金山町40周年記念『金山町の史話と民話』編集 南谷達満 (さし絵え 大前むつ子) より抜粋

義民 助兵衛


承応二年秋半ば、美濃の山深い桐洞村の山々は色づきはじめて、あちら、 こちらの谷間もすでに赤く染っていた。
山々の斜面には、ヒエ、アワの焼畑が続いていた。畑の少ないこの土地の百姓は自らの手で開墾してゆかねばならなかった。その上にこの桐洞村は霧が非常に深く一名を霧原村とも呼んでいた。
勿論麦作には適していない土地で、百姓たちの常食はヒエ、アワが主であ った。その年も、ここ数年来の冷夏であって、麦は勿論ヒエ、アワの作も 悪く百姓たちは困り果てておった。
年の暮れ、代官から桐洞村に対し米二石の代わりに麦四石を供米せよとの通告があった。百姓たちは驚いた。
当時桐洞村(今の菅田)は尾州藩の領地で太田の代官の支配下にあった。
百姓たちは怒り、上訴しようとしたが、百姓一揆をおこせば重罪になるこ とを恐れ泣きね入りするより仕方がなかった。
村人たちは上納のために涙をのんで努力をつづけた。
過酷な重税のために自らの食を減らして、一段とまずしい生活に耐えた。
数年を経て万治三年(1660)になって、更に太田の代官より麦十九石 を上納せよと、思いがけない通告があった。
幕府の財政的窮乏は、農民に対する搾取となって、益々厳しいものになっ てきた。この幕府の圧政は、各地で反抗する動きが始っていた。
桐洞村の百姓たちも、今までこらえてきた憤りが、今度の重税で遂に爆発 し、村中がにわかに険悪な情勢となっていった。村の森や山の中で、ひそ かに集合がもたれ、連絡の者どもがあわただしく走り回っていた。
遂に村人たちは立ち上がった。須波明神の森に、むしろ旗を押したて、手 に手に竹槍をもって集まってきた。殺気だった村人たちはすでに百余名を 数え、今にも代官屋敷へのりこむ勢いであった。
このことを聞いてかけつけた助兵衛は神社の石段をかけ登り大声で叫んだ。
『待ってくれ』
石段上にたった助兵衛はいかにも精悍な顔つきの盛年であった。
『みんなの怒りはよく判る。誰しも今度の申し渡しには腹が立つ。しかし 落ち着いて考えてくれ。いくらみんなで押しかけてやっつけても税が軽く なるわけでもない。どうだ、私一人にまかせてくれまいか』
助兵衛は真心をこめて村人たちを説得した。村人たちは一瞬静まった。助 兵衛の説得はどことなく威厳があった。

この助兵衛は、中島助兵衛といい、桐洞村の田中の生まれ、名望家で温厚 な上に、義侠心のある人物で常に村人たちから尊敬されていた。この時助 兵衛は四十五才という若さであった。すでに助兵衛は、村人たちの願いを わが身に引き受け直訴する覚悟を決めていた。

いく日が過ぎたある日、助兵衛は一人で尾州藩江戸屋敷におもむき、機を うかがって邸内に忍び込んでいた。邸内に忍び込むと云うが、警備もきび しい大名屋敷に忍び入るだけでも並大抵のことでなかった。それも殿様が 在宅か、不在か判らないのに、それこそ必死の決行であった。恐らく調べ に調べ抜いた上の決行であったと思う。
縁先へ散歩に出た藩主光友公へ減税嘆願の直訴を行った。直訴は、天下の 御法度、一族重罪であった。
しかし助兵衛の真心は藩主光友公に通じ、重税はとかれた。村たちの喜び は大きかった。ただ直訴の重罪はまぬがれない。大罪人として城中の獄に つながれた。
村人たちは、命の恩人助兵衛を見殺しにするなと、村中赦免運動をおこし た。その甲斐もあって死罪だけはまぬがれた。しかし直訴の重罪は許され ず、長い獄中生活に苦しみながら寛文六年の七月、五十二才で獄死した。
江戸時代から明治に移り中島助兵衛の子孫も絶えてしまった。助兵衛の墓 地さえ所在不明となった。
村人たちはこれを嘆き、明治二十八年菅田村和田の白山神社の境内に義民 助兵衛の頌徳をたたえて碑を建立した。



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