まるで演出されたかのような平成7年7月7日というスリー・セブンの日に、私は「心臓冠動脈バイパス手術」を受けるべく名古屋第二赤十字病院(通称:八事日赤病院)へ入院した。
この手術で我が国のトップ・レベルにある田嶋心臓血管外科部長によれば、51歳でこの手術を受けるということは同病患者の年齢平均に比して約10歳以上早いとのことであった。
ことここに至るまでの原因分析と精神分析をしてみて、同じ病に悩むあるいはご本人が気づかずに病魔が忍び寄っている方への何らかのご参考になればと考え入院時に持ち込んだパソコンで手術後から5日目に当たる7月17日に書き始めたものである。
☆手術が必要となった原因
心臓は全身に酸素・栄養を含んだ血液を供給するという生命維持のための重要な働きをしているが、心臓も筋肉であり活動するためには自身に酸素を供給する必要がある。
そのための動脈がいわゆる心臓冠動脈であり右冠動脈・左前下行枝・左回旋枝の3本の基幹動脈からなり、各々から支線の動脈が伸びている。
冠動脈あるいはこれから分岐する動脈支線のうちの一部が閉塞を起こすと胸痛となったり、あるいは心筋梗塞による死亡という事態となる。
それでは、なぜ冠動脈などが閉塞するかであるが一般的に次の事柄が因子と言われている。
1.喫煙
2.高脂血性食物
3.ストレス
これらの因子により血管内径が細くなりやがて詰まっていく(閉塞)のである。
私の場合でいえば、幼いときから動物性脂肪・動物性タンパク質食品が大好きであり、植物性食物はあくまで添え物という考えであった。今でもこの嗜好は変わっていない。
「動物性タンパク質以外はメインの副食物にあらず。牛肉・豚肉・鶏肉の風味に違いがあるのはそれぞれ固有の脂肪の性質が違うからであり、従って脂肪のほとんどないフィレ肉やささみというのは肉それぞれの特徴を十分にあらわしておらずロース肉あるいは三枚肉こそが肉である。魚であれば背部や尾部よりも脂肪のある腹部が美味しい。」というのが私の考え方であった。
この嗜好が冠動脈閉塞の最大因子と思われるが、喫煙も学生時代から始めて約30数年、近時はタール1ミリグラム・ニコチン0.1ミリグラムという現在発売中のたばこの中では最も軽いたばこである「フロンティア・ライト」を1日約30本から40本吸いながら「タール6ミリグラム・ニコチン0.6ミリグラムという標準的なたばこに比べれば6分の1のタール・ニコチン量だから本数換算すると1日5本から6本しか吸っていない。」と自分自身に言い訳していた。
嗜好・喫煙にストレス・性格などが複合的に絡み合ってこの年齢で手術せざるを得なくなったものと思われる。
過去、病状が大きく悪化したのは次の三つの局面であり
これらのことが性格も相まってかなりのストレスとなったものとおもわれる。
☆医学的所見
大阪支店単身赴任中の昭和56年9月末に心臓発作が起きたが、幸いにして程度が軽かったのかそのときは一命をとりとめたのである。発作の翌日、診療所へ行ったところ医師から「昨日もし死んでいたら死因は心筋梗塞ということでした。」と言われ大阪大学医学部付属病院で詳しく検査するようにとの指示があった。
後日、阪大でCT及びエコー検査などにより心臓筋肉の一部が発作により傷んでいることが判明した。(発作が続いている間、血が流れなかったので筋肉が壊死に近い状態になったということ。)
そして56年11月単身赴任を解消し以後、金山支店・車道支店で7年ほど勤務した。当初はニトログリセリンを大事に持っていたが大きな発作が起きることもなくいつしか二トログリセリンも持ち忘れるほど自覚症状はなかった。生活はそれまでと変わらず前述の嗜好と喫煙は続いたのである。
その間、特別に治療方法があるわけでもなく要管理者として診療所で定期的に血圧・心電図の測定するにとどまっていた。
その後、豊田支店に転勤して半年後の平成元年11月に時々胸が痛くなるようになり、翌2年の2月に初めて「心臓血管造影カテーテル検査」という2泊3日の検査を八事日赤病院で受けた。
この検査は右腕の血管からカテーテルという管を心臓まで入れ造影剤を注入しながらレントゲン写真(16ミリシネフィルム)を撮るというもので血管の閉塞状態が鮮明にわかる検査である。(なお、心電計による心電図では血管の閉塞状態はわからない。)
このときの検査結果は冠動脈のところどころに閉塞が見られる程度であり、以後何種類かの血管拡張剤が投与されるようになったが、本人は特に気にもせず前述の嗜好と喫煙にいささかの変化もなかった。
この検査は平成4年4月にも行いこの時点では主要冠動脈3本中2本がほぼ100%閉塞状態にあり残り1本でかろうじて命を保っている状態でフーセン療法(カテーテルの先にフーセンがついており、それを閉塞しかかった血管に入れフーセンを膨らませることにより血管を膨らませ血の通りをよくする治療方法。ここまでは循環器内科の分野)ではトップ・レベルの平山循環器内科部長から「もうフーセン療法はできない。残りがもう少し閉塞してきたらバイパス手術しかない。」と言われたが、それでも懲りずに相変わらずの嗜好と喫煙はその後も続いた。
そして平成7年6月13日に再びカテーテル検査をし、残りの冠動脈も80%閉塞していることをシネフィルムを見ながら知らされた。
私としては「今回も多少の悪化はあるかもしれない。」という軽い気持ちで検査を受けたためこの結果に対しては意外であり「とうとうくるべきものがきたか。」という思いをした。
検査をして退院後はじめての外来としての6月23日、平山循環器内科部長から「治療方法の選択肢はなく、ほっておいてほどなく心筋梗塞をおこして死ぬか、あるいはバイパス手術をするかということである。」とよほど急を要したと見えて私の都合も聞かず、すでに手術室に対してバイパス手術をする日の予約をしてあり、その日は7月12日であった。 ☆自覚症状
今思えば最初の自覚症状があったのは30歳代はじめであった。
深夜、胸部から胃のあたりの痛さで思わず目が覚めた。寝返りを打とうがあるいは寝る姿勢を変えようが痛みは取れず治まるまでしばらくの間じっと我慢をせざるを得なかった。
当時は心臓が原因とは思いもよらず、どうせ夜の食事を食べ過ぎて胸焼けでもしたのだろうと気にもかけずにそのままにしていた。
また、仕事中に突然、腹部あたりが痛くなりこの痛みが左回りに心臓から喉元に移動していき喉を押さえつけられ呼吸が苦しくなるような圧迫感に変わり脂汗が出るということを年に1、2回経験するようになった。この苦しみは痛いというよりも胸と背中を何かで圧迫されているような圧迫感であった。
この痛みの持続時間は時計で計測したわけではないのではっきりしたことはわからないがたぶん1分内外ではなかったかと思う。
年を追うにつれこの自覚回数が増加し、またその持続時間も数分間と長くなっていった。
そして忘れもしない昭和56年9月30日の夕方6時頃、同僚2人と大阪梅田の路上を歩いていたところ突然胸が苦しくなり歩行速度が落ちついには立ち止まらざるを得ず、やがて気がついた同僚に不審がられて、企業内の診療所に行くように勧められ翌朝に受診してはじめて心筋梗塞ということを認識したのである。
企業もこんな人間を単身寮に入れておくわけにもいかなかったのであろう、その2ヶ月後には自宅通勤できる金山支店に転勤となった。
その後の10数年間は自覚症状としては11月から3月の冬季に朝、出勤のため家を出て数分歩いたところで胸が苦しくなり立ち止まらざるを得ないということがあった。
この症状は初期の頃は冬季中に数回という少ないものであったが年を追うにつれて増加し、手術を受ける直前の冬季には1週間のうち2,3日は自覚するまでになっていた。
心臓の悪い人がよく言う「走ったり、運動したりして苦しくなったり痛くなる。」ということは私の場合、一度も体験したことはない。
☆死について
検査結果を聞いた6月13日から外来の23日までの十日間、手術をすべきかほっとくべきかといろいろ考えてみた。
私は15歳の時に父親を心筋梗塞で亡くしている。そのときの父親の年齢は57歳であった。
この父親の影響を受け、私は幼い頃から趣味多き人間であった。
趣味を大別すると「メカニックなもの」、「電気関係」、「音楽」、「動物飼育」、「植物」であった。これは今でも変わっておらず時の流れにつれてそれぞれの対象物が変わっただけである。
その趣味の中の「植物」を育てるというか観賞するというかいずれにしろ植物に親しみながら二十歳頃、思ったことは「日本のような四季のある気候では原則、花は年1回しか咲かない。この美しい花をあと何回楽しめるだろうか。」ということであった。
また、カメラとかオーディオ装置とかエレクトーンなどの楽器類にお金をかけたが、それらを楽しみながら時折ふと考えることは「自分が死んだら残された家族には何の値打ちもないな。」ということであり、このころから自分の「死」というのを考えるようになっていた。
そんな精神生活をしながら大阪での単身赴任生活の中で心臓発作を起こし、やはり父親と同じ病気だったかと認識しこのころから父親の死んだ57歳前後が自分の死の目安となっていた。
従って時間をいかに有効に使うかというのが私のこれまでの最大のテーマであり、たとえば24時間をそれ以上に使う方法を考えたり、お金で買える時間は許容範囲のものなら買うということであった。一例をあげれば帰宅時、公共交通で帰れば45分かかるがタクシーで帰れば15分というならばタクシーで帰るということである。
また、大阪での単身赴任時代には月曜日の始発の新幹線で大阪へ行き土曜日の終業と同時に地下鉄に飛び乗り、新幹線及び名鉄電車を乗り継いでかつ最寄り駅から徒歩10分というところをタクシーで帰ることによりドア・ツー・ドアでちょうど2時間であった。私と同様に単身赴任生活をしている同僚の多くは新幹線ではなく近鉄電車でゆっくりビールを飲みながら眠って帰るという人が多かったが、近鉄電車の2時間強の間に私は自宅に帰り着いていたということになる。
土曜日と日曜日に当時、趣味としていたFM放送のエアチェックに時間をかけたものである。この趣味のために自宅にいない月曜日から土曜日の午後までのFM放送2局の聴きたい番組を自動で選局しかつ録音するために1週間に48回オン・オフするプログラムタイマーと、タイマーのオン・オフ時にあらかじめ設定しておいたプログラムで自動選局するFMチューナー及び、テープを取り替えないでも最長6時間録音できるオープンリール・テープレコーダーの3つの機器を買い込み土曜日から日曜日にかけて1週間先の聴きたい番組をプログラムしかつ、前の週に録音しておいた番組を編集してカセット・テープにダビングするということをしていた。この部分ではまさに24時間をそれ以上に使っていたわけである。
そして私の二人の子どもが15歳を過ぎた3年ほど前に考えたことは「自分が父親を失った年齢までは生きてやれたので責任の一つは果たした。」ということである。
あとは父親の死んだ57歳に向かうだけであった。そしてその年齢に近ずくにつれ思考方法に変化が出てきた。ここ数年前から購入方法が前払い方式のものを買うのに抵抗感を持つようになったのである。
たとえば日経新聞の関連会社が出版する「日経パソコン」は内容が充実した雑誌であり、パソコンに手を染めた約10年ほど前から購読してきたがこの雑誌は5年間前払いするのが1冊あたり最も安くなる方法である。しかし5年間の途中で自分が死ねば不要となりかえって高くつくと考え購読をやめた。また前払いしても何のメリットもないものは購入か否かの検討にも値せず、日頃利用している社員食堂のプリペイドカードなどは購入しなかった。
このようなことを言うと他の人から見れば私の行動に矛盾ありとご指摘があるかもしれない。
というのもここ数年アメリカン・オートバイと大型スクーターに資本投下し、またパソコンを3台入れ替え、さらに入院前からサブノート・パソコン購入のため機種の検討に入った。
余命いくばくもないと言いながらさらに資本投下していくことと前払いは否ということと矛盾するではないかということであるがそれが矛盾しないのである。
というのは前述しているように時間を大切に生きてきた者にとって残された時間をいかに充実して生きるべきかが重要であって興味をそそるものを手に入れて楽しみたいのである。
そして今回の検査結果は予想していた57歳よりも約6歳早まったわけである。
こういう背景から平山循環器内科部長に「あとがない。」といわれても死に対する恐怖はまったくなかった。むしろ「予定より少し早かったかな。しかしまあ誤差のうちか。」と思っただけである。
さらに以前から持っている人生観として「医学、薬学の進歩のおかげで一命をとりとめたり、未熟児が保育器で生き残りまた、何らかの致命的病気も一時的に延命できる反面、本来死ぬべき人が死なずに寿命が延びるゆえに寝たきり、あるいはぼけなどの社会問題の原因となっている。自分のことができなくなったら生きる価値もなくそのときには何とか自分を始末する方法を健康なうちに考えておきたい。もし自分が癌になっても無駄な治療はせず痛み止めだけで終わりたい。」といつも考えていた。
このことを今の自分に置き換えれば、ここで心臓バイパス手術を受けてこれまでのような爆弾を抱えて生きてきたことから解放され人並みの心臓になっても、たとえば脳の動脈も痛んでいると思われるがこれはそのままであり、よくなる心臓とのバランスがとれず将来脳の障害による寝たきりなどになったら「本人もそうであるが、家族はたまらんだろうな。」と考えると、心臓の寿命がきたこの際すべてを終わるのがベターであると考える。
もう一つの角度から見るとこの51歳という年齢は少なくとも銀行にしてみればなんとしてでも早く追い出したい年齢であり、よしんば銀行の斡旋でどこかへ引き取られてもそこからも決して喜ばれることはないという社会的には必要とされない年齢である。
また、経済的に見れば生命保険はまだ満期前で今死ぬのが最も効率がよい。保険で満期返戻金を受け取るほど効率の悪いものはない。よしんば満期を迎えるときにこの生命保険会社が存在するかという心配もある。従って死ぬのは今である。
自殺以外に死期を選べるチャンスというのは滅多にないものであり、また心臓発作は死の直前の10数分間は苦しむが後腐れのない死に方ができるものでありここは考えどころであるというのが自分自身の正直な考え方であった。
ところが、周囲の方々に病状について話をすると100人中100人が手術すべきということであり、(もっとも、手術するよりも死を選ぶべきだとは思っても言えることではないと思うが)自分では冷静かつ合理的なきわめて論旨の通った考えであると思いつつ、どうも自分の考え方は世の中には受け入れられそうにもなくもう一度検証することにした。
父親が死んだときに自分はどのくらい悲しんだかといえば号泣したわけでもなく、それよりも考えたことはその先、高校・大学へ行く資金が我が家にあるのだろうかということであった。配偶者である私の母親も悲しみに暮れてということでもなかったように思う。兄も既に社会人になっていたので悲しんでいる暇も無かったように思う。
だれよりも当時嘆き悲しんだのは母親の母親すなわち、父親にとっては義母に当たる人で「代われるものなら代わってやりたい。」と言い暮らしていた。
さてあらためてこれを今の自分に置き換えると、二人の子どもは自分たちの将来について考えることで忙しくまた、家内もそんな子どもたちの面倒を見ることで嘆き悲しむ暇はなかろう。実兄がいるがそんなには悲しむまい。
しかし80数才になる実母が健在でかつ内臓はいたって強いのであと10年は生きるであろう。父親の時にその義母でさえあれほど嘆き悲しんだのに今度は実母であり、その母親が死んだ子供のことばかりを考えて毎日暮らしていく姿を想像するといかにも不憫であり、自分の人生観とは甚だ違う選択になるが手術を受けるという道を選ぶことにしたのである。
☆バイパス手術とは
医師から手術内容について家族に説明したいとのことで手術前日の7月11日夕刻に妻及び二人の子ども共々説明を聞いた。
まずは麻酔医から既往病歴等の質問があった上でリスク説明があった。そのリスクとは麻酔中に嘔吐があると気管支がつまり大変なことになるというものでこれについては前日の夜9時以降絶飲・絶食することである程度回避できるということであった。
そしていよいよ田嶋心臓血管外科部長からバイパス手術について説明があった。
私の年齢でのバイパス手術は一般に施術される60歳代、70歳代の人と違いバイパスを長持ちさせる必要がありバイパス手術に一般的に使われる足からとった静脈ばかりでなく胃大網動脈及び内胸動脈をも使う方法をとると説明があった。すなわち静脈は動脈に比べて血管の内側が平滑ではなく、また伸縮性もなく5年くらいで閉塞する率が高く、すべて静脈によるバイパスでは同時閉塞が起こる可能性があり危険とのことで前述の2本の動脈を使うことになった。
2本のうちの胃大網動脈は下腹部から上に延び胃の底部を這っている動脈で腹部に酸素・栄養を供給している動脈である。また内胸動脈は左胸肋骨内側を上から下に走っている動脈で内胸に酸素・栄養を供給している動脈である。
この2本の動脈を剥離してそれぞれ閉塞した心臓動脈にバイパスとしてつなぎ、もう1本は左足の静脈を摘出しバイパスとしてやはり心臓動脈につなぐというものである。
この手術に関わるリスクについておおよそ下記の説明があった。
手術の前日に今更こんなことを言われて「リスクがこんなにあるのなら止めときます。」でもなく予定通り受けることとし同意書に署名した。
なお、家族には「不幸にも麻酔に失敗し植物人間になった時、あるいは身体のどこかに麻痺が残り社会生活ができないような状態になった時には医師に安楽死させるように依頼せよ。」と言い残し翌12日の8時半に手術室へ入った。
☆手術結果
本人は12日の8時半頃から翌朝の10時半頃まで麻酔によりまったく意識なく、知る由もなかったが聞くところによると10時間に及ぶ大手術であったものの、輸血も必要とせずきわめて順調に終わったとのことであった。
目が覚めて覚醒後の諸手当を終えて落ち着いて自分の身体を見ると首には点滴のための太い注射針があり、体内の出血を排出するために腹部に二カ所、胸部に一カ所のビニール管がとりつけられまた、万一に備えての心臓に取り付けられた二本の電極のコードがつけられ、さらに排尿のためのビニール管もついておりまったく身動きがとれなかった。
経過はきわめて順調に推移し四日目にはビニール管をはずしてもらいベッドの脇に降り立つことができた。
その後は看護婦に止められるほど病院内を歩き回り、7月28日に架けられたバイパスを経由して血が流れていることをカテーテル造影検査で確認された。
☆手術後の生活
縫合した傷口は肋骨最上部からへそまででそのうち上部5cmほどが化膿し、再切開したため当初3週間ほどで退院予定のところ結果として40日の入院を余儀なくされいらいらがつのった。
この間の病院での日課は朝夕の菌を抑えるための抗生物質の点滴と再切開した傷口の消毒ガーゼの取り替えのみで一週間に二回ほど菌の培養検査をしながら菌がなくなるのを待つしかなかった。そして退院一週間前に菌もなくなりようやく再縫合にこぎ着け一週間後に退院したのである。
退院に当たり胸骨を縦に切断した後を細い針金で巻いて止めてあるので重いものを持ったり、また満員電車で押されたりして力がかかるとその針金で骨を切断してしまうので注意が肝要と教えられたが、たいして気にせず退院して翌日から出勤しその数日後の土日の休日には約200kg弱の重さがあるオートバイに乗り、家族やお医者さんをはらはらさせたものである。
後遺症といえば胸の皮膚の感覚が乏しく(末梢神経が多岐にわたり分断されているため)、また胃の動脈をとったため食後の胃もたれ感があることそして両足のむくみ程度で手術後最初の冬はそれまでの冬とは違いまったく心臓の違和感もなく順調に推移している。
また、手術により第一種三級の身体障害者の認定を受け、その恩典をフルに活用している。
たとえば都市交通の地下鉄・バスについては同伴者一人とともに全線無料パスを交付され乗り放題であり、JRの運賃も100km超は半額また、高速道路の通行料金も半額と恵まれ以前にもまして行動範囲が広がった。
このインターネット・プロバイダの「Mirai−NET」も社会福祉のため利用料半額制度があり恩恵に浴している。 ☆おわりに
心臓バイパス手術により今後7年ほどは生き延びるとのことであり、今回の人生観と違う選択をしたことでこれから先に「あのときに手術をうけずに死んでいたらよかったのに。」という反省をしなくてもよいように、特に脳血管の閉塞・破裂に結びつくような因子を避けていきたいものである。 ホームページへ戻る