようと今は思っている。


8月17日
隠さずに直視しようじゃないか。
長崎市原爆資料館の、日本の侵略展示に関して、右翼・遺族会・旧軍人と 市および展示支援者との間で対立が続いている。
反対派は「事実であったかどうかわからない南京大虐殺(ちなみに私は規模の大小はともかく 虐殺はあったと考えている)の展示は自虐的な態度だ」というわけだ。
さて私が中学・高校のころ(1970年代)、教科書で描かれた太平洋戦争はまる で、別の国の歴史のように淡々としたものだった。その論調は、軍部(あいまい だね)の暴走で戦争が始まったというような内容で、私は日本は被害者だったと 思ったほどだ。
高校の副読本(高校の意識によって内容が違うが、幸い私の高校は比較的自由だった)で 初めてアジアにおいて日本は加害者なのだということを知ったのである。
それに反して長崎・広島の記述は被害者としての立場に貫かれていて、 被爆者の方たちには申し訳ないが、 子供心にも、原爆は日本の「免罪符」になっとるなと感じたものだ。
今、長崎市の資料館で、「反核を訴えるためには、まず戦争を始めた日本の責任を 直視しなければ、説得力がない」と考えたのは、きわめて正常で健康な考え方だと 思う。よくぞ気づいたと言いたい。
反対者たちの「死んでいった英霊を侮辱云々」という主張が、感情的であると するなら、まさに理性的な考え方だ。
現在、反対派はまた少数派であるにも関わらず、自民党の保護を受けいてる。 票につながるからだ。おそらくあと20年たって遺族会などが消滅すると、自民党は 手のひらを返すはずである。

英霊の方たちも加害者にはなりたくなかったはずだ。そんな状況に追いやられた 英霊の方たちこそ、本当の犠牲者だろう。特に特攻等で散華した若者たちを思うと すべての言葉を失ってしまう。今でいえば高校出たての子供たちだぞ。そして大学 生ぐらいの若者が彼らを率いて、死ぬ覚悟を決めざるをえなかったのだぞ。
私は、衷心から彼らに黙祷を捧げたい。
「彼らの命の尊さ」
「理由はともあれ、無謀とはいえ4年間戦い続けた祖国に対する誇り」
「胸躍る当時の兵器の美しさ」
等を否定はしないし、むしろ私はそう感じてしまう。
しかし、それだから日本は被害者か、といえば絶対にそれはない。

ちなみに虐殺云々は、どんな戦争にも必ずあるものだ。
ベトナムのソンミ村事件しかり。ただ、諸外国が比較的率直に事件を 認めて、それを直視しているのに対し、日本はそれを「なかったことにしよう」と してしまうのが悲しい。
南京虐殺に関しても「殺した人数はもっと少ない」という意見がある。それは結構だ。 真剣に研究してほしい。しかし、人数が少ないからといって「虐殺がなかった」ことにはなら ないのである。

かつてコメディー映画にこんなセリフがありました。
吹雪の山中で遭難したバスの運転手が人肉を食べて生還した。
「おまえは乗客の死体を三人も食った」と言われて、
「違う、俺が食べたのは右手、それも一本だけだ」
というブラックユーモアだ。食べたことにはかわりがないのである。

私が反対派に対して持ついらだちはこの「なかったことにしよう」とする一点だけだ。 アジア諸国の怒りもまさにそこだろう。よく聞くと、虐殺・連行に対する怒りよりも それを認めない、なかったことにしようとする点に怒りが集中している。
確かに、左傾化文化人の中に蔓延していた、何が何でも日本が悪かった、という自虐 史観(だから日本であなたたちの理解者は僕だけですよというバカ学者・評論家も ソビエト崩壊まではいた)は私も大反対だが、その対局にいる右翼・自民党などのせ いで正常な外交すらできないではないか。

感情的な反対はもううんざりだ。お互い、理性的に考えようじゃないか。 特に右翼の諸君、街宣車を乗り付けて大声で恫喝するような幼稚なことは 少し恥じろよ。
この意見に対する反対、怒りはメールでどうぞ。受けてたつ。
また、暴力的な脅し(少し恥ずかしいが慣れている、売られた喧嘩は買うほうなんで ・・・情けない。詳しくは「自転車の夏」を参照。バイオレンスに慣れていく過程 が小説になっます、トホホ)は俺には通じないぜ。


8月9日
再び神戸の事件について
神戸の事件で我々が考えねばならないのは、果たしてこれがきわめて特異な ことなのか、それとも現代の環境・社会ならば誰でも少年Aになってしまうのか という普遍的なことかの見極めだ。
しきりに「心の教育」と言われているが、お役所主導の心の教育は、 学校5日制度のように、かえって子供を追いつめないだろうか。 「音楽や花は美しいと感じなければならない」とか・・・。
思えば今の14歳が生まれたのはバブル真っ盛りの1980年代前半。 「金さえあれば何でもできる。」とばかりにマスコミでは成金が英雄視され。 貧乏は恥とされ、内向的なやつはネクラと言われて嘲笑され、結婚するなら三高よね、 男たちの価値観は「それって女にモテル?」ということばかり。そんな大人たちの背中を見ながら 育ったことが不幸だったのだろう。
かつて私の世代(昭和30年代生まれ)は「もはや戦後ではない」時代に生まれ、学生運動にも 間に合わず、ビートルズは少し前に解散してしまったし、という具合に、レボリョーションと 無縁(でもその熱さは知っている)に生きてきた。今の子供たちは、すでに冷め切った世界で生きている のだろう。
そう考えると、この事件は、かなり普遍的なものをもっているかもしれない。
また今後普遍化することも考えられる。
友人が語っていた。
「子供の中には、彼を英雄視するやつが必ず出てくる。 世界にはヒトラーをいまだに英雄視しているやつが何万人もいるのだ」


7月2日
正義の名を借りた新潮社の行いに鉄槌(ささやかだけど)を下せ!
7月2日発売の新潮社フォーカス誌に神戸小六殺人事件容疑者の写真が 掲載された。
出版側の言葉によれば少年法に疑問の一石を投じるためとのことであ る。この掲載により、少年の両親・兄弟などはどんな気分で あろうか。特に親御さんの気持ちを考えると、新潮社の発言は、他人 の痛みに何ら配慮していないと感じられる。
新潮社の行為は「社会的に」という条件はつけども、容疑者の親族を殺したのと同じだけの重 みがある。
つまり、新潮社は少年法に一石を投じるためなら、容疑者 の家族は「社会的に殺してもかまわない」と考えているのである。
「マスコミ・ジャーナリズム」(カッコ付きで表現しているところにご注意)とは、いったい何様のつもりなんだ。
騒ぎたてて商売をするところはまるで総会屋である。いや「金さえだせば騒ぎを止める」だけ 総会屋のほうがましかもしれない。
また不思議でならないのは社会全体が容疑者本人の人権ばかりを騒ぎたてている ことである。もともと他人の痛みに鈍感な国民なのだが、想像力の限界が容疑者と被害者本人までとい うことなのか。
松本サリン事件でマスコミの暴力的な報道がさんざんたたかれたが、少なくとも 新潮社は何ら教訓を学んでいないのだろう。
そこで、少しでも反省を促すために、趣旨にご賛同いただける方は、 新潮社の出版物を買うのを、ぐっとこらえていただきたい。
また、この内容はどんどんコピーして下さって結構です。
特に学校関係の方々、こんな出版社からは教科書や副読本を買う必要 はありませんぜ。
この発言内容に対する責任は、デジブン主催の栗林元にあります。
抗議・中傷などがあれば、すべて受けて立つ!


6月15日
緊急発言
神戸小六殺人事件の一刻も早い解決を祈って!
酒鬼薔薇はこんな人間だ!
(結果的には大外れ・7月11日)
デジタル文芸主催:栗林元

恐るべき殺人事件から三週間が経過した。捜査がどこまで進展しているか 部外者には伺い知ることはできないが、ホラー小説を書き、人間の不安感 孤独感について若干の考察をしてきた者として、犯人・酒鬼薔薇の横顔を 推理してみた。また、ワイドショーなどで有識者の語る、あまりに的外れ な推理に義憤を感じたということも一因である。

犯人像を推理する。

●目立たない男
彼は今までの人生で、脚光というものを一度も浴びたことがないに違いない。
ちょうど私と同じ世代(私は犯人は昭和30年代生まれと考えている)の人間は、義務教育の中で人よ り抜きんでるためには、「勉強ができる」「スポーツができる」という二つ の選択肢しかなかった。
あと残された選択肢は「ワルである」とか「容姿が優れている」という心と肉体における 素質が必要となるもの。ところが実のところ、この三つの選択肢には入らない人間が大多数なの である。

●愛にめぐまれなかった
しかし、絶対的な多数派である上記の「その他大勢」は犯罪には走らない。
なぜなら、人間は肉親・兄弟・友人・恋人といった、彼以外ではぜったいに代役に ならない(愛し愛される)役割を生まれつき持っているからである。そのため 社会的には「その他大勢」でも人生では「主役」なのだ。
おそらく酒鬼薔薇はそういった彼を必要不可欠とする「人間関係」がきわめて 希薄な境遇なのである。またはそう思いこんでいるのである。

●社会との関わりに飢えている
彼は自分自身が自身の存在感を感じるために、殺人というきわめて衝撃的な行為をし なければならないほど自分を矮小化して考えている。
また挑戦状は、社会に対して「俺はここにいる」という宣言だ。
ずっと社会の片隅で公的にも私的にも「その他大勢」で生きてきた 彼は自分にとって他人がそうであるように、自分が他人にとって風景の一部にすぎない という事実が我慢ならないのだ。そこでかれは犯罪を犯し、社会と他人から恐れられ憎まれる。 それでも彼は大いに満足感を得ているはずだ。恐れ・憎しみは「少なくとも無視ではない」から。

●動機は
しかし、ならば犯罪は別に子供殺しである必要はない。派手なテロ行為でもいいはずだ。
やはり、動機の中にどす黒い殺人への欲望もあったのだろう。ついさっきまで自分自身を知らなかった 他人の視線も殺される瞬間は「しっかりと自分を見ている」はずだ。やはり、酒鬼薔薇にとって その視線は「無視ではない」
その瞬間に、性的な快楽が喚起されるかもしれんということは我々にも容易に想像しうることだ。
また社会・教育に対する怨念は上記のような私怨がすべてで、一部ニュースショー解説者のバカ発言のような 現代日本に根強く残る差別などとはまったく無関係だと私は断言する。

●現在の犯人像
彼は普通の義務教育を終了して、高校を卒業ないしは中退している。進学校ではないと思う。
社会人になってから、3回程度職を変わっているだろう。その気持ちは「これは本当の俺の仕事ではない」 というもの。それでも何とか飢えずに生きてこれた。
軽佻浮薄の80年代に20歳代を過ごしてきた。なぜなら 全共闘とか戦後の混乱、戦争体験という一つの世代が無条件に共感できる青春時代は送っていないはずだ。 現在は、日の当たらぬ仕事を黙々とこなしている。会社の中でもやはり目立たないだろう。前科はない。

●犯人の逮捕
犯人は、自分に向ける社会の恐怖と憎しみが薄れることを恐れている。そのため逮捕のきっかけは、再び犯罪を 犯す瞬間に警察の網に捕まるというケースが多いのではないだろうか。

●子供に愛を注ごう
私は7歳と6歳の父親である。この子供が被害者になることは想像するだけで恐ろしい。だが、子供たちが大人になり 酒鬼薔薇のような犯罪者となることもまた恐ろしいことである。酒鬼薔薇は鬼でも悪魔でもなく、我々と同じ 人から生まれた人間なのだ。私は前述のプロファイリングで彼は愛に不自由していると推理した。だからこそ、 我々は自分の子供たちに愛を注ごう。憎むべき犯人・酒鬼薔薇もやはり煉獄の中を成長してきたと思うからである。


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