*****ひろのうたびとのしおり*****

其の壱
其の弐へ
其の参へ

  このページは何とはなしに日々の思い出を綴ってみようというものです。他愛もないことで誠恐縮ですが辛抱してください。かれこれ物を書くなんてどうしようかとも思いましたが、誰も読まなくても迷惑かけんだろ!!  の思いでしたためてみようという事になりました。
随時更新したものが上部に来るようにしております。

再会(5/12)


 先月のことですが、大学時代のバンドをやっていた連れから、メールが来ました。彼は卒業後、東京のとある印刷会社へ就職しました。堅実な男でその道一筋に頑張っているようです。メールの内容は何でも子供が中学3年生になった、ゆえに勉強部屋として自分の部屋をゆずらなければならなくなった・・・、ということでした。付け加えてサラリーマンは辛いでしょ?マンション生活は辛いでしょ?とお茶目な文面で締めくくっていました。それぞれお互いが今、一緒に音楽をやっていた頃思いもしなかった境遇で頑張っているようです。

 そう、彼のメールの本題は、その部屋に置いてあるギター(それも1本、2本ではないらしい・・・)を処分する!!その中の1本を貰ってくれ!!というのです。正確に何本持っていたのかは知りませんが、かなりの数のようです。そのギターというのは当時彼が使っていたギターです。確かアメヨコかなんかで中古で買ってきた1本だったと記憶していますが、実に丁寧に大切に使っていました。私にとっても懐かしいギターです。ヤマハのSA-700(当時¥70.000)がそれです。ギブソンの335モデルのレプリカヤマハ版がこの型です。実にかっこいいと感じます。そういえばあの頃、サークルのある後輩から、『漫才師が使うギターや・・・』と言われ彼は困惑していたのを思い出しました。
SA-700
 さて、そのメールが来て3週間くらいしたGWも明けた頃、宅配便でギターがやって来ました。受け取った私自身も初め『?????』と忘れていたため困惑したくらいですから、店の者、家の者はもっといぶかしげな宅配物に『??????????』です。ギターだということはすぐに分かるのですが、普段見慣れないものです。送り主を見て、宛名を見て・・・。その後私にみなが『買ったの?』と聞いてきました。親父にいたっては『おまえやっとギター売るのか?』と聞かれる始末。『違う、預かり物や・・・』と言えば『そうか・・・』とトーンも低く・・・。

 夜になって荷を解いて、ギターケースを開けてみました。そこにはあのときのままの光沢をもった彼の大切なギターがありました。20年振りの再会です。そっと取り出して弾いてみました。実にいい音です。懐かしい限りです。ギターと一言で言いますが、種類によってその音色はずいぶん違います。改めてそう感じました。縁あってこのギターは20年振りに私のところにやって来ました。彼は『処分するが、このギターはお前に貰って欲しい・・・』と言ってくれたことがとても嬉しいと感じました。だから私は彼に『預かろう・・・』と返事をしたのです。こうして今我が家には、バイトして買ったK・ヤイリのアコギとこのSA-700が並んでケースに入れられ置いてあります。

バスケットボール(5/9)


 GW期間中、子供の部活を初めてゆっくり観る機会がありました。種目はバスケット・・・。私も今から二十数年前この部にお世話になった身です。私の頃のことを思うと実に体格がいい。背が高い・・・という感想をいだきました。身に付けているものもかっこいいのです。私の頃は質素で地味なものでした。胸の文字は校名が縦にひらがなで小さくありました。ランニングタイプではなく袖のあるものでした。パンツもピッチリ小さくハイソックスで布でできたバスケットシューズ・・・。アディダスなんて履こうものならお祭り騒ぎです。そうそう、あるひとりがこのアディダスなるものを初めて教えてくれました。まだあの頃、こんな田舎には知らないことがたくさんあったわけです。話がそれてしまったのでバスケットの方へ・・・。

 さてゲームが始まりました。実に上手なのにはびっくりしました。もっとも私の頃とは違って、小学生からやっていることやTVなどで一流選手などのプレーをみてイメージができていることが起因しているのではないかと思います。しかし、私たち親の気持ちとは裏腹に、実にプレーしている子供たちは淡白なのです。一生懸命ではない!とは言いませんが、試合である以上そこには勝敗があるわけです。勝ち負けにこだわりすぎるのはどうかと思いますが、実に淡白です。ボールに執着する姿勢があまり感じられませんでした。これは親のエゴなのでしょうか?それとも欲目なのでしょうか?一応にご覧になっていたご父兄さん方も同様な感想を持っておられたようです。『リバウンドォ〜!!』『走れ〜!!』『なんや〜!!!』『かんや〜!!!!』 やかましい私たちです。

 そのときは私たち親が熱くなってしまって様々なことを感じてしまったのでしょうか?子供の頃、我々の親が観に来るなんてありませんでしたし、たとえあっても自分には関係の無い家のことだと感じていました。当時そんな親は異質でうるさい大人・・・と映っていたように思います。気づけばそんな親になってました・・・。今になって冷静に考えてみると私が子供の頃も今の子供たちと大して変わらなかった気がします。負けてもさばさばしていましたし、『終わったら次何しよう・・・?』なんて考えていたかもしれません。熱くならない子供たちを見て、私たち大人は『もったいない・・・』と感じているのではないかと考えます。私たちには過ぎてしまった学生時代、確かに楽しかった思い出はあります。しかしどこか子供の頃を惜しんでいるような、もう一度戻りたい・・・?いや、そうじゃなくてあの頃に憧れをもっているような、そんな気持ちがあるような気がします。それは一種の後悔の念かも知れません。その時代を今生きている子供たちに一生懸命生きて欲しい・・・。そう願っているのだと私は思います。 ついつい言葉を並べて子供に語ってしまう自分がいます。『話がながい〜。。。』といわれてしまう始末。いくらたくさんの言葉を並べてみても気持ちの何百分の一も伝わらないのでしょうね。ここにはただ大人として、親としてのエゴがあるだけです。今を大切に・・・そう教えたいのです。

 でもそれは無理なこと。私たちは人生の折り返しまでやって来ました。それゆえに分かることなのです。若くなければできないことを歳を重ねなければ分からなかった我々がそこにいます。だけど親として子供たちが歩む道だけは示してやりたいと頑なに思う次第です。いつか子供たちも親になるわけですからね・・・。 

Z走る(4/29)


 昨日、Zに久しぶりに乗りました。走行距離は90Km弱。久しぶりということもあって若干バッテリーが弱っている感じを受けました。電気系に弱点を抱えている家のZです。チョークをひっぱりセルを回す・・・。『キュルキュルキュル〜・・・ぶぉ〜ん!!』とZの心臓部L20は(ちょっとエンスーチックに表現しました・・・でもこう言うの嫌いですので止めます)元気にその鼓動を始めました・・・(嫌いですが勢いで・・・)。アイドリングは1.500回転〜800回転でちょっと不安定気味です。時を待ってチョークをそ〜っと戻してみます。どうぞこうぞ800回転で回ってくれています。

 シートベルトは3点式、今のようにシュルシュル・・・と引っ張れば出てくるといったものではありません。シート位置を調整して『カシャン・・・』と音がします。ベルトの長さを調整して、閉めすぎず、ゆるすぎず、適度な按配にしてステアリングを握ります。『細え〜・・・!』長時間握っていると豆ができそうです。オリジナルを好む私としましては、この細さもまた良いわけです。でも全てオリジナルではないのでここでその点をだらだらと・・・。まずタイヤ&ホイルです。これは商売柄ということもありますが、オリジナルはバイアスタイヤ6.45-14&鉄ホイルにキャップです。これは私としましても快適に走れない足回りでは『・・・・』と見送りました。14インチのアルミに205/60R14を履いています。後輪のダンパーはモンローです。実は20年ほど前に購入してズーット持っていたもので、使用を止めようかとも思いましたが、使える状態でしたのでもったいない・・・の観点から使用しました。そしてもう一点、オーディオです。オリジナルはAMラジオ&4トラックのでかいテープが入るカセットが付いています。これはこれで使用できるのですが、ラジオは良いにしても、カセットはもうありません。あっても演歌のカラオケくらいなものですし・・・。それを流しながら走るのはチョットねぇ・・・。で、CDチェンジャーをシートの後ろに、AM&FM+カセットデッキを・・・と思っても取り付ける場所が無い!そこでダッシュボードの中に付ける事にしました。スピーカーはでかいクラリオンの箱型です。ですので内装はシート後ろのCDチェンジャー以外はむかしのまま・・・です。

 さて、行楽で少々渋滞気味の国道を岐阜に向かって走ります。対向車の方々は一応にZに視線を向けてくれます。先日のNHKの番組のこともあるのかな?それとも自意識過剰かな?たんなる珍しい車なのが本当のところでしょうか?車がくるまですからそりゃ目につきやすいですわねぇ・・・。1速にギアを入れると若干硬さを感じます。走り出せば2速、3速と軽快に操作できます。クラッチもさほど重くは感じません。20年前に乗っていた頃よりエンジンの力を感じます。もっともちゃんと直してもらいましたからね。信号待ちで隣りに座った家内が『何でいつもサイドブレーキを引くの?』と聞いてきました。私『だってクラッチ踏みつづけたくないし、しんどいでや・・・』家内『歳か・・・』私『無言・・・(男のロマンやぁ)』

 ステアリングは重ステです。据え切りはしんどいですが、意外と走り出せば軽いのです。びっくりするような感覚ではありません。遊びもプァな物ではなく走りのZです。応答性も最近の車のように確かなものです。シートに座ってステアリング、シフト、ペダル、視界・・・どれをとっても不具合を感じるものはありません。ここに設計者植村氏の技術の高さを感じます。アメリカ人の男性の身長187cmが乗っても差し支えない設計、当時の97%をカバーできるポジションが確保されているそうです。

 ただ室内への外音の多さには改めて閉口させられます。タイヤから発生するロードノイズ、エンジンの音など、Zはやかましい車なのです。貴婦人Zはちょっと騒がしいのです。本当、今の車がいかに静かなのか技術の進歩を感じます。会話には支障をきたすことは無いのですが、ラジオの声が後ろのスピーカーから聞こえにくいのです。フロント部に小型スピーカーが要るなぁ・・・と改めて思う今回でした。乗っていてちょっと・・・本当ちょっとだけ疲れる貴婦人Zです。少々燃費も気になるところですが、たまに乗るなら大丈夫でしょう?動かない車は最高の燃費を示します!?からね。ハハハ・・・。もし走る白いノーマルのZを見かけましたら、それは私かもしれません。声をかけてやってください。では、また。

フェアレディZ(4/22)


 昭和48年12月、我が家にフェアレディZがやってきました。子供心に、とってもそのスタイルに魅了されたものです。このhpの別ページで簡単な紹介もしています。よかったら観てください。先日NHKのプロジェクトXを観ました。『Z計画・・・』といったタイトルだったと思いますが、実に興味深く拝見しました。片山氏(Zの父)のことはこの車が好きな方なら知っていると思いますが、その影にいろいろな人間ドラマがあったんですねぇ・・・。若いデザイナーと設計者との開発に関わるしのぎあい・・・。また、番組のナレーションがいい・・・。感動してしまいました。

 俗に言うS30フェアレディZがそれです。私の所有するZもS30ですが初期の型ではありません。バックライトが一体式ではないタイプです。その後排気ガス規制でNAPS(ニッサン・アンチ・ポリューション・システム)と言った対策車になり,そしてS31という型式に以降していきます。番組スタジオに出てきたZはこのS31のような気がします。エンジンのL20ですがSUツインだけではなくてインジェクションのやつですね。いずれにしてもまだまだ古い車ではないと思っています。若干雨と夜の走行が気になりますが・・・。だって電気系がくたびれてるもんね!

 今回の番組を観てどこがいいのかいろいろ考えてみたのですが・・・よくわかりません。外観がカッコいい・・・のです。ずーっと子供の頃に感じていた気持ちのまま大人になった・・・そんな気がします。ただそれだけで乗っていた気がします。でも反省を一点しなければならないのですが、雨に弱いとか汚れるのが怖いとか思って大事にしまってあるのが本当のところです。今回の番組を観て、この車ができるまでの逸話を知り更にこの車が好きになりました。やっぱり動いて何ぼの自動車です。これからは頻繁に乗って行こうと思っています。でもこの4月に車検があることに気づきちょっとブルー・・。『ゲッ!』

 
 

日本代表(4/19)


 ついに実現!行って参りました、サッカー日本代表の試合観戦へ・・・。先日の横浜で行われました日本vsコスタリカ戦、結果は1対1の引き分け。なんとなく決まった明神のゴール・・・、間違いなくあれは観ててシュートではありません。
 
 いきなり試合から話が始まりましたが、友達のもっちゃん(幼なじみ今回初登場)がなんでも某コンビニの懸賞で当たったとかで私を誘ってくれました。そりゃぁ急な話だったので嬉しいやら、びっくりするやらで予定をつけるのに大変でした。でも店の皆に無理言って・・・本当に無理言って行かせて貰いました。昼出て、観て、朝帰る・・・といったツアーでしたが楽しかったです。『みんなありがとう。もっちゃんありがとう。』

 夕方横浜国際競技場に着きました。朝から激しい雨が降っていましたが横浜はラッキーにも曇天、外は風が強いのですが場内は割とそよ風状態です。自由席ではありましたがゆったりと座れるシートです。そうそう場内に入るまでがW杯のデモンストレーションもかねて、警備がすごかったです。警察官やらガードマン、それにボランティアの方々・・・。本番さながらの警備状況です。荷物チェックもあり、結構ピリピリした状態なんだろうけどのんびりムードが漂っている・・・。本番じゃぁないからね、これが本番だったら・・・ましてや決勝戦の時はどうなるのでしょう?フーリガンはやってくるのでしょうか?頑張れ!選ばれし警備に当たる日本代表!!

 選手の登場時には場内も怒涛の渦です!鳥肌もん!!『にっぽん、ちゃちゃちゃ・・・』やりまくってきました。びっくりしたのは小泉のじゅんちゃんも現れたことです。生小泉を見たのは初めてです。もっとも警護された中でのじゅんちゃんは垣間見れるだけでしたが・・・。始蹴式?のあと、ちゃっと帰ったのかと思ったら、しっかりご覧になっていかれたようで楽しんでいただけましたか?じゅんちゃん忙しいから体に気をつけて!あなたも頑張ってほしい最高の日本代表!!

 試合がはじまり・・・するとのんびり観戦と思いきや、前に座った兄ちゃん等が立ちだした・・・。しゃぁないのでこちらも立つしかない。そのうち座るだろうと思っていたら、私の前の兄ちゃんだけがズ〜っと立ちっぱなし・・・。しゃぁないのでこちらも付き合うしかない・・・。結局前半、後半90分+ロスタイムの間、そのその兄ちゃんは立ったままわめいておりました。ちったぁ座れ!!と心の中で叫びながら私も応援しておりました〜。腰が痛い〜!!結局シートに座ったのはわずかな時間でした。それでも『頑張れ、日本代表!!』
試合前のセレモニーです。左の頭が立ちっぱなしの兄ちゃんです。「あっ、この時から立ってます。」

 アレックスは良い!絶対良い!相手にもよるのでしょうが23人枠は当確です。テレビで観るとそう映ったのかわかりませんが左サイドの動きは最高です。相手が並みの選手なら切り崩していきます。展開はいつも左サイド・・・と思えるほど好機はアレックスが作っていました。ただしシュートを決めるFW連中(柳沢・鈴木)それに小笠原(後ろの観客は『みつお〜』と呼んでました)が決めてくれません。西沢の動きはよかったようですが森島あっての西沢という気がしますんで、個人的には西沢好きではありません。今までのユニフォーム姿では襟立ててる事が嫌いです。もっとも今度の代表ユニフォームには襟はありません!!どうだ?西沢!!後半相手DFにユニフォームを引っ張られて倒れる際、あのまま倒れていればPKかもしれないのに・・・何を思ったのか手でボール触ったやろ?おかげでハンドや!!ポストに当たったシュートはおしかったけど決めんとあかん!高原の肺炎の早い回復を祈ります。

 楽しみなW杯です。是非決勝ラウンドに出てドキドキさせてください。頑張れ!日本代表!!!!!!

春祭り(4/15)


 4/13.14はこの町の春祭りです。地元の神社の境内やら参道には店が出て結構な賑わいを見せます。子供の頃は小遣いを貰って、友達と出かけるのが楽しみでした。今よりも店の種類も多くなにやら怪しげな物も売られていたように思います。それが夢があって良いんですけどね・・・。ハイボウ(蠅追)と呼ばれる鬼!?ではないのですが氏神様の使い!?が右手に竹のササラ(先がいくつにも割れた物)を持ち、左手には樫の棒を持ち「ジャラジャラ・・・」と鳴らしながら参道の市民の頭を軽くたたくのです。無病息災を祈念して・・・。私も頭をたたいてもらいに行ってきました。このハイボウは鬼のような面を付け、荒縄で作ったたすきをかけたいでたちで子供の頃結構怖かったことを思い出します。

この写真がそのハイボウを先頭にした当元と呼ばれる自治会の行列です。たまたまこの写真は私の自治会が当元をしたときの物のようです。このとき私は子供みこしの役をおおせつかっておりましたのでこの行列では後方に並んでいました。今から3年くらい前のことです。実はこの14年前に私はこのハイボウをやったことがあります。結構大変なことでしたが、名誉ある大役だったとやらせていただいた方々に感謝しています。14年に1回(場所によっては7年に1回)の当元で厄年の男であることが条件だそうです。当時は24歳の時でした。そのときのことを思うと町内の顔ぶれがずいぶん変わってしまったと感じざるをえません。転居された方もみえますが、亡くなってしまった方がたくさんみえます。「あの時はこうだった・・・ああだった・・・」と口伝に教え教えられるのです。そんな方々が今はみえないのです。たった2日の祭りですが、そのためにずいぶん前から笛・太鼓・獅子舞の練習やいろんな決め事やらでたくさんの人たちの時間を拘束します。徐々にたくさんの人たちの思いで盛り上がって行くのです。端から見て決して勇壮な祭りではありませんが地元の人たちには大切な祭りなのです。

 歴史は文化は受け継がれるものだと強く感じます。人から人へ・・・昨今のデータだけではなく、記憶で受け継がれるもの・・・それがこの地元の小さな祭りにはあって私は好きです。嫌々やるのではなくて、自分も時間の流れの中に生きる伝承者の一人となって次の人たちに伝えて行く人の暖かさを感じます。次回この祭りの当元は2013年、私は5?歳のバリバリのおっさんになっております・・・。

みる・・・(4/12)

 すこし間が空いてしまいました。実はちょっと体調をくずしてしまいました。その時感じたことをここで・・・。熱が38度3分出ました。2年前に私の計測史上最高の40℃を出したことがありましたが、そのときは未体験ゾーンにようこそ!!って感じでなんとも言えず苦しかったことを覚えています。そのときのことを思えば楽な(決して楽ではありませんが・・・)状態でした。半日仕事をしたのですが、どうも変だな?と感じたらもうダメです。昼には体がしんどくちょっと横に・・・・で起き上がれなくなりました。その時38度3分でしたから、夕方にはもっと上がっていたのかもしれません。『これはいかん!』ということで病院へレッツ・ゴーです。

 『季節はずれのインフルエンザかも?』と言われ検査をされ10分ほどで結果が出ました。結果は陰性でセーフ・・・。『よくわからんが病気であることに変わりはないではないか?』と思いましたが、先生の嬉しそうな顔にこちらもちょっとにっこり・・・。『疲れているんでしょう?』とやさしいお言葉・・・、またまた、にっこり・・・。『明日休めないんですが・・・』と言うと先生は『本当は休むのが一番なんだけどねぇ・・・』といいながら何やらカルテにすらすら・・・と書き込み、『注射うっておきましょう』と一言。場所を替えられベテランとおぼしき看護婦さんに腕をまくられ、太さ20mmはあろうかと思われる注射を用意している・・・おいおいまじかよ!?・・・『大丈夫!大丈夫!』と看護婦さん・・・・・・・・・ブスッ!『うぇっ・・・!』その後、熱はさがり翌日の仕事はどうぞこうぞできました。感謝しております。

 さて、ここで医者の術(すべ)を思いました。患者に対する心のケアも上手に診るわけです。安心が得られます。彼らは病に悩む患者さんの体はもとより心も診るわけです。心の治療もしてくれるわけです。私の年齢では分かりにくいことなのかもしれませんが、よく病院に通うお年寄りの話を聞いたことがあるかと思います。笑い話にしてはいけないのですが、「待合室での会話」と題して『ありゃぁ・・・今日は○○さんござらんみたいやねぇ・・・』すると顔なじみのおじいさんが『○○さん具合でも悪うなりんさったやろうか?』・・・・おいおい、病院に何しに来ているの?・・・といった一連の話です。今までは笑い話のひとつに過ぎませんでしたが、このお年寄りたちは心を診てもらいに来ているのですね。体の具合が悪いような良いような・・・そんな些細なことが不安になるのだと思います。それを解いてくれるのがお医者さんということになるのでしょうね。いつかは私もお年寄り。決してお年寄りを特別な存在に感じないように、先人として教えてくれることがたくさんあるわけですから。

 余談ですが、私の仕事でも同様のことがあります。タイヤをパンクさせて来店されるお客様はそのときの様子を私たちに詳細に伝えようとされます。『どうしていたらこうなった・・・』とか『どこそこ走ったからこうなった・・・』とか、スペアタイヤに交換したときの様子など実に興奮されて話される方が多くみられます。修理中でもそばについて延々と話される方も見えるほどです。私たちとしてはパンクは日常のことですから、たとえ自分の車がパンクしてもさほど驚きはしません。しかし、普通の方々は普通ではないことが起こったわけですから当然のことです。私たちはそんなお客様の話を聞いてあげることも大事なことなのだと改めて感じました。お客さまの不安と驚きで不安定になった心も修理するのです。

観劇にて(3/22)


 久しぶりに日曜日が休みになりました。というよりある劇団の行う劇を観に行くために休みをとりました。親子劇場の一環で行われるといったものでした。場所は美濃市中央公民館です。前振りがそんなに盛んでなかったのか、対象が誰に向けての物なのかがわかりませんが、お客さんはそんなに多くはありませんでした。劇の内容は子供向けなのですが、演ずる人が3人だけですからその人たちが一人何役もこなします、だから、しっかり観ていないと物語の展開がわからなくなるのです。1時間の観劇でしたが小さな子供の中には飽きてしまった子もやっぱりいました。

 何故観に行ったのか・・・?そうです、ストーリー云々ではなく、その演ずる3人の中に私の従兄弟がいたのです。彼の劇を前々から一度観てみたかったのです。彼は、信州大学に進んだのですが、演劇部に入っていたのです。それは趣味にとどまらずそのまま東京の劇団に入るという、彼は身内の心配をよそに思い切った行動をとりました。彼と私は同じ年に生まれましたが、彼は早や生まれでイッコ違い。子供の頃は、本当によく遊びました。鉄人ごっこもよくやりました。交代で鉄人をやったものです。そんな彼の演ずる姿はこッ恥ずかしくも感じましたが、私の気持ちとは裏腹にその演技はもう20年のベテランです、うまいもんです。登場する役は動物ばかりで人間は出てきません。そんな細かな描写も実にうまく、細かく、またタイミングも絶妙でした。聞けば3年半これを演じているそうです。むこう1年先まで公演の予定が入っているそうです。日本全国、北海道から沖縄まで・・・。次回こちらのほうへ帰ってくるのは11月だそうです。関市でやるそうです。お題目は『ねこはしる』です。よかったら観てやってください。

 彼の演ずる姿は、当然、私が知っている彼ではありませんでした。観るものを引き込む技をもつ一人のプロでした。話を大学卒業時に戻しますが、進路として身内は大反対でした。彼に味方がいたかどうかは分かりませんが、同じ時期、私は音楽(バンド活動)に夢中になっていましたから、彼からすれば同じ境遇に最も近い存在だったのかもしれません。彼が私に言った事があります。「俺の気持ちがおまえならわかるだろう?」と。しかし、私はプロとしてやっていく自信も技もありませんでしたから、職業として続けるなんて思ってもいませんでした。趣味は趣味です。だから、返答に困ったものです。むしろ身内と同じ「一時の言動・・・」として捉えていました。「そりゃ無理やて、大変やて・・・」が本音です。

 しかし、彼はその世界に飛び込んで行きました。そして今の彼があります。今でも苦労は大変なものがあるようです。演劇のスケジュールの合間を縫って、あるテレビの仕事で「さすらいの利き酒人」として各地の酒蔵を訪ねるといったこともしています。ビデオでですが見せてもらったことがあります。彼は生き生きしています。これが彼の望んだ世界なのかは聞きませんでしたが、その生き方に迷いはないようです。何年ぶりかの再会で交わしたわずかな会話でしたが、彼は一生懸命生きているようです。私は、そんな世界に生きていった彼をちょっぴりうらやましく思う気持ちと、励まされる気持ちを同時に抱いて会場を後にしました。そうそう、何年か前に上映された「ガメラ」のさわりの部分に(タイトルより早く)彼は船の船員の役で出ています。海に浮遊する環礁(実はガメラ)を彼が甲板から覗き込み、「どこかの潜水艦かなんかじゃないだろうなぁ・・・?・・・・環礁だ!大きいぞ!!」と言って船が環礁にぶつかります。そして船が大きく揺れる・・・慌てる船員たち・・・そんなシーンでした。よかったらレンタルして観てください。ギャオスと戦うやつです。昔のやつじゃぁないですよ。5.6年まえです、確か・・・。彼の名は岩田恒成、劇団青芸の役者です。

鉄人28号の思ひ出(3/18)


 最近グリコのキャラメルに、タイムスリップグリコという「なつかしの20世紀」と題して売られているものがあります。、それには私たちが子供の頃の風物がフィギアとしておまけになっています。価格は1箱¥200です。その中に前回も登場した鉄人28号がそれは見事に形作られて入っている箱があります。当時テレビ放映の提供がグリコでしたから鉄人が入っているわけです。私が持っているものは2種類ですが、鉄人とブラックオックスが戦うシーンの物があります。鉄人のテレビでの始まりは「ダンダンダンダン(音階はドレミファソラシド)・・・」といったBGMに乗ってシルエットが街路に映り、「ガオ〜ン!!」と鉄人が言うのです。あれは私の子供心に強烈に残っています。それだけで魅了されました。今気づきましたが、画面の街路は格子模様ですから、歩道なわけです。車道ではないんですね。ちゃんと歩道を歩くなんてさすが正義の味方です。歌詞はそりゃあ私のような当時のたわけ坊たちにもわかり易い内容の歌詞でした。歌っているのはデュークエイセスだそうです。最後に「グリコ、グリコ、グ・リ・コ〜♪・・・」というおまけつきです。そこまで歌わないと本当ではありません。ちなみにパピーの歌の最後も一緒でした。スポンサーは神様なわけです。鉄腕アトムより鉄人28号です。大好きでした。

 以前、このHp上で鉄人の画像を使用していましたら、「横山プロ」のおばちゃんから電話をいただき「肖像権違反だ!!」と言っていきなり叱られたことがあります。まぁ、意味合いはわかりますが、いきなり怒ることはないでしょう・・・。私たちの年代に支えられた鉄人のはずです。感謝しろ!とは言いませんが、それなりの言い方があっても良いのではないかい?

 まぁそんな事はどうでもいいのですが、かじり付くように観ていました。今でも鉄人の絵が描けます。唯一描ける絵ですからえばったこっちゃないのですが、やたら描きまくりました。鉄人には胸のあたりにヨドかけのようなものがあります。これにはビスが撃ってありますが、当時これが何なのかわからず描いていました。実際のところ古い鉄製の製品を見るとビスで接合してあるものがあります。今はそんな古い製法で作られることはなくなったのか、なくなって行きつつあるのか・・・あまり見ませんね。
 たまにこういったものを見たりしたとき、私は必ず鉄人のことを思い出してしまいます。鉄人は第2次世界大戦の日本軍の秘密兵器として作られていたのですが、終戦となり鉄人は警察の仕事に従事するのです。そうそう忘れてならないのが金田正太郎君です。彼が鉄人を操縦するのですが、彼はいったい何歳なのでしょう?車は運転するは、拳銃はぶっ放すは・・・それでいて警視庁に自由に出入りできる身でした。顔パスなのです。とても子供の仕業ではありません。それを黙認しているのか、特別扱いなのか・・・、なぞに包まれた正太郎君なのです。家も円筒形の2階建てに一人住まいだったように覚えています。地下室なんかもあったかな?半ズボンはいてる割には、ネクタイ締めて・・・、学校はどうした?横山プロのおばちゃん、何でか教えてちょ・・・?

 当時はそんなことには微塵も疑問を持たず、一生懸命観ていました。フランケン博士が作った人造人間モンスター、バッカス、ブラックオックス・・・ロビーとか偽者鉄人も出ましたね。本当わくわくするロボットがたくさん登場しました。今でも見てみたい話です。BS放送で一挙上映してくれませんかね。ビデオ撮っちゃうもんね。もちろん標準です。グリコがネックですねぇ・・・どうする?タンタカタタタタタ〜ン、タタタ〜ン♪「皆さん鉄人28号の時間が始まりました・・・・」懐かしい思ひ出です。

昭和35年(1960)に生まれて(3/13)


 私は昭和35年に生まれました。もう戦後とは言わない世代です。戦争を知らない子供たち・・・と言った意味合いを感じて育った世代でもありません。戦後15年してから生まれたわけですが、生まれる前の時間は計り知れないほど過去のことのように感じます。物心ついたときは、家にはテレビがもうありました。冷蔵庫もあったように覚えています。風呂は薪ではなくてコークスと呼ばれる燃料だったがで沸かしていました。炊飯は薪で炊いていました。お勝手は土間でした。トイレは汲み取り式で、逆三角形をした形のもので底にぴょコンとした金属の棒が付いていて、これを押し上げると中に入っている水が出る・・・といったもの(何て名前ですか?)で手を洗い、日本手ぬぐいで拭く・・・といった感じでした。しかし子供には手が届きませんから洗ったことはありません!!(いばったこっちゃない)冷房器具は扇風機がありました。暖房器具は火鉢です。寝るときは豆炭式のアンカをお手製の布袋に入れて使っていました。炊いたご飯はおひつに入れて冬はわらで編んだ保温する入れ物(何て名前?)に入れていました。食べるご飯には時折石が入っていて、かんだ時に「ガリッ!」として憂鬱になったものです。

 小遣いは10円です。毎日もらっていたようないないような・・・我が家の隣りの路地を抜けて裏通りに出て、駄菓子屋さんに通うのが楽しみでした。何を売っていたのかここで記述する気は面倒臭いので止めますが、夢がたくさんあったと思います。今から思えば、いろんな味のする怪しげなものをいっぱい買って食べていたように思います。人口甘味料、着色料・・・など添加物いっぱいのものを汚い手でムシャムシャ・・・と食べていました。

 時は高度経済成長の右肩上がりの絶頂の時です。家は商売をしていましたから、品物があれば売れるといった世の中だったようです。比較的早くからいろんなものが我が家にあったわけです。保育園の頃、朝テレビを観ていると、時報のとき画面に時計が映り、秒針が12に近づくと「ピッピッポ〜ン」と・・・何時だったのかは忘れましたが、大好きな鉄人28号がなぜか始まったのです。いつもは夜の番組なのに朝始まっちゃったものですから、その日先生が呼びに来ても私は登園拒否!!しかし番組は30分で終了・・・一日私は思いっきり暇を持て余してしまいました。

 上記にあれこれ思いのままを書き連ねてみましたが、時代背景は子供の目から見たもので、色あせていることは否めません。しかし今の子供たちを見ていると、物への執着のような受け取り方が全然違っているようです。遊びにしても創意工夫をして考えてやることが苦手のようです。与えられたもの、出来合いのもので遊ぶ・・・。そんな感じがします。そんな環境が出来上がってしまった今です。私の子供の頃は、物がない時代から次々と新しいものが生まれてきた時代でしたが、まだまだ自分たちでいろんな遊びを作って楽しんでいました。今では幼稚園や学校でそういった教育を意識的にさせている・・・それが少し不思議に感じたりします。

 大きくなるにしたがって、驚きを覚えながらいろんなものを観てきました。おもちゃにしても、お菓子にしても新製品が出たりすると、みんなで争うように手に入れたものです。おもちゃはまだまだこれからも驚くようなものが商品化されて世に出てくるでしょう。しかしお菓子の味については、おおよそ味わったことのある味で、姿かたちが変わって出てくるばかりです。味に付いての開発は来るところまで来たのでしょうか?グリコのアーモンドキャラメル、東鳩のキャラメルコーン、ココナッツサブレ・・・等、「何て美味いんだろう!!」と思ったものです。 てな具合で、35年生まれは、戦後の貧しさを知らず、豊かに贅沢に育った世代です。新しいものが次から次へと現れた時代です。そんな私たちが今この時代を、社会を、どう生きていくか・・・舵取りが不器用な私たちでなければよいのですが、一生懸命頑張るしかないです。

コーヒーのうんちく?(3/9)


 私の店では、知り合いの勧めでコーヒーメーカー(業務用)を使って毎日コーヒーを炒れています。毎朝大量に沸かして皆で飲んでいます。生まれてはじめて口にした頃がいつだったのかは思い出せませんが、とても苦くて飲めたモンじゃない!と思ったことを覚えています。当然インスタントで砂糖をどっさり、粉ミルク(当然コーヒーにクリープですね)もどっさり入れて飲みました。コマーシャルのようにコーヒーをクルクルかき回してクリープを入れるのですが、なかなかあんな感じにならなくてやり直しができず、上手にできた人がいたりしたらきっと当時は尊敬したかもしれません・・・。(訳分からなくて、どうでもいいことですですが)それがいつしか背伸びをする年頃になって、喫茶店で砂糖やミルクは入れず「ブラック」で我慢して飲むようになったものです。そのうち世間ではコーヒーはできるだけ何も入れずに飲んだほうが・・・「どうたら・・・こうたら・・・」と言ったことがささやかれはじめると「ブラック」で飲む人が増えて行った気がします。

 そう言う私もたぶんに漏れずその一人で、今では一日10杯は飲むであろう「カフェイン中毒」かもしれないコーヒー野郎になってしまいました。ちょっと前なんかサイフォンを買って自分だけのコーヒーを楽しもうと、いろいろ豆を買ってきて炒れてみたりもしました・・・が、元来根気という言葉を知らない私は気の入れ方もここまでで、最近ではよっぽど気が乗らないとサイフォンでは飲んだりしません。(なんて軽いやつでしょう・・・)

 しかし、アルコールが駄目な私は、唯一このコーヒーが好きな飲み物なのかもしれません。(とか言いながら、お茶も好きでした)やっぱり自分で炒れるときは、ちょっとこだわってみたりしたい気持ちが顔を覗かせます。・・・・コーヒーは薄めが好きです。豆の種類にこだわる気持ちはありません。水については、私が住んでる町は水道水が比較的おいしい!?所ですので、沸かしてカルキーを飛ばします。更にそれを沸騰し、ろ紙に入れた豆に注ぎます。一気に注ぐのではなくて、蒸らすために少量のお湯を注いでから(ちょっと時間を待って)また注ぎ始めます。そして、ろ紙の中には泡ができますが、この泡が浸透しない頃までを目安としたコーヒーをいただきます。そうそう、炒れている時の、漂うあの香りはなんて好いのでしょう・・・。そして飲んだときに何故あの香りが鼻に抜けないのでしょうね。そういうものなのか、炒れ方が悪いのか・・・どなたかご存知でしたらメールで教えてください。(おしえちゃる)
「よしだ屋珈琲店」の店先での娘
 そうそう昨年の今ごろ、東京へ行ったとき乃木坂にある「よしだ屋珈琲店」というお店に入りました。コーヒー専門と言っていいほどのこじんまりした店で、物静かなマスターがBGMにボサノヴァを流しながら、コーヒーを炒れている・・・と言った素敵な感じの店でした。マスターは音楽が好きな方で、店内にはギターとかマラカスとか、いろいろなお手軽楽器が置いてありました。そんな中、私の娘がおもむろに水の入ったコップを指でコツコツ爪弾いたのです。するとそれを見た(聞いた)マスターが、おもむろに玉子型のシェイカーを持ってきて「これを振ってごらん・・・」と娘に手渡したのです。娘はシャカシャカ・・・と言われるままに振ると、今度は「今流れている曲に合わせて振ってごらん?」と言ってきたのです。娘は曲のリズムに合わせて振りました・・・。普段教えたことはないのですが、上手に振れる娘にちょっと驚きました。

 しかし、話はこれで終わらないのです。私にもマスターはマラカスを持ってきて一緒に合奏をしよう・・・と言うのです。曲が何だったか忘れましたが、3人で楽しい30分の合奏をしました。ボサノバヴァやルンバやラテン系の音楽の楽しみ方を少し味わえたひと時でした。お土産にマスターが作ったフィルムケースに炒ったお米を入れたシェイカーをくれました。それとマスター直筆のボサノヴァ・ルンバのリズムの特徴を記したメモ(頼んでもいないのですが)と「小野リサのお勧めCDはこれです。」と言った一言をいただいてお店を後にしました・・・。そのマスターとは吉田彰氏です。感激でした。

1周年記念?(3/1)

 月が替わりもう3月になりました。今年は正月早々雪が積もり休みもなく仕事をしました。たくさんのお客様に来ていただいて対応し切れなく、ずいぶんご迷惑と場合によっては不愉快な思いをされたのではないかと思います。この場を借りて感謝とお詫びを申し上げます。
 2月は我々の商いには準備と言いますか、実労働の少ない月なのです。それゆえ春の需要に備えていろいろ創意工夫をする、まるで農作業でいったら畑を耕し、種をまいていろいろやって(何を実際にされるのかが私にはよくわからないので・・・こんな表現ですいません)収穫のために努力する時期といったところです。

 冒頭の3月になり春を感じる今日この頃ですが、冬のタイヤから夏タイヤ(春タイヤではなく業界ではこう呼びます)に戻されるお客様が頻繁にご来店され始めました。今朝もベンツ1台・セルシオ2台・ボルボ2台・・・となぜか高級車ばかりが続々とご来店されました。普段はこんなことはありません。この栞にこの話題をしたためようと思ったきっかけになったのがこの高級車のオンパレード・・・。ある事件を思い出させてくれたわけで・・・。

 といいますのは昨年2月末、私どもの店先でお客様の車が盗難に遭いました!!白昼堂々とです。作業を終えほんの数分の間に事件は起きました。なんとまぁ・・・。よく新聞やニュース等で世間を騒がせる高級車を狙ったあの手の類ですが・・・。「あっ」と言う間の早業でありました。結論を言いますと車は戻ってきませんでした。盗難保険で何とかなったのですが思い出すたび本当に腹の立つ話です。人事だとかべつの世界の話だとか言いますが、私もそう思っていたところはあります。窃盗団の連中はそんなこころのスキをついてきたわけで、盗むほうもきっとそれなりにドキドキしながら事に及んでいるのでしょうから、そんなことならちゃんと働いて堂々と生きてればいいのに・・・と思います。人の物を盗む・・・何も感じないのでしょうか?

 よく言うところの「因果応報」と言う言葉のまま、やつらに天罰が下るのでしょうね。人を悲しませる事をわかってて平気でできてしまう・・・そんな最低な人間にはなりたくないですね。やつらには困った人の苦しみがわからないのでしょう。人間として何か大切なものを学ばずに見掛けだけ大人になった連中なんでしょうね。この事件のおかげでいろいろ学ばさせてもらいました。皆さんもくれぐれも用心くださいね。なんやかんやで、あれから1年経ちました。

人生ゲーム(2/22)

 この世に生まれたときから始まる、とても素敵な人生ゲーム・・・・という出だしで始まる歌があるのをご存知ですか?聴くととっても長くて暗いアレンジの歌なんですねぇ・・・。これが「人生ゲーム」です。この歌を歌っているのはちょっと古い方なら知っている、あのチューリップです。1970年代〜1980年代に日本の音楽シーンにバンドと言うものを意識させたグループと言っても過言ではないでしょう。一言ではその形容が見つかりません。プロ・アマを問わず多大なる影響を与えた存在でした。ゆえに私自身もかなり影響を受けた口ですから簡単に一言で済まそうなんてできないわけで、むしろそんな寸評は今まで目にしてきたどんなものにもうなずいたことはありません。
 話をもとに戻しますと。そのチューリップが歌っているのです。その歌自体に感銘を受けたことは無い(すいません)のですが、昔、東海ラジオで土曜の深夜午前1:00になると同名の「財津和夫の人生ゲーム」なる番組がオンエアされておりました。まぁここまでくればご推測のとおりチューリップ大好きな私としては当然欠かさず聴いておりました。チューリップ=財津和夫ではないのですが、彼を中心にこのグループは成り立っていましたからその意味はおわかりいただけると思います。
 ミーハー的にスキでした。曲をただ聴いてそのサウンドにとり付かれてしまいました。いまだにあんな感銘を受けたのはこのチューリップ以外に存在しません。かのビートルズにも同じ事がいえますが私にとって日本語で歌うこのチューリップはその上を行っていました。「お前何様や!!」とお叱りを受けるかもしれませんが、ここは私の勝手なたわごとのページですからお許しください。眠くて聴けそうもない時でも始まるまで待ってカセットに録音をして聴きながら眠っている・・・と言った技!?を使い(今なら留守録機能で解決なんですが・・・)聴きつづけておりました。財津氏は私よりちょうど一回り年上で一世代先に世愛を重ねられて生きていました。私が10代の頃、氏は20代、私が20代の頃、氏は、いえチューリップは30代を、とってもはつらつと生きていたように感じました。それがとっても素敵でかっこよく見えました。20歳・30歳は人生の中でも活力もあり創造力も豊富で社会を動かす世代だと40歳を超えた今でも思っています。
 そんな番組を聴きながら当時多感な時を過ごしていた私にとって様々な感銘を与えてくれました。しかし時代は流れ社会人になり深夜まで起きていられなくなった私は前ほど聞く機会も減り、気づけば人生ゲームはいつしか終わってしまっていました。13年も続いた長寿番組だったのです。そしてチューリップはメンバーを入れ替えながらも活動を続けていてはくれましたが、私のチューリップではもうなくなっていました。私の気持ちと相応するかのようにやがてチューリップは解散。その頃私はあこがれた30代を熱く生きて(自己評価)いましたから振り返ることもなくその解散も大して気に留めることもないと言ったところでした。
 しかし、人生には苦しみもあります。強烈に苦しい思いをしたある時、なんとチューリップが復活!1年という期限付きではありましたが、私にとってそれは救世主そのものでした。癒しの時代と言われる昨今、まさに私にとって癒されたひと時でした。音楽とはなんて良いものでしょう。人生において多大なる救いをくれるチューリップは今もゆったりと私の人生の吟遊詩人として寄り添ってくれているのです。

母と歩く(2/18)

 最近、夜な夜な先日もこの栞に記した堤防を歩いています。時間は仕事が終わって夜8時半から9時半の1時間ほど。始めたのが3週間くらい前ですが気ままにやっているため1/5ほどは休んでしまいました。夜の堤防は昼間とは違って200m間隔?で街灯が点いています。その明かりを頼りにといいますかしっかりした堤防ですし、車が走れないようになっているため安心して通れます。
 最初は一人で歩くつもりでいましたが子供が何か楽しそうに思ったのでしょうが数日着いてきたところでこなくなりました。そりゃ毎日学校へ歩いて行きますから、なんでまた歩かなくちゃならんの?といったところです。4.5日続けたところで不意に母が「私も行く・・・」とついてくるようになりました。堤防片道1.7kmの往復約3kmちょっとです。
 続けているうちに思ったこと・・・他愛もないことですが。すれ違う人の顔がわからないためお互い複数同士でいてもすれ違い様に息を殺すのです。なんやら、がやがや話をしていても対向者が近づくと寡黙になり、やがて息を殺すのです。その心理を考えてみると・・・ただ「怖い!」のです。どこの誰だか分からない・・・。物騒な世の中になりましたからね。しかし毎日歩いていると先ほどにも記述した街灯下あたりですれ違う折に顔見知りだったりして「あぁ・・・」ということになれば次回からは「こんばんは」となるわけです。走っている人、歩いている人、一人だったり二人だったり三人以上だったり・・・、犬を連れた散歩の人だったり、自転車の学生だったり・・・いわゆる危ない人は今のところ見ていません。
 ふくらはぎを伸ばす感じで脚を出し、かかとから地面に着け、つま先で軽くではありますが確実に地面をける・・・といった歩き方。しかもちょっと早足です。偉い方の記述を見ると20分ほどから有酸素運動により体内の脂肪が燃え始める・・・・、とあります。軽く息使いが荒くなり「ハッハッ」となってきます。両腕を意識して少々高く振り上げます。昼間でしたらちょっと恥ずかしいところもありますが暗いというのは便利です。
 さてお題目の母がちっとも出てきませんのでそろそろ・・・母と私は親子ほど年(30歳)が離れていますから!?歩くペースが違います。しかし母は付いてくるのです。少々気遣いながら時々後ろを見るのですが4.5mほど後ろをしっかり歩いてきます。母の歩く足音が聞こえる・・・そう意識して聞いてみるのは初めてではないのですが、引きずっているのです。何でも聞けば子供の頃、転んで股関節を痛めたのだそうです。今のように医療に対する意識が低く、「根性」で生きてきた時代ですから、ほっときゃ治る・・・とほっておいたそうです。痛みは無いそうですが股関節の動きがおかしいまま今のような歩き方(見た目は普通なんですけど)をするようになったそうです。そんなある日、玄関にある母の靴を見るとありきたりのカジュアルシューズでそれは、あまり歩く事に適していないような物でした。「歩くならそれなりの靴を・・・」という私の勧めで靴屋さんへ行き、母にとっては初めてとも言えるジョギングシューズをプレゼントしたのです。喜んでくれました・・・きっと。
 母が自分で選んだ靴は「アディダス」でした。3本ラインのあれです。「おっ、アディダスやんか!」と言うと、母は「なんじゃぃな?ほうかいな」と言ってまったく分かっていませんでした。毎日「今日歩ける?」と母は聞いてきます。「行くよ」と答えると嬉しそうです。出かけるときに玄関の隅に置いてあるその「アデダス」を持ってきて履き始めます。そうやってたまに着いてくる私の子供たちと一緒だったりしますが、この歳になって母と歩けることにいろいろ感じながら今宵もまたでかけて行くのです。

スキー復活(2/12)

 先日スキーに久しぶりに出かけました。きっかけは、私の長男坊がもう時期学校の研修旅行でスキーをやることになっているからです。彼にとって初めてではないのですが、スキーをする!と意識して行ったのは今回が初めてです。おまけに長女・次女も含めて5人で行くことになりました。
 まずは格好です。昔着ていたウェアは当然着れません・・・。ジャケットは別にしてもパンツはとてもはけません。手っ取り早く言うと私が着ていたウェアは嫁さんが着て、嫁さんのウェアを長女が着て、長女のウェアを次女がかろうじて着て(パンパン)長男と私のウェアが新品(やったぁ〜)、嫁さんと長女のパンツが新品といった一大イベント準備支出になってしまったのです。みんな大きくなりました。本当に大きくなりました。・・・大きくなっちゃったねぇ・・・。
 こうなったらもう力入りまくりです。朝4時起き、5時出、スキー場には7時着、私は自前のスキー一式、嫁さんのロシニョールはどっかいっちゃってありませんでした。次女は中古で買ったスキー一式を使いあとはレンタル。回数券を買い、子供三人は午前中スキースクールへ強制入校です。
 その甲斐あってか!?昼からは3人とも滑れるようになっておりました。楽しくって仕方ないと言った笑い顔がいっぱいです。私たちも子供たちがちゃんとすべる姿を観て、本当に楽しいと感じることができました。おかげで忘れていたスキーをもう一回子供たちと楽しみたいと思える一日でした。今シーズン中にもう一回行こうと心に誓ってみたりして、そうはいかの○○玉・・・お粗末でした・・・ちゃんちゃん。

電気髭剃り機(2/9)

 私は、髭剃りに関して非常に面倒くさがりやだと思っています。髭剃りは風呂に入った時にシェービングフォームも付けずに我が髭が風呂の適当な温度と湿度の中、適当な時間の経過後、にわかにやわらかくなったところでシックかなんだかのやつで「切れてな〜い・・・」とつぶやきながら「サッ」と剃るのです。非常にその切れ味に満足していたのですが困った点が以前からあったのです。次の日どこか大切な御用ができちゃったりしたりなんかした時は、前の晩に剃った髭は昼過ぎにはうっすら生えているわけですからちょっと見苦しい・・・。
 気にしなければ」それはそれでいいのですが、いざ剃ろう!!と決めてしまったりなんかした時は・・・さぁ、大変!いきなり剃れば男性諸氏ならお分かりかと思いますが、痛い・・・。かといってお湯で蒸してやわらかくするには手間がかかる・・・。手ごろな温度にしたお湯にタオル入れて軽くしぼる・・・。そのタオルを髭に当てて数秒・・・床屋さんでやっていただくあれをするのですがなかなかどうして面倒くさい・・・。本当面倒くさい・・・。「しまった・・・こんなことなら止めときゃよかった・・・」と毎回思う・・・。
 電気髭剃り機の存在を知らないわけではないが、以前使用していたことがあったのです。それは首振りヘッドがどうのこうのといった類のものではなく、乾電池か何かで動いていた代物でした。新品のときはよかったような気もしますが、使っているうちに刃の切れ味や電池が弱くなったとき、またモーターがちゃんと回ってくれなくなってきて、髭を剃っていると時々「キャッ」と髭を噛むのか引っ張るのか・・・あの強烈な痛みがあって、それにおびえながら剃っているうちに大嫌いになってしまいました。それで剃刀派なったのです。 しかし、まだ、がきんちょの頃は無精ひげも許せれる時もありましたが、最近では公の場へ出向くことが多くなり電気と手動髭剃り問題のハザマで悩んでいたのです。
 しかし、あるちょっと前の雑誌の裏表紙に「F1・・・中島悟氏」の記事がありました。そこにはF1に乗り込んだ氏の写真が・・・。F1ボディにはBRAUNの文字があります。ブラウンといえば電気髭剃り機を作っているメーカーではありませんか。それは以前TVのCMで朝の出社途中のサラリーマンを捕まえてやにわに髭を剃らせ「まだこんなに剃れますよ・・・」と言って迫り、サラリーマンは一応に「いやぁ〜・・・、いいですねぇ・・・」と言わないと終わらないあれです。私はブラウンの電気髭剃り機は高価なものとずーっと敬遠していたのです。たかが髭剃りに何万も出して・・・あほや・・・と。しかし前述した経緯でちょっとはお金をかけてでもこれは買うべきだと!あのCMが眉唾物だとしても買おう!だまされてみよう!という気になったのです。
 そして私はあこがれ!?のブラウン電気髭剃り機で毎朝、そう朝です。ビ〜ン・・・じょりじょりとやって爽快な気分で一日をスタートさせるのです。えっ?完璧に髭は剃れるのか?ですか?あれは単に念入りに剃ればしっかりと、適当にそればそれなりになるわけで、あのCMで剃った人たちも「ほら・・・」と見せられた後に「おかしいなぁ・・・?うちのもブラウンなんだけど・・・」って言うやつが一人ぐらいいたんじゃないかと思ったりもします。

基本周波数 (2/5)

 音楽をされる方なら知っている基本周波数・・・わかりやすく言えば「ラ」の音です。ミュージシャンは「A」(アー)の音と言ったりします。周波数は440Hzです。ギターは5弦の開放音だったりします。そんな決まった話よりちょっと面白いお話です。昔、音階は世界中ではばらばらだったそうで、つい最近に基本周波数として440Hzを設定したそうです。1939年にロンドンで「国際標準ピッチ」として440Hzに決められたそうです。そうこれは決められてできた事なのです。じゃぁいったい何を根拠に決めたのでしょう・・・?
 うそか本当か分かりませんが赤ちゃんがこの世に生を受けて誕生するときの声(産声)がちょうどこの「ラ」の音だそうです。世界中いろんな民族・言語・宗教・文化などの違いがあっても、産声は同じである・・・ということで、この「ラ」に決められたそうです。音楽・放送など「音」に関わる分野はみなこの基本周波数で成り立っているわけです。私がギターを習ったとき、まずチューニングの方法を教わりました。先にも書いた第5弦の開放音が「ラ」にならなければなりません。どんなものからその音を引用するかですが、音叉(おんさ)を用います。楽器屋さんで簡単に手に入るものですから興味のある方はお求めください。金属製で親指と人差し指で軽くつまみ、どこかに「コンッ!」と軽くたたきます・・・、すると音叉は「ポ〜ン」と音を発します。これが「ラ」の音です。音が鳴り出したら歯でかみ締めると頭蓋骨を経由してこの音が聞こえたりします。初めて体験した時はちょっとエキセントリックな軽い衝撃を覚えたものです。正確差に問題が出ますが、この音が聞こえるうちに5弦の音を合わせます。エレキギターなどはチューニングマシンというものがありますので全部これでやっちゃいます。余談ですが、オーケストラのコンサート会場で楽器のチューニング風景をご覧になったことがあるかと思いますが、あの場合各々が勝手にチューニングしている訳ではなく、ある楽器に音を合わせているのです。この場合オーボエの音を各自拾っているのです。何でもオーボエは木管楽器ですから温度、湿度の影響を受けにくいため音が狂いにくいそうです。さらに音の仕組みかなんかよくわからないのですが、美しい音階ということで、楽器の場合この「ラ」の音が442Hzにされることがあります・・・。だって学生の頃バンド活動中、楽器屋のおやじたちがえらそうに述べておったもんね・・・。

石井君

石井君の話を少し・・・、彼とは小学校、中学校、高校、大学までずーっと一緒でした。気持ち悪いほど暇さえあればいっしょでした。彼にはずいぶん迷惑をかけました。かけられた思い出はありませんから本当に申し訳ないと今でも時々思います。人には言えないような恥ずかしい話も平気で話せる安心感を彼は持っています。私はB型で彼はO型・・・この愛称はどうだかよくわかりませんが、自分が楽しければ皆も楽しいんだ!と思っていた!?る!?私は、結構自分のペースで彼と一緒にいたような気がします。気の乗らない思いもたくさんあったでしょうね。でも彼はいやな顔せず付き合ってくれました。社会人まで続けたバンド活動、車、バイク、スキーなど教わる事ばかりでした。そんな彼も今は立派な社会人(当たり前!!)、素敵な奥さんとかわいい3人のお子さんに囲まれ幸せに暮らしています。今でも、さすがにいつもとは行きませんが、時々会っています。相変わらずやっぱりやさしい彼です。感謝。

楽器2〜♪

さて前回からの続きです・・・、こうしてそれぞれのパートが決まってしまいました。私のドラムはどこから用立てればいいのでしょう?ベースの石井君も困ったようです。当時楽器を売っているところと言えば・・・、どこなんだろう?私たちはリードギターの兼松君の勧めで岐阜へ出向いていきました。ずばり楽器は高い!!!高校生には高値の華でございます・・・。バンド計画は早くも頓挫してしまいました・・・。とぼとぼ岐阜の街を歩いていると、ある店先に明らかにベースギターらしき一品が展示してありました。その店は今で言うところのリサイクルショップ、(当時は質流れの店)でありました。その店は田舎の高校生の目には怪しげな雰囲気を漂わせ、入って行くには十分過ぎるほどの緊張感を伴うのです。 しかし、そこは兼松君、何のためらいもなしにずいずい・・・と店内へ・・・、そして「これいくら?」とその言動たるやストレート・・・頼もしい限りです。おかげで後日そのヤマハのベースは石井君の物となったのでした。
 さぁ残るは私だけです・・・。通販のドラムセットを購入しようかとも思いましたが、当時のことです・・・今ほど購入方法も簡単ではなかったこと、そしてどうしていいかわからなかったり・・・と悩むこともあったような気がしましたが、なんやかんやしているうちに、通いつめた岐阜の楽器屋さんから「処分品のドラムがある」と教えてもらいさっそく観に行きました。それはまばゆいばかりの代物でヤマハの3万〜4万くらいのものだったのを覚えています。よくわからないうちにお店の車に詰め込んで、家へ持って帰っていたのですから、お金はなんとか払ったのだと思います。そして無事バンドのような集まりができたわけです。その後はまたそのうちに・・・。
 

楽器〜♪アルバイトして買ったK・ヤイリギター

今から28年ほど前、小学校時代の友人がある日学校へギターを持ってやって来ました。ギターそのものは私の兄が持っていたこともあり珍しいものではなかったのですが、ボロボロロ〜ン♪とただ触れば音が出る・・・といった物でしかありませんでした。
 その友人がいつのまにかギターという物を楽器として弾き始めたのです。何の曲だったかは忘れましたが、とても衝撃を感じた事を覚えています。その頃、月刊明星だったかの付録に流行りの歌が載っている冊子が付いていました。そこにはTVなどで観るアイドルだのフォークソング時代の全盛期だったこともあってかギターで弾ける楽譜なども載っていました。友人はその本を観ながら弾いているのです。音符が読めるなんてすごいなぁ・・・と思い彼にそれを告げると、彼曰く、コードというものがあってギターのどこを押さえれば音が出て、知ってる歌を歌いながらジャカジャカやればいいんだ・・・・ということを教えてくれました。画期的なお話です。
 
 早速、我が家のギターを教えてもらった方法でチューニングをして弾けそうな知ってる曲にチャレンジしてみたのです。曲名はあのねのね「空飛ぶ円盤の唄」でした。空〜飛ぶ〜円盤があ〜♪・・・・と本当につたない動きで私のギターが物から楽器!?へと変わり始めたのです。指はつりそうになるは、「うるさい!」と母に怒られるは・・・、それでもギターから音がちゃんと曲に合わせて出ることに夢中になっていきました。それからしばらくして、元来努力という言葉を知らない私は、Fがどうしても押さえられなくてそのままにしていたのです。自分もできないことが他人にもできないだろう・・・と思い込んでいました。しかしその友人はいともたやすくFを弾いているではありませんか!?岩嶋くん、君はすごかった。
 
 時がたち高校に進んだ私は、そこそこギターが弾ける仲間をみつけてバンドなるものを作ろうと模索していました。小学校から仲の良かった石井君(と呼ぶのはどうしても居心地が悪いのですが彼については次回お話します)も誘ってギター弾きばかり6人が集まったのです。その中でも群をぬいてすごいのが一人いたのです。彼はアコースティックギターではなくてなんとエレキギターを持っていたのです。しかもコードジャカジャカ・・・ではなくてリードギターが弾けるのです。曲の伴奏に合わせてかっちょよくキュイ〜ン♪とやるのです。思わず心の中で手を合わせておりました。彼は卒業後、単身アメリカのバークレーへ音楽留学に行ってしまうのです!?兼松君、君はすごかった。
 
 そんな仲間たちと音楽談義で花を咲かせるうち、バンドにはギターとベースとドラムとキーボードがあるとかっこいいということになりました。フォークギター大好きのある友人は絶対これしかやらん・・・と力説しそれぞれ何をやるかが決まって行きます。仲の良かった石井君はベースギター、そして子供の頃ピアノを習っていた者がキーボード、バンジョーが弾ける者がいたりで必然的に私はドラムということになっていくわけです。おいおい・・・。

鳩吹き山を眺めて

時々、我が家から1〜2分で行ける木曽川に散歩に出かけます。私が子供のころはおおきな砂山があったり、
松の林がうっそうと茂っていたりで、それは子供心に怖くもありそれでいて魅力的な場所でした。
しかし、昭和58年の水害により多大なる被害をこうむったわが町は、太田橋から下流にかけて堤防を作りました。
今では、穏やかな川の流れを眺めながら散歩を楽しんだり、ジョギングをしたりできる市民の憩いの場所と生まれ変わっています。
この堤防を歩いていて、向こう岸(可児市側)を眺めるとひときわ大きな山が観えます。
それは、可児市と犬山市(県境)にある鳩吹き山です。通称土田山(どたやま)がそれです。

中山道の宿場町としてあった太田の渡し・・・それを描いた安藤広重の絵にも
この土田山はあります。


この山を子供のころ見ると、山の尾根伝いに木が生えているのですが
その木が馬に乗った武者姿に見えるもの、甲冑を着て槍をたてに持っているもの、
まるで行列を組んで歩いているように見えたものです。そう見えたのは私だけのようでしたが・・・。

しかし、それらも昭和のおしまいころの山火事で焼失してしまい、今では観ることができなくなってしまいました。
この山がもし話せるなら、いつの時代もこの地を、じっと見守っていたさまざまな話が聞けるのでしょうね。

           鳩吹き山(土田山)                      堤防・・・ここをてくてく歩きます。    

考えてみれば「山」はいろんな趣があります。
雪をかぶった御岳の美しさ、雲の上に頭を出すほどの美しい日本一の富士山
ただ、木々の緑や紅葉を鑑賞し心癒される舞台を作るのは、やっぱり平坦な場所ではなくて、山々にそれを観たりします。
岐阜城も金華山のてっぺんにあるから勇壮なお城に観えるのでしょうし。

山の魅力の入り口がこのへんにもあるのかもしれませんね。
こうして捕りつかれた人たちが登山家となるのでしょうか?
                                               

ヤマハメイト

最近またバイクに乗ってみたくなりました。以前は大きなバイクに乗って思いを満たしていましたが、仕事中たずねた街でふと目にとまったのがこのヤマハのメイト90です。スタイルが妙に気に入り買ってしまいました。見た目はホンダのカブなんですが・・・、つまりホンダの売上No,1といわれるカブまねっこヤマハ版なんですね。ちなみにスズキはバーディといいます。そんなこんなで、私は久しぶりにツーリングに行こうとひそかに数日前から決めていました。
 9月某日前日から天候は曇天・・・今にも降り出しそうな空です。でも降られても行くぞ!と心に決めていましたからリュックの中にはカッパを詰め込んで、それから嫁さん にわがまま言ってこさえてもらったおにぎりを入れて、それと大好きな温泉に浸かりたい・・・とパンツとシャツを入れてメイトにまたがりました。そうそうフロント部にはカゴがあるんですね。実に便利です。地図と温泉ガイドの本を入れて一路北へ・・・。
 正直言ってこの手のバイクには今まで乗った事がありませんでした。ギクシャクしたギアチェンジを繰り返しながら久しぶりのチョット窮屈感を覚えながらのヘルメットの中から見える街並み・・・俗世間から隔絶した心持にさせてくれるひと時です・・・思い出しました。
 途中、郡上八幡でお茶を飲んで、せせらぎ街道を北へ走りました。目指すは明宝温泉です。とことこ走っていると小さな川が流れていました。そろそろ腹もすいてきた事だし・・・と程よい場所でメイトを停めて川のほとりでお弁当です。せせらぐ川の音を観ながら食べるおにぎりがこんなにおいしく秋の気配を見せ始めている山々の景観がとても心に染みました。「あぁ来てよかったなぁ・・・」。それからしばらくして明宝温泉はありました。残念ながらちょっと前から小雨が降り出して空気を一層一足早く秋の気配にしていましたが、この温泉の沸き立つ湯気がなんとも言えず情緒をかもし出して時間はゆっくりゆっくり流れていくようで・・・。そんな一足早い秋を感じた久しぶりのツーリングでした。


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