巻3(1)織田信長、美濃稲葉山城攻め

シリーズ・・・その41(18.05.13掲載)
●一、勢州(伊勢)中江で信長公、美濃の三人衆調略
柏井(春日井市)の小坂孫九郎雄吉(前野長康兄)は、墨俣城で年越しし明くる年の永禄10(1567)年陽春、柏井城に帰り、駒(騎馬)ならしの明け暮れであった。木下藤吉郎の寄騎衆、蜂須賀小六正勝、前野将右衛門長康一党衆は在所へ戻らず、勢(せい)・江(こう)(伊勢、滋賀)の山野で武功を競う定めとなった。同春、柏井の小坂孫九郎雄吉に小牧城の信長公より御陣触れの知らせがあった。勢州(伊勢)へ向け、部署を定めると掟の先触れがあり、滝川左近将一益に仰せ付けられた。従う者小坂孫九郎雄吉、生駒家長(小折)、森甚之丞、森久三郎、小坂雄善ほか一党の者、総人数は八百有余、勢州河内中江に居陣した。柏井城の留守は前野新蔵門直高、在所の前野村は喜左衛門が守った。直高の倅(せがれ)清蔵は初陣であった。西美濃の氏家訃全(直元)、一旦は信長公へよしみを通じたが、安藤伊賀守(守就)なる者と示し合わせ、勢州中江へ人を集め、堅固に構えた。七月の盛夏、「氏家の領地縄境かすめ盗られる」と勘違いし、逆意の色を表す氏家と安藤。このうわさを耳にした信長公は二千有余騎を引き連れて出陣した。西美濃の稲葉伊予守良通も曽根より出た辺りで挟み撃ちに合い、ついに信長公に降参、お詫びを入れ人質を差し出した。墨俣在陣の木下藤吉郎殿は、長井隼人の来襲に備えたが、さしたる戦いもなく退散した。東方の新加納城は坪内党が瑞竜寺山の方へ備えた。その後、氏家と安藤は共に人質を出して信長公におとなしく従った。よって、稲葉山城の斎藤龍興の美濃三人衆、氏家訃全(直元)、安藤伊賀守(守就)、稲葉伊与守良通は信長公の味方に参じた。稲葉山城はさながらはだか城同然となり、いよいよ宿願の城攻めに向けて御陣触れの沙汰となった。
●二、永禄10(1567)年、8月1日 織田信長、美濃稲葉山城の斎藤龍興攻める
永禄10(1567)年8月1日、信長公の御陣触れにより尾張勢五千有余の人数が小越(おこし)(一宮市起)を渡った。河野島へ到着した柴田権六勝家、丹羽五郎左衛門長秀、佐久間の諸隊は、井之口山に続く瑞竜寺山より、七曲口の大門を登り、二の丸へ攻め入った。信長公は河野島より長森口へ御働きになった。深秋14日、中天の月が皓々(こうこう)として冴え渡る中、水上三十有余艘の船が長良川の墨俣を出る。大将は木下藤吉郎殿、これに従う蜂須賀彦(小六)、前野将右衛門、青山小助、同新七郎鉄砲隊は同じ船に乗った。稲田大炊、長江半、舎弟小一郎(藤吉郎弟)、山内猪右衛門(一豊)も加わった。木下藤吉郎総勢二千有余人、稲葉山城の水の手口へ先駆け、井之口城下の町屋筋の各処に放火、これより矢嶋町の堰を切ったるがごとく乱入した。中でも水の手は稲田大炊介植元、同大八郎、他の者に目もくれず、三十町水門口の高さ一丈五尺(約4.5m)の門の扉を丸太を使って打ち破った。最初の突入であった。前野清助(長康の物書)殿、船より飛び出して堤を乗り越え、稲田植元に続き水の手口へ。水門口の城兵を追い崩し、長江半、大沢主水(基康)ら十余騎、早々と門際へ駆け付け、稲田らに加勢した。NHK「功名が辻」のごとく、手向かいもしたが退散。討ち取りたる武者、雑兵の首を数えるに際限なきであった。8月15日、稲葉山城主斎藤竜興ことごとく討ち破られ、長良川を船で河内長島へ落ち延びた。稲葉山城主斎藤道三、義龍、龍興三代、天文11年より永禄10年まで約25年間で城を去った。信長公は美濃三人衆の人質が届かないうちに稲葉山城を落城させ、迅速に井之口の城及び山麓の居館や城下町造りを進め周辺の各所に禁制や楽市(らくいち)・楽座(らくざ)の制札を立て小真木山城(小牧山)より美濃稲葉山城へ移った。政秀寺(名古屋市中区)の開山沢彦(たくげん)の話を用いて井之口を「岐阜」と命名した。永禄10年11月、第106代正親町(おおぎまち)天皇は信長あての綸旨(りんじ)を出し、国を平定したことを祝すと共に、御料所の回復を命じた。
※次回「江州観音寺城攻め」は6月3日掲載。


NHK大河ドラマ「功名が辻」
山内一豊と前野長康及び犬山羽黒梶原氏「武功夜話より」 
○は歴代=は結婚・養子

◎尾張黒田城主山内盛豊の妻は犬山羽黒城主梶原氏娘、法秀院(ほうしゅういん)で一豊の母。前野氏十代時正の妻は梶原景綱娘で山内盛豊の妻(法秀院)の父の叔母にあたる。
◎前野将右衛門長康の伯父忠勝(松倉城主)の妻は一豊の父山内盛豊妹(叔母) であり、山内一豊は義理の伯父前野忠勝で、長康も血縁のある従弟のようで慕っていた。一豊の父が浮野合戦で討死したときは十四才で叔母の松倉城主忠勝の妻を頼り、忠勝・長康に預けられた。成人して墨俣、稲葉山戦に、木下藤吉郎、 蜂須賀小六、前野長康と共に参戦して戦功を挙げて、信長、秀吉、家康に仕え 長浜城主、掛川城主、その後関ヶ原戦の功で、家康より四国土佐高知城二十四万石を与えられた。現在は十九代山内豊功氏である。

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