*****ひろのうたびとのしおり・・・其の壱拾四*****


ご挨拶(12/29)

 今年もいろいろありました。社会情勢は何と言っても後半の世界の不況と言う滑り台・・・誰が予想したでしょう?底もまだ見えない状況のまま新年を迎えようとしています。明らかに自動車産業の恩恵を受けているこの街は、減算に伴う労働力の削減。人口の1割強の外国籍の方が見えますが、彼らのほとんどが派遣社員。そのほとんどが解雇されています。稼いだ円を持って自国へ帰る人も多いと聞きます。でも日本に永住を決めて、土地を買い、家を買った人もいます。当然ローン・・・。どうなるのでしょう?中には住家を追われ、帰る事も出来なくなった人もいるとか・・・。この街の国際交流委員会の皆さんが、援助物資の募集を始めました。私達も心ばかりの義援金を納めさせていただきました。知り合いのフィリピン人のRに「どうだ?」と訪ねてみました。彼も例外でなく、職を失ったようです。何とかしてあげたいのですが・・・。彼は子供の頃から日本にいますから、感覚は日本人です。話していてもなんら支障はありません。むしろ英語も話せて・・・我々より堪能です。

 私の仕事にもその影響は例外ではなく、明らかに減っています。仕事量はそれほど変化が無いような気もしますが、物量が・・・はっきり言ってしまえばタイヤそのものの出荷量が減っていますから、金額が減っています。この量が、肉体の疲労の度合いに反映されているのかはわかりませんが、例年より軽いのでしょうか・・・気持ちにもそれが表れて・・・気力も下がっていたのでしょうか?風邪を終盤にひきました・・・。たるんでるんですね・・・(笑)。

 でも先にも書きましたが、素敵な出会いがたくさんあって、それもまた私達を支えてくれたありがたい出来事です。生きていくためにはお金が必要です。ですが、人とのかかわりをないがしろにしてはやっぱりいけません。できるだけ自分に出来る範囲で謙虚に勇気を持って生きて行きたいなぁ・・・と思います。今年も本当にたくさんの方にご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。来年も一生懸命無理せず頑張って生きます。また、私どもと関わっていただける際には、何か明るい話が出来る事を、そして来年も皆様にとって、素敵な1年に成りますよう祈念しております。また来年もよろしくお願いいたします。

新年は1月6日からの営業になります。

広乃詩人

別れ(12/22)

 何年・・・どれくらいの期間、人は人と関われば情が移るのでしょう・・・。思えば1年前はお互い知らない人でした。彼は今年1月仕事で岐阜へ単身、沖縄からやって来ました。ひょっとしたら、3年前私達が沖縄へ行ったとき・・・もっと遡れば、20年ほど前私が沖縄へ行ったときに、町のどこかで彼とすれ違った事があったかもしれません・・・。そんなあかの他人の彼と知り合ったのは、今年3月12日・・・BOB(バスケットサークル)の集まりに顔を出したのが最初の出会いでした。

 電話で事前に会話をしていて、私の中にあるイメージ(もう忘れてしまいました)が出来ていたのですが、思ったより大きな体で、おっとりした彼は私の前に現れたのです。でもちょっと遠慮がちに、私達とちょっと距離を置きながら一緒にバスケをした事を覚えています。日勤・夜勤を勤める彼は、隔週でBOBに参加してくれました。そうやって何度も顔を合わすうちに打ち解けて、彼の独特な人間性と33歳と言う年齢に私も信頼感を抱き、たくさんやって来る20代前後の多くの若者達のパイプ役を買ってくれ、BOBは飛躍の1年を迎える事になったのです。

 まず、私の念願だったBOBのユニフォームを希望者で作る事が出来ました。そして、数々の対外試合をこなしました。恒例の地元中学生との試合。この地に住んでいるフィリピン人の方々とのチームとの幾度かの交流試合。他地域の方々との交流試合もたくさんできた事です。そして何より、彼の人柄で、多くの若者が一緒に集い、BOBとしての仲間意識が強くなった事です。それが求心力となり、いい雰囲気ができた事です。

 しかし、当初2年・・・という期限だった彼の研修も、突如襲った不景気のあおりを受けて、急遽1年で沖縄へ帰る事になりました。それが分かったのは11月。それから彼との時間を惜しむかのように、BOBのみんなで一緒にいる時間を楽しみました。彼がいなくなる事は私を含め、他の皆は少なからずショックだったようです。そして忘年会、2つの対外試合をして、先の17日・・・いつもの活動日にお別れ試合をしました。20人を超えるメンバーが集まり盛り上がりました。

 そして昨日21日午後、彼は惜別の思いを胸に沖縄へ帰って行きました。BOBに入って9ヶ月あまり・・・短くも太く・・・彼の功績は大きく・・・そして去った後は・・・あまりにも大きな虚無感を私達に残しました。

 でも、「また会おう!!」固く握手をして、無期限の別れをしたのです。一期一会・・・そんな言葉を噛み締めた瞬間でした。

80歳兄弟(12/14)

 私に店には、先代(父)と先代を永年に亘って支えてきた1歳違いの弟である専務(叔父)がいます。先代が23歳の時、先々代が亡くなり家族の責任を一手に受けた先代は、この商売を引き継いだ格好になった訳ですが、若い頃です・・・さぞ不安だったと容易に想像できます。戦後の動乱・・・であったこの時代・・・国の一大事は家族の一大事・・・であった訳です。そんな状況で、専門知識を学ぶ身であった専務は、将来の夢を断念する訳です。その証拠に、時折専務を訪ねて見える方の中には、企業の設計や開発・・・関係など・・・と言った方々がいらっしゃいます。事実専務は、博識でいろんな事を知っていますし、今でも勤勉です。若い私たちの手本となります。

 しかし、日々の労働は、肉体労働です。その継続が幸いしてか、先代と専務は今までに大病を患ったことがありません。未だに現役です。しかも、私たちと同じ仕事をこなすのです。たとえ機械化されて、作業が軽減された・・・と言っても決して楽ではありません。この12月などは、冬タイヤへの移行から、作業の数も多い毎日です。その肉体と精神力は本当にすごいのです。頭が上がらないのです。私も正直20代・30代の頃に比べて、この時期の疲れがなかなか取れません。体の奥に溜まっている気がします。そんな事を思うと、この80歳の二人はいったいどうなっているのでしょう・・・。同じDNAを引き継いでいるだけに、自分の不甲斐無さはなんとも言い訳の余地がありません。更に、私の後約30年後にこうやって、仕事が出来る自信なんて微塵もありません。

 そんな二人にコツを教えられた事や自信の無さをとがめられた事ももちろんありません・・・。しかし、「焦るな・・・日々こつこつと・・・」の継続がこうやって過ごせる理由なのでしょう・・・。生き方を・・・良いお手本がいる私は幸せ者です。

雪がチラついた(12/6)

 今シーズンは雪が突然降ってくる・・・と言いますか、暖かい日が続いたかと思うと、寒気がやって来てブルブル・・・となる訳です。今日明日と寒気が来ていますが、来週はまたポカポカ陽気だとか・・・。でもそのうち冬が深くなってくるとその内どかっと雪が積もる日が来るような気もします。そうなって欲しいと思う気持ちがあっての話(笑)ですが・・・。降ってぇ〜・・・。

 でも今日の寒気に雪が北から運ばれて来ました。そのおかげでしょうね、電話もお客さんもワサワサ・・・した感じで・・・実際今回書いているのは何回も中断しています。少し書いては作業をして・・・もう夕方になってしまいました。本当にありがたいことです。たくさんのお客様に感謝しなくてはいけません。この私の店に来てくださると言う事は、本当に有り難い事(なかなか無い事)なのです。この店を選んで来てくださるという事に・・・本当に感謝の気持ちです。こうやって私どもは生かされているんですね。こう言った気持ちは、ともすれば忘れがち・・・になります。ともすれば当たり前になって・・・忙しさにイラついてしまいます・・・。そうなりながらもこうやって謙虚な心で自分を見つめ直さなくてはいけませんね。そして力を貸してくれる仲間にも感謝です。


忙しくなって来ました(11/30)

 今年は冬商戦が、11月中旬の寒波が来た時点で始まった感があります。本当にありがたい事です。早い時期から少しずつはき替えが進めば、いざ雪が降った時にでも、それほどのパニックにはならない・・・と思うのです。パニックになるのは大変なんですが・・・でも降ってくれないと・・・それはもっと困るのです。昨日の土曜日は、ある企業の社用車のはき替えを行ったのですが、その合間にもたくさんの来客があって(ありがとうございました)、この時期にふさわしい賑わいを見せていました。そこで助っ人2名(moto1号と尚にぃ〜)が手を貸してくれました。それと長男・長女・・・一家揃ってお手伝いです。助かりました。

 しかし、今日の日曜日は、昨日の今日ですし、寒気もやって来る・・・と言うことでしたので、賑わう店を予想して、スタッフを5名・・・で頑張っているのですが、余裕でやれています。私は、請求書を作成したり・・・まぁこうやって栞を書いているわけで・・・時間に余裕があるのです。今日も尚にぃ〜が手伝ってくれていますが、彼は沖縄の出身。ある企業の研修のため2年間と言う期限で岐阜へやって来ました。私とは、バスケットのBOBで縁あって知り合う事になった訳ですが、彼は33歳・・・BOBの中でも年上の部類に入ります。まぁそんな事もあるのでしょうが、彼の人柄はすごくいいのです。私とBOBのメンバーはそれこそ親子の歳の差があります。ですから、ギャップを感じる事もしばしば・・・。そんな穴を埋めてくれる存在ですし、彼を慕う子供たちも多い・・・。そんな感じですから、自然とBOBのキャプテンシーは彼に任せていました。

 やって来る中学生も彼を慕っています。優しい人柄ながら、彼が培ったバスケットに関するノウハウを子供たちに優しく教える姿は見ていて実に頼もしい・・・。しかし、そんな彼も突然ですが、予定より1年早く沖縄へ帰る事になりました。ここに来ての世界中の不景気のあおりを受けた企業の減算減益に伴った従業員の配置転換によるもので、研修も1年だけで帰る事になったようです。私の店に助っ人で来てくれているのは、就業時間の短縮に伴う休日と私どもの忙しい時期の合致から実現した事です。

 彼の持つ人柄に触れて、いろいろ知り合う事が出来てよかったと思います。今宵は友人M一家と彼を交えてちょっと早い忘年会・・・です。

一杯の珈琲(11/23)

 一日に何杯もコーヒーを飲みますが、以前にもこんなコーヒーの事を題材にした事があったような気もします。まぁそれはそれで・・・、事務仕事もこなすのですが、机の上にはマグカップに注がれたコーヒーがいつもあります。以前はコーヒー豆を買ってきて、サイフォンで沸かした事もあるくらい凝ったこともありますが、やっぱり手間がかかって面倒です。結局、コーヒーメーカーで水を入れて機械任せで作って飲む・・・ことになる訳で・・・。それもだんだん横着になって・・・結局、インスタント・・・なんです・・・、もっぱら・・・。

 ぜったい沸かして飲んだほうが香りも味も良いのですが、この手間・・・の面倒くささに妥協して、結局インスタント・・・を選んでしまいます。なんとなくこうしている傍らでも湯気を点てながらコーヒーがあります。そんなコーヒーの定位置に、丸い染みがいくつもあります。時には注ぎ過ぎたコーヒーがカップからこぼれ、滴ったため付いた跡だろうと思います。

 そうそう、このコーヒーを今の若い子供たちはあまり飲まないのでしょうか?私の子供たちも喫茶店に行っても、食事の後でも「コーヒー」を頼む事はありません。好んで飲むのは、店で働くとっチャン坊やのKくらいです。臨時バイトのYもコーヒーは苦手だそうで・・・。ましてやブラックで飲むなんてありえないことのようです。そうそうこのコーヒーをブラックで飲めるようになったのはいつだったか?大学の頃、友人が喫茶店に入って「ホット」と言わず、「ブラック」と注文した事に、「何それ?」と疑問を抱きながらも「僕も・・・」と背伸びをして頼んだ事が、きっかけだった気がします。その友人も背伸びをしていたふうの様子だったのですが、可愛い若さゆえの意地のようなものがそうさせていたんだと思います。結局、「にが〜・・・」と思いながら友人の「飲めるのか?」とニヤッと笑った声を聞きながら、「うまいやん」と一生懸命取り繕った自分が居たように思います。本当はこんなものが旨いなんて・・・大人の飲み物・・・という文字が何か超えられない感覚となって心に広がって行ったのを覚えています。

 今では、ブラックでないと飲めませんし、甘いコーヒーはNGです。

クリと付知へ(11/16)

 一昨日、トラックに乗って付知へ行ってきました。大型車のスタッドレスタイヤなどを配達です。片道60kmはあるでしょうか?助手席にはトイレシーツとセンターシートには寝れるように毛布を敷いて車に乗り込みました。クリは正直車に馴染んでいません。普段の環境がよっぽど安心なのでしょう・・・。散歩にすらなかなか出かけようとしません。ちょっと困っていますが、最近では積極的に皆が木曽川の堤防まで連れて行きます。「慣れやて、慣れ!」皆がそう言います。そんなクリです・・・、車に私が乗り込むや否や、膝の上にちょこん・・・と乗ってきます。運転がし辛い・・・のですが、降りてくれません。仕方がないのでそのままレッツ・ゴーです。膝の上で別に暴れる訳でもなく、大人しく外を見ています。何に思いを寄せているのかジーっと眺めています。

 途中東白川のお客様へ乗用車のタイヤを下ろし、その間クリは車中でじっとしています。私を待っているのか?と言うと・・・どうなのでしょう・・・。周りにきょろきょろしているだけで・・・どんな行動をとるのかが正直気になっていたのですが、大してそわそわする風でもありません。お客様の車にもよく犬がいたりしますが、たいていの犬は飼い主が降りると「ワンワン」鳴いて車中を飛び回るのですが・・・。クリはそう言った行動はないようです。

 1時間半ほどの時間をドライブしたクリ・・・、最長のドライブです。車酔い・・・したのかな?と感じる生あくび・・・もこれと言って無く、ぼ〜っとしているクリでした。大型タイヤを積み下ろししている間は、リードを着けて外に置きました。場所は採石場・・・幸いどなたもいなくて、広い所に私たちだけですから、積み下ろしを終えて、クリを離してみました・・・。すると匂いを盛んに嗅ぎながらあっちこっちウロウロと・・・飽きるまでさまよっています。天気は最高です。本当に小春日和でさわやかさを感じた付知川のほとりです・・・。

 20分ほど遊んでさぁ帰ろうとクリを呼んでみました。すると・・・ここが愛犬を可愛いと感じる瞬間のひとつなんでしょうね。1っ直線に30m程はなれた場所から一目散にこちらへ向かって走ってきます。そしてしゃがんだ私の足元にじゃれて来ます。久しくこう言った犬が我が家にはいませんでした。死んださくらはこう言った犬らしい・・・甘える行動をしなかった犬でしたし、その前にいたクマやモモもこう言った行動をとる犬ではありませんでした。冷静に甘えてくるクリを見て分析する私です・・・なんか私って素直じゃないですねぇ・・・(笑)。家内なんかはクリが来てから、毎晩メロメロになって「よ〜しよしよし・・・」と溺愛・・・、それを見て「お前はムツゴロウさんか?」と私。

 日が落ちて、暗くなった外を見ることも無くクリは、体を反転・・・、私の左腕にあごを乗せて、大人しくなったと思ったらしっかり爆睡状態。手に乗るほどの大きさで我が家に来たクリですが、すでに4ヶ月。体長は3倍程になっています。体重も4kgを超えていると思います。まだまだ軽い仔犬なのでしょうが、1時間じっと腕に体重をかけている状態が続くと、結構辛かったりします・・・。四苦八苦して運転をし、やっと店に帰って来ると予め連絡しておいた事もあり、家内が「お帰り〜・・・」とさっさと連れて行ってしまいました。私は、車内のトイレシーツや毛布・・・リード・飲料用のペットボトルや皿・散歩グッズそして何よりも伝票などのもろもろを抱えて・・・誰も手伝ってくれない(涙)・・・事務所へ・・・。クリは、寝起きのはずが、すっかり元気・・・あっという間に夕飯を食べた後でした・・・。店内を走り回ってぬいぐるみと狂っておいでになりました。まぁ・・・クリはさくらに代わってお出迎え犬としての修行も順調?と言ったところでしょうか・・・!? 以上現状報告でした。

耳に割り込んでくるもの(11/9)

 店はやっています。私は休みですが、事務仕事を少しやっています。ラジオを聴きながらやっています。日曜日は、ちょっとのんびりした口調の声が流れています。好きな音楽を意識しながら聴くことが多かった若い頃ですが、今はそばで鳴っていることで満足している自分が居たりします。それが懐かしい時代を思い出させてくれる音楽だったりすると、あまり好きでなかったメロディでも思わず口ずさんでしまいます。間違いなく癒されている自分が居るようです。

 先ほど、「ペニー・レイン♪」が流れていました。リアルタイムのビートルズ世代ではないのですが、中学生の頃、後聴きですがやられた自分でした。すべての曲をカセットに入れて、部屋にいる時間はずっと流していたように思います。意識して聴く・・・よりこうやって突然耳に飛び込んでくる好きだった曲は、何かサプライズ的なプレゼントを貰ったような・・・嬉しさを感じます。改めていい曲だなぁ・・・と思うしだいです。

 その逆説的な突然は・・・電話の呼び出し音・・・。何を差し置いても「出ろ!!」と呼びつけられているこの仕組みに・・・社会は成り立っている訳です。時には慌ててしまって・・・と言った思いをされた方もたくさんいると思います。今こうしていても鳴るたびに一時中断・・・するんです。これが電話のあり方です。出るたびに、「どんな用件だろう?」と小さいながらも緊張が走ります。素敵な声が聞こえてくれば・・・それが楽しい話題だったりすれば・・・心もうきうき。でもそうでない事も合って・・・、深夜の電話なんか、絶対良い用件じゃない!と緊張が走ります。「身内に・・・?」なんて思いも浮かびます。

 最近は、身近に携帯電話がありますから、家に・・・会社に・・・電話をかけるのではなく、個人に直接かけられます。そうすると、ここう言った場合、「今いいですか?」と必ずお伺いをたてます。これは、人となりの心遣いがあって以前の電話の会話にはなかった切り口です。自然発生的で改めて考えれば、面白いなぁ・・・と感じます。

寒いのは嫌ですねぇ(11/5)

 秋も深まる今日この頃、なんとなく冬の気配を感じる夕暮れ時です。秋の日はつるべ落とし・・・と言う言葉が今はよく言われるものの「つるべ」を観る事が難しい時代です。長男が幼少の頃、私の教えたこの言葉を、他の人に早速使って驚かせた事があります。しかし、意味はまったく想像できていなかったわけですが・・・。夕暮れに車を走らせて、スモールからヘッドライトをつけるまでのインターバルが短いことでも実感できます。通りに並ぶ木々の葉も、すっかり色とりどりでとても綺麗な岐阜の山々です。でもその葉もやがて風に舞い、道路を横切って吹かれて行く様は、なんかとても寂しい・・・思いがします。あぁ・・・寒い季節がやって来るなぁ・・・と、ちょっと寂しい気持ちが支配します。何より体の調子が少〜し落ちる感じが時折襲ってきます。でも、何より寒くないと私たちの仕事は、話になりません。それも雪にとても左右されます。雪が降るか振らないか・・・で大きく違います。仕事が忙しいことは嬉しいのですが、やっぱり・・・やっぱり・・・寒いのは嫌なんですねぇ・・・。

JBL・田臥を観た(10/28)

 一昨日、BOBの皆でJBLの試合を伊勢の三重県営サンアリーナまで観戦に行ってきました。12人のバスケ好きでワイワイ言いながら行ってきました。生憎の雨天。しかもちょっと寒い日です。でも車内は元気の良い声で賑わっていました。大切なよそ様のお子さんです。運転する私は、ちょっと緊張。ゆっくり安全運転。試合は14:00ティップオフですから慌てることはありません。

 9:30頃出発して12時頃到着。思ったよりでかい会場にちょっと驚きました。さすがNBA帰りの田臥の出る試合なんだなぁ・・・と思いました。アイシン・シーホークvs栃木ブレックス(田臥はこっち)の試合です。アリーナ自由席に陣取るため、並んで待つ必要があります。そこで男連中が先に食事をして女の子が並ぶ・・・、1時開場・・・ですから予め彼女たちにもチケットを渡しておいて、1時までに男連中が食事を終わらせ並ぶのを交代。会場に入って、12名分の座席を確保して、食事を済ませた女の子たちが後から来る作戦で、前後6名ずつ並んで座る事が出来ました。

 会場は、チケットをよく観ると、サブアリ〜ナとあります。なんだぁ・・・地元の体育館とあまり変わりません。日本じゃまだまだこんな状況なんですね。いずれ人気が出る事を思ってコートに目をやると・・・います!生・田臥です。動いています。NBA帰りの雄姿を見るためにたくさんの人が来ています。狭い会場ですが、満席なのです。こんな事ならメインアリ〜ナを借りたらいいのに・・・と思ったのは私だけではないでしょうが、田臥のJBL加入が最近の事なので、その時にはもう決まっていたでしょうから、止むを得ないのでしょう。

 14:00試合開始。第1ピリオドには田臥のノールックパスも出て、会場も「お〜っ・・・」と湧いた時もありましたが、第2第3と進んでいくと、田臥のプレーも黒子にに徹する感じで精彩を欠いたように見えました。結果は栃木の惨敗。ただこの試合はアイシンのホームゲームでありながら、会場の大半は、じっと田臥を観る観客だったように思えます。唯一この中でカリスマ性を発しているのは彼だけです。アイシンの選手も日本代表に選ばれて、TVなどでたまに見ますが、スターは彼だけです。そこで思ったわけですが、バスケを人気のスポーツに押し上げる一つの要素として、プロとしてのbjリーグともう一度融合する事が急務でしょうし、田臥や日立の五十嵐を含んだ、スターチームを作ることです。そしてメディアを使ってPRを展開。

 バスケを愛する子供たちのあこがれるスター軍団を作るのです。しかも強い事が絶対条件です。エコヒイキ・・・的な発想かも知れませんが、まずこう言った選ばれた選手をできるだけ作ることです。そして年を重ねて、ライバルチームが出来、盛り上げていく・・・。急務です。バスケが好きな人はたくさんいるわけですから・・・。田臥や五十嵐が元気なうちがチャンスだと思うのです。NBA帰りの田臥が色あせないうちに・・・。是非!!(あくまで浅はかな私の勝手な妄想です)

荒野の七人(10/19)

 さて・・・とおもむろに以前溜め込んだビデオラックの中を覗いてみました。映画でも観よう・・・と思っての話ですが、どうせなら・・・と「荒野の七人」を取り出しました。この映画、3本のビデオに収まっています。金曜洋画劇場・・・だったかの放送だったり、レンタルビデオのダビングだったり・・・観たのは字幕ではありますが、このダビング版を観ることにしました。

 TV放送はどうしてもカットされているシーンが結構あります。それと字幕の台詞とぜんぜん違う事を声優さんがしゃべっています。(私は英語がわかりませんが・・・)見比べてみると良く分かります。それで感じ方が変わって来るんでねぇ・・・話せたら・・・いえ、せめて聞く事ができたらもっと面白いんじゃないか?と強く感じます。まぁ暮らしてみて身につくニュアンスがあるでしょうから、そうなったら本当の台詞の意味が理解できるんでしょうけど・・・。

 まぁこの映画は、先にも書いた「七人の侍」の西部劇リメイク版ですが、まったく真似たわけではなくて、強く違いを感じたのは、この映画には、人情が交わされるシーンが多く登場します。百姓とコミュニケーションを交わすのです。人間としての弱さをお互いが話すことで心が通い合って行きます。ヴィン(スティーブ・マックイーン)がある農民と戦いの見張りをしている時、「怖くないか?」と農民が訪ねます。すると「一緒だよ」とお互いが生きていることの生業を語り合うのです。また、オライリー(チャールズ・ブロンソン)は村の子供たちと心を通わすのです。そんなシーンが明確に描かれています。これは七人の侍ではあまりなかった(描かれてはいなかった)シーンです。ここは大いに評価したくなります。良い場面です。

 ただ、戦闘シーンもなんとなく始まりますし、盗賊集団と会話まで交わします。村人に裏切られ村を一度は出る羽目になるのですが、七人は村へ戻る!!と強い決心で戦いに向かうのですが、な〜んか盛り上がりが無いのです。何でしょうね?何度観てもここが一番肩透かしをくらった感じがするのです。そこで私考えました。よくある正義の味方が悪党をやっつける!というお決まり映画やTV番組をたくさん見て来たわけですから、そことの違いを考えますと・・・分かりました。それは、この悪党集団がどれほどの悪党なのか?が描かれていないのです。悪い奴らをやっつけろ!!という気にさせてくれていないのです。ましてや、悪党の頭目がちゃんと会話までしてくれちゃって、イメージが前々悪そうでないのです。「○○銀行を襲ったときは軍隊まで出てきた!!」など、悪さの限りを尽くして来たらしい・・・のですが、あんまり悪そうな感じがしません。この村に対しても冒頭に穀物やニワトリ?を持って行くだけで、そんなに極悪人・・・というイメージが付けられていないのです。村人もそんなに苦しそうに見えないのです。貧しそうに見えないのです。村人の身なりにメキシコ政府からクレームが付いた映画があったとかで、その影響もたぶんにあった・・・のかもしれませんが。

 痛快!!西部劇・・・かと言うと?そうでもないのかなぁ・・・そう思いたくないのですが、荒野の用心棒・・・クイント・イーストウッドのような痛快感はないですねぇ・・・。ただ、この俳優さんたちは、後々超大物になって行く方たちの後追い観劇者からすればすっごい映画なのですね。テーマソングもかっちょいいじゃないですか・・・。

驚いた事(10/13)

 昨日甥っ子の結婚式に行きました。場所は名古屋のTVCFでも有名な某結婚式場。親戚一同両家揃って大型バスに乗ってます〜♪で出かけました。1時間半ほどで到着。洋風の建物は、迷路のよう・・・です。建物に入って通路のようなところで待機。ドリンクサービス(飲み放題!!)です。「へ〜ぇ・・・今はこんな事もあるんだ・・・」と感心する私。

 30〜40分後、受付。その後ロビーで新郎新婦に対面。スナップ写真をバシャバシャと・・・。そこでも飲み物放題・・・になんとちょっとした・・何ていうのでしょう?一口サイズのケーキ?が食べ放題。「また?」という軽い衝撃・・・驚きました。そして更に奥の間に・・・鉄製?の扉が開いて、両家左右に並んで、教会の中へ・・・合唱隊(と言って良いのか知らない)のコーラス(と言って良いのか知らない)の響く中、素晴らしいステンドグラスの光の中に、厳粛に席に着きました。そして花婿・・・父親にエスコートされて花嫁の登場・・・。甥っ子の待つ壇上(何て言うのか知らない)へ・・・。いずれやって来る近い将来のわが身かもしれない・・・とちょっと思いました。粛々と式は進行し、無事甥っ子たちは1組の夫婦となりました。よかったよかった・・・。

 そして、式場を出て、中庭(何て言うのか分からない)のような所で、記念写真。親族と来賓の方と別々で・・・今は、写真はデジタルです。費用もそれほど手間もそれほどかかりません。ず〜っと専属のカメラマン(女性でした)が同行しています。時は前後しますが、待っている間に、何枚か出席者の写真を撮っていました。写真撮影後、フロアを上がってプールのあるような庭(何て言うのか知らない)の見えるロビーで待機。何とそこにも軽い飲食サービス・・・ケイタリングサービスと言うんでしたっけ?まぁそう言ったおもてなしがここにもあって、驚いた!!のです。

 その後、隣の披露宴会場へ移って、盛大なる披露宴が行われました。新郎新婦がどこから登場するのかな?と待っていると、この会場の隣にはプールのある庭があると書きましたが、そことの境は、すりガラス・・・。そのすりガラスが、司会者の「新郎新婦の登場です!!」と言う声とともに、パッと透明なガラスに換わり、新郎新婦が立っています。「お〜っ!!」と言うどよめき。驚きました。そして会場内に歩を進め、テーブルに着くと、披露宴は私たちの父の乾杯の発声で賑々しく始まりました・・・。

 わいわい・・・と途中お色直しを済ませ、なんと先ほどのすりガラスが再度パッと透明になると、この庭には、これでもか!と言うほどのケーキやら何やら・・・のパティシエ?シェフ?何て言って良いのか分からないコックさんが数名待機しているパーティ別会場が設置されています。「お〜っ!!」と言う驚きの声・・・私も驚きました・・・。わいわいとそこへなだれ込む新郎新婦の友人たち。私は、ずっと自分のテーブルを離れることなく、楽しそうな皆を見ていました。

 私たちが結婚して22年くらい経ちました。あの頃とはもう全然違います。驚きの連続です。そして披露宴も終わり、新郎新婦が退席後、なんと音楽に合わせてスクリーンには、今日の参加者の名前がエンディングロールで紹介されていきます。そして先ほどバシャバシャ撮っていたスナップ写真が次々と映し出されています。まるでドラマのエンディングそのものでした。いい結婚式でした。近い将来・・・そんな思いもまたよぎりました。

百姓が侍を雇う(10/4)

 前回でもうおしまい・・・としていたお話の関連で、この史実をネットで探してみました。前回の内容にリンクさせましたから飛んで頂いて見てください。鎌倉時代の話、ある村が侍を雇って悪党から村を守った・・・という史実。このサイトの話から話を進めますと、いわゆる荘園であった村の話で、荘園は当時自治区・・・この村の場合、力(財力)のある寺が、治めていた村に悪党がやって来ては襲っていた。

 この村がこの寺に納めた年貢は約89石・・・その半数48石を防衛費に充て、8人の武士を雇った・・・。この8人に更にこの半分の24石を支払った・・・。ピンと来ませんが、1石とは1人の人間が1年間に食する米の量ですから24÷8=3。1人が3年分の米を貰って戦った・・・と言うことになります。1石は1000合で365日で割ると1日2.7合。まぁ3年分の米を貰った訳です。でもこれを貨幣価値で考えるといくらか?って事に興味が湧きます。

 ちょうちょいと調べてみますと、今の米の価格に直して換算して見ますと、1石は約¥70.000との事。結果¥210.000でこの村を守った・・・訳です。¥210.000かぁ・・・。何日守ったのかなぁ・・・それも気になります。2度襲ってきた・・・とあるだけで史実に記されているのはこの2度の襲来に8人の侍がいたのか?は確かではありません。映画のようにいつ頃?という時期が分かりませんし、悪党たちは何を目的に襲って来たのか?が分かりません。この荘園そのものが欲しかったのかもしれませんし・・・。そんな時代だったのかな?とも想像します。

 この寺が納められた石高は89石です。年間予算が*¥6.230.000と言う事(他に収入があったかは分かりません)です。決して多い金額ではありません。その半分*¥3.360.000を防衛費に充てた・・・と言うことが多いのか少ないのか・・・。まぁ映画「七人の侍」の雇用条件よりは良かったのではないか?と言う事は想像できます。すると、映画の中の武士の気質・・・意気地や情でこの村を守った・・・のか?という着目する部分は、微妙・・・です。やっぱり現実には戦う事が武士の役目ですから、¥210.000で働いた訳ですね。

 しかし、黒澤明(他2名)脚本家は映画のコンセプトをこの史実を知って決めたんですね。侍が百姓に雇われて村を守った・・・という事だけでも「え?」と思いますよね。*当初の石高を訂正しました。

七人の侍・・・参(9/26)

 本やら何やらで得た知識ですが、このお話の数あるエピソードには、いろんな時代のいろんな場所での物を盛り込んでいるそうで、いつの何の話だったかは覚えていませんが、侍たちのリーダー格に当たる島田勘兵衛の登場シーンである、盗人から人質である子供を奪い返す・・・という逸話がそうです。また、久蔵が侍と決闘をするシーンだったり、木賃宿にて侍を試すために隠れて雑木で打ち込む話などもそうです。その際、試された五郎兵衛がそれを察して「ご冗談を・・・」と言う台詞があるのですが。この映画によって後世に受け継がれるよく使われる台詞になったり、そもそもこの映画のコンセプトも島根だったか?鳥取だったか?まぁ当時はそんな呼び名ではない鎌倉時代の文献に、百姓が侍を雇って野武士から村を守った・・・と言う話があったそうで、この話を聞いて黒澤明はこれで行こう!としたとか・・・。人間模様を想像するに、身分によって世の中が仕切られていたであろう時代に、百姓の身分で侍を雇う・・・という経緯はどんなものであったでしょう?七人の侍では、情に厚い勘兵衛はじめ侍たちが、ほとんどが初対面同士の中、身分の低い困った百姓たちのためにまさに「侍」の意気地のもと・・・決して雇われる・・・のではなく腹いっぱい飯が食える・・・という条件で命を懸けて戦うのです。村の長老が言う「熊でも腹が減りゃぁ山下りる・・・」とは違った侍の姿である訳です。

 でもこの鎌倉時代の実際にあった・・・とされる話はどんな条件だったのでしょう?熊が腹減らして山を下りたのでしょうか?それとも人間関係がちゃんとあって心がそこに存在したのでしょうか?身分の隔たりとはどんな人間模様を造っていたんでしょう?武士は食わねど高楊枝・・・と言ったのはいつの時代の事でしょう・・・。侍の気質・・・気品・・・と言うものが感じられる諺で、侍とは武士とはそう言うものだ・・・と思っていましたから。いろいろ想像すると、侍にもやっぱりいろいろいたんだろうなぁ・・・と。考えてみれば当たり前の事のようにも感じます。

 百姓もいったい何を感じていたのでしょう?映画の百姓は、三船敏郎の菊千代が言う「百姓ほどずるがしこい者はねぇんだぜ・・・」と。この乱世の中、生きて行く術はこういった生き方をしなければならなかった・・・訳です。こういう世の中にしたのは侍だ・・・と。しかし、この鎌倉時代の百姓はどうだったのでしょう・・・。想像する百姓像ではなくて、この侍を雇った村は、案外裕福な村だったのかもしれません。調べてみたい気もしますが・・・。

 七人の侍・・・最高傑作のひとつ・・・とされていますが、読んだ本によると、映画会社との確執があって、あまりに長い撮影時間と経費に、興行的に心配になり痺れを切らした幹部が「編集して見せてみろ!」と撮影は一時中断。撮った映画を編集し、幹部の前で上映・・・菊千代が屋根に上って幟を掲げて、攻めてきた野武士を見つけて「来やがった!」と、まさにこれから・・・と言うところで上映は終わるのです。「これ以上撮っていません」と幹部に向かって黒澤明は言うのです。したたかです。こんな事もあろうかと・・・、戦闘シーンを先に撮り終えていたりすると「これでいい!」とまとめられてしまう事を想定して、撮影は最後にしていたそうです。こだわってこだわって思いっきり撮った訳ですね。「俺の映画が当たっているうちは大丈夫・・・」という周到な計算のもと作った訳ですね。幹部はこれでは上映できない・・・と思ったでしょうし、質の良さに「この先を思いっきり撮って下さい」と承諾を取り付けた訳です。してやったり!の黒沢明・・・。

 ただひとつだけ、ただひとつだけ「あれ?」と思うことは、戦いを終えて疲労困ぱいの勘兵衛が「また生き残ったな・・・」と台詞を吐くのですが、その荒々しい息が白いのです。寒いんでしょうね・・・。厳しさが一層感じられます。でも初夏の麦を刈った後の設定です。撮影が中断された際、「雪が降ってしまいますよ・・・」と映画会社に言ったそうですが、まさに戦闘シーンの撮影時には雪が積もり、雨を降らせるための水で雪を溶かし、泥の中の戦闘シーンとなり、撮影中は時雨れていたそうです。演者は、頭からお湯をかぶって演技をしていたそうです。その最高の見せ場が厳しい状況の雨と泥と・・・足場の悪い中の戦闘シーンは、迫力を生みます。それが最後に・・・「あれ?」と・・・。冒頭の野武士の「麦が実った頃に又来るべ・・・」と言った台詞が、ここへ来て「あれ?」となっちゃった訳です。

 でもいいのです。純粋に侍が百姓が生きている・・・いい映画です。


七人の侍・・・弐(9/24)

 DVDを手に入れて見直したこの映画。リメイクされた物ではありません、リメイク版は効果音などが加えられています。人が切られる時のよく耳にするあの「バシュ!ドシュ」という音。それに弓矢を放つ時の「バヒュ!」といった音・・・など。何年か前にこういった効果音を加えた上で再上映された事があったそうですが、その予告編がこのDVDに収録されていて観たのですが、当時は斬新な技法だったので失う質よりも目新しい事でより良いものになる・・・と改良を加えたのでしょが、聞きなれた今では仮装をされた感じが強く、オリジナルの良さが消えてしまって私には良く感じません。私に限らず、こうやってその残されているDVDはオリジナルのまま・・・音がより聞き取りやすく・・・分からなかった台詞が理解できる良い質になっています。

 登場人物に関してですが、私が知っている志村喬・加東大介・千秋実・宮口精二などはおじいさんですし、木村巧は中年の優しいおじさん、稲葉義男は知りませんし、唯一異彩を放っているのが三船敏郎だった訳です。序盤の盗人が東野英治郎・・・黄門様だと知った時はびっくりしました。そして村の娘が津島恵子・・・この方はもう優しいお母さんという存在です。「吉川く〜ん」と言う名台詞で有名な森田健作の俺は男だ!のお母さんがまさにこの津島恵子です。お〜っ、若い!それにやっぱり美しい方ですね。やっぱり女優さんです。そうそう左卜全は知っているままの方でした。それに往来を行く若き日の仲代達矢とか宇津井健が侍の姿で映っています。影武者で主役を務める事になるんですが、誰もが駆け出しの頃って当たり前ですがあるんですね。

 
七人の侍・・・壱(9/23)

 この映画を観たのはいつでしょう・・・。1954年の春の映画となっていますが、当然ですが生まれていません。黒澤映画が特別好きか?と思えばそうでもありません。モノクロで暗〜いイメージを(この頃の映画にはそんな印象があるんですね)持っています。ですので観辛い・・・というレッテルを貼ってしまっていたんですね。台詞を聞いていても何を言っているのか理解しづらい・・・というのもあります。

 どちらかと言うと、TVで観た「荒野の七人」をあの頃の解説をしていた高島忠夫が、七人の侍のウェスタン版です。・・・という紹介を聞いて「へぇ・・・」と思って知ったような記憶があるような無いような・・・。荒野の七人は1960年の映画です。私が生まれた年ですが、さすがアメリカ・・・カラーです。私が初めて観た中学生の頃、登場するユル・ブリンナー、スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ボーンなどは大スターになっていましたから、良く知っている俳優さんだった訳です。かっこいい大スターが共演するすごい映画なのです。テーマソングもかっこいい!!わくわくして観たものです。ストーリーこそ日本映画の流用だとしてもカラーで、すごいスターの共演する荒野の七人がNo,1・・・と決め付けていました。ですからやっぱり七人の侍を観るまでにはまだまだ時間がかかりました。

 しかし、ずいぶん前にBS放送が観られるようになって黒澤作品が放送される機会がやって来ました。実に3時間27分という長い映画です。「よし!観てみよう!」とそう意気込んでビデオで録画もしながら観ました。ストーリーは荒野の七人でおおよそは想像できます。本当はこちらが本物なのにね・・・愚かな・・・今思えば残念な観方をしました・・・。なにも先入観を持たずに観たかった・・・と思います。始まりました・・・お〜ぉモノクロです・・・。ドンドン♪ドンドン♪と太鼓の音で筆書きの人物名が映っています。文字が斜めになっていてあまり他の映画では観ない紹介です。

 始まって思ったことは、やっぱり映像が暗い・・・台詞が良く分からない・・・野武士が山の上から襲う村を見下ろし・・・「?????」と言っているのですが、残念ながら何を言っているか?分かりませんでした。その後見直したとき・・・この映画の時期的な重要な台詞を言っていることがわかるのです。「この麦が実ったらまた来るべ!」と頭目らしき野武士が言った後、騎馬にまたがる野武士の集団は帰って行くのです。麦は初夏に収穫する訳ですからこの頃に野武士はこの村を襲撃に来る!という曖昧な期限を切る事になるのです。そして薪を集めていたこの村の百姓の一人が、この話を始終を聞いて村の皆に報告するのです。こうやって物語りは始まります。実に巧妙な始まりです。

 あれこれ、物事の展開をじっくり観て(何回も見た後に感じたのですが・・・)すごい・・・のです。黒澤流のこだわり?と思える物ばかり・・・です。かつらからしてTVで観たりする物と違います。なんて言って説明できるのでしょう・・・側面の剃髪の境界が低い位置にあるのです。格好良くは観えません・・・。それから衣服がよれています。汚く粗末なのです。すべてがそうです。時代背景はきっとこうなんだ・・・とそう言いたかった・・・というか、さも観てきたんだ・・・と言いたげな時代風景です。なんかリアリティをものすごく感じてしまうのです。



家系図(9/14)

 甥っ子が、父親になって数ヶ月。このお盆にやって来た際に家系図に感心を持った様子。そこで以前長男が中二の時にご先祖様を調べる・・・という課題を持って調べた物があり、それに最近の状況を加えて家系図を作る事にしました。姪っ子甥っ子が親になる・・・と言うことで、私の兄がおじちゃん。親父が大じいちゃんになった訳です。そう言う事で調べてみました。

その子からすれば、私は大叔父(おおおじ)と言い、その男の子は従孫(じゅうそん)とか又甥(またおい)、女の子は姪孫(てっそん)とか又姪(まためい)と言うそうです。でもそんな言葉知らないし、実際は使うことは無い訳で、その子たちを何と呼ぶかは、名前で呼べばいいから問題はありません。しかし、その子達から何と呼ばれるかが問題です。その子たちのお祖父ちゃんが兄貴ですから、弟である私は、「下祖父ちゃん・・・」か「小(ちい)祖父ちゃん」と呼ばれるのでしょうか・・・?祖父ちゃんは・・・嫌だなぁ・・・。

 ちなみにこの子たちの親である甥っ子、姪っ子からは○○兄ちゃん・・・と呼ばれていますからそのままでいいか?と無理からぬ企みにも似た思いを抱いています。更に私の兄夫婦を私の子供たちは「パパ・ママ」と呼んでいます。これも言ってみれば世間体には「???」という呼び名です。子供たちは私たち親を「お父さん・お母さん」と呼びます。子ども達が小学生の低学年の頃は、この呼び名に疑問を感じる事もなかったようですが、段々物事を理解するようになると、独特の決め事で、他人には理解してもらえないおかしなこと・・・と知る訳です。

 そんな新しい家族を迎えた私どもの家系を図に残してまとめてみよう・・・!と数年前に作った家系図に付け加えて行きました。わかる範囲で「清七・享保3年(1718)没」とあります。江戸時代です。もっともまだ姓など許される訳でなく、百姓・・・だった訳です。私からすれば9代さかのぼるご先祖様・・・と言うことになります。そして6代前の「利蔵」がいた明治3年9月に姓を名乗る事が許されて今になる訳です。

 こうやって調べて思ったことですが、この方、知らないけれど間違いなく自分のご先祖様です。居なければ私はいません。いったい自分がここに居るために何人のご先祖様がいたのでしょう?ちょっと考えて見ます。
                
                   自分

一代          父             母

二代       父     母       父      母

三代     父  母   父  母   父  母  父  母

四代    父母 父母 父母 父母 父母 父母 父母 父母


四代前に遡れば16人のご先祖様が居る訳です。9代前までの記述が家系図に記載されています。2の九乗で512人のご先祖様がその時代に居る訳です。この中の誰一人が居なかったとしても自分は生まれてこなかった訳です。「お〜っ!すごい!」10代前は1.024人。20代前は1.048.576人。すごい数字になって行きますが、100万人を超えるとさすがに多い。そんなに人口が居るのか?という疑問も湧いてきます。調子こいて30代前は?・・・、何と10億人を越える?明らかにおかしい?ですね。そんなに居る訳ないか・・・。

 よ〜く考えると分かります。両親がみな別々の夫婦という解釈をしてはいけません。何人も子供を生みますから、重複している人が必ず居るはずです。それもかなり居るはずです。そうでなければ10億なんていう人口が一時代にこの日本に居る訳がないです。そう思うと今こうして暮らしているあかの他人と思っている人たちは皆、繋がっている・・・という意識になってきます。人類みな兄弟・・・なのです。

 家系図・・・実に奥が深い。私は今ここに生きています。ご先祖様に感謝です。

年金受給資格(9/8)

 昨年度3月をもって、年金を払い続けて25年(受給資格期間)経ちました。先日社保庁から確認の封書も送ってきました。支払い確認明細が記してあったのですが、私の場合ずっとここですから、簡単なものです。間違いはありません。間違われる事もないだろう・・・と思います。

 子供の頃、学校の先生には、働くと年金というお金を給料から払わなくてはいけない・・・と教わりました。年寄りになって働けなくなった自分のために国に預ける物だ・・・と教わりました。しかし、しかしです。今の年金受給年齢はどんどん引き上げられ、散々素晴らしい仕組みだ・・・と信じ込まされて払い続けてきた我々は、貰えるのか?という半ばあきらめのような気運を抱きます。溜め込んだ年金は・・・何のことは無い、国は流用をして景気に少しでも活性化するつもりだったのでしょう、得意の箱物を作ったようです。グリーンピア○○・・・という国民保養施設なんかがそれです。その施設は安価にて利用できる・・・という触れ込みだったのでしょうが、いかんせん民間の宿泊施設やそこで働く人たちの意識の高さを計算に全く入れては居なかったのでしょう。民間は安価にて流れるお客さんの意識をこちらに向けるべく、あの手この手のサービス(付加価値)を駆使して集客に一生懸命になります。まぁ国営の宿泊施設なんて大して気にしてはいなかったような気もします。最初は危機感もあったかもしれませんが、それによって個々の民間施設が民間同志で切磋琢磨する・・・わけです。国はこうなる事を思っていても甘く見ていたのでしょうね。施設を運営する危機感なんて持つことはなかったでしょう。経営意識なんて最初からありませんからね。稼ぐ・・・という意識の欠如から、その施設の赤字は、年金という営業利益外から補填されていく訳ですから、どんどん使われて行ったのでしょう・・・。はっきり言って素人が営業をしてはいけないのです。経営は現状維持だけでは後退を意味します。プロではないのですから・・・。安いだけではお客さんは・・・リピーターは集まりません。なめるな!!です。

 そんないい加減な年金管理は、どんどん負の循環を繰り返し、挙句の果て年金記録の名簿すらずさんで、枡添さんが名簿をはっきりさせる・・・と半ばありもしない記録を100%明確にする(そう言わなきゃいけないですわねぇ)と明言しましたけど・・・。でも仮に明確にしてもですよ・・・無いでしょう?私たちのお金は・・・。25年収め続けた私(達)の年金はあるんですか?貰えるんですか?

 25年の受給資格期間を迎えて思ったのですが、これって何故25年なんでしょう?世代間扶養の維持・・・と言う理由があるようですが、25年に満たない人は?そんな事言うから最近の人たちは支払わない・・・気持ちになるんじゃないの?可愛い女優さんを使って「私は年金を払ってますよ」って言ってもその気になりますか?あまいあまい。25年という時間は必要ないでしょう?受給資格の規約を替えれば言いと思うのです。

 ひょっとしたら、財源無いから払い渋るための無くしてはいけない便利なルールになっているんでしょうか?そのうち年金特別法案・・・と言うような曖昧なことの話し合いがあって、年金そのものが姿を変えるか、無くなってしまうんじゃないのかな?それと消費税30%?冗談じゃないですよ。自分たちの立場はしっかり守って国民に付けを回すのは理屈がおかしい・・・順番を間違っています。

 今度の総理大臣さん、ぼろぼろになるまで働いてくださいね。


クリ参上!(9/3)

 昨日でさくらが逝って1週間です。あっという間の1週間ですが、前半は悶々とした思いの中、寂しさに店の皆が吹かれていたように思います。早く忘れる事が犬の供養になる・・・という話を聞いた事もあります。忘れられる事は出来ないでしょうが、癒してくれる存在を探そうと・・・そこで奮起一発、夏休みの長男長女を交代で誘って仔犬を探して右往左往する事にしました。市内・可児市・関市を10箇所ほど・・・。

 今まで仔犬を買う・・・と言うことをしたことがありません。さくら・くま・もも・チャコ・うめ・チーコ・みんななんとなくやって来た犬だったりその子供だったりした訳です。ペットショップに居並ぶそりゃいいところの犬たちとは無縁の我が家・・・だったのですが、飼うために買おう!と心機一転、飼うべく仔犬を求めていろんな仔犬と睨めっこが続きます・・・。

 ああいったペットショップをその気で訪ねて思ったことですが、お店の人たちにとっては商品である訳です。売るために存在する訳ですから、その商品価値を語って聞かせてくれるわけです。云々かんぬん・・・なるほど・・・勉強になります。この犬は父親が○○大会の優勝犬で母親がやっぱりどこそこのチャンピオンで・・・とか。毛並みはこう言った色の子が大きくなってこんな犬になる・・・とか。「抱っこしてみますか?」と積極的に触れさせようとするお店だったり、「触らないでください」と固く注意を与えられて見学・・・する事のみさせるお店だったり。「犬はいません、犬種を伺って後ほどお越しいただいて決めていただきます」というお店だったり・・・。まぁそれぞれご都合というものがあるのでしょうが・・・私にとっては窮屈以外の何ものでもありませんでした。

 この子がいくらする?という事はそれなりのこちらの都合もありますから気にはなりますが、どこそこのチャンピオン!なんてことはどうでもいいことで、癒してくれそうな・・・いえ、そんな具体的なことではなくて、「この子や!!」と思えるひらめきの子を探している訳です。あんたらにそんなこと分からないやろうから、ちょっと黙っといて・・・、という思いを散々させられました。また同時に、そういった事にこだわりを持っている飼い主も要るんだという事も知りました。ただ、私のように気の逢う犬を探している者も要るという事を気にかけて欲しいなぁ・・・と思いました。

 そんなこんなで夜にネットで気になる子を見つけました。問い合わせをすると明日対面できるとの事。翌日長女を伴って出かけていきました。するといましたいました・・・ぱっと眼が合った時に「この子や!」と感じます。それとお店の方もなんだかんだ・・・と言いません。「抱っこされますか?」とさり気なく聞いてきます。お願いすると、「じゃぁ念のため消毒をお願いします」とアルコールをサッとひと拭き・・・。プルプル・・・と振るえるこの子をお店の人から受け取りました。「昨日の夜来たばかりで・・・」という事以外これと言った事を言わない笑顔の店員さんです。長女と交代で抱っこして「頂きます」と言うと、お店の人は「エッ!?」と言った表情をされ確認の「決められたのですか」と少々驚きの声。「はい!」と私。その間1〜2分。こんなもんです。出会いは運命です。必然的に出逢いました。その場で名前も「クリ」と決めました。口の周りが泥棒のように黒い柴犬の雌です。その後簡単な健康チェックをして、書類に眼を通して、諸注意を受けて長女に抱っこされて20〜30分ドライブして帰って来ました。店ではひょっとして・・・と皆が待っていました。ざわざわと歓迎を受けたクリは、オロオロドキドキしながら、1夜を過ごしたでしょう・・・お店の方には「今日は緊張していますからそっとしてやってください・・・と言われたのですが、無理です。10人くらいの洗礼を受けて、やっと自由?に開放されたのは夜の11時頃。こうやってクリはさくらの後を受けて皆を癒す家族として、スタッフとして一員となりました。

 さくらが逝ってこんなに早く・・・とも思いますが、こうやって振り返ればさくらが寝そべっていた時間、場所にクリが居ます。さくらも安心してあちらに行って、ここに居たたくさんの犬たちと仲良くやってくれると思います。こうやっているそばで私の脚にまとわりつき、ガブッと噛み付くクリです。「痛ってぇ〜・・・おまえ後で説教や」。躾が待っています。


逝ってしまいました(8/28)

 一昨日の朝6:30頃です、当店の迷犬「さくら」が逝ってしまいました。死因は腎不全・・・です。昨年の7月に体調を崩したさくら、病院の先生に検査をしていただいたところ、毛に覆われてわからなかったのですが、前身に皮膚がんがあり、体内には大きな腫瘍があるという事で、年内の命・・・と宣告を受けていました。それでもさくらは寒い忙しい12月の私たちの姿を見ながら、元気な様子で過ごし、そして正月を向かえ、春には恒例のさくらと桜の記念写真も収め、初夏を迎えました。

 でもかなり高齢さくらです。散歩の足取りもだんだん勢いが無くなり、食も少しずつ細くなって行きました。好き嫌い・・・かと思っていたのですが、食べたり食べなかったり・・・そしてお盆を迎えた当たりから、嘔吐を繰り返すようになり、いよいよかな?と私たちは心の準備をしたわけです。お盆が明けて、いっそう具合の悪くなったさくらを病院へ連れて行くと即入院。血液検査をすると腎不全・・・それも人間なら人工透析を必要とするほどの状態です。点滴を受け、腎臓の機能の回復を待ったのですが、病院から電話を受け、さくらは治らない・・・と診断されました。なんとなくそう思っていた私たちは、ぐったりしているさくらを連れて帰って来ました。それが22日の金曜日でした。もう何も食べなくなっていました。

 最初の日は点滴の効果もあってか良く寝ていたさくらですが、段々苦しみ始め、体に痛みを覚えるのでしょう・・・、あちらこちらとふらふらになりながらウロウロするさくらでした。そしてバタリと倒れると眠ってしまう状態を繰り返していました。そして25日は、もう起き上がれなくなって痛みでうめき声をあげるようになりました。そしてその夜、痛みがすごいのでしょう・・・荒い呼吸をしながら私のさする感触さえも苦痛に感じるのか眠る事もありません。そばにいる私はたまらなくなって獣医さんに電話をしました。それが夜の9時位です。頂いた鎮静剤を半錠、口の中へ押し込みました。なかなか入りません。3度ほどやったでしょうか・・・。その後、うめき声を和らげながら、さくらは眠ったようになりました。

 そして26日朝、父が観にいくと弱い息こそしているのですが、反応はもう無かったそうです。私が観にいったときは、体はまだ温かかったのですが、その呼吸も止まり今いま息を引き取った・・・そんなさくらでした。正直、私はホッとしたのです。昨夜の苦しむさくらは、あまりにも観ていて辛いものがありました。「これで楽になったね・・・」

 さくらは5年前の6月頃、迷い犬・・・としてこの店に首輪と縄をつけて一人でやって来ました。家内が「あんたどこから来たの?」と話しかけたのを機に私も外に居る家内の下へ行きました。するとそこにはお世辞にも・・・いえ、汚い野良犬が居ました。恐る恐る近寄って「どこから来た?どこそこの犬やないか?」というような事を皆で話していたように思います。どこからか逃げてきたのでしょうから近所を連れて聞いて回ったり、この犬の気の向くまま後を付いて近所を歩いたりもしましたが、結局この犬はこの店に戻ってきてしまうのです。拾得物・・・として警察に連れて行ったのですが、隣ならできれば預かってくださると助かります・・・と言うことで拾得物の保管期間2週間?預かる事となりました。

 しかし、その夜この犬は騒がしく鳴く!!のです。放浪を続けて来た身ですから窮屈だったのでしょう。深夜になっても鳴くものですから、父が「まぁどっか行け!」と放免!!すると次の日、なんと警察から「逃げてきましたよ・・・」とご丁寧に護送されてこの犬は帰って来ました。まぁ預かる!と言った手前、逃がした!とは言えず、「あっ、どうも・・・」とまた我が家へ・・・。そしてこの犬は、その後も自力で1回逃亡・・・。なんとまたまた警察署へ御用。そのまま保健所へ送られたようで、必死に探した末、ひょっとして?と訪ねた保健所(警察署も保健所も私の店からものすごく近いのです)へ行ってみると・・・、居ました居ました・・・私の顔を見た瞬間、明らかに「あっ!」と言う表情をしました。私はすぐ連れて帰ろう・・・と思ったのですが、どうも保健所としてはそんな簡単なものではないようで、私は、飼い主として軽い諸注意と罰金(というものなのかわかりませんが)を¥3.000ほど支払わされました。なんてこったい!!預かっているんですけど・・・と申し立ててみても、それは認められませんでした・・・。

 結局この犬は、拾得期間を待っても飼い主が現れず、晴れて?この店の犬となりました・・・。そして長女が命名・・・「うめ・もも・・・と来たからこの子は『さくら』や」となりました。そしてまだ元気だった「くま」とともに飼われる愛犬となったのです。この時点でさくらは10歳を超える犬だったと思います。半年程してくまが亡くなり、みんなの愛情を一身に受けてさくらは皆を癒してくれました。時にはお客さんにも可愛がられ、決して愛嬌のある犬ではありませんでしたが、何故か皆に可愛がられる限りなく柴犬に近い雑種のさくら。たった5年でしたが、本当に家族を、店のスタッフを、お客さんを癒してくれた犬でした・・・さくら、ありがとう・・・本当にお別れやね。


揺さぶられたぁ〜(8/18)

 お盆のお休みも終わりました。夏ももうおしまい!!私には毎年そう感じさせるこの時期です。よく言われるそよぐ風や空の姿になんとなく一瞬ですが、秋を感じさせるのです。感覚で秋を感じるのですね。

 そのお盆休みに、名古屋に行ってきました。観劇とライヴの2本立て。ここ名古屋では格式の高いイメージのある御園座・・・という劇場です。まぁ観たのは「武田鉄矢・・・母に捧げるラストバラード」・・・座った席がステージ中央なのですが、いかんせん後部・・・2階?3階・席・・・チケットには3等席と記してあります。3部構成(3部目はライヴ)のもので、休憩が30分くらい2回入ります。その間に食事もして・・・、始まって終わるまで4時間です。長かった〜・・・。でも面白かったです。あの方の語りが好きで、実に哲学口調です。口調・・・という表現はわかりにくいかもしれませんが、物事の表現をいろいろ噛み砕いて語る・・・という意識がこの方にはあるのでしょう。言葉の意味・・・だけでなくて、本質・・・を探っているから、あのような語りが出来るのでしょうね。

 言ってました、「人は死んだらおしまい」・・・と言いますが、「死んだら始まる事もあるんだ」と言う事、母が死んで、この劇をやろうと思った・・・始まった・・・と、「死んでしまった・・・」ではなくて、「死んでいるんだ」ということ・・・。こんな話を語るこの方に、ぐっと惹かれる私です。

 さて、長い観劇を終えて痛いおしりと脚を引きずって、地下鉄に乗りました。学生の頃に乗換えを幾度となくした思い出のホームです。1年の頃、飲めない酒を飲んで、この駅で往生こいた事や、連れと老人の事に関して激論をした思い出が蘇って来ました。懐かしい思い出です。四半世紀も昔の事です。その駅から4つ乗り継いで今池へ・・・。

 駅から100mほど歩いたでしょうか。TOKUZO・・・というライヴハウスです。お目当ては私のミュージシャンの師と仰ぐ、敬愛して止まない上田雅利氏。ソロで彼のドラムを聴くのは2年ぶりの2回目。狭い会場ですから、私と師の距離は5〜6mほど・・・、まぁその間に同じ教徒がわんさと居るのですが・・・。コーラを1杯頼んで師の登場を待ちます。4時半過ぎに師は私の眼前に、約半年振りに(チューリップで)登場です。57歳と思えない容姿です。かっちょいいのです。私とは10歳の差があるとは思えません。下手したら私の方がおっさんに見えます(情けなかぁ〜)。

 相変わらずのパワフルなドラムで、ジ〜っと見入ってしまう私です。途中、ギターの弾き語りをされましたが、正直、親近感を覚え安心しました。彼はドラマーですからね。でも若い頃から好きな事をし続けて・・・人に喜んでもらえて・・・仕事にできる事に感謝している・・・という師の言葉は、私の中に残っています。そんな師のブログがあります。その中で、愛犬との思い出を綴ったページがあります。そんな思い出を朗読してくれたり、歌ってくれたり・・・、このブログを知っていただけに、師のトレードマークのサングラスに隠された涙を見た気がしました。

 心揺さぶられた2つの思い出となりました・・・。

Eボートに乗って(8/10)

 昨日は、第7回飛騨・木曽川Eボート交流会に参加してきました。主催は桑名市ですが場所は、諸事情もあって木曽三川公園・長良川サービスセンター・・・そう、ここは木曽川ではないのです。長良川・・・なのです。でもやる事は何にも影響がありませんで、構わないのです。でもしいて言うなら、相変わらず、参加チームは、行政関係のチームの多い事多い事・・・。主催者の皆さんのご苦労もお有りだと思いますが、一般の方々にもう少し周知して、盛り上げる姿勢を見せたらどうでしょうか?本来の目的の趣旨を考えるならちょっと残念ですね。

 しかし、場所はとても広々として、さすが下流域です。さえぎる高い山も、建物も無く、時折そよぐ風は実に心地好いものでした。さわやかな?暑〜い日でした。夏はこうでなくちゃね!!わが街美濃加茂からエントリーしたのは、4〜5チームほど、民間人?チームは私たちだけです。48歳になる私を筆頭に45歳の友人M、21歳になる男子大学生、19歳の女子大生3人、高2男子1名、高1女子1名、中3男子2名の10名です。そして記録係のミセスMさん。

 面白いから・・・と無理やり誘った感もあるのですが、一生懸命漕いでくれたAちゃん、Nちゃん、そしてY。夏の楽しいひとつの思い出になったくれたでしょうか?なかなか出来ない体験だったでしょう・・・。漕いじゃっているときは、無我夢中!!思いっきりはしゃいでストレス解消です!!誰にも迷惑がかからずに大声上げて、一生懸命出来る事は、心の健康によろしいのです。体には、とてもしんどくて、きっと私だけじゃなくて、参加したたくさんの人たちが、今日この時間も筋肉痛と戦っているんだと思います!!でも来年も漕いじゃって、どんどん!!出るぞうぅぅぅぅ〜!

その奮戦記はこちら・・・。

暑いのは好きですか?(8/5)

 やっぱり暑い今年の夏。今年も暑い・・・です。今いる場所は、事務所の2階。この店は、ミラータイプのガラス張りの作りです。まさに夏は温室効果ばっちりで、暑いの何の・・・。エアコン全開!でも32〜5度は当たり前。その中でいろいろ事務仕事を行うのですが、とても辛いったりゃありゃしない・・・。

 そこで何か手を打とうと、電気屋さんの友人Mに聞きました。エアコンの室外機によしずを指示に従って被せてみます。針金で飛ばないように固定します。その後、問題なのはガラス張りのこの事務所。このガラスにエアキャップを貼ってみます。防寒用のアイテムとして使われることは聞いた事がありますが、暑さ対策として機能するのか?ちょっと疑問です。そう思いながら昨日、全面ではありませんが、貼り付けてみました。

 そして今朝、いつもと同じ時間に事務所に来てみると・・・なんか涼しい〜のです。温度計を見ると26度。いつもならとっくに30度を越えている温度です。期待しちゃっていいのかな?と、わくわく感を覚えました。そしてあれから数時間後、結局今日は曇天。時折いだっつぁまが鳴るようなそんな一日ですから、正直暑さ対策が効果を表しているのか?は疑問が残りましたが、今現在、27度で快適に過ごしている私です。

 私自身は、夏と冬とどちらが好きか?という質問があれば、迷わず「夏!」と答えます。寒いのは体の具合が悪くなるようで、どうもいけません。暑い日に水分と栄養と睡眠を十分摂って、汗をかいていれば逆に健康的で私は好きです。今週末には、友人M家族と子供たちの友達の力を借りて、「漕いじゃって、どんどん!」水上の部・・・Eボートを10人で漕ぎます。何とか良いタイムが出せるように頑張りたいと思います。次回はEボートでの奮戦記です。どうぞお楽しみに・・・。

凹むなぁ(7/30)

 久しぶりにバスケを子供たちとやりました。いつもは1/2のコートでゲーム形式のバスケをするのですが、この日は1/4。コートを走る事がない分、楽になります。8人で4vs4。私には、こわごわ参加する気持ち半分。たまにはやりたい!気持ち半分。10〜15分やって休憩。息が上がります。中学生と会話をしているうちに気が付けば20分も休んでしまいました。他の連中は、各々で体をもてあますようにシュートを撃ったりして待っていました。

 その後は、30分ほど休憩を入れずにやったわけですが、いつもならもっとアグレッシブにするだろう子供たちですが、ゆっくりやっているのです。何故か?・・・。その答えはいろいろあるでしょうが、一番の理由は、いえ、原因は私です。動きが伴わない者がいると、動きはなんとなくその人に合わせて仕舞う傾向があるようです。バスケはそう言うものです。一人入れ替わるだけで、がらっと動きが変わってしまう・・・そんな事がよくあります。まさにその根源が私です。どうかすると、この私にボールが来ます。シュートを撃てるタイミングになります。反射的に撃とうとするのですが、頭とは裏腹に体は遅れてしまいます。

 普通なら、それでディフェンスに抑えられてアウト!です。でも子供たちは私にプレッシャーをかけて来ません。フリーです。子供たちは、周りで私を見守るように見つめています。遠慮している・・・感じです。遠慮?では無い気もします。何でしょう・・・?いたわられている気もします。こう言った気持ちをお互いが感じる事の大切さ。それを活動のひとつの趣旨としているBOBです。まさに老若男女が同じことをする中で、いろいろ感じる事ができる大切さを知って欲しい・・・というBOBですが、この「老」の役割を一身に受けてしまうと、さすがにちょっと凹んでしまう・・・のです。新しい何かを感じた瞬間でした。

次女の手料理(7/22)

 昨日も夕飯は、次女の手料理でした。もともと何かを作る事には積極的な彼女。仕事をしている私を「ねぇ、買い物に行こ?」と再三誘ってきます。「仕事中!」と買い物の内容も聞かず拒否していたのですが、その再三の誘いに「何を買うんや?」と聞くと、「夕飯の材料!」と言うのです。それを聞いて仕方なしに、近くのスーパーまで車で行きました。次女がメモったであろう内容の食材をカゴに入れていきます。私は、ついて回ります。どうやら食材はハンバーグ。7人分のひき肉を買います。「これで足りると思う?」と次女。「ちょっと少ないんやないか?」と私。すべて買い揃え、帰ります。時刻は午後4:00頃。

 それから1時間半程して、家のほうから風に乗せられて、良い匂いが漂ってきます。6時過ぎ頃、私は店を閉め、軽くシャワーを浴びて家族でごった返す食堂のテーブルに・・・座る椅子がありません。あまったひとつの椅子には、扇風機君が鎮座しておりまして、クルクルと6人に涼を与えるべく一生懸命働く姿がありました。

 仕方なしに別部屋に移動して、一人野球を観ながら寂しく食したのです。その際、感想を述べるのですが、次女を取り巻く家族は、つぶやくように「おっ!美味しいよ。」と言えば良いのですが、私にいたっては、少し距離があるわけで、腹に少し力を入れて、声を張って「美味しいよ!!!」と言わねばなりません。程よい大きさに切られたニンジンも柔らかく、程よい甘さに仕上げてあって、美味しいのです。学校で頻繁にあるらしい調理実習は次女にとって至福の時間のようです。毎日のようにある部活が久しぶりの休みで、次女にとっては楽しい時間だったようです。今日から夏休みだそうですが、ず〜っと部活のようです。休みが合えば、一緒になんかしてやろうかな?と思った昨日です。


あなたは涙を流すか(7/16)

 昨年末、目に留まった映画のポスター。映画館へ行ったときに見た上映間近のポスター・・・。結局、時間の都合で観る事が無かったこの映画。その映画をつい先日、DVDを借りてきて家族で観ました。題名は「マリと子犬の物語」です。

 新潟県 中越沖地震であった実話をもとにした話です。仲の良い幼い兄妹・・・。あるときその兄妹の歩く後を付いてくる一匹の捨て犬。まぁ映画の設定上、どこかから借りてきた立派な柴犬の子犬です。まぁいきなりひねくれた見解はご法度!!その子犬が実にかわいい・・・。想像できる範ちゅうのかわいさですからこれがまたたまらなくいいのです。やがてその兄妹の家庭で飼われて、育っていく柴犬・・・マリです。やがて3匹の子犬を産むのですが、それからしばらくして、地震が起こります。昔ながらの家屋に住むおじいさんと父と兄妹・・・。地震の際、自宅にいたのは、おじいさんと妹、古い家屋は倒壊し、下敷きになります。健気にもそんな飼い主を助けようとこのマリは献身的にいろんな行動をとります。やがて自衛隊が来る頃には、ケガをしたおじいさんは瀕死の状態。このマリは自衛隊員に飼い主の非常を伝えるのです。そしてこのヘリコプターに救助されて、飛び立っていく後を懸命に走って追っかけるシーンは、私にとって涙・なみだ・ナミダ・・・じゅるじゅるでした。

 お決まりの感動モノの映画ですが、もし観ていない方、ご家庭でこっそり涙したい方、心をしっとりと濡らしたい方。犬のかわいさだけでも観てよかった・・・と思える映画です。人に勧める・・・なんて上から目線で言うような、こんな映画見つけました!!と言う雰囲気で語っていますが、お前なんかに言われなくても想像できる映画だよ!ってことですね。

 家にも一匹限りなく柴犬に近いだろう・・・雑種がいます。さくら・・・と言いますが、こんな忠誠心のある犬ではありません。ただ、いるだけで私たちの心を癒してくれる大切な家族である事は間違いありません。今も、コテン・・・と寝ております。


 


当て逃げ(7/10)

 先週末5日の土曜日の夜11時頃、市内の某コンビにの駐車場で買い物中、隣に停めてあった軽自動車(だと思う)に私どもの乗用車が当て逃げをされました。写真は無いのですが、警察に届けた後、おまわりさんと一緒に、その某コンビの防犯カメラを観させていただきました。するとそこには、シルバーの軽自動車が、ハンドルを切りすぎて左角を私どもの車の側面(運転席側)を擦ったであろう動きが映っています。前後のドアをしこたまへこませて、そのシルバーの軽自動車は走り去って行きました。

 詳しくわかった範囲で書きますと、きっとこいつだろう軽自動車はシルバー、初心者ワッペンを貼っています。乗っていたのは、若い男・・・。店内の防犯カメラにはしっかりとその顔が映っていますが、私には認識が無い知らない人です。レジで会計を済ませているその顔は、なんてことは無い普通の青年です。その数十秒後、彼は逃げる人となるとは、思いもしていないでしょう・・・。

 主観的に言えば、「逃げるな!」と腹が立ちます。ぶつけてしまった事は、誰しもあるだろう・・・事です。「すみません」という気持ちを持って接してくれば、保険で修理をすれば済む事です。やりたくてやった事ではないでしょうから、この青年の人柄しだいでは、それで終わるはずだった事でしょう。しかし、彼は・・・いや、こいつはためらうことなく逃げました。しっかり映っています。逃げてしまう気持ちもわからなくも無いですが、きっとその夜は眠れなかったでしょうし、目撃されていたら・・・と今もどこかでドキドキしながら暮らしているのでしょう。

 警察が防犯カメラを観て、詳しく調べていきました。捜査をしてくれる・・・と信じて帰宅してきましたが、その気になれば簡単に調べられると思います。まぁ修理代金が高くついた事と心の傷は癒されるまで時間がかかるようです。こんな時、世の中には保険があります。せっかく入っていて保険料を払っているのですから、利用しない手はありません。お前!ドキドキしながら暮らしているか?!!

ママチャリGP耐久参戦!! 5の巻き(7/5)

 冷静に思えば、520mのサーキットを5週ということは、2.6kmを自分の中では、全力・・・いっせき漕ぐ・・・訳です。2.6kmを坂道という負荷をかけながら全力で漕ぎ続けるということは、やっぱり簡単な事ではないのです。ましてや周りにはライバル?がいっぱい。アドレナリンが流れまくり、全身には力が入りまくり、筋肉と言う筋肉には、寝不足というスタミナ不足も手伝って・・・おっさんには乳酸が細胞に溜まるまでさほど時間はかからないわけです。それをちょっとわが身を省みず、3回もやってしまったわけですから、7.8kmの馬鹿をした・・・と言うことです。さほどの準備運動も、今大会に至っての体調作り・・・なんて事もやろうはずはありませんし・・・。自分の年齢から来る周りとの予想で来うる参加者とのギャップを考えると、甘くはないだろう・・・事くらいは容易に想像できたでしょうから、何にもしなかった自分は本当に甘かった・・・と言わざるを得ません。まぁ、何も真剣になっていたわけではないし、遊びですよ遊び・・・。で、片付けられない自分の中での、もやっとした気持ちでもあります。これがレースを終えて1週間たった今の気持ちです。

 さてレースは、チェッカーに向けてmoto1号が疾走を続けています。最終コーナーから爆走する姿に、「やんや!やんや!」の喝采を送り、15時ちょっとすぎ、チェッカーとなりました。漕いじゃって、どんどん!は78チーム中、62位という終わってみれば、「な〜んだ・・・」という順位でした。でも、一生懸命走りましたし、2つの家族が仲良く盛り上がって楽しめた・・・という事実は、2008年のひとつの思い出として、それぞれの心の中に残ったわけです。少なくとも幸せな時間が、ここにあった・・・と言うことは確かな事です。次は8/9のEボートに参加します。水上の部の出番です。

ママチャリGP耐久参戦!! 4の巻き(7/3)

 レースも落ち着いてきた終盤・・・そう終盤です、各チームもBBQを楽しんでいる様子です。こちらもいろんな物を焼いてわいわい賑わっています。受け狙い?の様相が色濃くなってきた雰囲気の中、「なんかしよう!」と思い立った私。おもむろに監督(ピンクパンサーの140cm大のぬいぐるみ)をおんぶして走ろう!と言う事になったのです。肩車!と言う意見もあったのですが、さすがにコテン!と倒れますんで、おんぶが一番良かろう!と紐でくくってもらいました。そんな姿で走り出すと、浮かれたテンションの高い他のチームの方々に「がんばれぇ〜!!」と冷やかされ・・・、「うけてる・・・うけてる・・・」と心で思いながら、颯爽と走り出したのは・・・やっぱり最初の一周だけ・・・。この監督じっとしていてくれません。ジタバタじたばた・・・と暴れるのです。「監督、大人しくしとってください・・・」と言っても、無口な監督は応えてくれません。仕方が無いので、数周走りましたが、えらいのなんの・・・1.2時間の休憩で私の脚は自分の脚に戻ってくれてはいませんで、どんどん遠くの他人様の脚になってしまいました・・・。「ギブ!!」とサインを送ると、ピットによろよろと転がり込みました。長男に交代して、私は、救急隊に運ばれる・・・かと思いきや、運ばれていったのは・・・監督のほう・・・私は、ピット近くに置いていかれ、周りの人たちの失笑を受ける人になりました。(つづく)

ママチャリGP耐久参戦!! 3の巻き(7/2)

 途中30分毎に順位が掲示されます。漕いじゃって、どんどん!は58位から62位の間をうろうろ・・・しています。トップとの遅れはどんどん・・・広がってとても追いつけるような差ではありません。しかし、我がチームのエースライダーmoto1号は、一度コースに飛び出すと、実に豪快に乗っています。乗れてる!って奴です。観ててわかります。あんな細いタイヤで・・・私はとてもじゃぁありませんが、こんな乗り方できません。最終コーナーからストレートをかっ飛ぶ姿は実に頼もしい・・・。若いと言う事は、危なっかしい面もあるけれど、やっぱりすごいなぁ〜と感心します。

 実は、私やMが乗った後、おふざけ・・・で救急隊で運ばれる・・・という一幕を演じました。救急隊に扮した子ども達が、親父たちが乗った後、台車に乗せ、酸素を吸わせ・・・「大丈夫ですかぁ〜〜!!」と叫びながら、ピットを急いで走っていきます。すると、この事態を真に受けた他のチームが「おい、大丈夫か?」とささやく声が聞こえたり・・・「また運ばれてったぞ、あこそのチーム・・・」とけげんな顔で覗き込んでいます・・・。まぁ運ばれたおっさん2人は、まんざら冗談でもないほど、ヘトヘトだったんですがね・・・。(つづく)

ママチャリGP耐久参戦!! 2の巻き(7/1)

 パドックに誘導されて、各々のチームがテントを張り出します。私たちのテントは、レノンさんと共同で作ったイベント用のテントです。まぁ10人いるわけですから大きさ的にはこれぐらいないとね。みんなで荷物を降ろして、テントを張りました。そしてマシン(単なる自転車)を3台テント前に並べます。するとすかさずTV局(ローカル)のカメラがわがチームのシンボルマシン昭和レトロ号に食いついてきました・・・(持ってきてよかったぁ〜)。しこたま映像を撮ってから、これで出るのですか?と質問!!「そうです!」と言いたかった訳ですが、「だめ!」と言われ出ません!と答えると「なんだ・・・、残念ですね」と体をくるりと返し、行ってしまいました・・・。

 受付を済ませて、マシンに#23のゼッケンとセンサーをつけます。これで周回をカウントし、しかもラップタイムも計れてしまうと言う優れもので、1個¥65.000(ゲゲッ)するとのこと・・・。壊さないように・・・とお達しがありました。AM9:00少し過ぎた頃、やる気順でグリッドに並び、漕いじゃって、どんどん!は後列に控えめに並びました。前列を覗くと、そりゃぁもうどこにでもいるような、競争ごとには血眼になる族・・・がいます。

 フラッグが振られ、スタート!一斉に1コーナーに入っていきます。先頭グループは立ち漕ぎ姿勢のまま、周回を重ねます。案の定、最終コーナー(骨折コーナー)では、転倒者が・・・。何周目かには、激しく転倒した人が・・・、軽い脳しんとう・・・を起こしたとかで、一時記憶が飛んだそうで、額から出血して病院へ運ばれて行きました。若いと言う事は、時にはこうした愚行を呼んでしまうんですね・・・。こう言った族には、私たちのようなおっさんは、なんで出るんだ!的な存在に映るんでしょうね。歳をとってわかる事って素敵でとっても大切なんだぜ!!と私は思います。

 私たちの先頭ライダーは、M一家のmoto1号(高校2年生柔道部!)全身、スキューバーのウェアを着込んで、ヘルメットを被り、水中眼鏡をかけシュノーケルをくわえ、軽く流して走ります。ここで、ミニバイク時代の耐久レースなら、しばらく(20〜40分)はクルー以下チームは、じっとした時間が訪れるのが常なのですが、自転車はそうは行きませんでした。5周も走ると「替わって!!」と向こうから声がかかります。慌てて次が用意します。そしてkei2号(中学3年バスケット部)が走ります。すると5周ほどで「替わって!!」と声が・・・。あわただしいピットです。スプリントレースのような、落ち着きの無いレースが6時間も続きます。BBQなんてできるのかしら?と不安がすこし頭をよぎります。

 見た目は、フラットに見えるこのコースですが、実際に走ってみると、ストレートが・・・本来ならば、一息入れるはずのストレートが、一番しんどいのです。ここは富士山ろくにあるサーキット。この地はなだらかに富士山に向かって・・・と言いますか、正確には、富士山の傾斜上にあるサーキットなのです。ストレートは富士山の方向にあります。ですので上り坂・・・だったのです。それもかなり上ります。私自身も最初の1周目こそ、立ち漕ぎも出来ましたが、2周、3周と走っていくうちに、段々失速して行くのです。1コーナーでは止まりそうなほどの速度で・・・。更にショックなのは、その両脇をすいすいと若い族が抜いていきます・・・。実に失意!という言葉を実感させられる瞬間でした。「俺って、衰えちゃってるんや・・・」と言い訳も思いつかぬまま、次のライダーに交代しました。素直に「あかんわ!!」と認めます。

 もう楽しむ事に専念しよう!とBBQの準備を始め、美味しくワイワイ言いながら子供たちに何回も走らせて、大人たちは子供たちの写真を撮ったり、雰囲気を思いっきり楽しみました。子供たちも楽しそうです。肉を食べ焼きそばを食べ、サラダを食べ・・・飲んで食べて・・・時間は過ぎて行きます。(つづく)