NEW MOVEMENT's

TANNOY導入編

The Second Move. 2003/2〜 
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”Chatsworth”との出会い

 前々から一度はタンノィスピーカーを使ってみたいと思い続けてきた。晴海のフェアーで聴いたオートグラフの音も忘れられない。しかしあの大きさは我が家のオーディオ部屋には搬入が不可能である。それに今の4チャンネルマルチの音も相当のスケールがあるし、マルチは少々の音の変化は簡単に出来る。だが、この態勢になってから、もう20年は経つか。それならそろそろ変化があってもよろしい頃ではなかろうか。自身の年も相当とった事であるし、それなら早いとこ変わらなければ後がないではないか。などと勝手な理屈をつけて、そうだとすれば、この次は是非ともタンノイである。マルチはやめにして、ネットワークの音に身を任せるのもよかろう。それは有機的統一態としてはある完成品であろう。多少の癖やイガミは有った方が面白い事もある。日本のアンプやスピーカーは海外品に比べてやや無機的すぎる。

こんな事をここで言ってみても始まらない。そうと決まったら早くタンノイの適当な品を見つけねばならない。

 昨年の大阪のフェアーで聴いたヨークミンスターの音はよかったです。しかしお値段がやや張りすぎる。また大きすぎる。というわけで、昨年(平成14年)暮れ名古屋大須の中古専門店を覗くことにしました。すると、あるある、レクタンヨークのHPD385入りが丁度出ております。しかし、ネットがだいぶよごれております。その時、「モニターゴールドの方が良いよ----」と、言う声がありました。タンノイ通らしい紳士が、横からそう囁きました。確かにタンノイは古い物の方が何故か人気がありますようで、この点はマッキンのアンプについても言える事のようです。今市場に出ているタンノィスピーカーの中古品はこのHPDと付くユニットの物が非常に多いようですが、これは、タンノイ社の創業者が亡くなってから出来た商品でしかもアメリカナイズされた頃の品である。どうせ中古をさがすなら、それ(1974年)以前にできたモニターゴールド入りがよろしかろう。と考えその品は見送ることにいたしました。--。そして年が明けこんどはその中古店の大阪日本橋支店にモニターゴールド12インチ入りのタンノイが出ました(インターネットサイトを閲覧)。「 CHATSWORTH 」という名前の付いたトールボーイ型であります。あまり聞いたことがない名前の製品です。早速ポータルサイトで検索しますとそれはどうやら1967年から1974年までの間に製造されたもののようであります。

 と言うわけでその CHATSWORTH ( MG12、rubber surround )を入手することになりました。値段は33万円です。それで今うちにあるJBL,ESLを中心とした4チャンネルシステムは、下取りに出すことになりました。ふたつもシステムを置ける程の部屋の余裕はありません(六畳+六畳、中二階)。従って古いものは手放すしかありませんし、新しく導入するシステムを少しでも経済的に入手する方法でもあります。要らなくなるものはこの際出すのがよろしい。JBL4343W、ESL、の他にアンプ類もA-10V(2台)、B-5、を。さらにこれは重たすぎる機械であるからDP-07、DA-07(LUX.のCD-PL)も出すことに致しました。年をとると重い機器は利用しずらくなります。これらはいずれも20年以上は利用してきた機器でありますが、取引はこれで、差し引き、すこしはおつりがいただけた、---。

 平成15年1月18日、中古ショップから二人の若者が我が家にやってきました。3、4時間かけて運び出しと運び入れを終えました。

いずれまた、後日、ゆっくり、新システムの音をよく聴いてから、その感想を独白すると、いたそうと、致しましょう、と、おもいつつ、---。- - - 2003/2

Chatsworthの音

JBL4343とESLをマルチアンプで駆動する態勢を放棄するのは、一大決心でありましたが、歳をとると重たいアンプや機器は動かすのが大変でありDP-07やDA-07をも下取りに出したのはそういうわけだからであります。とくにDA-07は37キロもあり近々にせまると言う東海地震にでも遭ったら棚から落ちてわが身が押し潰される恐れもあります。更にタンノイの音は一度は経験しておく価値がある筈ですし生きている内にそれを経験するとすれば、もう早く手をつけなければわが身ははやくも六十の後半にさしかからんとしておるのですから。

Chatsworthが我が家に入って(2003.1.18.)三日後ですが、かねてより大垣市のハードオフ店で見つけていたプリメインアンプのMusicalFidelityE-10を中古で購入し(33,000円)、メインパワーアンプとしてこのスピーカーを駆動しました。私は早くからヤマハのDSP3000を用いたサラウンド方式(今日流行のAVサラウンドとは違って純粋オーディオ用の)を採用致してきています。メインスピーカーはこれですが、フロントとリアスピーカー及びそれらを駆動するアンプは下記のシステム構成表の通りであります。それで聴く音はE-10の音で言うとやや柔らか過ぎる低域(ゴリッとした音は出さないのが、タンノイには合う)と適度に締まった高域という事になります。日本のアンプにはない甘い音造りがなされており、まことに好ましいのですが、力感やタンノイらしさがもう少し欲しくなります。ケーブルを換えたりして何とか工夫も致してみました。van den Hul M..C.D310。1mのRCAケーブルは、高域がやや強調気味だが、太めで安定感がある。

しかし、タンノイらしさと言えばやはりここは、組み合わせアンプの定番と言われているマランツ真空管であろうか。と三ヶ月ほど考えたあげく遂に「8BK」を入手することにいたしました(平成15年4月12日)。名古屋のもう一軒の中古ショップで当方持ち合わせの606AとMR78を下取りに出して追い金30.000円で「8BK」を手にいれました。チューナーの替わりはLUXの50Aを9,000円で購入です。「8BK」ではなく「8B」ならば最上ですが、値段が二倍になり老いの身には節約が強いられます(8BKの売り値は140.000円、付け値150.000円を10.000円値引き)。

さて「8BK」をメインとし、いままでメインとしてきたE-10はフロントスピーカーのLogersLS3/5Aを駆動させる事に致しました。

その音は、換えて良かったの一言であります。「8BK」は35ワットの真空管ですが、意外に意地っ張りな所があり低域をよくひきしめます。低域に細身の力感があります。同じ球を使ったパワーアンプが LUX や ATM にはありますが、おそらくもう少し柔らかい低域ではないかと想像されます。オールドタンノイ( MG12入り )のスピーカーはもともと能率が高くて柔らかい低域を持っておりアンプは引き締め気味の方がよろしい、と言う事がここで初めて私には発見されたのです。あの弦の擦れ音(ある種の渋み音)はこの辺に音造りの秘密があるように感ぜられます。高域は今日のアンプに比べれば全く伸び不足でありますが。この弦の擦れ音こそタンノイの真骨頂であり、これなくしては、いかなるアンプもタンノイには不向きとなります。この傾向について、某ショップ店長は 「あれは球の音ではなく、トランスの音でしょう」 と申しました。成るほど、されば 「8BK」 では、だめか、「8BK」でも初期製品は 「8B」 と同じトランスが使われているはず、とその店長の言。されば我が家の 「8BK」 は如何?−−-、トランスの件は解からないが、何とかそれらしさはでているのではないか、確かにある、ある、−−-。やれやれ、この音さえあれば他は我慢する、−−−。なお、プリはだいぶ前から(13年5月から)C34Vであります。音質的にはほかにも適機がありましょうが、このプリは 5バンドのイコライザ が付けられています。その便利さは捨てられないのであります。 - - -2003/4

BlueHeaven 青いバラ、岐阜県可児市瀬田の花フェスタ記念公園にて、05/4


回想!! 作曲家、江口夜詩、生誕100年! 岐阜県養老郡上石津町(旧、時村)出身。
参照した文献、「昭和の大作曲家 江口夜詩」 白石博男 著 平成8年3月10日発行 白鳥印刷所 印刷
同上   「昭和音楽村江口夜詩記念館」  上石津町 編  平成6年

上石津町 「下山」、「堂の上」、「上」 地区 (旧、時村)でのスナップ・ショット、平成15年7月、by MVC-FD81

作曲家、江口夜詩(よし)。生名は源吾、後に「夜詩」と改名。 

1903 7.1=明治36年生、 1978.12.8=昭和53年没(75才)。

昭和初期、コロンビア専属の頃の写真か。

右の記念館内の展示資料から写す。

江口夜詩の生まれ故郷である岐阜県養老郡上石津町 下山 地内の「日本昭和音楽村」にある江口夜詩記念館。洋楽器のホルンを模して上石津町が1994年=平成6年5月に建設開館今年、2003年は、開館10周年に当たる。

設計(株)A&T建築研究所 

      

記念館の入り口付近。左肩上に江口夜詩記念館と表字

音響設計 ヤマハ(株)音 響研究所 

施工 (株)大橋・(株)金山建設 共同企業体

記念館内の廊下。楽器ホルンを型取った円形をしている。造形と彩色の調和が美しい。

珍しい資料

館内の資料展示コーナーには、夜詩の自筆楽譜やレコード会社専属時代の忘年会写真、等の他に、渡欧時に夜詩が乗った船会社の乗船客名簿の実物や船内夜会に夜詩がチェロを弾いた英文の演奏会プログラム実物までが見られる。

江口夜詩生誕100年記念の海上自衛隊東京音楽隊演奏会平成15年7月21日午後7時に記念館の音楽ホールで子息浩司氏の解説で開かれた。

演奏曲目は、夜詩4曲、浩司2曲、団伊玖磨1曲、美空ひばりメドレー、ほか8曲、等であった。アンコールに「憧れのハワイ航路」、「軍艦マーチ」が演奏された。

記念館の音楽ホールは、音楽専用ホールであり、椅子席249席、残響可変装置付き、である。

その時のプログラム

資料展示コーナーに置かれた江口夜詩が使ったピアノ

夜詩の子息 「浩司」 のコーナー。氏も作曲家の道を歩まれ、左の記念演奏会では、忘れな草をあなたに下町の太陽が演奏された。

江口夜詩の葬儀で読まれた服部良一の弔辞自筆原稿。

左の弔辞原稿の末尾。社団法人日本作曲家協会 会長 服部良一の署名 が読み取れる。 

夜詩の傑作「憧れのハワイ航路」(昭和23年)のポスター(上半分)。  

主な作曲作品名、  

憧れのハワイ航路、長崎のザボン売り、瓢箪ブギ、赤いランプの終列車、月月火水木金金、十九の春、忘られぬ花、千代田城を仰ぎて、−- - −

その他 吹奏楽曲、映画曲、社歌、校歌、地域音頭、等、を含め総作品数は四千曲といわれる。

上石津町 下山 の旧,時小学校跡地に立つ江口夜詩顕彰碑(昭和54年12月8日除幕、地元有志が建)。「憧れのハワイ航路」の譜面が上部に刻まれている。


1

夜詩の生家(二つ右の写真)は上石津町 上 (かみ、旧、時村上)の集落の北端にあり、小山を背に南向。右側の二階が夜詩の部屋であったとか。

ここで夜詩は16歳までを過ごした。夜詩は次男。その時、横須賀海兵団の第一期軍樂補修生に入団(大正8年)を決意し、故郷を出る。自宅から約5里の山道を関ヶ原駅(東海道線)まで徒歩で向かった。

大正9年補修生を主席で卒業。

堂の上 地内(右の  地内の東隣)にある湯葉神社の大杉。県指定の天然記念物。昭和52.2.12.指定。幹の周囲6.3m。右側の木。


2

海軍軍楽隊時代はトロンボーンを担当し昭和6年まで在籍。

その間、皇太子随行軍楽隊員として6ヶ月渡欧、千代田城を仰ぎて大正14年、処女作、大作である)、挙国の歓喜昭和3年)等の吹奏楽の傑作を作曲、海軍嘱託生として東京音楽大学に6年間通学しチェロを学んだりの優等生であった

結婚(大正14年)し二子目を産んだ直後に妻喜枝が24歳で病死(昭和5年)。悲しみ深く生活一新を図って海軍を除隊(昭和6年)。

夜詩の生家。上石津町、旧,時村


3

好条件(当時の初任給約40円の三倍)での無声映画館楽士の誘いも断り、作曲(流行歌)に道を求め、昭和6年ポリドールレコード専属となる。亡き妻を偲んで作曲した忘られぬ花が大ヒット。亡妻を偲んで夜詩と改名

昭和8年、コロンビア専属、十九の春がヒット。昭和14年再婚、ポリドール専属、

昭和14年世田谷に歌謡音楽院を設立。ここから幾多の歌手が輩出している。

下山 にある現在の時小学校への取り付け道路から眺めた烏帽子岳。標高865m。岐阜と三重県境の高峰。

夜詩と行く
烏帽子望めば
「時」に春ーー

4

昭和15年月月火水木金金を作曲(昭和17年にヒット)。

昭和22年、キング専属、23年長崎のザボン売り憧れのハワイ航路作曲。

昭和27年赤いランプの終列車で春日八郎を世に出す。昭和29年瓢箪ブギ作曲(養老観光協の依頼)。

昭和30年、大垣市、岐阜市で作曲生活三十周年記年郷土訪問大演奏会を開催。

昭和31年、新宿に日本音楽院を設立す。

昭和38年病臥、以後53年没まで闘病。


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