「・・・ああ。何の因果か。オレぁ、よっぽど天使に縁があるらしい」
シニカルに笑って火を付ける。
強い風のなか、苦労して火を付けると、煙を肺いっぱいに吸い込んでゆっくり吐きだした。
白い煙が一本の筋となって屋上に流れた。
「・・・天使を捜すなんて酔狂やってりゃァ、よくねェ噂の一つや二つ、流れるもんさ」
「酔狂ですか・・・」
「ああ」
「・・・でも、おじさんは・・・」
看板の鳩が飛び立ち、抜け落ちた羽根が一枚、降りてくる。
その羽根は、看板の天使の絵と重なって、あたかも天使の羽根のように見えた。
「・・・ちゃんと天使に会えたじゃないですか」
「・・・こいつじゃ、天国に連れてってくれそうにねェなァ」
煙草をくわえたまま、にやりと歯を見せて、ガルヴァは笑った。
「・・・そんなに天国に行きたいんですか?」
「ん? いや、まァ、どうしてもってほどじゃ、ねェがな」
「何をするために」天国へ、月へ行きたいのか。
動機を思い出し、ガルヴァの傷が疼いた。
「実はボク・・・」
「――マテリエル!」
マリオンが何か言いかけて口を開いたとき、場に鋭い声が響いた。
「うおっ!」
文字通り飛び上がってガルヴァが振り向くと、そこには法衣に身を包んだ美しい女性が立っていた。
気配すら感じさせず現れた女性は、厳しい顔でマリオンを睨み付け、つかつかと歩み寄った。その様子は、まるでガルヴァなど眼中にない様子だった。
「ル、ルファさん・・・」
「ルファ? コイツが?」
マリオンのセリフの中に出てきた教育係。・・・いや、監視役か。
ガルヴァは、そのルファをまじまじと見つめた。
ショートカットの金髪に、陶器のような白い肌。澄んだ紺碧の瞳。美しい顔を構成するパーツはマリオンと同じだ。だから、姉妹といわれれば納得できるかもしれない。しかし、その美貌を覆う表情はとても冷たい。マリオンの瞳が燃えるサファイアなのに対し、ルファの瞳はまるで凍てつく氷のようだった。
「何をしている。外出を許可した覚えはないわよ?」
ルファは氷の瞳でマリオンに一瞥をくれると、厳しい口調で言った。
「ご、ごめんなさい」
「・・・これだから自律型は・・・鞭程度では、学習できないというわけ」
「待ちなよ、姉ちゃん」
言葉に不穏なものを感じ取り、ガルヴァが止めた。高いところが怖いなどと言っている場合ではない。
ルファが、さも今初めて気づいたように、ガルヴァに振り返った。
「そいつを連れだしたのはオレだ。叱るんなら、オレを叱ってくれねェかな?」
「・・・醜い動物の分際で、私に話しかけるな。汚らわしい」
「み、みに・・・!」
あまりの言われように、言葉を失うガルヴァ。
確かにオレは、顔の作りは不細工な部類に入るかもしれない。それくらいのことは、自分でも理解している。しかし、正面切って蔑まれるというのがこんなにもショックな事だとは思ってもいなかった。相手が美しい女性だからというのも、多分にある。
っつーか、動物呼ばわりかよ。
酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせていると、ルファはフンと鼻を鳴らしてマリオンに向き直る。
「さっさと戻りなさい」
マリオンの腕をとり、強引に連れ帰ろうとした。
あっ、と小さく声を上げてたたらを踏むマリオン。
「ま、待てっつってんだろ!」
ショックから立ち直ったガルヴァが、ルファの腕を払った。
ルファの氷の瞳がガルヴァを射抜く。
「悪ィのはオレだ。マリオンを叱るのは、お門違いなんだよ」
「ガルヴァさん・・・」
かばってもらったことが嬉しかったのか、初めて名前で呼んでもらえたことが嬉しかったのか、マリオンがガルヴァの名前を呼ぶ。
その途端、ルファの氷の瞳に変化が現れた。
背筋に冷たいものを感じて、ガルヴァが驚愕した。
そんじょそこらの賞金首に睨み付けられてもまるで動じない自分が、あろう事か丸腰の女性に恐怖を感じたのだ。
「そう、おまえが向かい傷のガルヴァか。教会の周りを嗅ぎ回っている、卑しい賞金稼ぎの」
「そ、それがどうした」
一瞬感じた恐怖を胸の奥に押し込めて、ガルヴァが虚勢を張る。そうだ、何を恐れる必要がある。いくらなんでも、女相手に後れをとるほど落ちぶれちゃいねェ。向かい傷のガルヴァの二つ名は、伊達じゃねェんだ。
「そうとわかったら、ただで返すわけには行かないわ。元老院の犬が何をしようと問題ないけど、目障りなのよ」
「元老院・・・?」
マリオンが首を傾げた。
「少々荒っぽいけど、マテリエルの事は忘れてもらうわ」
「マテリエル・・・?」
今度はガルヴァが首を傾げる番だった。
話の流れからすると、マリオンのことだろうか。
「ルファさん! やめてください! おじさんは何も知らないんです!」
何も知らないとはどういう事だ、ガルヴァがそう聞こうとするより早く、ルファが鋭く言った。
「操り人形は黙っていなさい!」
今度は操り人形と来たか。ガルヴァの頭はすっかり混乱したが、ルファが自分にケンカを売っていることだけはとりあえず理解できた。
おもしろい。さっきの恐怖がただの勘違いだったことを証明してやる。
「おじさん、ダメです!」
不穏な気配を感じ取ったマリオンがあわてて止める。
「なァに。女を殴るのは性にあわねェが、ここまでコケにされて黙ってるのは、もっと性にあわねェ。この姉ちゃんのお高くとまった鼻、へし折ってやるぜ」
ガルヴァは腕をまくった。虎縞模様のたくましい腕に、力がみなぎる。
「ムリです! おじさん!」
ムリだと・・・? 向かい傷のガルヴァも甘く見られたモンだ。
「まあ見てな、オレぁステゴロにも自信があるんだ。たとえこの姉ちゃんが格闘技の名手だろうと、負けやしねェよ」
なかばムキになってガルヴァが鼻息を荒くした。
「そうじゃなくて! ルファさんには・・・!」
なにか言おうとしたマリオンを、ルファがきっ、と睨み付けた。
止める間もなく、マリオンは彼女に平手打ちを食らって倒れた。
「てめェ!」
しかし、その拳はむなしく宙を舞った。
スルリという音すら立てて、ルファは見事にガルヴァの拳を躱していた。
そのまま距離を取り、ルファはパチンと指を鳴らす。
「・・・・・・?」
いぶかしげな表情で様子をうかがうガルヴァの目の前に、突如白い塊が落下してきた。
「なに!?」
慌てて空を見上げるガルヴァ。
しかし、そこには何もなかった。
当然だ。このビルはセントリリアの中でも一、二を争う高さの建物。これ以上上に、何かあるハズもない。
――バサァッ。
白い塊が、まるで花開くかのように、大きく広がり、ガルヴァの視線を釘付けにした。
舞い散る花びらに包まれた「それ」が、俯いていた顔を上げる。
それは、神々しいまでに美しい、純白の天使だった。
唖然たる面持ちで、ガルヴァが呟く。
天使は、金髪を短く刈り込んだ、美しい女性だった。いや、おそらく性別など無いのだろう。それほどまでに、中性的で整った顔立ちをしていた。
特筆すべきは、額に埋め込まれた宝石だろうか。色は瞳と同じく青。だから一見、それは第三の目のようにも見える。
しかし、その顔に表情はない。焦点の定まらない虚ろな青い瞳に捕らえられ、ガルヴァが思わず息を飲む。
「紹介しよう。我がしもべ、ウルズエル。貴様を地獄に叩き落とす、聖なる天使だ」
ルファが、純白の翼の向こうから言った。
ウルズエルと呼ばれた天使に、相変わらず表情はない。美しいだけに、不気味だった。
「天使・・・だと?」
もう一度呟いて、ガルヴァは思案に暮れる。
我がしもべ? 召喚魔法か? いや、これは以前見たものと明らかに違う。じゃあなんだ、本物の天使・・・? この女、天使使いとでも言うのか?
「・・・どっちでもいい・・・まさか、こんな形で天使に会えるたぁな・・・!」
傷に跨がれた瞳を燃え上がらせ、天使を睨み付ける。
「・・・会いたかったぜ・・・! オレは・・・てめェに・・・てめェらに復讐するためだけに、今日まで生きてきたんだからなッ!」
吼えて、ガルヴァが走る。
ルファに殴りかかった時とは気合いも勢いも違う。相手を殴り殺すことにまるで躊躇することのない、本気モードだった。
しかしウルズエルは、瞳さえ動かさず、相変わらずの無表情でその拳を躱した。
「チッ」
殴りかかった勢いを殺さず、身体をひねって回し蹴りを繰り出すガルヴァ。
短い足を最大限に活かし、ウルズエルの脇腹を捉える。
さすがにこれは躱し切れなかったらしく、ウルズエルは片手だけ下げてこれをガードした。
必殺の威力を秘めた回し蹴りは、ウルズエルの細い腕の前に、いとも簡単に止められていた。
「なんだ、コイツ!」
ウルズエルはまるで動じていなかった。
いくらガードが完璧とはいえ、この勢いの蹴りだ。よろめくなり、ガードが崩れるなりするはずだ。しかし、ウルズエルはぴくりとも動かなかった。まるで大地に深く根を張った大木を蹴飛ばしたように。
さすがは天使。人間とは体の作りが違うらしいな・・・
妙なところに感心して、ガルヴァは一歩引いた。
蹴りを繰り出した足の方が、じんじんと痺れていた。
ルファが命令を出すと、ウルズエルは光の翼を閉じた。すると、それはまるで溶けるように消えて無くなった。こうして見ると、ただの女性にしか見えない。もっとも、相変わらずの無表情で不気味ではあるが。
おもむろにウルズエルが動いた。屋上の上を滑るように移動して、ガルヴァに迫る。
「!」
ぶんっ、とウルズエルの腕が振り回された。
ラリアットでもしたかったのだろうか、ただ単に腕を振り回しただけの単調な攻撃。
「ナメてんのか!? てめェ!」
躱すまでもなくその腕をやり過ごし、ガルヴァが吼えてカウンターの拳を繰り出した。
その時、ルファの瞳が冷たさを増したかと思うと、ガルヴァの手首が捕まれる。足に何かが当たったような気がしたその瞬間、世界がぐるりと反転し、彼の巨体は宙を舞っていた。
そのまま逆さまになってスッ飛んで、屋上のフェンスにしこたま体をぶつける。ガルヴァの体重をまともに受け止めたフェンスが大きく軋んでぐにゃりと曲がった。天地の入れ替わった視界で、フェンス同士をつないでいたネジがはじけ飛ぶのが見えた。
危うくフェンスを突き破って転落死するところだった。おそらく、ウルズエルはそれを狙ったのだろう。いや、ウルズエルに意志の力は感じられない。狙ったのはルファか。
「ちっ」
案の定、作戦に失敗したルファの舌打ちが聞こえた。
どういう理屈かは知らないが、このウルズエルという天使は、ルファの思い通りに動かすことができるらしい。
「・・・まいったね、コイツは」
なんとか体を起こしてガルヴァは呟いた。
ポケットの中から煙草を取り出し、曲がったそれに火を付ける。
少し頭に血が上りすぎていたようだ。念願の天使を相手にしているのだからムリもないが、ここは少し落ち着こう。
「ダブルカウンターの上に当て身投げかよ」
煙を長く吐きだして言う。
「天使のくせに、えげつねェことしやがる」
「自分から攻撃することも出来るが?」
ガルヴァはニヤリといやらしい笑みを浮かべて首を振った。
「女に攻め立てられるのは・・・いや、まァ、キライじゃねェが・・・どっちかっつーと攻める方が得意でね」
煙と同時に台詞を吐いて、煙草をぷっと吐き捨てる。
曲がった煙草は、すでに根元まで灰になっていた。
「第二ラウンド、行ってみようか」
軽い足取りでガルヴァがウルズエルに近づく。
フットワークを使い、最小限の動作で拳を繰り出し、戻す。
ヒットしたときのダメージは少ないかもしれないが、これならばそう簡単に反撃できないはず。少なくとも、当て身投げなどされなくて済むだろう。
しゅっしゅっ、と風を切るジャブで相手を牽制、距離を見計らって左のストレート。いわゆるボクシングスタイルだ。
小刻み攻撃の戦法が功を奏したのか、確かに反撃は食らわなくなった。しかし、相変わらず拳は当たらないし、よけきれない攻撃は完璧に捌かれてしまう。
「ちっ・・・ちょこまかちょこまかと・・・!」
奥歯をぎりっと噛みしめて、ガルヴァが唸る。
その息づかいは荒い。
対するウルズエルは息一つ乱していなかった。まるでダンスでも踊るかのような優雅な動きは、無駄一つ無く、体力の消耗も最小限なのだろう。・・・いや、もしかすると天使には、体力という概念自体無いのかもしれない。
・・・やってらんねェな・・・
ガルヴァが動きを緩めた一瞬の隙をついて、ウルズエルが反撃に転じた。
攻守が入れ替わり、ガルヴァが防戦一方に追い込まれる。
ウルズエルはその見た目と裏腹に、すさまじい怪力を発揮した。
どう考えても軽いジャブなのだが、受けるだけで骨までダメージが響く。この調子では、さっきのラリアットも、食らっていたらただでは済まなかっただろう。
「化け物が!」
吐き捨てて、ガルヴァがウルズエルの顎を蹴り上げる。
しかし、そんな苦し紛れの攻撃など、当然のごとく躱され、却って危機的な状況に追い込まれてしまう。
が。ガルヴァの瞳が鋭く光った。
「!」
ルファが顔色を変えたが、もう遅い。
大きく振り上げられたガルヴァの足が、そのまま落下してくる。踵落としだ。
肩口にモロに踵を喰らい、ウルズエルの骨が砕ける音が響いた。
「鎖骨いただきィ!」
体勢を崩したウルズエルの横面に、ガルヴァの拳がめり込む。
そのまま殴り抜くと、ウルズエルの身体は木の葉のように吹っ飛んで、階段室の扉に打ちつけられた。
「――捕まえたぜェッ!」
ウルズエルが床にくずおれる前に走り寄り、そのか細い首を、ガルヴァのたくましい左腕がわしづかみにした。
ぎりっ、という音すら立てて、ウルズエルの首が締め上げられる。彼女はそのまま階段室の扉に打ち付けられ、足が宙に浮いた。
「終わりだな、姉ちゃん」
青竹すら握りつぶす殺人的な握力の前には、ウルズエルの首など枯れ枝同然。
傷にまたがれたガルヴァの右目が、殺気をはらんでウルズエルを睨め上げた。
「・・・い、いけません、ガルヴァさんっ・・・!」
ようやく意識を取り戻したのか、マリオンがかすれた声で叫んだ。
「・・・安心しな。まだ殺しゃしねェよ。ちょっと『落ちて』もらうだけだ」
ガルヴァは腕に力を込めるが、ウルズエルの表情は相変わらず変わらない。
「――サッサとイッちまえよ。あんたの強さに敬意を払って、ションベンの始末ぐらい、してやっからよ」
ニヤリと笑うガルヴァ。
「ああ・・・! 逃げて・・・!」
マリオンが呆然と言った。
ガルヴァは目だけ動かしてマリオンを睨み付けた。
「悪いが逃がしゃしねェ。コイツら天使にゃ、借りが山ほどあるんだ」
ドスの利いた声で言う。初めて見るガルヴァの凶暴な表情。
このときマリオンは、初めてガルヴァのことを怖いと感じた。
しかし、そんなことはいっていられない。
「ダメです! 逃げて、ガルヴァさん!」
妙なことを言う。
このオレに逃げろだと? ひょっとして、さっきの「逃げて」も、オレに向かって言ったのか? この状況で、なぜオレが逃げなければならないのか。
「――下賤の輩が。身の程を知れ」
ルファが、冷淡な口調で吐き捨てた。
「なんだと?」
「ナメんじゃねェ! 殺すのはオレの方だ!」
ガルヴァは一気に腕に力を込めた。筋肉がぐぐっと膨れあがり、ウルズエルの喉を握りつぶす。
・・・ハズだった。
しかし、ウルズエルの喉は鉄パイプのように硬くなっており、ガルヴァの腕力を受け付けなかった。
気が付くと、ウルズエルの額の宝石が妖しい輝きを放っている。
――バサアッ。
ウルズエルの背中から、光の翼が広がった。
「!」
光に眩む目を細め、ガルヴァが息を飲む。
バカな。首を絞めてるってのに、何でコイツはこうまで動けるんだ!?
真っ先に目が見えなくなって、顔色もとっくに紫になっていて、失禁すらしているはずなのに。
「・・・人間と同じ尺度で考えてもらっては困る。そいつはそれでも、天使の端くれなのだからな」
「ああそうかい!」
首を締め上げたまま、ガルヴァはウルズエルの腹を殴りつけた。
しかし、まるで鉄を殴ったような感触に、ガルヴァの顔が歪む。
そんなガルヴァの左腕を、ウルズエルは無造作に払った。
ぼきん、というイヤな音を立てて、あまりにアッサリ骨折し、ガルヴァの腕はウルズエルを解放した。
「っ!」
だらりと力無く垂れ下がる左手を押さえ、声にならない悲鳴を上げるガルヴァ。
ウルズエルが大きく口を開けて何か叫んだ。
なんと叫んだのかはわからない。なぜなら、その声はガルヴァの耳で音と認識できる範囲を超えていたから。
叫び声は衝撃波となって屋上を駆け抜けた。
ガルヴァの体が紙のように飛ばされる。
「うおっ!」
再びフェンスに激突するガルヴァ。
二度目の衝撃に耐えきれず、フェンスが地上へと落ちていった。
当の本人はというと、何とか屋上の縁につかまって落下を免れていた。
体が宙に投げ出されているのに気づいて、思わず下を見てしまう。高い。めまいを覚える。
「ひいっ」
情けない悲鳴を上げて、あわてて屋上によじ登るガルヴァ。しかしそこには、怒りに燃えるウルズエルの姿があった。
それは比喩ではなかった。
実際に、彼女(?)の目の前で炎が渦を巻いている。
「ま、魔法!?」
呪文の詠唱も、それらしい道具も無しに魔法を発動するなんて反則である。
一瞬なにが起きているのか理解できなかったが、なんとか我を取り戻し、ガルヴァは身を低くして飛んでいた。
ウルズエルの目の前に溜まった炎が、炎放射器のように一直線に伸びてくるのと同時だった。
直撃は避けたが、炎はガルヴァの足をかすめた。獣毛の灼ける匂いが鼻を突く。
「んなろっ!」
ふらつきつつも気合いで立ち上がる。右足の感覚がなくなっていて、力が入らない。かすっただけだというのに、これは結構なダメージらしい。
絶望的な状況のガルヴァにとどめを刺すべく、ウルズエルが走り寄ってきた。しゅ、と風を切る気配がして、横合いから手刀が迫る。
視界の端でそれを捉えたガルヴァは、右腕を下げ、反射的にガードする。
再び、ぼきん、と骨の折れる音がした。ウルズエルの手刀は、一撃でガルヴァの右腕をへし折っていた。
悲鳴すら上げずにガルヴァは倒れた。
痛みはまだ来ない。ただ目の前が真っ白に染まっていった。
「――ぅっ・・・!」
両腕を骨折。おまけに足は大火傷。立ち上がろうにも、立ち上がれない。
ルファが何か言いながら近づいてくるのが見えて、初めて耳も聞こえなくなっている事に気が付いた。どうやらさっきの超音波で、鼓膜もやられていたらしい。
ウルズエルの細い足が、恐ろしい力でガルヴァの腹を蹴り上げた。
ぐぅっ、とヒキガエルのような声を出してガルヴァが飛ぶ。コンクリートの床に頭から叩き付けられ、意識が遠くなった。
血に染まっていく視界で、マリオンがルファに駆け寄っていったのが見えた。
何か言い争って、平手打ちを食らって倒れる。
ウルズエルが歩み寄り、再びガルヴァの腹を蹴り上げた。
みしっ、と、繊維状のものを折る音が聞こえた。生木を無理矢理折ったときの音に似ていた。今度はアバラが折れたらしい。
痛みより先に、胃の中のものがこみ上げてくる。
たまらず吐瀉すると、それは血の塊だった。このうえ内蔵までどうにかなったのか。
ウルズエルに蹴り転がされ、ガルヴァは屋上の縁までやってきた。先ほどフェンスが壊れた場所だ。
ああ、オレはここから蹴り落とされるんだな。
他人事のように考えて、ガルヴァは観念した。仰向けに転がると、赤い視界に天使の看板が飛び込んでくる。
音のない世界で、天使の看板が遠ざかっていく。その様は、まるで昇天していくようだった。
その天使を捕まえようと、ほとんど無意識に手を伸ばす。
願いが通じたのか、一人の天使がガルヴァに向かって飛んできた。
いや、違う。マリオンだ。屋上の端から、マリオンが身を躍らせたのだ。
――バカ!
一瞬で意識が覚醒する。
勢いを付けていたのか、マリオンは空中でガルヴァに追いついた。そのままタックルをするような形で、彼の太った体を抱きしめる。
文句を言おうと口を開きかけたとき、目の前が激しい光に包まれた。
がくん、と何かに引っ張られる感じがして、落下速度が緩まる。
光に眩む目を開くと、マリオンの背中から、光の翼が生えていた。
バサリと羽ばたくたびに、光の粒子に包まれた羽根が舞う。
「・・・ああ・・・」
二人は、光に抱かれるようにゆっくりと落下し、地面に降り立った。
マリオンが泣きながら何か言っている。
だんだんと聴覚が戻ってきた。鼓膜が破れたわけではなく、麻痺していただけらしい。
自分の名前を呼んでいると気づいたガルヴァは、マリオンに震える手を伸ばした。
「やっぱり、てめェも・・・天使・・・だったんだな・・・!」
血まみれの手が、マリオンの喉を握る。
いまのガルヴァの握力でも簡単に握りつぶせそうな、か細い、華奢な首。
どのみち、オレはもう助からない。
なら、一匹だけでも、道連れに・・・
「・・・かまいませんよ」
ガルヴァの意志を汲んだのか、泣き笑いの顔でマリオンは言った。
腕に力がこもり、血管が浮いた。
しかし、マリオンの喉は絞められていなかった。
喉笛を握りつぶそうとする力と、それを拒む力が拮抗し、ガルヴァの腕がぶるぶると震えた。
が、やがて力尽き、その腕が地面に落ちる。
「ガルヴァさん!?」
「・・・うっせェ・・・力が入らねェんだよ・・・」
嘘をついて、ガルヴァは咳き込んだ。
跳ねた血が、マリオンの頬を濡らす。
「・・・シリウス・・・悪ィ・・・オレも・・・そっち行くわ・・・」
焦点の定まらない目で呟いて、瞼を閉じる。
「ガルヴァさん? ガルヴァさん・・・!?」
その後もマリオンは、ガルヴァの名前を呼び続けた。
どれだけ時間が経ったのか、マリオンの光の翼の影に、ルファが現れた。
マリオンがびくっと肩をふるわせてガルヴァの体に覆い被さった。光の翼が彼の体を包み込む。
遠くなる意識の中で、マリオンが「殺さないで」と叫び続けているのが聞こえた。
――つっても、もうとっくに致命傷なんだけどな――
たとえ今ここで殺されなくても、手遅れであることは間違いなかった。
ガルヴァは、マリオンが天国に連れて行ってくれるんなら、まァそれも悪くねェな、と考えて気を失った。