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2004年2月のブックガイド

このページはエキサイトブログで2004年2月に掲載した書評・映画評覧で構成されています。
新規の書評は
ここ、シーサーブログの「新・読書記録゛(どくしょきろぐ)」
でお楽しみいただけます。


「池袋ウエストゲートパーク」(石田衣良)文春文庫
「偽史冒険世界―カルト本の百年」(長山 靖生 ) ちくま文庫
物語とその舞台のマッチングに関する考察
〜「人狼」とケルベロスサーガで考えたこと〜

「旅順」(柘植久慶)PHP文庫
「天使墜落(上・下)」(ニーブン&パーネル&フリン)創元SF文庫
「殴り屋(1〜5)」(森左智)少年画報社
「狼男だよ」(平井和正)当時はハヤカワ文庫
「木枯し紋次郎 赦免花は散った」(笹沢佐保)時代小説文庫
ロメロのゾンビ三部作
「探偵の夏 あるいは悪魔の子守唄」(岩崎正吾)創元推理文庫・1990年
THE ROAD OF THE RING で考えたこと
「闘いの構図(上・下)」(青山光二)新潮文庫 昭和59年>
「殺人百科」(コリン・ウィルソン 大庭忠男訳)彌生書房・昭和38年
「マフィアへの挑戦(1〜20)」(ドン・ペンドルトン)訳 池 央耿・高見 浩 創元推理文庫
井上靖の自伝的三部作
「春の道標」(黒井千次)新潮文庫
「産霊山秘録」(半村良)ハヤカワ文庫JA 昭和50年


「池袋ウエストゲートパーク」(石田衣良)文春文庫
 1998年の作品を何で今更、などと言う声が聞こえてきそうだが、私は基本的に自分で買う本は文庫本と決めている。というか文庫本しか買えない(涙)。
 ということで、発表年度は気にしないでいただきたい。

 一人称のハードボイルドミステリーは文体というか語りが命だ。久しぶりに文章のリズムで酔わせてくれる作品に出会った。それがこの「池袋ウエストゲートパーク」だ。
 "俺の名前は真島誠。去年、池袋の地元の工業高校を卒業した。"っていうか、今をときめくクドカンのテレビドラマでみんなおなじみだろう。
 物語は、池袋の西口公園をホームグラウンドにする誠が、色々な事件の解決を頼まれ、Gボーイズのキング・タカシや、一風変わった友人たちの協力でそれを解決していく、というもの。
 ハードボイルド一人称というと、一昔前は一度何らかの挫折をした「世を拗ねた」ようなはぐれ物が探偵役というのが定番だった。事件を解決しても達成感や満足感ではなく、「悲哀感」とか「無常感」が漂うのがカッコイイと思われていた。
 基本的に、この作品も「達成感」とかはない。でも、ならばこのある種爽やかな読後感はなんだろうと考えた。
 誠は、決してエリートではない。でもそれを挫折とか失敗とかまるで感じていない。仲間と生きる日常を愛している。そして、もう一つ、彼は基本的に温かい奴なのだ。引きこもりの友人の家に通ったり、心を病んだ少年の友人になったり。それ故に周囲の連中(チンピラ・ヤクザ・風俗嬢・警官など)から愛されているのだ。
 おまけにこの作品群には、本当に「嫌な奴」というのはあまり出てこない。悪い奴は出てくるが、基本的に悪い奴は「悲しい奴」である。それもまたこの物語の読後感を良いものにしているんだろう。
 読んでいるうちに、読者も誠たちと同じ、ブクロ(池袋)の不良少年になっている。そんな小説である。
 私は、これがデビュー作という石田衣良の才能に思わず嫉妬してしまいましたよ。(2004-2-13)
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「偽史冒険世界―カルト本の百年」(長山 靖生 ) ちくま文庫
現在40歳以上の方なら、大陸書房という出版社の名前を聞いてニヤリとするのではないだろうか。
 また「竹内文書」とか「日ユ同祖論」だとか、さらに極端になると「地球空洞説」とか「フリーメーソンの陰謀」だとかのいわゆるトンデモ本をごらんになったことがあるのではないだろうか。
 今回取り上げる長山靖生著の「偽史冒険世界―カルト本の百年」は、そのようなト本の中でも特に、日本の「偽史」と呼ばれるものについて論じている。

(目次)
・どうして義経はジンギスカンになったのか
・なぜ南は懐かしいのか
・トンデモ日本人起源説の世界観
・日本ユダヤ同祖説と陰謀説のあいだで
・言霊宇宙と神代文字
・竹内文書は軍部を動かしたか

 これらの説に共通するのは、「いまでこそ日本人は小さな日本列島にいるが、古代は世界に雄飛した偉大な民族だったのだ」ということ。いわばコンプレックスを持った民族の「願望」である。
 長山氏は、明治以来、ひたすら先進国に追いつきたいとした「後進国」日本の国民が抱いていたルサンチマンが、これらの珍説を歓迎したのだとする。確かに、そういった話は気持ちいいだろうからね。その証拠に、いつの時代にもこのような珍説本が書店から姿を消すことがない。大陸書房は無くなったが、今は学研が出している(笑)
 また、それら珍説を唱えて酔いしれた人々(酒井勝軍とか山根キクとか)の実際の生涯も詳細に紹介されていて興味深い。
 日本は本当は偉大なんだ、偉大になりたい、世界から一目置かれたい、という願望。おそらく、純チャンがイラクに自衛隊を送りたい心境も似たようなもんだろうな。(2004-2-14)
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物語とその舞台のマッチングに関する考察
〜「人狼」とケルベロスサーガで考えたこと〜

 99年に公開された原作・脚本 押井守の「人狼」をDVDで見た。
これは、「紅い眼鏡」「地獄の番犬ケルベロス」「犬狼伝説」と続く一連のケルベロスサーガと呼ばれるシリーズの最新作である。
決定的な敗戦から十数年――物語は,あり得たかもしれない戦後史としての昭和30年代を舞台に展開する。
 今回は、非常にクオリティの高い作品に仕上がっていて満足した。といおうか、以前の「紅い眼鏡」「地獄の番犬ケルベロス」がひどすぎた(俺的には)ためもある。
 一連のケルベロスで私が感じる「違和感」がいったい何なのかをこの機会にじっくり考えてみた。
 物語には、必ず舞台や世界の設定がある。作者のタイプにもよるだろうが、この物語世界と物語本体はどちらが先でも後でもない。そして、両者には必然性がなければならないと思っている。
 ケルベロスの初期二作において語られるストーリーには、この架空の昭和史でなければならないという必然が感じられなかったのである。極端な話、あのカッコイイ「プロテクトギア」や特機隊という設定は別の物に置き換えても十分だった。ただ、置き換えてしまうと、このシリーズは大変なことになってしまう。「起伏のないストーリーがモノローグの様に続く自主映画」になってしまうのだ。
 私は、このシリーズは「まず設定ありき」(決して悪いことではない)であったのだろうと推測する。ただ、そこに「展開する物語を間違えた」のである。
 他の監督の作品で例えるなら、ウォシャウスキーの「マトリックス」シリーズ。あの作品が「人と人工知能の確執を描いて、現代人の不安を浮き彫りにする」ために企画された作品だと思っているのは一部ボンクラ評論家だけだろう。あの作品の企画意図は「アメリカ人の俳優でカンフー映画と攻殻機動隊がやりたいんだよ俺たち」というところから始まり、「アメリカ人の俳優でカンフー映画」という不自然さを帳消しにするための舞台や世界を構築していった過程で、この世界なら「人と人工知能の確執を描いて、現代人の不安を浮き彫りにできる」じゃないか、となったのである。
 ケルベロスシリーズに関して私が感じる座りの悪さ感はこの「物語世界と物語本体との必然性」だったのだ。
 これは実は「人狼」でも言える。伏と娘の物語も実は本当の昭和史の中で、機動隊員と中核派の娘に置き換えても全然違和感がない。じゃ、なぜ架空の昭和史でなければいけないのか。まあ作者たちがこの世界を描きたかったからだろうし、それだけ魅力的な世界ではあるが、ならばもっと別のストーリーがあるんじゃない、というのが私の感想だ。
 そんな具合に突っ込みどころの多い作品ではあるがクオリティは高い。例えるならば、最高の器に、最高のスープと最高の具で作られたラーメン、でも麺は最高の「うどん」だったという感じ。惜しいなあ。
 ま、一番の突っ込みどころは、なぜアニメじゃなきゃいけなかったのかというところかな。
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「旅順」(柘植久慶)PHP文庫
日露戦争の分水嶺となった旅順の戦いを克明に書き上げた歴史小説である。
元グリーンベレーの柘植氏ならではの視点で描かれる戦争。戦争の善悪も戦いの良否も超越した徹底した描写は、かえって戦争の悲劇性を強く訴えかけるのだ、と改めて感じた。特に二百三高知の戦いは攻める方も守る方も地獄の様相である。
 乃木の無能ぶりと当時の世間の彼に対する怨みなど、歴史の教科書では描かれない世相なども興味深い。特に海軍の華々しい日本海海戦の勝利に比べ、記録も少ないようだし。
 私は、毎号ビッグコミックスピリッツ連載中の「日露戦争物語」(江川達也)を楽しみにしているので、実に面白かった。小説としてのクオリティは通常の柘植氏と同じくらい(笑)。でも柘植氏の作品の長所は、その体験に裏打ちされた視点だから、この本は十分に買う価値ありと言っておく。
 あの時代は、戦争が「貴族の義務であり名誉」から「庶民出身兵の互いの大量殺戮」に変わっていく時代である。ロジャー・コーマン制作の「レッド・バロン」という映画は、第一次大戦のドイツのエース(撃墜王)マンフレッド・フォン・リヒトホーヘンの最後を描いていて、貴族のエースがカナダ人の農夫出身のエース・ロイ・ブラウンに撃墜される物語で、騎士道的戦争(第一次大戦の空戦にはまだそんなムードが残っていた)がビジネスと化した近代戦(大量殺戮)へと移行していく様を示している。
 銃機や兵器や戦記に興味を示す(←俺です)と昔はオタク呼ばわりされたり、戦争賛美ととらえられたりしたものだが、実際はかなり平和ということを考えているのだよと言ってみるテスト(笑)
旅順―日露決戦の分水嶺PHP文庫←アマゾンへGO!
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「天使墜落(上・下)」(ニーブン&パーネル&フリン)創元SF文庫
97年の発売で星雲賞を取っている。
 もの心ついたころからの読書マニアである私には、財布の中身がどれほど少なかろうと、明日のたばこ代に事欠くことになろうと、それでも本屋で「手に取ったとたんレジへ行かねばならない」という本が存在する。近年はなかなかそんな本に巡り会えないのだが、この「天使墜落」はそんな本である。
 近未来、行き過ぎた環境保護政策が嵩じて、科学技術すら否定するようになってしまった地球では、「SFファン」はテクノロジーを信奉する異端者として迫害を受けている。地下に潜ったSFファンは、それでも性懲りもなく秘密SFコンベンションとか開いている(笑)
 政府が眼の敵にしているのが地球と縁を切った宇宙ステーションのコロニーである。完全な自給自足はできないため、時々地球の大気をかすめ取って、宇宙空間に逃げていくガスの補充をしなければならないわけだ。
 ところがある日、その大気回収用スタープシップが、地球側によって撃墜。パイロットたちは不時着して一命を取り留めるが、もし地球側の政府にでも見つかったら万事休すだ。
 彼らを救うんだ。雄々しく立ち上がったのは、SFファンたちだった。
 政府を出し抜き飛行士たちを奪取する。そして、地球にまだ一台だけ飛行可能な宇宙船があることを知る。
 SFファンのネットワークは飛行士(コードネーム天使)たちを自力で宇宙に返そうとする一大作戦を実行する。しかし、敵側には、ファンの手の内を熟知した「元SFファン」がいた!
 スタートレックファン(トレッキー)を題材にした「ギャラクシー・クエスト」って映画があるが、あれを見たときに真っ先に思い出したのがこの「天使墜落」。
 一気に読んじまいましたよ97年当時。
 思えば少年時代、SFばかり読んでいた私は、父(高校の現国教師)から「ロケットだとかロボットだとか地に足のつかないものばかり読んで」と叱られたものだ。小学六年の時にはじめて本屋の大人向けのコーナーで創元推理文庫SFに出会い、中学生の時にハヤカワSF文庫の創刊にファンとして立ち会い、いずれも欣喜雀躍したのを覚えている。
 いやあ、俺SFファンでよかった。そう思える作品だ。
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「殴り屋(1〜5)」(森左智)少年画報社
 「ボックス(※)」というレフェリーの声で、男たちはグローブを交える。拳の中に様々な思いを握りしめて…。
 ボクシングマンガである。ボクシングマンガに駄作無しというのが私の持論で、これに関しては今まで裏切られたことがない。この「殴り屋」もまたしかり。
 この作品は、連載中止になってしまった作品だが、私は単行本で読んだ。主人公鷹上凱が世界チャンピオンを目指して所属のアサクラジムの面々と練習する。という内容。
 なんだ、ボクシングマンガってみんな同じジャン、という声が聞こえてきそうだが、それは違う。それを言うなら野球マンガだって格闘技マンガだって同じじゃないですか(プンプン←1人で怒るなよ、俺)
 試合前にどれだけ精進したか、ボクサーの本当の敵は対戦相手ではなく誰もが抱く自分自身の弱さである。試合に備えたすべての時間と思いがリングで一瞬のうち激突する、ボクシングはいつでもドラマだ。だからボクシングマンガは力作になるべくしてなる。
 鳳聡と鷹上凱の宿命を読んだ時なんざ、少し目頭熱くなりましたよ。出てくるボクサーがみんないい奴なんだ。これから、というところでの連載中止。これは罪だよ少年画報社さん。
 主人公たちを取り巻く女性キャラもいい。わかっている、ボクシングと男という生き物を。と思ったら作者の森さんって女性なのね。失礼しました。
 まだ未見の人がいたら、この作品を手にとって欲しい。また「はじめの一歩」とか「あしたのジョー」とか、ボクシングマンガが好きな人は必読である。

 実は私は、大学出てから17年間、外回りの営業をやっていた。仕事の上で困難や問題に出くわすこともある。ともすれば逃げ出したいと思うときもある。そんな時、ボクシングマンガを手にとって勇気をもらうことにしている。もうだめかも、と思いかけている自分を立ち上がらせて、自分で自分に叫ぶのだ。
 「ボックス!」
 ※ボクシングの試合中、レフェリーが選手に殴り合いを促す言葉。
殴り屋 1 (1)ヤングキングコミックス←アマゾンへGO! 関連リンク 「殴り屋」普及委員会
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「狼男だよ」(平井和正)当時はハヤカワ文庫
これぞ記念すべきアダルトウルフガイシリーズの第一作だ。
 立風書房版、早川SF文庫版、祥伝社NON NOVEL版、角川文庫版、ハルキ版と存在するが、写真は俺が持っているハヤカワ版だ(と文体までハードボイルドになっている)。俺にとっては生頼範義のイラストでなければウルフガイではないからだ。
 フリーのルポライター犬神明は狼男だ。月齢が満ちるにつれて、超人的な能力を発揮する。やむなく巻き込まれたCIA等の陰謀に徒手空拳で戦いを挑む。
 忘れもしない中学1年生の俺は、この物語に酔った。中毒になった。何しろ、どんな映画よりもマンガよりも面白い。大学卒業までの10年近く、俺は平井和正病にかかっていたといってもいいだろう。
 ゾンビーハンターシリーズのせいで、大学に入ってから少林寺拳法部に入部してしまったぐらいである。つまり林石隆になりたかったのよ、俺は(笑)。
 この小説が書かれたのは1960年代の後半である。手塚治虫の「バンパイヤ」とほぼ同じころである。狼男を「アクション小説のヒーロー」にした作品としては、世界で最も早いものではないかと思う。英語圏には第二次大戦のヨーロッパを舞台に「狼男のエージェントがナチスと戦う」シリーズがある(タイトル失念・→※注)が、あれは確か80年代の後半にようやく出てきたものだ。平井和正の先見性には今でも驚かされる。
 現在にいたるまで、あれほど次の作品が待ち遠しく、何度も何度も読み返しては反芻した作品はない。麻薬のような小説である。必読。特に若者は読め。
※→89年のロバート・マキャモンの「狼の時(上・下)」角川ホラー文庫・平成5年と判明・2004/2/22
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「木枯し紋次郎 赦免花は散った」(笹沢佐保)時代小説文庫
ドラマで一世を風靡した、おなじみシリーズの第一作だ。
 『赦免花は散った』は、紋次郎がこの世でただ一人、気を許した兄弟分、日野の左文治の身代わりで三宅島に島送りになるというところから始まる。その時、紋次郎には密かに慕うお夕というかたぎの娘がいた。しかし、流人船が出ようとしたとき、お夕は橋から身を投げて自殺してしまう。自分のためにかたぎの娘を死なせたことに紋次郎は苦しむ。
 三宅島での紋次郎の心の支えは、誰の子かもわからぬ子を身ごもった、同じくお夕という名の女囚の面倒を見ることだ。死んだお夕の供養のつもりである。しかし、その女も身を投げて死んでしまう。それを機に、紋次郎は誘われていた島抜けに加わり、江戸に戻る。するとそこには、死んだはずのお夕の姿が……。
 赦免花とはソテツの花で、この花が咲いた年には刑期を終えた者を迎えに来る赦免船が来ると信じられていた。裏切りがばれて「おなかの中に左文治の子がいる、左文治を切らないで欲しい」と嘆願するお夕に、紋次郎の脳裏に、父無し子を抱えて身を投げた三宅島のお夕の姿が浮かぶ。
 「赦免花は散ったんでござんすよ」
 そう呟いて紋次郎は左文治を切る。

 救いのない話である。しかし、面白い。たった一人で、何かにせき立てられるように旅を続ける紋次郎。
 愚痴もこぼさず、心を開く友達もいず、己の業務に邁進してきた、俺の親父の世代の「男」達は、この寡黙なヒーローに自分を重ね、静かなカタルシスを感じていたのである。 名手・笹沢佐保の小説作法を学ぶに最適な作品群である。蛇足ではあるが、私はあまりのうまさに、この第一作を、丸ごとノートに清書して、段落ごとに分析したことがある。作者は、紋次郎が「思った」とか「感じた」などと一切描写しない。しかし、彼のみた光景の描写だけで、紋次郎の怒りや絶望を読者に「しっかりと伝えて」くる。しかも、ストーリーがどんどん展開していくのにシンクロして、火山の噴火、荒れる海、と舞台背景も劇的に展開する。エンターテイメント小説を志す人は、絶対に読むべき作品群。面倒臭がりの俺が、まるまる模写してしまった作品は、あとにも先にもこの一編だけである。
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ロメロのゾンビ三部作
「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968)
「ゾンビ DAWN OF THE DEAD」(1978)
「死霊のえじき DAY OF THE DEAD」(1985)

 ロメロのゾンビ三部作である。第一作がベトナム戦争真っ最中。第二作がベトナム戦争直後(終戦3年後)。第三作がアメリカの財政赤字が顕在化した年に公開された。
 その時代の不安をよく表している。第一作は「ゾンビもの」というカテゴリーを生み出した記念碑的作品である。ただ、その後に続いた凡百のゾンビ映画との決定的な違いは作品の質である。
 ロメロはゾンビ(リビングデッド)を「状況」として描いている。ともすればそのグロ的な部分が取り上げられがちだが、ゾンビが徘徊する世界は、ロメロにとってあくまで「状況」にすぎないのだ。その状況下で、互いに争い自滅していく人間たち。三部作すべての主人公が女性で、彼女を助ける役割の人間が黒人やプエルトリカンだったりするのは決して偶然ではないだろう。WASP(白人のアメリカ人)の男は、ロメロの作品では支配欲・権力欲・エゴイズムの象徴になっているのではないかと感じられるのだ。
 ルチオ・フルチ(伊)のゾンビが、ゾンビだ怖いだろう、というレベルなのに対し、ロメロの作品は見終わった後、「本当にグロテスクなのは人間の欲望だ」というメッセージがしっかり伝わってくる。特にゾンビものが大盛況になり、ゾンビの教祖のように扱われていた時期の第三作でそのメッセージは強烈だ。
 頭のネジのはずれた学者に「餌付け」されたゾンビのボブが、最後の最後で、凄く人間らしい振る舞いをするのである。このとき、観客の心は完全にボブの側についているのだ。目に見える死者のグロテスクと、目に見えない生者の心のグロテスク、この二つを対比するのに、ゾンビの徘徊する世界はまさにぴったりなのである。
 気持ち悪い、という偏見を捨てて、是非見ていただきたい作品である。そしてロメロという作家に興味を持たれた方は、次に「マーティン」という作品を見て欲しい。これもホラー映画のカテゴリーを超える力作である。
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「探偵の夏 あるいは悪魔の子守唄」(岩崎正吾)創元推理文庫・1990年
作者のデビュー作である。山梨の地方出版社(作者が社長)から始まって中央の出版社から文庫化されるという、出世魚のような作品である。
 通称八馬鹿村(やつばかむら)と呼ばれる因習の村に伝わる奇妙な子守唄。その子守唄に合わせた「見立て連続殺人事件」の物語である。舞台には「獄門」寺というのも出てきますな。
 物語冒頭、村を見下ろす鬼首峠(おにくび、「おにこべ」じゃないよ)にキンダイチという探偵が現れる。小便をしているのである。そこに通りかかった一人の老婆、「はい、はい、おりんでごぜえやす」と書いただけで、もう横溝正史の一連の作品が脳裏によみがえるはず。そりゃあもう全部読んでますよ私は。
 この作品は、金田一耕助シリーズの本歌取り、いわゆる上質のパロディである。元ネタを知っていればおもしろさ三倍増だ。しかし、パロディだからという甘えに乗っかった作品ではない。ちゃんとミステリとして立派に成立している。ミステリとして面白い。
 横溝正史の作品はみんな読んでしまった、もう新しいやつは読めないんだ、と諦めている読者の方に、この作品をお薦めする。ちなみに、この探偵の四季は、秋と冬も存在し、それぞれホームズものと「Yの悲劇」などクイーンもののパロディになっている。
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THE ROAD OF THE RING で考えたこと
 映画の三部作が完結し、今や映画界の話題はこの「指輪物語」一色である。
 実は私の大学時代にもこの指輪ブームがあった。もっぱらアメリカの西海岸が中心で、「ガンダルフを大統領にしようキャンペーン」などが話題になったが、当時まだなじみの薄いファンタジーというカテゴリのせいで、日本ではサブカルチャー扱いであり、せいぜい「スターログ日本版」(ツルモトルーム出版)とか「SFマガジン」が取り上げる「静かなブーム」といったところだった。アニメ化に挑んだのもラルフ・バクシで、考えてみるとやっぱりサブカルだなあ(笑)。

 指輪物語の出色なところは、主人公をホビット族にしたところである。権力欲・支配欲と無縁の、頑丈で陽気で楽天的で慈しみに満ちた小人たち。人間でも、エルフでもなく、ホビットにしかできないこと、それこそが「指輪」を壊すことなのである。
 トールキンは、この物語の中で、勇猛さ・力よりもこの「ホビットの心」を上位に置いたのだ。そして、登場人物たちのみならず、読者も、巻を置くときには、このホビットたちに深い敬愛の思いを感じるのである。  私は、日本人として、「この"ホビット的"なるものに、胸を張れ」というトールキンの声が聞こえてくるような気がした。
 今の世界で、日本はホビットなのである。戦争を否定し、核爆発を体験した唯一の国。軍事力を背景にしたアメリカやロシアが、アラゴルンやボロミアならば、日本はフロドとしての道を貫いたらどうだろう。
 フロドは、目的のため、あえてアラゴルンたちと分かれるが、目指すものは一緒である。でも、今の小泉首相は、最後までアラゴルンたちと行きたいようだ。これでは指輪は壊せない(笑)
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「闘いの構図(上・下)」(青山光二)新潮文庫 昭和59年
みなさんは鶴見騒擾事件をご存じだろうか、歴史の教科書には出てこない。私もこの作品を読むまでは知らなかった。
 大正14年12月21日、東電東京火力発電所の工事請負をめぐるトラブルから、二つに分かれたとび職や土木作業員たちが組織的に興した闘いである。いわば喧嘩なのだが、その規模はもう戦争だった。
 双方合わせて2000人超、ツルハシ・スコップは言うに及ばず、竹槍、拳銃、猟銃、カービン銃、ダイナマイトなどで戦ったのだ。午後に始まった闘いは、深夜にまで続き、市民を巻き込んだ暗夜の市街戦になったという。
 鎮圧側は警官隊1000人、憲兵隊50人、騎馬憲兵20騎、特別警官隊(通称新撰組)50人。特別警官隊は全員が拳銃を携行していた。ちなみに、銃器を携行した警官隊の部隊出動は、この時が史上初である。
 稼業人も渡世人も博徒もあまり明確な線引きができない近代以前の土木業界が近代の企業になるために通り過ぎねばならなかった蹉跌なのであろうか。なんともすさまじい話である。作者がこの作品の制作にかけた年数が20年。これまたすごい。
 「構図」と銘打たれただけあり、この闘いに費やされた金額などが、死傷した人足の家族に支払うお金まで含めて準備計上されるなど、綿密に書かれている。喧嘩をプロジェクトとしてみると、プロジェクトとリーダー像などにも思いを馳せてしまうドキュメントノベルだ。
 現在、書店で手に出来るかどうかは不明だが、見つけたら即購入をお勧めする。ただし、まちがっても平日の夜に読み始めるのはやめよう。翌日の仕事に支障をきたすからだ。一度読み始めたら、もう眠れないからだ。
 昭和55年度の第8回平林たい子文学賞を受賞している。

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「殺人百科」(コリン・ウィルソン 大庭忠男訳)彌生書房・昭和38年
文芸評論家から出発し、「オカルト」や小説「宇宙パンパイヤー」などでも有名なコリン・ウィルソンの極めて初期の作品である。
彼が「アウトサイダー」などで提唱した実存哲学的な興味から「殺人事件」の研究を始めるスタート的な書である。
 20世紀に入ってからの殺人事件は精神的な傾向が強くなった。彼は、それを現代の社会と個人の関係から考察している。
 当時はまだ極めて希だった「動機のない殺人」。すべての芸術はある意味「閉じこめられた精神の脱獄」の試みだと言われる。「動機のない殺人」の中にはこの「精神の脱獄」の粗雑な現れであるものがある、というのに思わず納得させられるものがあった。
 実は、日本でも同様の事件が起きている。
 当時では、映画「刺青(タトゥー)あり」の元となった三菱銀行北畠支店立て籠もり事件。犯人は、大藪春彦の小説とニーチェを愛読するインテリのチンピラであった。
 昔なら、小説「八ツ墓村」のエピソードの元となった「津山三十人殺し」。犯人は僻地の村で村八分になった若者で、近所の子供たちに自分で書いた冒険物語を語って聞かせるインテリだった。
 動機が、怨恨でも貧困でもなく、「俺は何のために生まれてきたんだ、俺はこんなちっぽけな生活をするためにここにいるんじゃない、俺を見ろ、俺はここにいる」というレーゾンデートル(存在理由)に根ざすもの。悲しいかな、魂をより高みへと飛翔させる方法として、文化や科学や芸術や体験や感動ではなく、犯罪を選んだ者たちなのだ。
 近年では、神戸の「酒鬼薔薇」事件もいわば「実存殺人」といえないか。
 バブル最盛期の当時、私はネズミが走り回る倉庫の二階の社員寮で一人暮らしをしていた。上京したてで友人もなく、勤務先の同僚たちは、ギャンブルと風俗にしか興味がないように見え、孤独で鬱々とした日常を送っていた。実存殺人の犯罪者と自分とは「紙一重」に思えてしかたなかった。あのころ、何かショッキングな挫折なりきっかけなりがあれば、いつでも私は「あっち側」に落ちていたように思えるのだ。私がそうならずに今も生きていられるのは、この本のお陰である。
 これ以降、コリン・ウィルソンはこの手の犯罪研究を続けていて、最近では、「現代殺人百科」(関口篤訳)青土社がまだ入手可能であろう。
殺人百科←アマゾンへGO!
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「マフィアへの挑戦(1〜20)」(ドン・ペンドルトン)訳 池 央耿・高見 浩 創元推理文庫
表紙画像はない。すまん。かわりに主人公の銃ね。

 ベトナムで狙撃兵としてマークスマン勲章を与えられたほどの活躍をしたマック・ボランが故郷に帰ると、家族はマフィアに殺され、妹は辱められていた。ボランはマフィアに潜入し組織を壊滅させる。だがそれは、マフィアとの闘いのほんの第一歩にすぎなかったのだ。
 いわゆる「死刑執行人シリーズ」である。いや面白いのなんのって、あの大藪春彦が、まるで俺が書いているみたい、といって夢中になったというほどのアクション小説である。俺は当時高校生。
 銃のリアルな描写、セクシーな女達、流血のバイオレンス、思い出すだけで血がたぎるぜ。ただし、小説として面白いのは下記に上げた20冊。これは本人が書いてます。
 その後、ハーレクインから出てたのは無名の新人たちが延々と書き続けた「マック・ボラン」シリーズで、コミックなんかにもなったようですが、そのころにはすっかり熱が冷めてました(笑)。
 とはいえ、本人が書いた20冊は、アクション小説として白眉です。当時、主人公が(9巻から)使っていた44オートマグ(写真)は各モデルガンメーカーがこぞって売り出したものです。私は、MGCのブローバックモデルが欲しくて仕方なかった記憶有り。
 ちょうどあのころ、レモシリーズとかアクション小説のシリーズが創元推理文庫から立て続けにリリースされていましたね。特に「4巻 裏切りのコート・ダジュール」は個人的には一番の傑作だと思う。セクシーさも一番です。
 創元社からまだ出てるようなら未読の人は即買いですな。映画よりもマンガよりも楽しめる。未読の人がうらやましいよ。
『マフィアへの挑戦1/戦士起つ』
『マフィアへの挑戦2/抹殺部隊』
『マフィアへの挑戦3/仮面の復讐者』
『マフィアへの挑戦4/裏切りのコート・ダジュール』
『マフィアへの挑戦5/サドの末裔』
『マフィアへの挑戦6/三人の女』
『マフィアへの挑戦7/フォクシー・レディ』
『マフィアへの挑戦8/死を呼ぶカジノ』
『マフィアへの挑戦9/カリブの回転木馬』
『マフィアへの挑戦10/逆説の街』
『マフィアへの挑戦11/バレンチナ我が愛』
『マフィアへの挑戦12/黒い瞳のクラウディア』
『マフィアへの挑戦13/抹殺部隊ふたたび』
『マフィアへの挑戦14/フィラデルフィア・パニック』
『マフィアへの挑戦15/月曜日:還ってきた戦士』
『マフィアへの挑戦16/火曜日:憂い顔の騎士』
『マフィアへの挑戦17/水曜日:謀略のシナリオ』
『マフィアへの挑戦18/木曜日:悪魔の要塞島』
『マフィアへの挑戦19/金曜日:禿鷹の饗宴』
『マフィアへの挑戦20/土曜日:戦士よ永遠に』
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マフィアへの挑戦 (2)創元推理文庫 (158‐2)
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井上靖の自伝的三部作

 個人的にはビルドゥングスロマン(教養小説・成長物語)の最高峰だと思っている。  主人公洪作の湯が島での幼少期が「しろばんば」、沼津での中学時代が「夏草冬濤」、そして柔道に夢中の高校受験浪人中が「北の海」である。

 「しろばんば」は教科書にも載っていたりしておなじみだろうが、高校生の時、なんで「しろばんば」なんだよ、と思ったものだ。中学生や高校生なら絶対に「夏草冬濤」や「北の海」の方が面白いし興味を抱くはずだからだ。

 大事件が起こるわけでもなく、淡々と物語は進行するが、洪作を取り巻く友人達の生き生きとした姿が実に魅力だ。あの頃の学生達って本当にいい。その仲間達の中で、読者はもう一度、青春を体験するのだ。
 私は、この作品群に魅了されて武道がやりたくなり、大学で少林寺拳法部へ入ったぐらい。で、酒飲んで寮歌を歌うようなアナクロな青春を送ってしまったわけだ(笑・1977年だからね)
 作者・井上靖(当然、洪作のモデル)が練習した、第四高等学校(現金沢大学)の武術道場「無声堂」が、愛知県犬山市の明治村に移築保存されている。

 自宅の近くなので、私は時々、そこで旧制高校の青春に思いを馳せてみるのである。
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しろばんば新潮文庫
夏草冬涛 (下)新潮文庫
北の海〈上〉新潮文庫
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「春の道標」(黒井千次)新潮文庫
恋愛もの、とか初恋ものといわれる小説には、極めて冷笑的な態度を取るひねくれ者の私が、さめざめと涙してしまった小説である。17歳の明史(あけし)と、通学路で出会った髪の長い美少女15歳の棗(なつめ)の1年間の出会いと別れを描いている。舞台は戦後すぐ、でもそんなことは関係ない、この物語には誰もが通過した「ささやかな初恋」と通じる普遍性があるからだ。
 中学生の棗は春から明史の高校に通うことになっている。

 「お友達になってくれる?」
 「お友達?」
 「さよならはできないもの…私たち」
 「毎日会って、同じ学校に通って、お互いに好きで、そして丘には行けないで…お友達?」
 「地獄だよ、そんなの」
 「なれると思う…」
 「……」

 ここで俺は泣いてしまった。

 丘とは、二人がそっと抱きしめ会った場所である。
 これは、少年の、控えめな、ささやかな恋が、静かに終わりを迎える瞬間である。
 最後のページを閉じたとき当時27歳だった俺は、17歳の時の心に戻り、流れる涙を止めることが出来なかった。作中の明史さえ涙を流していないのに。
 実はそのとき、出勤前の朝方で、意外に早く目が覚めてしまった私は、高校教師の父の机上にあったこの本を手に取り、寝床の中で読んでいたのである。その深い感動を、少しでも長く噛みしめていたかったので、その日は仮病で会社を休んでしまいました(告白)。
 この作品は、1981年度の読書感想文コンクールの課題図書になっているので、読んでいる人も多いかもしれない。それにしても俺のような読書ずれした野郎を泣かすとは、課題図書も侮れないではないか。
 未読の方は、騙されたと思って読んでくれ。
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「産霊山秘録」(半村良)ハヤカワ文庫JA 昭和50年
現在ではハルキ文庫で買えるはず。
   ◆日ノ民
 古ヘ山山ヘメクリテ神ニ使フル人アリ。
 タタ日トノミ称フ。高皇産霊神ノ裔ニアリ、妣ナクシテ奇(旧字)人多ク生マレ、産霊ノ地ヲ究ムト言フ。(神統拾遺)
 ヒは日とも、卑、非ともいう。
 遠い昔、ヒは皇室の更にその上に位したという説がある。そのためにあらゆる氏姓を拒否し、ヒとのみとなえて世にかくれすんでいるいるのだ。しかし、一朝皇統の命運がかかる時には、どこからともなくあらわれてその存続に尽くすといわれている。
 この一族は、歴史が動乱期にさしかかる時、「御鏡・依玉・伊吹」と呼ばれる三種の神器によってテレパシー、テレポーテーションなどの特殊能力を駆使し皇室の危難を救ってきたのだ。
 伝奇SF。このカテゴリーのそもそものスタートの作品は、半村良のこの作品と、やはり半村良の「石の血脈」だといって間違いないだろう。
 かたや超能力、かたや吸血鬼伝説。それこそ手垢のついたモチーフで、こんなに面白い物語が作れるぜ、ということが提示され、その後80年代後半のスーパー伝奇ロマンブームの先駆けとなったのである。
 超能力を駆使するヒの一族を通して語られる日本の歴史のターニングポイント。しかし、近代になるにつれ、ヒの民も権力者に道具として利用され衰退していく。今読み返してもまったく色あせていない物語である。
 数年後、半村良は、同様のテーマでさらに凄い物語を書き続けることになる。それがあの「妖星伝」
。  私にとってはエンターテイメント小説のベスト作品である。
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