巻1ー(4)・「小折村生駒家は信長公の御三子誕生の地」

シリーズ・・・その7(15.07.05掲載)
尾州稲木庄小折村(現江南市小折)に今から約650年前、生駒氏が移り住んだといわれている。現在その地に「生駒氏の邸址」を伝える碑が建っている。生駒氏はこの地に生駒屋敷「小折城」を築き信長、秀吉を育みその後尾張徳川藩の重臣として、幕末には徳川家相談役、軍事総裁など約300年の間尽くした。その在所「小折城」周辺には内宮(神明社)、外宮(南山神明社)があり、犬山城成瀬家と並び丹羽郡郡役所を中心に城下町として栄えてきた町である。明治時代に入り布袋町と改称し町制を実施し、江南市となったが、その名残は生駒氏の中門等、今も古い街並みを遺している。その後、遠藤周作氏が「武功夜話」を基にした三部作『男の一生』を出版し、一躍全国に波紋を繰り広げる事となる。
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生駒氏は大和国藤原忠仁公の末えい。生駒山麓谷口村(現奈良県)の住人で、当時河内の国では戦乱が続いていたので、前野氏との旧縁を頼り、尾州柳橋郷郡村(現江南市小折)へ移り住んだといわれている。旧縁とは文和(1352)年中、後村上、後光厳天皇両立の南北朝時代、某(かつかね)の先祖、前野第三代入道宗安・同四代時綱が、承久の乱(1221)の昔、平氏に味方して敗れ、京の六波羅の取り調べが厳しく、大和の吉野や河内の生駒山中をさすらっていたとき、生駒氏に庇護され、尾州へ戻ったことがあった。生駒氏の家はもとは公事(朝廷に仕えた家)であった。生駒家広の時代より約100年前に移り住んだといわれ、家広は織田氏に仕えて、また土田氏(現可児市)とも交流を持ち、灰と油を商う馬借を生業として、代々太夫家と呼ばれ、居屋敷は広く、土居堀割りを巡らし、深く水をたたえて堅固なる土居内には土蔵が建ち並び、木戸は厳重にして木立ちが生い茂り、上郡内には比べる構えは見当たらず、老樹立ち並ぶさまは十有余町先より眺めるとお城のごとくであった。 寛永(1634)の今、二の丸と称えし処あり、本丸なる処、尾張藩家臣生駒氏第五代利豊公の屋敷にして、老杉数百年を経てなお樹齢盛んなり。織田信長公御内室久庵(吉乃)様御誕生の家にして、老杉一樹栄え、上郡において知らぬ人なく、めでたい家柄であり。利豊公は某の父雄善とともに関ヶ原で尾張衆と共に戦った同輩衆であり、源敬様(家康九男徳川義直)が、駿府より名古屋城へ。始めは清須城に進まれ御目見得を得て、本貫分3000石加増され、城ではご重席の役でございました。そもそも父雄善存命中、関ヶ原戦の時、尾州清須城福島正則の尾張衆、清須篭城に続き岐阜稲葉山改め、七曲口に利豊公と先駆け共に功名を挙げ、落去の後、関ヶ原まで駆け向かい共に戦功を挙げた。
性高院様(家康四男松平忠吉)尾州清須へ最初に入られし時、父雄善とともに御目見得、御案内役を務め、1000石与えられ利豊公は2000石御加恩された。父雄善は不祥事を起こして清須を退去、その後松平忠吉様ご逝去。父もその前年在所の前野村にて卒去した。源敬様(徳川義直)は清須へ。その後初代名古屋城へ進まれし時、某どもは父雄善の不祥事があったので、特別に取り立てられることはなかった。生駒利豊様は、東照神君様(徳川家康)から格別の御朱印があったからと聞き及んでおります。
信長公の室 生駒久昌庵(吉乃)の事
郡村(小折)生駒利豊様、我が前野家とは長年昵懇の家です。某、御屋敷へお伺いし、種々お尋ねしたところ、殊に岐阜攻め、合わせて関ヶ原陣の先手の様子などお聞かせいただきました。利豊様は、親父様(生駒四代家長)と共に、前野14代雄吉様といろいろの記憶や戦場の様子を語られた。なお織田信長公が、小折生駒屋敷へ来られしことは、一部始終話された。親父家長、弘治・永禄の昔の事など、信長公御内室吉乃女、久昌庵の事などを語られたが、詳しく伝わっていない事、すなわち御三子は何れも生駒屋敷において御誕生遊ばされた事、嫡子・奇妙様(信忠)、御次男・於茶筅様(信雄)、御三女・於徳様(徳姫)と相続いて御誕生のいきさつなどをお聞きした。なお、生駒屋敷繁盛の様子と諸々の記録なども拝見し、信長公御在世の詳細を感無量に語り申された。しからば弘治の始め信長公、未だ上総介様と呼びし頃、足繁く清須より御近習衆十有余人を御供にして生駒屋敷へ御遊行。そのつど大伯父将右衛門尉(前野長康)も御供に加わり、吉乃様が男子をお誕生遊ばされし時、弘治元(1555)年正月、一陽来復雲球殿(生駒屋敷)扶養の浪人衆、親類縁者の家人、召使いの下男下女、さては若党小者に至るまで無礼講のお触れに付、馬場前の溜まり場に夜の更け行くを忘れて、乱舞の狂態、さてもめでたきと信長様が明け方まで歌い踊られた子細を話された。(次回は8月2日掲載)

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