*****ひろのうたびとのしおり・・・其の弐*****



其の弐
其の壱
其の参



戻って来た(9/26)

 今月8日に自転車が盗られたコラムを載せましたが、昨日朝その自転車が見つかった・・・と購入した自転車屋さんから電話をいただきました。正直もう出て来ないとあきらめかけていました。もちろん毎日のように通るところでは、いつも気を配って目を凝らして探してはいました。あったのは隣町です。電柱にもたれていたそうです。一昨日からそこにあったそうですからそこまでいろんなところを走って来たのでしょうね。昨夕自転車を受け取りに連絡をいただいたお宅へ行って来ました。暗くなった倉庫に自転車は置いてありました。じっとしています。当たり前ですがじっとしていました。もう戻らないと思いかけていた自転車でしたから、こうして目の前に現れた事に「あぁよかった・・・」と思いました。見つけて連絡してくださった方もやっぱり自転車の盗難に遭ったことがあるそうです。本当にその方だけではなく、今回の一件で、たくさんの方がそんな経験を1度ではなく3回も4回もされている事を知り驚きを感じました。

 まったくもってこの手の事件は日常茶飯事なのです。盗っていく輩(やから)には、罪の意識なんてさらさらないようです。非常にそれだけに頭に来ます。人の物を盗るんじゃない!!このたわけが!!人が悲しむ事がわからないのでしょうか?悪い事というのは誰かを苦しめるという事だという事がどうしてわからないのでしょうか?いつからそんな人間がたくさんいるようになったのでしょうか?なんかたまりません。そんな輩の気まぐれを許してしまう今の世の中に問題があるのでしょうか?社会でしょうか?家庭でしょうか?学校でしょうか?昔と違って学校は心を教育してくれないのでしょうか?創造する心を養う事を大人は子供にさせなくなった気がします。出来合いのものを用意して、これはこう言うものです・・・と言ったことがものすごく多いような気がします。危険なものには近づいてはいけません!と言われても我々の世代は、身をもって体験して危険な事を知っていったのです。危険なものを指さして「これは危険です。」と言っても『危険』という言葉がなんなのか知らなくてはわからないと思うのです。自分の子供が危険な目に遭うことは嫌です。親として守ってやらねば・・・と思います。でもこんな事をしてしまう子供になって欲しくも無いのです。人の痛みがわかる人間になって欲しい。生きる価値観をいつも自問自答できる人間になって欲しい・・・。

 もちろん子供だけではありません。そんな社会を作ってしまった大人でも今のかさかさした世の中を仕方がないと受け入れて生きているような気がします。積極的にそんな心の今を変えなくてはいけないのが我々の世代です。何かおかしいと感じたら何かをしなくては決して良くはならないのです。


敬老の日に寄せて・・・(9/19)
 
 
の家には96歳になるおばあちゃんがいます。私が知っているおじいちゃんとおばあちゃんの中では、このおばあちゃんだけが健在です。この場合の私が知っている・・・という事は、私のおじいちゃんでありおばあちゃんという事です。親父方のおばあちゃんがこのおばあちゃんです。お袋のおばあちゃんは、私が小学1年生の時に亡くなりました。両おじいちゃんの顔は、どちらも知りません。仏壇にかざってある写真だけがその人です。どちらも若くして逝ってしまったそうです。ですから友達や誰かのうちに行った時、同年代のおじいちゃんがいる事が不思議でした。まじめに「このうちには生きているおじいちゃんがいる・・・。」と思ったものです。私の認識している 家族構成には、おじいちゃんはいなかったのです。当たり前が受け入れられない状態でした。

 そんな私でしたが、おばあちゃんは私にとって昔からおばあちゃんなんだと思っていました。親父は親父、お袋はお袋と、本当に勝手な思い込みですが・・・。案外、人に聞くとみんなそれぞれの家族構成の中、自分が物心ついたときは、そんな似たような事を思っているようです。それを知ってちょっと嬉しくもあり安心したりして!?歳をとれば、みんなおじいちゃんおばあちゃんになってやがては死んで行くのです。そして子供心に「死」を理解します。

 私には3人の子供がいますが、上と真中は幼稚園のある時期、『死』を感じて不安で仕方なかった事がありました。「みんな死ぬのか?死んだらどうなる?」と聞かれて返答に困ったものです。それはいつまでもわからない事です。子供に理屈をこねて話してもわかるはずもありませんし・・・。でもある時、ある宗派のご住職に尋ねた事がありました。住職曰く「一緒に怖がってあげなさい・・・。」とおっしゃいました。「死ぬとどうなるか?私にもわかりません。」と・・・。優しいお言葉でした。

 お年よりはすごい!と感じることがありますか?私は今まで当たり前の事だった事で、時折そう感じることがあります。古いことを知っている・・・人としての道を知っている。おばあちゃんの知恵袋という言葉です。生きていりゃァ知ることに成るに決まっとる・・・以前はそう思っていました。でも今、この歳になってみて、歳をとらないと解らないことがたくさんあるということに気づきました。歳をとることの意味が少しだけわかった気がします。お年寄りに限らず「自分より目上の人は敬意を払え」と親父に言われた意味が、ここへ来てもっと深い言葉だと少し変化してきました。本当の意味が見えてきた気がします。そして同時に先生とはこうした先に生きている者であり、年下の者にその手本を示す義務がある気もします。だから、お年よりはすごい!


盗難に遭いましたぁ・・・(9/11)


 8日夕方、私のところの自転車が盗難に遭いました。もっともとってって下さい・・・という状態で置いていた私どもにも非があるのですが・・・。実は2度目の過ちなのです・・・。情けない・・・。1度目は店先に置いておいたら明朝なかった・・・。店の敷地ないですから道路からも入り込んでいます。まさか!?といったことでしたが戻っては来ませんでした。古いからいいか・・・、みたいな感覚が皆にあったことが、今回の被害に遭ってしまったのかもしれません。あのとき教訓として身にしみていれば、もっと用心していたと思いますし、探しまくる苦汁をなめずにすんだのに・・・。悔やまれます。あほです。

 しかし、盗っていったあほう!!お前が一番悪い!!そんな奴等が自分の心を許してしまう気持ちが横行している事実!聞けば欲しいから盗ったのではなく、ほんの足代わりに・・・、というレンタサイクル感覚。それを知ってなんとも許せない、やるせない気持ちで一杯です。探しても探しても自転車なんて五万とあることがわかりました。また、放置されている自転車群を見つけると、物があふれている現実を思います。こんな盗難は日常茶飯事なんだと感じざるを得ません。しかし、私は探します。自転車に対する執着ももちろんありますが、自分の子供が、壊れたからなくなったから、すぐ新しい物を・・・と思って欲しくないからです。お父さんはどうしてあんなに探しつづけるんだろう?と疑問を持って欲しい。できれば見つかって喜ぶ姿を見せてやりたい。どこにでもある自転車だけど娘にとって、「あれは私の自転車、あれはたった一つしかない私の自転車なんだ」と愛着を感じて欲しいからです。 ボロボロになっても私たちの所へ戻ってきて欲しいと切に思います。今日も時間を作ってさがすぞぅ!!!!!!!!




未確認飛行物体か?(9/1)

 今から20年くらい前、オレンジ色の尾を引きながら、音もなく北の空を西から東へゆっくり飛んで行く3個の連なる物体を見たことがあります。その時私の他に以前このコラムに登場した石井君とその弟と目撃!?しました。『なんや?あれは!』と言った軽い驚きを含んで、3人は『UFOやぁぁぁぁぁぁ・・・』と叫んだまでは覚えておるのですが・・・・。その後の2時間くらいが記憶にないのです。3人は妙におとなしくぐったりとしたままその場にいたのですが。ただなんとなく、妙に眠くなってその日は自宅へ帰りました。その後何も変わった事はないのですが、そんな以前の事が不意に最近思い出してしまったのです。

 なんてことあるわけないでしょ!びっくりして読んでいた方・・・ごめんなさい。でも3個のオレンジ色した物体が、尾を引いて飛んでいったのは本当です。あれは一体なんだったのか?今もなぞです。頃はたぞがれどきで、季節は思い出せません。よく調子の悪いテレビで赤色がダラ〜ッと右か左に尾を引いた感じに写ることがあるじゃないですか。まさにあんな感じです。隕石かなんかかもしれないし、時々こんな超常現象とかUFOとかみょーに関心持ったりする気持ちが湧いてきちゃうんですね.気持ちの中のサイクルがボワ〜ンと現れる感じです。
そして、すっと覚めてしまう。矢追さん、どうしているんでしょう?また、流石!!と思わせるような番組やってくれるとミーハー的に嬉しいです。


しびれたぁ〜・・・(8/23)


 魔法の黄色い靴・・・というミュージカルがあります。毎度チューリップの30年前のデビューソングです。福岡博多から音楽界に新風を吹き込むため若さと情熱を持って上京した当時の彼等をミュージカルにしたてた話です。ところどころコミカルにされていて3時間(途中15分の休憩)でも飽きることなく疲れることもなく観ることが出来ます。私は30年前はまだ小学生〜中学生に上がる頃でしたから、ちょうど音楽に興味を抱く頃でした。

 訳もわからず流行り歌としてこのチューリップを好きになり今に至っています。彼等が上京したことのエピソードは結構いろんなものから見たり聞いたりしてして知っていましたから話の展開は事実とずいぶん違うんですが良くわかりました。とっても面白いストーリーです。観客の中には私のようにミュージカルが目的でなく単にチューリップが好きで来てる奴や演じる役者さん観たさに来てる人、ミュージカルが好きで来てる人、なんとなく来てる人が入り混じった感じの雰囲気の中で歳は30代〜50代前半、40代半ばのご婦人が比較的多かったと思います。

 面白かった一つの台詞がありまして、笑ったほとんどの人はそんなに爆笑でもなくなんとなく面白かった・・・と感じさせる台詞でしょうが、私には大変尾を引いてしまったおかしさがありました。バンド練習から帰って来たメンバーが喉が渇いたので「おう!皆でコーラ飲もうぜ!」と言います。すると仲間が「おう!飲もうぜ!飲もうぜ!コーラは骨が溶けるんだぜ!」それを受けて「おう!みんなで溶けようぜぇ〜!」・・・・実にテンポ良くあっさりと流れる会話でしたが、私にはピンポイントを突かれた台詞でおかしくって仕方ありませんでした。今コーラを飲むと骨が溶けるなんて言いませんよね。でも昔は言ってましたし親によく言われました・・・。時代背景があって消えていたどうでもいい記憶が今ごろ共感となっておかしさを含んで蘇って来ます。できればもう一度観たいと思うワンシーンでした。

 懐かしいメロディーがひっきりなしに流れてストーリーは進んでいきました。そしてクライマックスを迎え物語は終わります。緞帳が降りて本来ならカーテンコールの中登場人物が勢ぞろいして挨拶をするところなんでしょうが、突然客席からロビーへ出て行く通路が開き、主人公であるところの3人が出てきます。客席の人たちに愛想を振舞うふうでもなく、緞帳が降りたステージに上がっていきます。「俺達は1年後2年後5年後10年後・・・30年後はどうしているだろう・・・?」とつぶやきます。「30年後もきっと歌っているさ!」というようなことを言って舞台袖へ引き上げます。それと同時に緞帳が上がり、聞きなれた心の旅のイントロが流れます。するとそこにはチューリップが居て歌いだすという演出です。

 そりゃぁもう私ときたらどこかでメンバーが出て来る・・・といった前振りを知ってはいたのですが、ジャ〜ン!!と現れると流石に驚いたぁ〜!しびれたぁ〜!!のトランス状態です。前から14列目で見てましたので近いは、見えるは、聞こえるは、で大好きな上田雅利の叩くドラムの生音がしっかり聞こえちゃう・・・・。夢のような出来事でした。やっぱりバンドはいいですねぇ。ちょびっとだけでもやりたいなぁ・・・。


夏祭り(8/18)

 昨晩私の街の夏祭りがありました。花火大会と盆踊りです。ここにたずさわるある集団があります。親しみと敬意をもって集団と呼び彼等と呼ばせていただきます。彼等だけでこの夏祭りができるわけではないのですが、彼等の力・思いがなくてはとてもできません。年々様々な企画を生み市民や訪れる人たちに愛されてきました。毎年毎年の積み重ねが今年の花火へとつながってきたわけですが、今年は例年にない出来事が出鼻をくじきました。

 午後5時半頃、準備も整い彼等は本番に向けて気持ちを一つにしていた頃だと思います。にわかに東の空に稲妻が走り、ポツポツと雨が降り出しました。おおかたの予想ではこの日台風13号の影響が若干あるのではないか・・・と言われてはいましたがなんとか大丈夫だろう・・・といった中、まさに天気の奇襲攻撃のように夕立が起こりました。雷はそれほどでもなかったのですが何しろ雨脚が激しく、参加者の気持ちを削ぎ見物客の出足を鈍らせるのです・・・。時間はどんどんせまり一度はやんだかに思われた雨脚が風向きが変わりまた激しくなってしまいました。彼等の心中を思うといかばかりかとさっするところです。

 結局彼等が半年間準備してきたことをここで壊さねばならぬ決断をしなくてはなりません。雨の中では出来ないことは中止、時間の調整をして事はおこなわれました。天気はそれを聞いていたかのように雨は止み何とも言えぬもどかしさを彼等に与え無事花火大会〜盆踊り大会は終了しました。でもこれは失敗ではないと思います。培ってきた様々な力あってのこのような場合でも対処できたのです。また今年の事態がこれからの布石になるのです。そんな彼等をとりまく全ての人たちの思いは新しい形で来年へとつながっていきます。

 しかし、そのとき決断をしいられた彼等には本当にすんなりと受け入れることが出来ない無念さや悔しさがあったことでしょう・・・。でも一人の観客として思いますが、待ちわびたたくさんの人たちの期待に十分すぎるほど応えてくれた今年の夏のわが町の花火と盆踊り大会でした。彼等の頑張りに拍手です。ご苦労様でした。

慈悲深い偶然(8/15)


 宇宙における我々の存在はそれはそれはすごい偶然の産物です。この地球は太陽から光の速度でおよそ8分の距離にありますが、この距離の偶然・・・近すぎても遠すぎてもいけません。近すぎれば灼熱の星で水が蒸発しているでしょうし、遠すぎれば凍てつく星になっていたでしょう。つまり水の存在が不可欠であり水が水(液体)でいられることが生物発生のメカニズムに最も重要であるわけです。今の太陽と地球の距離を100とすれば97〜103ほどだったかが水でいられるほど良い距離だそうな・・・。

 また、太陽の大きさも今より大きくても小さくてもいけないそうで、太陽は100億年ほど輝きつづけることができる恒星だそうです。誕生して約47億〜50億年とか・・・。知的生物に進化するためにはそれなりの時間が必要で、太陽の大きさはやっぱりちょうど良い大きさであるそうな・・・。大きすぎれば灼熱だろういし、小さすぎれば厳寒だろうし、また、知的生物に進化するまで燃えていられないということも考えられるわけです。

 また、太陽から太陽風というものが宇宙の四方八方に出ていて、それはこの地球にもまんべんなく注がれています。これを直接浴びればとても生きていられないのですが、太陽系の外宇宙から飛んでくる様々な宇宙線(これがとてもやっかいらしい)の進入を防いでくれているのです。これらの偶然がバランスよく調和され今の地球があります。何年か前の話で地球の外惑星探査衛星「ボイジャー1号、2号」が太陽系外に飛び出し、太陽系の惑星が1枚の写真に映りこんでいるものを見たことがありませんか?1枚の写真に皆が写っている、いわば家族写のような意味合いで紹介されていました。我々が生きていくことのできるたった一つの惑星地球・・・。それは壁一面のもので、さん然と輝く太陽の光に照らされた地球は針の穴のような小ささだったのです。見まちいかと思えるその1点を良く見れば間違いなく見慣れた地球があります。その向こうには宇宙のはてしない暗黒の闇がありました。その中に恐怖を覚えます。脚の着かない見通しの効かない深い深い海に浮いているようです。

 そんな宇宙にぽっかりと浮いている地球だけが我々がこうして生きていけるたった一つの小さな小さな場所なのです。太陽に守られて地球はあります。環境問題がクローズアップされている今、こうした科学的観点からも地球の環境を守ること、命の尊厳を学び取ることができます。主観的観点と客観的観点を同時に併せ持つことがいつも大切だと思います。精神社会からもこの生かされている慈悲深い偶然に感謝です。



道路開通に伴って・・・(8/7)

 先ほど、美濃加茂から可児を抜け、多治見へと続くR248バイパスが可児市の開通をみて1本化されました。新太田橋から一気に抜けるR248バイパスは、多治見と美濃加茂の距離をうんと近く感じさせてくれる事になります。しかし多治見側に通じる所では、相変わらずの渋滞に拍車をかけるありさま・・・。また美濃加茂も開通にともないここを通ろうとする車で市内中心部から新太田橋の右折レーンまでの約2〜3Kmの渋滞が起きるようになりました。そうです、私の店の前もこの渋滞の中にありまして困惑しております。幼なじみのもっちゃんの店も営業に多少の迷惑をこうむっているようです。更にR248は関方面に道路をつなげておりますがその後どのように車が流れるか容易に想像ができません。今のところ可児市側へ行くには手前に架かる旧太田橋を渡りR248バイパスへと合流したほうが早いようです。

 と、道路交通状況をお知らせしてしまいましたが、時代とともに街は姿を変えていきます。過疎化が進む地域では人手がいなくなった田畑を、都会に住む人たちに貸し与え、自由に使ってもらうための構想や、国有林の植林した木が針葉樹であり治水能力が劣るため、元来の雑木林に戻そうという案があります。あくまでもお役所の立案を民間のわれわれから抜粋された数十人で審議され市民とともに作った案として市議会にて審議可決され施行されていきます。

 道の駅なるものを作り市内名産品を販売し市をPRするといったものまで様々です。しかし、それぞれのスペシャリティは己の分野では独壇場で他のものの意見を素直に聞けない・・・といった気質がそこにあり、混み入った意見によって新しいものが盛り込まれるといった事もあまりなく淡々と会議は半年以上の期間をもって決定の運びとなりました。なんとなく市民参加の案として10年を1スパーンとして開発が進められています。現在のものが第4次総合開発計画です。仰々しいものですが様々な分野の案が盛り込まれています。

 はたして、美濃加茂市は住みよい街へと前進して行くのでしょうか?相変わらず簡素化される市のシステム、企業の倒産。いくつかの事業所が廃業される姿をみます。血のにじむような思いで資金繰りに奔走する・・・。明日はわが身かもしれません。本当に不景気です。実感します。お役所の方々は机の上でこの不景気が実感できるとはとても思えません。例えば下請け業者が親会社に納入価格の見直しを迫られます。同様にわれわれ小売業者にも納入価格の見直しを迫られます。挙句の果ては強者が弱者に対して立場を利用して取引先の変更を勝手に迫ります。それに従わないと責任者の立場が無くなります。理不尽な話です。それが日本の企業の一面なのです。トヨタなんかは日本を代表する企業ですから日本のためにも元気な大企業でいてくれなくては困るのですが、その下で頑張っている中小企業、関連企業は本当にもう大変なんです。なのにコストを下げても車はちっとも安くなりませんでしょう?トヨタは優秀な企業でいられる訳です。

 一刻も早い景気回復を祈ります。疑心暗鬼になって行く人々の姿をみるのはたまりませんものね・・・。一生懸命皆頑張っているのにねぇ・・・。今回は支離滅裂・・・愚痴ばっかでした。

 
ご先祖様(7/28)


 夏も本番・・・お盆の頃となりました。昨日も市内のある地区の提灯祭りにでかけました。巡回指導の役割で出かけたわけで、その祭そのものを楽しみに行ったわけではありませんでした。参道に掲げられたたくさんの提灯、その灯りだけで照らされた参道です。その参道は川にかかる橋でもあり、その下には飛騨川が流れています。さらにその川には灯篭流しが行われ情緒一杯のお祭です。更に河畔から上がる打ち上げ花火に照らされ、たくさんの灯篭が鮮やかに流れて行きます。そしてその灯篭に手を合わせる人たち・・・。たくさんの人で賑わう中に故人をしのぶ人たち。歴史の中を生きた人たちの思いが生存する人たちに運ばれていきます。訳の解ったような解らないような思いで生きている自分です。ご先祖様に毎朝手を合わせ昨日の感謝と家族と家業の今日の無事を祈ります。間違いなくご先祖様がいて自分がこうして生きています。私が子供に今を一生懸命生きてほしいと願うように、ひょっとしたらご先祖様もあの世から私達にそう願っているのでしょうか?何が幸せで何が目的なのか解りません。仕事が忙しくそれが嬉しく思うときもあれば、その忙しさに自分を失い取り戻そうという欲求で不機嫌になったり、何も変わらないのに何か心温まるものに触れて妙に心晴々とするときもあります。

 この夏に息子は自分のご先祖様の出生の場所(つまり自分の姓の発祥の地)に行きたいと言っています。岐阜市の南部にある鶉と言う所がその場所にあたります。私も何年か前に一度行った事があります。私どもの本家(ほんや)とされる家がある所です。行けば住宅と畑や田んぼもあり、今私が住んでいるこの地と同じような環境です。本家には大きな仏壇があり手を合わさせてもらいました。初めてお目にかかりますが間違いなく私はその血筋のものです。今こうして手を合わすのは遅すぎることなのかもしれませんが、神妙になる気持ちにつつまれるかと思いきや、どこかほわっとした空気の中にいる気がしました。親しみを込めて迎え入れられているような気さえしました。

 更に額縁に見える初めてお眼にかかるお顔の人たち。初めてでも明らかに自分達に似ている目鼻立ちです。その中の親父の叔父に当たる人とこんな思い出話があると親父は話して聞かせてくれました。頃は戦時中、劣勢だった戦況下にあった日本海軍は予科連を採用しました。その頃ちょうどその年齢であった父は世情も手伝ってか予科連に行こうとしたようです。しかしその叔父は「戦争は好んで行くものやない!!」と強く親父を諭したそうです。親父の兄(私の伯父)は出征して満州で戦死しています。親父は「その時の悲しみを思うと自分も同じような悲しみを家族にさせないでよかったと思う」と話してくれました。それを聞いて私も親父あっての自分です。親父が戦争に行っていたら私や私の兄姉、私の子供もこの世にありません。言わばこの時の親父の叔父の言葉がなかったら・・・と感謝せねばいけないと同時に感じました。私の息子もそんな思いを感じてくれるでしょうか?近いうちに息子を連れてここへ行こうと思っています。


親バカな話・・・(7/21)
 
 昨日から息子等が通う中学校の部活動の夏の大会が始まりました。まずは中体連市大会。美濃加茂市と富加町を含んだ3校の間で行われる大会です。息子は3年生、娘は1年生です。息子にとっては最後の大会となります。兄妹ともバスケット部に所属しています。私も中学生の頃バスケット部に所属していましたからいわば彼等の先輩です。そんな影響も多少あってか息子等はバスケットを選んだようです。3年生である息子の話を親ばか承知で書きます。許してください。

 息子は背が小さく線も細くバスケットに適した体格ではありません。技術もそれほどでもないようです。でも入学してこれまで息子は一生懸命部活をしてきました。それはすばらしいことだと親として話してきました。辞めたいと思ったこともあったようです。

 そんな中、指導してくれる顧問の先生は、偶然にも私の中学時代のバスケットの後輩でした。不思議な縁あってこうして息子が世話になっています。その先生が昨日の試合中ハーフタイムのとき私と家内に「彼を後半に出します。彼は体が小さいのに、でかい奴等に負けないよう自分で考えて3ポイントシュートの練習を一生懸命していました。結構入るんですョ。行けますよ見てやってください・・・。」と言ってくれました。私もそのことは知っています。「でかい奴等に負けない方法を自分で考えてやってみろ!」と話したことが以前ありました。それがこの3ポイントシュートです。息子の友達が「チームの中でも結構決まるほうやし。」と言ってくれたこともありました。でもそれはたまたまだろう・・・・と感じていました。でも先生の言葉も含めて回りの皆がちゃんと見ていてくれて、認めてくれるほど頑張っているんだなぁ・・・と複雑な思いで目頭が熱くなりました。

 試合が再開され第4クォーターに息子は登場しました。そして仲間の中にもきっとそんな息子の思いを察してくれたのか、息子にボールを集めてくれます。そして息子は必死にボールを受け取とり得意の位置から3ポイントシュートを打ちました。ふわっと上がったボールはゴールまでぎりぎりの弧を描き、すっぽりと吸い込まれて行きました。場内は「ウォ〜ッ!」というどよめきの中バンザイをしてくれる人たち。先生は立ち上がって私のほうを見てガッツポーズです。「どうですか!!やったでしょう!」と聞こえてきそうなガッツポーズです。思わず私もそれに応えるように立ち上がってガッツポーズです。大きな仲間達に頭を「ポンッ」と小突かれテレ笑いを浮かべる息子。周りで応援しているほかの親さんたちからもお褒めの言葉をいただきました。中には涙ぐんでくれる方もみえました。感激です。私もグッとくる熱い思いで一杯になりました。感謝の気持ちで一杯です。
 
 勝敗は大勝でこのシュートは態勢に影響のないものですが、息子にとっては本当に大きな大きな3ポイントです。きっと一生忘れることができない思い出になったことでしょう・・・。私にとっても一生忘れることのできない出来事でした。皆さんに感謝です、本当にありがとうございます。
 

ミニバイクレース(7/13)

 
今から16.7年前、にわかにバイクブームが起こりました。当店の前のR21.41も休日になると北へ北へと上っていくオートバイの群れ・・・。たぶんにもれず私もその一人だったわけですが・・・。前回の項目でも触れたように、私はここからレースのほうへと深く強く傾倒していく訳です。しかし鈴鹿や富士といったサーキットを走るにはあまりにも飛んでいますし、見に行くだけが精一杯だったのですが、なんとミニバイク(50cc)の待ち乗りバイクのレースがあると聞きました。それも近くでやっているというのです。ある友人の友人がやっているというのです。
 
 早速、友人とその友人を観に行きました。待ち乗りバイクですから半分バカにしていた気持ちがありました。しかし、カート場を走るそれらバイクは若干の改造を施しただけと聞いていたのですが、何が何がその迫力たるや度肝を抜かれました。『速い!すごい!』気が付いたら、その友人の友人と仲良くなっていていろいろ教えてもらいながら、自分もスクーターではありましたがレースをするようになっていました。チーム名はRC(レーシング クラブ)サンキョーです。そうこうしているうちに仲間が仲間を呼びあっという間に20人くらいの大きなチームになっていました。決して速くはなかったですが、いつも数で勝負です。他のチームの連中とも仲良くなっていくうちにどんどんやることがエスカレートして行き、50ccのくせして改造を加えればここまで変わるのか!?といったミッションのバイク、更に圧巻なのは、元車が何なのか解らなくなるほどいじりまくった改造スクーターを所有するまでになりました。

 そのうちあるチーム員からカスタムとレース車を製作している方を紹介されます。その方とは今も親交が深い『カスタムバイクス レノン』の社長・船渡さんです。私より一回りも年上なのに物静かに私のことを大人として接してくださいました。そう言う意味でもいろいろ先人の意識を教えてくださる方です。(このコラムをきっと読むんじゃないかと思ってヨイショ!も入れておきましたぁ〜)ここで船渡さんのことを紹介することは止めたいと思います。hpもアップしておられますので覗いてみてください。
 
 そのレノンさんの力を借りてチーム名も『レノン&RCサンキョー』として再スタートを切りました。速いライダーを乗せ東京や大阪方面に出かけて行っては、レースをしてくるという仕事半分、趣味半分の毎日を送ることになりました。そうそうその頃になると私も結婚をして長男が生まれ自分から走ることはしなくなりました。チームとして忘れられないのはある雑誌の主催で半年に一回、4時間の耐久レースで2位になったことが記録としては意味のあるレースでした。耐久レースの面白さはチームがひとつになって戦うといった意味合いが色濃く出ます。監督としての作戦やメカニックとして作業するチーム員の働きが影響してきます。そんな意味でチームがひとつにパーフェクトに機能したレースが2位になったそのレースでした。知名度もないこのチームが、全国の名だたる強豪チームを押しのけての入賞でした。おまけに3位は同じ仲間が入ったものですから帰り(場所は千葉県)の夕飯時は大騒ぎです。おかげで地元に帰り着いたときは深夜だったと思います。若かったねぇ体力的にもね。

 最後にひとつ、その時3位に入ったチームのライダーはうち(レノン&RCサンキョー)のバイクにも乗ってもらって戦ってくれたことが何回かありました。あるレースであまりに調子が悪くて他車と勝負にならないとき、本当にすまない気持ちで彼に『悪いね。ごめんね。』と言ったことがあります。その時彼は『ベストを尽くします』と一言だけ言って走ってくれたのです。本当なら遅くてどうしようもないバイクで速いライダーとして知られていた彼にはマイナス要素しかないレースになったわけですから、愚痴のひとつも出たでしょう・・・。しかし、彼は後に『今できることを一生懸命にやりたい!それが僕のレース哲学です!』ベストを尽くすのだという気持ちにたまらなく教えられたものです。浅井君、君は今も人生をそうやって頑張っているんでしょうね・・・感謝。





1983・・・WGP(7/6)



 1983年の世界グランプリオートバイレース500ccクラス(WGP)、私はこの年のレースの模様をリアルタイムで感心を持ったわけではありませんが、かなり知ってます。忘れかけてしまった感は否めませんが、ダイジェストビデオを何百回と観ました。コーナーを回るライダーたちがいます。ハングオンスタイルで膝を路面に擦りながら・・・走り去って行く・・・抜群なタイヤのグリップ力でこれでもか!と傾いたマシン、膝を内側へ引っ込めても路面に擦れて行きます。

 そんな中に妙に前のめりに肘がつっぱった感じでコーナーを回っていくライダーがいます・・・No,8、日本の片山敬済がそこにいました。名前だけは聞いたことがあった私は、この人がそうか!?と何か強烈なナショナリズムを覚えました。マシンはホンダNS500、3気筒の2ストローク。トリコロールカラーに彩られたそれには日の丸があります。この方について偉そうにここで語る気はさらさらありませんが、彼のイメージはすごくプロフェッショナルな自分に厳しい人、レースに勝つためには徹底的に分析、探究心の強い人というイメージがあります。日本人離れした感覚を持いる人・・・なんとなく今ならサッカーの中田英寿選手にも共通点を感じます。余談ですが彼は当時(今は知りませんが・・・)韓国籍だったそうです。韓国には行ったこともないそうでしたが・・・。

 この年、むちゃくちゃ強かったのはアメリカ勢のF・スペンサー、ケニー・ロバーツ、R・マモラ、E・ローソンたちでした。特にスペンサーとケニーの年といっても過言ではないほど、全12戦中優勝したのはこの二人だけです。しかし時折この二人に割って入るライダーこそがこの片山敬済だったのです。特に圧巻なのはオランダGP(アッセン)です。いつものようにスペンサーが他の追従を振り払うかのような独走から始まったのですが、ケニーはスタートにてこずり(当時は押しがけスタートでした)、大きく順位を下げてしまったのです。序盤に昨年の覇者F・ウンチーニが転倒!後続車は次々それを回避して行きますが、一台が彼を跳ね飛ばします。彼はヘルメットを飛ばされ死亡説が出るほどの重傷。その彼を跳ねたのは後の世界チャンピオンとなるオーストラリア人のW・ガードナーです。ガードナーはマシンのフロントタイヤでウンチーニを跳ね飛ばし、自らは側溝(一般公道を利用しているため)にマシンごと突っ込み膝をケガをします。ガードナーはスポット参戦の身でとんでもないアクシデントを起こしてしまうのです。「辞めよう・・・」と思うほど彼は思い悩んだそうです。話はそれましたが、途中スペンサーのマシンはチャンバーが割れるという不調を抱えズルズルと後退していきます。ケニーはというとグングンと順位を上げスペンサーに追いつきます。いつものように二人のデッドヒートが繰り広げられますが、調子をくずしたスペンサーのNSは少しずつケニーのYZRに離されて行きます。

 そのスペンサーに入れ替わるように現れたのが、日本の片山です。かれはここアッセンを得意としています。スペンサーをかわすと、ケニーを猛追。ここでにわかに雨が降ってきます。独走かと安気こいていたケニーの背後に忍び寄ります。ケニーは最後まで片山が忍び寄ってきていることに気づいていないようです。しかし、レースはラストラップ、ゴール手前でケニーは派手なウイリー・・・YZRのスピードが落ちます。フィニッシュラインをまたぐその時、片山はわずか0.18秒差でチャッカーを受けます。
左がウイリーしているケニー、右が片山・・・。(何故モノクロなんだ?)

 暇があれば,83年のダイジェストビデオを繰り返し観ました。スローで映し出された時のライダーのかっこよさ、テールスライドしてコーナーを立ち上がって行くとき、路面に残されるタイヤのブラックマーク・・・マシンはわずかながら横へスライドしていきます。これら神業とも思える行いを意図的にやってしまう彼等・・・。1983年この速い2人のアメリカンに割って入った片山は、当時私が夢中になった町乗りバイクの世界からレースというものに関心を持たせた張本人なのです。次回はミニバイクレ-スの巻です。 
 

1983・・・出会い(7/3)


 1983年私が最初にバイクに興味を持った年です。仕事柄バイクとは無縁ではなかったのですが、三つ子の魂・・・というやつで子供の頃「バイクは危ないから・・・」と親に散々言われたこともあり、『禁断の世界』として決してその扉を開けることなく私は大人になりました。しかし、職場で私と従業員とメーカーの者3人でいたある日、話はバイクの事になり思いっきり2対1の構図になりました。何を話しているのかさっぱりわかりません。そのうち月刊オートバイという雑誌を買ってきて「あーだ!こーだ!」と二人は盛り上がっておりました。

 別の日・・・たまたま一人になった時ふと月刊オートバイが目に止まりました。暇だったこともありおもむろにその本を手に取り、私は禁断の世界の扉を開けたのです・・・・。「おとーちゃん、おかーちゃん、ごめんなさい!!!」今から思うと笑える話です。従順だったんですねぇ・・・素直な人間でス私は・・・。パラパラ・・・と電話帳くらいあるこの本をめくっていくとふとツーリング日記のページを発見。これなら読んでいて旅の話だからわかるだとうと読むことにしました。○月×日どこどこにて・・・といった書き出しで始まるツーリングリポートです。

 読んでいるうちに旅先での出来事を含んで道中の景色が浮かんできます。実に心地良い感覚に捕らわれました。『俺も行ってみたい!』と素直にそう感じました。それからその手の本を買ってみては読み、そうこうしているうちある配達時に自動車学校の門を叩いていました。やってしまいました。反逆です。時はバイクブームとかで10代の兄ちゃんがいっぱいです。その中で20代は私一人。しかも全くの素人です。ウインカーもクラクションもましてやギアチェンジもやったことがない!困ったチャンなのでした。教官もあきれておりましたしよく叱られましたが、じっと我慢して2ヶ月後(仕事が忙しくてなかなか行けなかった事も拍車をかけ)自動二輪中型を取得しました。

 しかし、あこがれたツーリングには行けません。第一バイクが無い。行ってみたい・・・走ってみたい・・・・・・・・・。思いはどんどんでかくなっていきます。夢は思うと実現に向けて自分を取り巻く環境がくるくる変わっていくものなんだと感じました。先にも登場したメーカーの者が、自分のバイクを売っても良いと言ってくれるのです。どんなバイクに乗りたいという気持ちはありませんでしたから、というより知識がありませんでしたから何でも良いのです。譲ってくれたバイクはホンダMVX250 ツーストの3気筒エンジンの白煙バンバン、オイル撒き散らしのはなたれ小僧・・・です。更に支払いは2年後くらいだったかな?ごめんなさい・・・。そうすると困ったものでバイクに興味ができた時点で、周りにはどんどんバイク大好き人間が集まってきました・・・というよりそんな輪の中に自分が入っていったのです。春うららかな日や夏の暑い日、秋の行楽日和、冬の寒い日・・・いろんなところへ行きました。そんな中どんどんバイクに夢中になって行きます。沖縄に行った時、レンタルバイクで一日中走り回った時は最高でした・・・。ホンダRVF400ロスマンズカラーにジェットヘルメット(かっちょわりぃ〜)という妙な取り合わせでサングラス姿。しかし、300Kmの行程は,私を本当に満足させてくれるソロツーリングでした。また行ってみたい場所のひとつです。

 今現在にいたるまで私の手元に来たいろんなバイクを羅列してみますと・・・ホンダMVX250、AX-1、リード80、パックス、ピープル、スカイ、CB750F、RS125、ヤマハJOG数台、ニュースメイト90、RZ50数台、パッソルU数台、YSR80、ドカティ851、ドカティ50・・・etc。他にもあったと思いますが覚えがありませんです。やたらスクーターが多いのはそのうちまた、大型バイクもありますがそれもそのうち・・・。バイクは確かに危ない乗り物です。事故をすればまずケガをします。相手のある場合も考えられますが、最低自分のバイクの扱いだけは謙虚におごらず、慌てずに回りは全て危険がいっぱいだということを心がけて、自分から危険を近づける走りは決してしない事。やっぱり最低でも大型バイクの免許を取って、バイクをゆっくり乗れる、扱えるバランス感覚とテクニックを身に付けて乗ることが懸命だと思います。今回はこのへんで・・・次回は1983世界GPの巻です。

 
 

温泉(6/25)


 何年か前から温泉を好むようになりました。日帰りで行ける温泉は自宅あたりで結構ありますが、大半は行ったのではないかと思います。昨今流行のスーパー銭湯の類は湯船の種類こそ豊富ですが、情緒がありません。シャンプーや石鹸の類も自前で用意しなくては行けません。もちろん銭湯ですから売っていますが・・・。その点温泉として湯船こそ質素でへんてつも無い所だったりしますがちゃんとボディーシャンプー、シャンプー、リンスまでちゃんとありますし、場所によってはタオルが付いたりして様々です。私が好む温泉の条件は・・・質素な趣、露天もあって静かなこと、開放感のあること、海なんかが観えたりすると更に結構です。泉質は何でも結構・・・ぬるっとした肌ざわりもいいものです。シャンプーの類はもちろん完備されていなければなりません。タオルは自前で用意しますから無くてもかまいません。あったりすると嬉しいですがほとんどは料金の中に含まれています。いけないのは暗いこと、それと脱衣場が狭いのは特にいけません。見知らぬお方の濡れた肌と自分の肌が触った暁には、もう2打罰!!男同士なのでチョ〜キモイ(ものすごく気持ち悪い)。なかなかこれは!!と思える温泉にめぐり合うことは難しいものです。

 その中で、昔から言われる社交場的な要素はなかなか良いものです。旅行先などで入った温泉では気持ちも開放的になりますし、近場の温泉などでもたまたまいっしょになった方が遠方から訪れたりした場合など、お互いが知らないもの同士。意外と一言言葉を交わせば味のある湯船になるものです。私の場合は年配の方とお話をすることが好きです。言葉は物静かですし、面白いことを教えてくれたりします。先日なんかはハーモニカを吹きながら入っている方がいました。一緒にその場にいた人たちはその音色に聞き入って、なにやらちょっとした演奏会ののりになっていました。調子こいていたっけそのおじいさん・・・。

風呂場でのいたずら・・・、魔のアワアワまるけ(仮称)・・・という世にも恐ろしい出来事があなたを襲う・・・。私もやったりやられたりした事がありますが、それはどういうものかといいますと・・・まず、頭を洗っている者の背後に忍び寄ります。(これがなかなか難しい・・・足音を忍ばせ、息を殺し・・・決して笑ってはいけませんが、かなりの緊張感を伴うため自然と笑いがこみ上げてきます・・・。)当人がシャワーで洗い流し始めたその時にシャンプーをその上から『しとしと・・・・』とプレゼントしてやるのです。いつまでたっても切れない泡・・・たいていの者ならすぐにその異常事態に気づきます。一度目はたいていの者は簡単にひっかかりますが、シャワーの温度に比べ、シャンプーはやはり冷たいですから違和感を感じてしまいます。そこで更にその恐怖は進歩を遂げます・・・。桶にあらかじめお湯を入れ、そこにシャンプーを入れ濃厚なシャンプー液を作るわけです。これを先ほどと同じ状態の者の背後に迫り、『しとしと・・・』とたらしてやります。すると上手にやれば、二度三度と恐怖に陥れることができるというひと時が楽しめます。しかし、相手は人間不信に陥り、人間関係にひずみが出ることは避けられません・・・!?のでよっぽどの相手でないとお勧めできませんので悪しからず・・・。でも人に迷惑をかけることは止めましょう・・・ね、そこの酒屋さん!!。

憧れのドラマー・・・上田雅利氏(6/18)

 
中学生の頃ラジオからそのサウンドが妙に気持ちに絡み付いてくる音楽を聴きました。『心の旅』です。その頃は自分が音楽に夢中になっていくと思っていませんでしたから鼻歌程度に歌っていたものです。それが高校生になって自分がドラムをたたく頃になると、チューリップ上田雅利のドラムにすっかりはまり込んでよくその真似をしたものです。決して上手にできたわけではないのですが、心地良くなりきっていました。彼は、その後チューリップを離れTONYというグループを自分がリーダーとなり結成。チューリップとはまた違ったドラミングをしています。実に繊細なリズムを刻んでいて別人のような気さえしたものです。これがやりたかった音楽なんだと少し寂しく、また素直に受け入れようと思ったのも事実でした。

 彼はパールというドラムを使っていました。私は一度はパールを使ってみたのですがあまり好きになれず、やっぱりヤマハが好きでしたので真似をして使用することは止めてヤマハのYD9000Rというセットを使っていました。高いんですョこれが・・・。しかし後々のチューリップ再結成の際、彼は当時のいきさつをパールのモニターに推薦されてなった・・・本当はヤマハが好きなんだ!といっているのを見てなぜか『ほっ』としたものです。今はしっかりヤマハを使用されているようで・・・。よかったよかった・・・。

 今の彼を垣間見てうらやましいと思うのは、職業を楽しんでできるということ、ひとつのグループに所属せずいくつものバンドを組んで様々な音楽をやっています。ソロアルバムも聴きましたがなかなかいいです。ピカデリーサーカスというバンドやガーリーズと言ったバンドで東京を中心にビートルズなどをやっているそうです。一度聴きに行きたいと思っています。秋には本家のチューリップが活動をするようですし、なかなか彼から目が離せない毎日です。

 50歳を超えたドラマーは昔ならおじいさんのイメージが強かったのですが、彼は今でもパワフルなドラマーとして活躍しています。好きな仲間と好きな音楽を自分のペースでやっていられる・・・まさにお手本のような人です。彼は更にそれが仕事だったりするわけで・・・。なかなか世間では私も含めてこうは行きませんが、音楽をこう楽しめたらいいなぁ・・・と教えてくれる上田氏です。

 潮風に吹かれて・・・あぁ潮干狩り(6/10)


 連日連夜、巷はWカップの話題で持ちきりです。たぶんにもれず私も先日の日本vsベルギー戦や昨日のロシア戦は店で観戦しました。お向かいのTさんや日本語の上手なマイケルファミリーやポッキー君、ムッチー・・そして先日いっしょに横浜まで行ったもっちゃんが駆けつけ飲んで騒いでの観戦と相成りました。日本決勝トーナメントへあと一歩!!頑張れ日本。

 さて、久しぶりの休みでした。昨日は大潮ということで家族からの兼ねてからの要望に応えることにしました。そう!潮干狩りに行ってきました。場所は知多半島の何とか海岸(忘れた)。午前中の大潮と言うことで7時半過ぎに出発です。約2時間かけて到着・・・。海岸ではすでにたくさんの人で賑わっています。さっそく我が家も嫁さんが昨日用意した潮干狩りスペシャルアイテムを車から出しイザ!!

 と、思いきや駐車料金ちょうだいおばさんがどこからとも無くやってきて・・・¥1.000を払いました。黄色いビニール紐を運転席がわのミラーに引っ掛けるというなんと荒業目印!?をいただきおばちゃんは自転車に乗って去って行きました。なんと安易な・・・・。さて半ズボンに麦藁帽子、首にはタオルを巻いてサンダルを履いてイザ!!

 と、思いきや更なる関所が待っていました。入場料ちょうだいおばさんが我々の前に立ちはだかりました。大人¥1.100子供¥900を支払い、その目印として大人が赤、子供が黄色の絵札を体のどこかにぶら下げろ!というこれまた荒業目印を残しおばさんは去って行きました。なんと安易な・・・・。しかし捕りきり・・・はありがたい!(隣りの海岸は一人3Kgまで)イザ!

 海岸は見事なほど潮が引いて砂浜状態です、どこをどう掘っていいのかわかりません。生まれてこのかた2度目の潮干狩りです。おもむろに貝殻の混じった砂をかきむしり適当に貝を探します。最初はてんで見つからず・・・といった感じでしたが、数回やっているうちに見つかるようになります。そのたびに『あった!あった!』と歓声を上げます。そのうちダンダン面白いもので人間は勘が働くようになるのでしょうか?わりと簡単に見つかるようになってきました。単調な作業ですが、集中して見つけていくことにダンダン面白みが沸いてきます。夢中になってあっちこっち探している自分がいます。気が付けばバケツにたくさん捕れました。もっとも家族5人の成果ですが・・・。

 いろいろ捕りながら考えてみましたが、探る手の感触がさえて来るようです。明らかにはじめた時より違います。手に触れる貝の感触が生きている貝と貝殻を分別しているのです。それと一度見つかると同じ場所にかたまっていることも発見です。そして更に変化を覚えます、勘でこの辺にいることが分かってくるのです。説明はつきませんが、考えるのではなく手が自然に動いたあたりに高い確率で捕れるようになるのです。直感というものでしょうか?元来人間は狩猟を生活の糧として生きていましたから、その名残がDNAに備わっているのかもしれません。更にその論理が正しいとすれば、女性より男のほうが勝っている感覚ではないかと思います。嫁さんより私のほうがたくさん捕っていましたからそうかもしれません・・・。いや、単なる捕ることが私よりもっと下手なだけで、勝手な私のたわごとかもしれませんが・・・皆さんはどう思われますか?


味処 しゅんより(6/2)

 
春から初夏の陽気になった最近、以前から飼っていたペットたちが活気づいてきました。何がいるかとここに羅列してみますと・・・犬(モモ&クマ)2匹、鯉数匹、フナ数匹、他川魚多数・・・、草亀2匹、クワガタムシ(イチロー)1匹、熱帯魚数種数匹、金魚多数・・・鈴虫多数・・・、庭にくる野鳥(すずめ、つばめ、ひよどり、むくどり、もんつき、はと、せきれい、めじろ等)、最近ウコッケイの卵を孵化実験中です。当hpで毬藻がいると記載されていますが冬の間に死んでしまいました。

 朝、出勤してPCの電源を入れ、そしてこれらに餌をやるのが日課になっています。結構楽しみになっている時間ですが案外いいかげんにやっています。そのおかげで金魚なんかはメンバーがしょっちゅう入れ替わっています。もっとも子供たちがお祭りですくってきたような金魚だったりするわけですから,すでに病気にかかっていたりで大騒ぎしたことがありました。また、熱帯魚にヒーターを入れて快適な水温を保っているのですが、冬の間金魚の水槽にこのヒーターをまわし、新たに小型のヒーターを熱帯魚の水槽に取り付けたら、なんとこれが強力で水温がお湯ほどに上がってしまい、見事、熱帯魚は全滅・・・合掌とあいなりました。熱帯魚でも限界があるんだとちょっぴり学んだ事件でした。

 また、珍客として先日、こうもりが飛来・・・。白昼堂々と店内を飛び回るのです。はじめは蝶々かと思ったのですが、羽音が『バサバサ・・・』ってナ感じでとても蝶々とは!?思えません。『こうもりや!!』とみんなで『ぎゃ〜ぎゃ〜』言って逃げ回り、結構落ち着いた頃観察してみると、飛び回るルートが決まっていて、店内にあるいろんなものを実に器用に避けながら上手に飛んでいます。そして、飛びつかれるとどこかに『ガバッ』とひれ伏すようにとまり、ジーッとしているのですが近づくと、おなじみのぶら下がる格好になり『びや〜っ』と飛び立つのです。そしてまた『ぎゃ〜』と逃げ回り・・・そうこうしているうちに開いていた窓からおんもへ出ていかれました。結構楽しいひと時でした。

 えらそうに私が、やたら動物を可愛がるような人間かと思うとそうでもなくて、適当に無責任に飼っています。亀にしても性格があったりして可愛いもんです。攻撃的な性格なんですが餌をやると喜んで!?食べてくれます。冬なんかは死んでしまったんじゃぁないか?と思えるほど眠っています。3年目になるのですが飼い始めたころの2倍くらいの大きさになっています。オスなのかメスなのかよくわかっていません。3年目になってちょっと変わったかな?と思えることに更に夜行性っぽくなったことでしょうか?人間でも子供の頃は早く起きて早く寝るでしょう?きっと亀も思春期くらいになったのかも!?しれませんね。だから夜更かしを覚えたんでしょう・・・。本当かなぁ・・・?早く大きくなって竜宮城へ連れてって欲しいものです!?。


あっちこっち・・・(5/26)

 今年1月からずーっと時間があれば、ウォーキングを続けています。最初は堤防を行って帰って・・・をしていたのですが、さすがに何回もやってると飽きてきます。4月くらいまでは歩いていましたが、それからは行き当たりばったり・・・。気が向いたほうにてくてくと歩きます。3kmを1時間くらいで最初は歩いていたのですが、30分くらいで歩けるようになり・・・そのうち物足りなくなって、今はてくてく歩いていると7km〜8kmほど歩きます。先日は10kmくらい歩いてしまいさすがに足が痛くなって後悔しました・・・。

 しかし、必ず帰ってくるというルートではなくて行ける所まで行って・・・嫁さんに電話をするのです。『まぁ迎えに来て・・・』。じつにわがままなんです。「わがままは男の罪〜♪それを許さないのは女の罪〜♪」思わず歌ってしまう瞬間です。昨夜はサッカーを観てから歩きました。長男と一緒でしたから会話をしながら楽しく歩きました。勉強の話、部活の話・・・やりたいこと、やりたくないこと等、彼なりに結構頑張っているんだなと思いました。(ちなみに以前歩いていた母は自分のペースで歩いているようで、今は一緒ではありません)

 そうこうしているうちに、適当に歩く私に長男は『どこに行くの?』と疑問を持ち始め、宛ての無い散歩だと知ると(- -;)・・・・。結局長男も思う道を勝手に行き始め、訳の分からない住宅街を歩き、道無き道(田んぼのあぜ道)を歩いて犬と散歩をしているおばさんと遭遇して、『こんばんわ〜』と挨拶したら話が弾んでしまい、しまいには犬にも気に入られて・・・。しばらく犬と歩きました。暗い道でしたので、おばさんとは至近距離でしたが顔はわかりません。犬の顔もわかりません。でもお互いはしっかり顔を見合わせて楽しく歩きました。犬の種類もたずねましたが忘れました。ぬいぐるみのような犬でした。茶色(たぶん)の中型犬でした。あまり見かけない種類だと思います。

 なんでも毎日散歩をするとのことで、決まった時間(朝と夕)にしないと寝ないのだそうです。たまたま今夜は手抜きをしたらこのありさまだとか・・・。毎日限られた場所で過ごしているわけですから犬だってストレスがたまるのでしょう。そこへわいわい話しながら田んぼのあぜ道から現れた親子・・・犬にとって嬉しくなっちゃった時だったのかもしれませんね。だっておばさんとお喋りしている間中、犬は早足でこちらをチラリチラリと観ていましたから・・・。なんとなく犬の顔から張り切ってる〜って感じが見受けられました。おばさんも時折、いつもとルートが違うために犬に向かって『どこまでいくの?』とたしなめていましたっけ。

 夜散歩するのは、決して安全ではありません。私も回を重ねて行く内に怖い思いをするかもしれませんし、ひょっとしたら事故に遭うかもしれません。でもこうしたちょっとした見知らぬ人(犬)との出会いもまたあったりしていいんですねぇ、これが・・・。  




スミレの花咲く頃〜♪(5/21)

 小雨降る5月16・17日、私は神戸に行ってきました。トーヨータイヤの全国総会が行われたためです。2年毎に全国いろんなところで行われるそうです。ちなみに前回は札幌でした。神戸というところは、今まで2回来たことがありました。その時はバイクでした。1回目は、各務原でバイクのレストアショップを営むカスタムバイクスレノンの船渡さんと何年か前のお盆の時でした。神戸から船に乗って淡路島を経由して徳島に渡り、阿波踊りを観よう・・・。というツーリングだったと記憶しています。しかし、お盆のころということもあってフェリーには乗れなくて、結局そのまま舞鶴のほうへ北上して帰って来た思い出があります。

 2回目が1994年の11月、『明石のたこ焼きを食べに行こう!』ツーリングでした。やはり船渡さんを囲む仲間たちと行ったのですが、このツーリングには行きたくなかったのです。決して同行させていただいた皆さんが嫌とか言うことではなくて、ただなんとなく行きたくない・・・。そんな思いででかけました。小牧ICから名神を走り、途中、養老SAで皆さんと待ち合わせして都合5台くらいで行ったのかなぁ・・・。

 神戸の市内を走り、カワサキの工場と明石大橋の建設中のところを見て、とある明石の商店街でお目当てのたこ焼きを食べました。世間一般のたこ焼きではなくて玉子豆腐のような食感でした。まな板のようなものの上に8個くらい乗っていました。味は淡白で、おいしかったです。

 しかし、しかし、しかし・・・私の気持ちはずーっと早く帰りたくて仕方ありませんでした。この街が気に入らないわけでもなく、何か理由があるわけでもなく、先日同じ明石大橋にも行きましたが、あのときのような気持ちにはなりませんでしたし・・・。ただただ帰りたい・・・。同行していた皆さんにもなんとなくそう言っていたかもしれません。ですから,周りをつまらない雰囲気にしてしまって結局私の希望通り、早々に帰って来たのです。みなさんごめんなさい・・・でした。

 それからです。年も明けた1月17日早朝・・・。神戸の街に震災が起こりました。グニャ〜っと曲がった高速道路・・・その約2ヶ月前、私たちもそこをかっ飛ばしていたのです。人間が作った時間からすれば2ヶ月は長い・・・。でも地球時間でいえばまさに紙一重の時間ではないでしょうか・・・。まさにそれは張り詰めた糸が今にも切れそうな時に私たちはその場所に行ったのです。

 私の中に起こったそのときの嫌な気持ちは、このことを予感させていたのでしょうか?あとにも先にもあんな気持ちになったことはありません。私自身が霊能者とか超能力者だったらいいなぁ・・・と思った事はありますが、残念ながらそんな人間でもないです。きっと地球レベルの気というか、発する何かに、たまたま俗に言う私の中の第6感とかが反応してあんな気持ちになったと私自身は解釈しています。こうして字面にして書き綴っても伝わるようなものでもないでしょうけど・・・。とにかく不思議な体験でした。

 もし、今後このようなことがまた起こったら、この栞で書きますから日ごろ注意していてくださいね!?起きない事が一番いいのですけど・・・。そうそう今回のタイトル『スミレの花咲く頃〜♪』ですが、先日の神戸のあと宝塚大劇場へ行って初めて宝塚歌劇団を観ました・・・でも途中眠って・・・よく覚えていません。いっぱい舞台におねぇちゃんたちが出ていたこと、きらきらした衣装を着て孔雀!?の羽を付けて踊って歌っていたこと。さぞたくさんの孔雀が痛い思いをしたのだろうなぁ・・・?と思っちゃった私でした。

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