観音図」96cm×157cm貞享五戌辰(1688)年

この大絵馬は「観音図」は、山型の額縁に飾り金具が施されており、画面の左側に貞享五年(1688)の銘がある。能の翁三番痩を上映している舞台、観客の男女いろいろの階層の人々が楽しんでいる風俗画でその雰囲気が巧みに描かれており、作者は不詳だが江戸時代初期の宮川、英、西川などの何れかの流れを汲む。或いは京都の絵師の作品であろう。この寺所蔵の百六十余点のうち最高の美術的絵馬(民族資料)であるとされ、また年代的にも現存する最も古いものの一つで評価は高い。


伝・小栗宗旦筆「照手姫図』 160cm×90cm安永6丁酉(1777)年

この絵馬は中世における「小栗判官・照手姫ものがたり」に因んだ作品であり縦
16cm×横90cmの家型黒枠組みの大絵馬である。華麗な色彩で照手姫と言わ
れる女人が描かれており、伝小栗宗旦筆と言う。左下部に落款の痕跡は認めら
れるが、残念ながら作者の名は判読し難い。寺伝は別にしても、江戸末に近い
安永六年(1777)願主竹中茂伯の裏書があり、当時の文化的を偲ぶ優品であろう。


華鬘型小絵馬」26.3cm×31cm享保2丁酉(1717)年

華鬘(けまん)とは、仏前を荘厳(しょうごん)にするために、仏堂内陣の欄間など
に掛ける装商品である。もと印度の風俗として男女の身体を装飾するために生花
などを用いたものであったが、転じて仏具となった。多く金銅製で、稀に華などで
創り、花鳥 天女などを透かし彫りする。と「新村出編広辞苑」の輪郭を形取った
絵馬は珍しい。ここ虚空蔵菩薩をご本尊として祀られている明星輪寺には数多く
の絵馬が奉納されていて、その種類も多種多様に亘り、民族研究には豊かな内容が秘められ興味尽きぬものがある。ここに揚げた絵馬は一般に団扇型と呼ばているようだが、これは正く(うちわ)ではなく(華鬘)を凝らしたものである。享保2丁酉年(1717)正月吉日、奉掛、(ご宝前)と墨書きされているが画面胡粉がすり落とし図柄も不鮮明なため詳細不明。


藤如行筆 扇面型・俳句絵馬」21cm×43.5cm貞享5戌辰(1688)年

絵馬のうちでも変わり種の一つとして、扇面型の俳句絵馬がある。この絵馬は
原型を下部で少し欠損しているが、小型で木製の生地に金箔を施した上に墨書
きした俳句の奉納絵馬版である。貞享五年(1688)3月十二日、虚空蔵菩薩を
祀る同寺の鎮守で蔵王権現宮の例大祭、いわゆる恒例の赤坂祭りに参拝して
祈願や記念に奉納された中の一例である。大垣藩士で俳人の近藤如行と言えば、蕉の直弟子で、奥の細道
の旅のむすびで、芭蕉は大垣に到着するとまず第一番に如行の家に泊まって疲れを休めている。これは、そ
の前年の作で、如行の筆跡で如行ら五人の句が認められている。
                行に似ぬ花看帰りのあとやさき       露山
                ちればこそ木ずえの花も手にうけし     亀仙
                やさしさよ 花にかぶらでねぬ胡蝶     巖
                ある人の十日寝に行く花の山        十三歳 佳雄
                雨降りに笠かぶりゆく花見かな        如行
                  貞享五季戌辰姑洗令祥


宝珠と打ち出の小槌図46cm×64cm文化10葵酉(1813)年

この「宝珠図」諸願成就の家型絵馬は、文化十年葵酉(みずのと・とり)の正月に
奉納されたものである。裏面に「大垣本町、施主中嶋氏。奉納福萬虚空蔵大菩
薩、為諸願成就」と墨書きされており、表面の図柄に宝珠から紅い炎が、災禍を
消滅させて燃え上がり、右側に打出の小槌が描かれており、あらゆる祈願を仏にすがって幸福を招来刷ると
いう、庶民の素朴な信仰を窺わせている。なお、同じ文化十年は十万石大垣藩主戸田家第九代氏正の誕生
と頼山陽が初めて美濃に来遊している縁り深い年である。


鳳凰図31.5cm×42.4cm文化9壬申(1812)年

鳳凰は、古来中国で、麟 亀 龍と共に四瑞いわれる想像上の瑞鳥であると伝
えられてきた。その姿は、前は麟、後ろは鹿、頭は蛇、尾は魚、背は亀、あごは
燕、口ばしは鶏に似せて五色絢爛であり、肥えは五音に中り、青桐に宿り、竹実
を食し、禮泉を飲むと言われ、聖徳の天子の兆しとして現れる伝えられている。雄を鳳、雌を凰というと。(広辞苑による)この絵馬は、画面右下に樹木が描かれ鳳凰が飛来するという縁起の創造図で、上部央に「御宝前」右上に「奉納」左端に文化九壬申年四月吉辰、加納 中山政姓 啓白」とあり、作者の落款は「懐徳斎印」と判読されるが正確を期し難い。大絵馬に属する作品である。


仮名手本忠臣蔵(押し絵)67cm×253cm明治19戌(1886)年

赤坂小学校の前身であった含弘小学校は、明治十六年七月、中等科女性徒を
対象に裁縫教授を始めることとなり、教師に矢橋ていを任用し、宿之町の東光寺で分教場を開設したのが後
年の補修学校の始まりである。この絵馬は、新しい小学校令による改正直前の明治十九年二月、含弘小学
校裁縫支局の教師と生徒が学習成果の作品を奉納したもので、「仮名手本忠臣蔵」の役者人形を布で製作し
た押し絵である。学校成績や手芸技術の上達を祈願したものである。


心に掟 賭博禁断図右下絵馬29.2cm×38.3cm明治30丁酉(1897)年

心に掟 浮気封じ祈願左上20cm×29cm年代不詳
二枚の小絵馬は同一人の筆跡であり、一組の夫婦が共に浮気封じを誓い合って
奉納したものであろう。表面に「奉納」の文字と、「心」に施錠したところを描かれて
いる。裏面には女房であろう辰年の女は「夫の外男の色情を断つ、但一代」とある
のに対し申年の男(夫)「妻の外女の色情を断つ、但五ヵ年」とあって男女同権ではなかったことが察せられ如何
にも不合理な時代を物語っており、微苦笑ものである。


女人の図64.5cm×32.0cm年代不詳
江戸初期の浮世絵の作者のものであろうか。


豊年祈願の図73.5cm×91.5cm年代不詳

この絵馬は画面の上部に三個の宝珠が描かれ、赤 白 青の三色に色分けされ
ているのは、どのような意味を表現しょうとしているのか、雲の上に座して「奉納」
の文字が鮮やかな宝珠と調和しており、画面の下部全体に広がる水田では同じ
家族であろう数人の農民が一懸命に田の草取りに余念のない姿が巧みに描か
れている。このようにして春先から田作り、田植え、田の草取りと、必死に稼いでもなかなか恵まれなかった百
姓家の人々が、朝は朝星、夜は夜星を頂いて只管に働き通した逞しさは、明治・大正のころまでの体験者でな
くては実感が伴わず、それでも、ひるむことなく大自然の恵みを願って豊年万作を神仏に祈る啓虚な姿は、それ
自体尊いものをかんぜるにはおれぬ。
 


浦島舟釣りの図50.5cm×63.5cm正徳5乙未(1715)年

本尊虚空蔵菩薩の御宝前に奉掛された、この絵馬は、木製「浦島船釣りの図」と
呼ばれる絵馬で、右下隅に「源次郎」と判読されるのが絵師の名か不詳である。
杉材三枚の矧ぎつけ、至極無造作になされているにも拘わらず、その後の保存
状態が良好なため、案外傷みが少なく、画面もまずまずの評価が与えられている
。しかしこの絵馬も矢張り、正徳五年と言えば七大将軍徳川家継の時代で幼少の家継は飾り物に過ぎず、有
名な新井白石の勤倹節約に徹した正徳の治も成果をあげることもならずやがて享保の改革へと移行する吐壇場
であったという時代背景は、この絵馬の浦島太郎物語りに象徴されているようでもあり、何かしら奉納者の願い
事が秘められているようで興味をひく作品である。