2 天使のいる風景
マリオンは教会をこっそり抜け出して公園にやってきたが、ガルヴァの姿は見あたらなかった。
公園の中央にテントが設置されている。その前には煤けた一斗缶。おそらく、これで焚き火をしたのだろう。
「・・・おじさん?」
テントの中を覗いてみるが、中には寝袋がポツンと一つ置いてあるだけ。もぬけの殻だった。
「・・・出かけたのかな」
しばらく待っていれば帰ってくるだろうが、家を抜け出してきた手前、あまり一カ所に留まってはいたくなかった。
ひりひりと痛む手のひらを擦りつつ、マリオンは当てなく歩いた。
ガルヴァの行き先に心当たりなどない。これはしばらく時間をつぶしてから公園に戻るしかないかな。
そのとき、マリオンの脳裏にある考えが閃いた。
昨夜ガルヴァは、賞金稼ぎはギルドで仕事をもらう、みたいなことを言っていた。ひょっとしたらそこへ行ったのかもしれない。
マリオンはさっそく賞金稼ぎギルドに行ってみることにした。
ギルドは、他のビルに勝るとも劣らない古びたビルだった。
やたら軋むドアを開けると、煙草のにおいが鼻を突く。
マリオンは眉間にしわを寄せつつも、中に入った。
紫煙に霞む空気。それをかき回す天井のファン。壁には人相の悪い男の顔写真が何枚も貼られていた。中には大きくバツ印の付いたものもある。賞金首の手配書だった。
「あ、あの、すいません」
手近な人物におそるおそる声をかけてみた。
振り向いた男は熊人で、これも人相が悪かった。手配書と比べてみても、遜色ない。
「・・・なんだ? ここはガキの来るようなところじゃねえぞ」
「えっとその・・・人を捜してるんです」
「仕事の依頼か? なら窓口に行って来い。悪いが俺はそういう仕事はやってねえ」
熊人はそれだけ言うと歩き出した。
マリオンはあわてて引き留める。
「あ、ちがうんです。ガルヴァという虎のおじさんを知りませんか?」
「ガルヴァだと?」
熊が振り返った。
「知ってるんですか?」
「そりゃまあな。『向かい傷のガルヴァ』といえば、凄腕の賞金稼ぎだ」
「へえ。おじさんって有名人だったんだ」
「昔の話だ。今じゃすっかり落ちぶれて、見る影もねえよ」
マリオンは唖然とした。
その後、なぜかわからないが、怒りがこみ上げてきた。
「ど、どこが落ちぶれているんですか!」
熊人はマリオンを睨み付け、言った。
「ヤツはな、金持ちの貴族に尻尾振って、手足のように働いてるって話だ。その貴族ってのが、人買いの親分で、世界中の子供をさらってるんだとよ」
人買い? 奴隷商人?
マリオンはゾッとしたが、男はさらに続ける。
「向かい傷のガルヴァも、落ちたもんだ。いまじゃ、その人買いの使い走り、幼児誘拐のガルヴァだからな」
幼児誘拐と聞いて、マリオンは違和感を覚えた。
自分で言うのも何だが、ボクはかなり整った顔をしている。奴隷になったら、いい値が付くだろう。でも、おじさんはそんなボクに向かって「早く家に帰りな」と言ってくれたのだ。『商品』をみすみす逃すような人が、人買いをしているわけがない。
「そんなの、全部根も葉もない噂じゃないですか!」
マリオンはカマをかけてみた。
案の定、熊人は言葉に詰まる。
「おじさんは、ただ天使を探してるだけです! いい加減なこと言わないでください!」
マリオンの言葉を受けて、熊人はポカンとした。
やがて笑い出す。
「天使だと? はははっ、こいつはいいや。向かい傷のガルヴァが、そんなにメルヘンな男だとは知らなかったな!」
「な、なにがおかしいんですか!」
「おかしいだろ。・・・まったく、ばかばかしい話しやがって」
「どこがばかばかしいんですか!」
食ってかかるマリオンを、熊人は睨み付けた。
その鋭い眼光に一歩引くマリオン。
「黒き翼のノヴィスといい、向かい傷のガルヴァといい、どいつもこいつも天使、天使・・・!」
「・・・え? 黒き・・・?」
「天使や神様なんてのがホントにいるんなら、今すぐこの世界を救ってみせろってんだ」
「いますよ、神様は」
「あ? おめえ、頭大丈夫か?」
「・・・あなたみたいに信仰心の無い人がいるから、神様は人々に試練を与えなくてはいけないんです」
「おい。・・・女の子だからって優しくしてりゃ、つけあがりやがって」
熊人の太い腕が、マリオンの胸ぐらをつかんだ。
しまった、と思ったがもう遅い。それに、今更謝るつもりもない。
――殴られる。マリオンがそう覚悟して目を固く閉じたとき、横合いから声をかけられた。
その相手は若い女性だった。
「子供相手にムキになってるんじゃないわよ。みっともない」
艶やかな緑の黒髪に、神秘的な雰囲気を漂わせる漆黒の瞳。
見たことのない民族衣装に身を包み、その腰には二丁の剣を下げている。凛とした美しい女性だった。
「なんだ、おめえは」
熊人が女性を睨み付ける。
しかし、女性も負けてはいない。
琥珀色の瞳で彼女が睨み返すと、熊人はわずかにたじろいで、マリオンから手を離した。
「けっ、ばかばかしい。やめだやめだ」
熊人は去っていく。
「あ、危ないところを、どうも・・・」
「危ないと思ってるんなら、挑発なんてするんじゃないわよ。ああいう連中は口より先に手が出るんだから」
「は、はい・・・」
「あんた、見たところこの街の子供でしょ? こんなトコにいないで、帰った方が身のためよ」
「・・・そうします。ありがとうございました」
女性は壁に貼られた賞金首の写真を見ながら言った。
「向かい傷のガルヴァのことなら、あたしも知ってるわ」
「おじさんのこと、知ってるんですか?」
「ええ、一度会ったことがあるわ。それにアイツは有名人だもの。あたしたち賞金稼ぎで知らないヤツはモグリね。さっきのアイツも、案外憧れてたんじゃないのかな?」
「え? ・・・でも、おじさんのこと悪く言ってましたよ?」
女性は笑った。
「そりゃ、あこがれであると同時にライバルだもの。それが金持ち相手に悪い商売やってたら、腹も立つわ」
「悪い商売なんか、していません。それはただの噂です」
でなければ、マリオンはとっくに売り飛ばされている。
「そう? でもあたしの国じゃ『火のないところに煙は立たない』っていうことわざがあるわ」
「どういう意味です?」
「そのままの意味よ。・・・まあ、機会があったら、あたしもまたあいつと話がしてみたいわね」
「ええ。話をしてみればわかりますよ」
「そう」
女性は言葉を切って、マリオンに向き直った。
不思議そうにマリオンが見上げる。
「・・・あんた、教会の子?」
「あ、はい。そうですけど」
「・・・でしょうね。神様のことを、なんの疑いもなく信じ切ってるくらいだから・・・」
「え? 何か言いましたか?」
「なんでもないわ」
女性は少し言いよどんだが、意を決して口を開く。
以前出会った旅の仲間を思い起こして。
「・・・神様、っていうか、天使は、あんたが思ってるほどあたし達に優しくないわよ」
「・・・え」
「ただの愚痴。気にしないで。・・・じゃ、向かい傷のガルヴァによろしく」
「あ、はい。・・・えっと」
「ルシア。ルシア・シャーナードよ」
「ボクはマリオン・ゲインズブールです」
「そう。じゃあマリオン、縁があったらまた会いましょ」
ルシアは言うが、もちろん社交辞令だ。本心からまた会いたいなどとは思っていない。
まさかこの後、思いもよらぬ形で再会しようなど、二人とも夢にも思っていなかった。
「さようなら、ルシアさん」
結局何の手がかりも得られないままギルドを出たマリオンは、仕方なく大通りまで来た。
四方すべてを大きな道路に囲まれた、この街の名所の一つだ。こちらの公園は、路地裏の見捨てられた児童公園と違い、活気があった。
人の通りも当然多いし、道端には露店も出ている。
空腹を覚え、露店で買い物でもしようとしたとき、見覚えのある後ろ姿が目に付いた。
背は低いくせに恰幅のいい、ビア樽体型の虎人。尻尾を左右に振りながら歩く後ろ姿は、間違いない。ガルヴァだ。
マリオンが大声で呼ぶと、ガルヴァが振り返る。
関係ない周囲の『おじさん』も振り返ったが、気にしない。
「よォ、おめェか。偶然だな」
まさか自分が捜されていたとは思っていないガルヴァは、そういって笑った。
「え、ええ。偶然ですね」
捜していたんですよ、などとは恥ずかしくて言えないので、マリオンもそう答えた。
そもそも、なぜ捜していたのだろう。マリオンは今更疑問に思って首を傾げた。
特別話したいことがあるわけでもないし、昨夜少し話をしただけの関係だ。
もしかしてボク、おじさんのこと、好きになっちゃったのかな・・・。
自分にそんな感情があるとは思っていなかったマリオンは、戸惑い半分、うれしさ半分でガルヴァを見つめた。
しかし、もしこの気持ちが恋心だとしても、悲しいかな絶対に結ばれない恋だ。胸にこみ上げてくる気持ちが切なさだと気づき、マリオンはあえいだ。
「どうした?」
「あ、い、いえ・・・」
どのみち結ばれぬ恋。なら、少しでも楽しいものにしよう。
前向きに結論すると、マリオンは「なんでもありません」と笑った。
ふと見ると、ガルヴァは手にソーセージを持っていた。おそらく露店で買ったものだろう。
それを見てマリオンの空腹に拍車がかかる。
「なんだ、食いてェのか?」
物欲しそうなマリオンの顔を見て、棒に刺さったソーセージを突き出すガルヴァ。当然、彼の歯形が付いている。
「い、いりませんよ。自分で買います」
もう。ムードもなにもあったもんじゃない。
頬をふくらませてポケットに手を入れ、そこで思った以上の金額が入っていることに気づく。
昨夜ガルヴァにもらったお金だ。あれからいろいろあったので、結局寄付は出来ずじまいだったのだ。
「忘れてた」
「ん? 昨夜の金か・・・おい、どうした、この手?」
ガルヴァがマリオンの手を取り、手のひらを上に向けさせた。
「あっ・・・」
隠そうとしたが、もう遅い。
ガルヴァの腕力を振り切ることが出来ず、マリオンは手のひらをさらした。
そこには一本の赤い筋が走っている。ミミズ腫れだ。
「どうしたんだよ、これ。昨夜はなかった・・・よな?」
「おじさん、痛いよ」
「あ、ああ。悪ィ」
そういって手を離す。
マリオンは悲しそうに手を隠すと、ポツリと言った。
「昨夜、門限破っちゃったのがバレて・・・」
「鞭を受けたのか」
こくりとうなずく。
「そいつァ悪かったな。オレがコーヒーなんか出したばっかりに」
「あ、いえ、おじさんのせいじゃないです。門限が過ぎたことには気づいてましたから。帰らなかったボクが悪いんです」
言いながらマリオンは、やっぱりおじさんはいい人だ、と感じた。
人買いの極悪人が、子供の怪我の心配をしてくれるハズがない。
ガルヴァに会ったら、さっきの話の真偽を聞こうと思っていたマリオンだったが、そんな思いは氷解していった。
「でもなあ・・・。いまどき鞭たァ、ずいぶん厳しい教育だな」
「そうなんですか?」
「ああ」
ガルヴァはポンと膝を打って言った。
「よし、何が食いてェんだ? せめてものお詫びに、何でも好きなモンおごってやる」
「そんな、悪いですよ」
「いいんだ。せめてこれぐらいしねェとオレの気がすまん。オレのためだと思っておごらせろ」
そうまで言われたら断り切れない。
マリオンは露店を見回し、ワッフルの露店を指した。
「じゃあ・・・チョコのワッフルが食べたいです」
「よし、まかせろ。他には?」
「いえ、ワッフルだけで」
「そうか。いくつ食う?」
「一個でいいですよ。そんなに食べられません」
結局、ワッフルは三つ購入した。
一つをガルヴァが、あとの二つをマリオンが手にしている。
「一個でいいって言ったじゃないですか」
言葉とは裏腹に、うれしそうな表情でマリオンがぼやいた。
「なに言ってんだ。甘いモンは別腹なんだろ? こんなモン、三つ四つたいらげて見せろ」
「むちゃくちゃですよ」
かなりボリュームのあるワッフルをかじりつつ(それはそうだ。何しろ特大サイズの中でも、さらに大きいものをチョイスしたのだから)、マリオンが反論した。
二人は広場まで来ると、ベンチに座ってワッフルを頬ばった。
「そういやあ、今日は学校ねェのか?」
「はい。ボク、学校には行ってないんです」
この世界には義務教育の概念がないから、別段珍しい事でもない。
「でも、勉強はちゃんと家庭教師の人に見てもらってます」
「ふーん」
ワッフルをかじったガルヴァが、あまりの甘さに顔をしかめる。
彼は正直、甘いものが好きではなかった。
ワッフルをちぎって、土鳩の群れに放り投げる。わっと群がって鳩たちがワッフルをついばんだ。
「勉強は好きか?」
「ええ。先生は厳しい人ですけど、楽しいですよ」
「・・・鞭を打ったのもそいつか?」
「いいえ、違います。これは、ボクの監視・・・じゃなくて、教育役の人がやったんです」
いま、監視役と言おうとしたな。
ガルヴァは気づいたが、あえて踏み込んだ質問はせず「そうか」とだけ言った。
「家庭教師に教育係か・・・そんな生活、オレだったら息がつまっちまう。おめェは偉いな」
「そんなことありません。ボク、教会のみなさんには感謝してるんです。身よりのないボクを引き取ってくれた上に、人並み以上の生活をさせてくれてるんですから」
「そう思えることが偉いってんだよ」
ガルヴァが立ち上がって、マリオンの頭をがしがしと撫でた。
「あ、もう!」
髪をくしゃくしゃにされ、マリオンが抗議の声を上げた。
その声に、土鳩が驚いて飛び立っていく。
鳩の羽根が舞い降りる広場を、巨大な影が横切った。
空を飛ぶ事を禁忌とされた人類が、唯一手にしている飛行手段。神聖科学の結晶、飛空船だ。
大昔はあんなものが大空狭しと飛び交っていたそうだが、今では世界中でも数えるほどしか存在していない。この国にもわずか3隻が残っているだけだ。
一隻を教会が、一隻を元老院が、残る一隻を王家が管理している。
エンブレムを見る限り、あれは王家の船、「クラウ・ソラス」だ。
「・・・空を飛べたら、天国に行けるんでしょうか・・・?」
マリオンが、ポツリともらした。
「・・・さあな。でも、アレでも月までは行けねェって話だぞ」
「そうなんですか」
二人はしばらくの間、帆船を見送っていた。
大きな帆いっぱいに風を受け、飛空船は雲間に消えた。
それでも二人は空を見上げていたが、やがて飽きたガルヴァが大きく伸びをした。
「さて、そろそろ行くか」
「どこへ行くんですか?」
「別に決まってねェよ。・・・そうだ、よかったらこの街を案内してくれよ」
ガルヴァはマリオンを振り返る。
ベンチに腰掛けたままワッフルを頬ばっていた少女は、顔を輝かせてガルヴァの腕を取った。
「もちろん! ・・・えへへ、これって、なんだかデートみたいですね」
「バ、バカ言ってんじゃねェ!」
顔を赤くして、ガルヴァはマリオンの腕を振り解いた。
――何赤くなってんだ、オレは。相手はまだ子供だぞ。
ガルヴァはマリオンの顔をまじまじと見つめた。
金髪碧眼の美少女。残念ながら、ガルヴァの恋愛対象には含まれていない・・・ハズだ。
「なんですか?」
美しい顔に疑問符を浮かべて、マリオンは首を傾げた。
「い、いや。なんでもねェよ」
「?」
「いやホラ。世が世なら、オレにもおめェぐらいの子供がいたっておかしくねェな、って思ってさ」
とっさにごまかす。
「いないんですか?」
「いねェよ」
ガルヴァは実は男色、つまりゲイだった。
といっても、女性を抱くこともある。バイセクシャルだ。
「・・・いや、ひょっとしたらどっかにはいるかもしれねェな。なにせ、種だけはあっちこっちでばらまいてっからな」
そういっていやらしく笑う。
もちろん、基本的にゲイなのだから、言うほど多くばらまいているわけではないが。
しかし、マリオンには意味が通じなかったようで、さらに首を傾げた。
「・・・種、ですか?」
「・・・なんでもねェよ」
逆にガルヴァの方が顔を赤くして、そっぽを向いた。
「案外、おめェはオレの子供かもしれねェな」
「あはは。それはありませんよ」
美少女のマリオンに、悪人顔のガルヴァ。二人の遺伝子に、類似性は全く見られない。
「・・・言うじゃねェか」
ガルヴァはその太い腕をマリオンの頭に回して、ぐりぐりと締め付けた。
「いたい、いたい」
文句は言うが抵抗せず、マリオンはうれしそうに目を細めた。
――ひょっとしたらコイツ、案外本気でオレに父親の影を見てるのかもしれねェな。
ガルヴァは、根拠もなしに、ふとそう感じた。
セントリリアの街を案内してくれというガルヴァの頼みを受け、二人は街を見渡せるビルの屋上にやってきた。
案内といっても、マリオンは街のことを何も知らなかった。
なぜかと訊いたら、「一週間に一度しか外出を許してもらえないから」だそうだ。しかも教会から遠く離れることは禁止されている。街を出るなど、もってのほかだった。
「じゃ、今日は外出オッケーなんだな?」
ガルヴァの問いに、マリオンは気まずそうに笑った。
透けるように白い肌の理由がわかった気がした。
「ホントはダメなんです。昨日外出許可、使っちゃったから」
「おいおい、また鞭でぶたれるぞ?」
「ルファさんが用事で出かけてるから、彼女が戻ってくる前に帰れば大丈夫ですよ」
どうやら教育係の人間はルファという女性らしい。
「それならいいけど、せっかくの外出でオレみてェなオッサンと一緒じゃ、つまんねェだろ?」
「いいえ。楽しいですよ」
強く吹く風に踊る髪を押さえ、マリオンは笑った。その笑顔は社交辞令などではなく、本当に嬉しそうだった。
――友達はいねェのか?
その質問を、危ないところで飲み込んだ。
学校にも行ってなくて、厳しい教会の戒律に縛られ、週に一回しか外出できない。そんなマリオンに、同年代の友達など出来るはずもなかった。
「まったく・・・子供を家に縛り付けるなんて、ひでェ大人だな」
「そんなに悪く言わないでください。ボクは、ちょっと特別なんです」
マリオンは悲しそうな顔でガルヴァを見た。
すると彼は屋上の入り口に立ったまま、さっきから一歩も動いていなかった。心なしか、顔色も悪く感じる。
「どうしたんです?」
「なんでもねェよ」
どこからか鳩が飛んできて、屋上に設置された広告用の看板にとまった。
「こっち来ないんですか? いい眺めですよ」
周りに高いビルがないため、かなり遠くまで見渡せる。
街の中央には教会があり、とがった屋根が天をついていた。
ポツリともらすガルヴァ。小さい声だったので、マリオンには聞こえない。というか、聞こえないように言ったのだ。
「え? なんですか?」
「なんでもねェよ」
ぷいとそっぽを向いて、ガルヴァは同じ台詞を吐いた。
「それにしても、週に一回しか出かけられねェなんてなぁ。そりゃ抜け出したくなる気もわかるぜ」
「その言い方だと、ボクがしょっちゅう抜け出してるみたいじゃないですか」
踊る髪を押さえ、マリオンは頬をふくらませた。
「違うのか?」
「普段は言いつけをきちんと守って、いい子でいますよ」
言いながら屋上の端まで歩き、フェンスに背をもたせかける。
フェンスはギシッと軋んでガルヴァの肝を冷やしたが、当のマリオンは少しも怖がっていなかった。
「なら、なんで今日は言いつけを破ったんだ?」
平静を装いつつ、ガルヴァ。
「だってほら」
マリオンは、鳩のとまった看板を見上げた。
天使の絵が描かれた、煙草の看板広告だった。マリオンがガルヴァをここに連れてきたのも、一つはこの看板のせいでもある。
「昨日約束したじゃないですか。『また明日』って」
ガルヴァは言葉を失った。
そんな約束を守るために、いや、あんなものは約束とさえ呼べない、ただの挨拶みたいなものだ。そんなもののために、鞭を打たれる危険を承知で抜け出してきたというのか。
ガルヴァ自身、そんな約束はとっくに忘れていたし、もし破られても特に残念には思わなかっただろう。
「・・・ってこたァ、なんだ? ひょっとしておめェ、オレを捜してたのか?」
あきれた感じでガルヴァ。
マリオンは照れて笑いながら頷いた。
「おじさんって、実は有名な賞金稼ぎだったんですね」
「・・・誰に聞いた?」
「怖そうな熊のお兄さんと、ヤマトの国の女の人です」
ルシアの言葉を思い出し、マリオンは続けた。
「なんていったかな・・・そうそう、向かい傷のガルヴァさんによろしく、って言ってました」
「ギルドへ行ったのか。・・・おめェ意外と行動力あるじゃねェか」
ゴロツキの集まる場所。まっとうな街の人間は、普段あまり寄りつかない場所だ。
「えへへ。自分でも驚いてるんです」
マリオンは笑ってガルヴァを見た。
本当に不思議だった。なぜここまで心惹かれるのか。
恋は盲目とはよく言ったものだ。これではまるで、暗示でもかけられたみたいだ。
その瞳が、ふと曇る。
「おじさんのこと悪く言われた時も、なぜか腹が立っちゃって・・・」
「悪く?」
聞かれて、マリオンは返答に困った。
ガルヴァが人買いだと思われていることを、言ってしまっても良いのだろうか。
「おじさんは・・・その、人買い・・・なんですか?」
思い切ってマリオンが訊ねる。
ガルヴァは高所恐怖症も忘れて、ぷっと吹き出して笑った。
マリオンは少し怒ったようだ。
「人が思いきって訊ねたのに、その態度はないでしょう?」
「すまんすまん。しかしおめェだって、オレみてェな善良なおじさんを捕まえて『人買いですか?』はねェだろ」
悪党面の三白眼。おまけに顔を縦断する傷跡。
どこをどう見ても善良なおじさんには見えなかったが、マリオンは素直に謝った。
「ごめんなさい」
「いいって、いいって。どうせギルドの連中が噂してるのを聞いたんだろう?」
「・・・ええ。おじさんのこと、よく思ってないみたいなんです」
「まあ、そうだろうなァ」
ガルヴァは苦笑して、懐から煙草を取り出した。
「あ。その煙草」
天使の看板の煙草だった。
「・・・ああ。何の因果か。オレァ、よっぽど天使に縁があるらしい」
シニカルに笑って火を付ける。
強い風のなか、苦労して火を付けると、煙を肺いっぱいに吸い込んでゆっくり吐きだした。
白い煙が一本の筋となって屋上に流れた。
「・・・天使を捜すなんて酔狂やってりゃァ、よくねェ噂の一つや二つ、流れるもんさ」
「酔狂ですか・・・」
「ああ」
「・・・でも、おじさんは・・・」
看板の鳩が飛び立ち、抜け落ちた羽根が一枚、降りてくる。
その羽根は、看板の天使の絵と重なって、あたかも天使の羽根のように見えた。
「・・・ちゃんと天使に会えたじゃないですか」