すしの変遷
日本経済新聞・夕刊「ルーツをたどれば すし編」より(タイトルは変更になっています)

●遊び心で生まれた? 巻きずし
(平成12年6月3日掲載分)

 すしに酢を使うのが普通になったのが元禄の頃(一七世紀末期)。こうした即席のすしは当初は邪道扱いされたが、それから百年もたつと、すしの王道を歩むようになっていた。そればかりか、姿ずしと箱ずし程度しかなかったバリエーションは、一八世紀末から一九世紀初頭にかけて、ぐんと広がった。今回は、その中の巻きずしにスポットを当ててみる。

 私が知るかぎり、巻きずしの最古文献は、寛延三年(一七五〇)の料理書『料理山海郷』である。ただし、意外なことにこれは「ご飯料理」ではなかった。魚のおろし身と大根おろしを簀の子で巻くというものだ。それでいて「巻鮓」の名前がつけてある。
 安永五年(一七七六)の『新撰献立部類集』にある巻きずしは、簀の子の上にご飯を広げ、魚身を乗せて巻きつけるというもので、「ご飯料理」である。が、ご飯を広げる前に、簀の子の上に海苔または和紙またはフグの皮を敷く、とある。つまり、巻きずしの外側は海苔ばかりではなく、和紙やフグの皮の場合もあった。当然ながら「和紙の場合は、これをはがして食べる」という注釈がある。

 これらから私が考えた巻きずしのルーツは、魚の姿ずしである。『料理山海郷』の巻きずしは、まさに魚そのものだ。また、『新撰献立部類集』がいう、フグの皮で巻いたすしも、仕上がりが一尾の魚を思わせるではないか。海苔や和紙は、魚の皮の代用と見られる。
 双方で違うのは、魚身とご飯の位置関係。姿ずしでは魚身の内側にご飯があるが、巻きずしは魚身をご飯で包む。この逆転現象を、私は当時の人々の遊び心の表れだと想像する。

 私が考える巻きずしは、一種の「見立て」。おそらく必要に迫られて作られたものではなかろう。粋人が思いついたか、粋人を喜ばすために料理人がひねり出したか。ともかく、考案された背景には、多分に娯楽的な要素が感じ取れる。
 享和二年(一八〇二)の『名飯部類』には海苔巻きばかりでなく、ワカメで巻いたものも紹介されている。やがては、卵焼きで巻いた太巻きも登場。

 斬新なアイディアで、巻きずしもまた、そのバリエーションを増やしていった。



●切り売りされていた稲荷ずし
(平成12年6月10日掲載分)

 今やポピュラーすぎるほどポピュラーな稲荷ずし。しかし、その発生は不思議なくらい妖としている。けれども、稲荷ずしそのものは、少なくとも一九世紀前半には、確実にあったことがわかっている。

 嘉永二年(一八四九)成立のエッセイ集『守貞漫稿』によれば、天保年間の末期(一八四〇年頃か)に、五目ずしを油揚げの小袋に詰めたものを「稲荷ずし」「篠田ずし」と称して売る者があったという。また、このすしは名古屋にはもっと前からあったもので、江戸でも店舗売りはそれ以前からあった、とも伝えている。ちなみに「最も賤価」だった。
 幕末の記事を綴った日記『天言筆記』は、弘化二年(一八四五)から江戸で流行った稲荷ずしは、油揚げの中に飯や豆腐ガラを詰めたもので、ワサビ醤油で食べる、と述べる。一個八文は「はなはだ下直」だったという。

 嘉永五年(一八五二)の『近世商賈(しょうこ)狂歌尽合(きょうかづくしあわせ)』には、稲荷ずしを売る商人の絵が描かれている。  テーブルに柱を二本立ち上げて、市松模様の日除けをつけ、その下には真っ赤な丸ちょうちんが三つ。「稲荷鮨」と書かれている。「屋台」というにもはばかられるような簡素なもので、これを天秤棒でかついで商売に歩いたと見える。
 テーブル上には、今からは想像もつかないような細長い稲荷ずしが並び、脇には包丁がある。書き添えられた売り口上は「一本が十六文、半分が八文、ひときれが四文」とあるから、切り売りしていたことは明かだ。
 細長い外形、包丁で切る、ワサビ醤油で食べる…。これらのことから、稲荷ずしもまた巻きずしと同じように、ルーツは魚の姿ずしにあるのではないか、と私は想像する。油揚げは、魚の「外皮」に相当する。

 さて、江戸時代末期にはかなりの普及をみていた稲荷ずし。「賤価」で「下直」なのだから、家庭でも盛んに作られたように思えるのだが、同時期に著された料理本をいくら探し当ても、このすしが出てこない。「家で作るすし」ではなく、「買って食べるすし」だったのであろう。



●すしダネの下処理は必須だった握りずし
(平成12年6月17日掲載分)

 握りずしの「発明者」としてしばしば名前が挙がる華屋与兵衛。寛政十一年(一七九九)生まれで、二十数歳まで札差に奉公し、その後、すし売りに転じたという。最初は江戸・松屋町かいわいを売り歩いていたのが、やがては両国に店を構えるようになった。

 正確に言えば、「握るすし」というのは与兵衛以前にもあった。けれどもそれは、握ったご飯の上に魚を貼りつけ、箱の中に詰めて押したもの。箱の中では笹の葉で仕切りを作りながらすしを並べたため、押さえつけてもひとつひとつがうまく起こし出せるように工夫はしてあったが、要は、箱ずしである。
 与兵衛は、押しつけることで魚の脂分が抜け出てしまうのが気に入らなかった。そこで考えついたのが「握り早漬け」。現代われわれが考えるような握りずしだった。時は文政の頃(一八二〇年代)だと思われる。
 このすしはたちまち大当たりした。店は大繁盛。「こみあひて 待ちくたびれる 与兵衛ずし 客ももろ手を 握りたりけり」とは、安政三年(一八五六)の『武総両岸図抄』にある歌だ。人気の勢いは江戸だけにとどまらず、すでに文政末期には、大坂でも握りずしの店ができたと、嘉永二年(一八四九)の『守貞漫稿』が伝えている。

 『守貞漫稿』にある、当時の握りずしのすしダネは、卵焼き・アナゴ・シラウオ・刺身(マグロらしい)・コハダ。海苔巻き(細巻き)や玉子巻きなども一緒に商われていた。このうち、刺身とコハダを握る時のみ、間にワサビがはさんであった。付け合わせはヒメタデや酢ショウガで、盛り合わせる時の仕切りにはクマザサの葉を用いたという。

 さて、当時の握りずしが現代と大きく異なる点はふたつある。ひとつは大きさ。今よりも二〜三倍はあった。三つも食べれば食事として事足りたが、元来はこれで腹一杯にするなど野暮。酔客が小腹を満たすくらいのものだった。

 今ひとつはすしダネの下処理だ。いかに江戸前(江戸湾)が近いとは言え、魚の鮮度を保つのは大変だ。塩や酢で締めたり、ゆでたりしてからすしにした。刺身をそのまま握るのはずっと時代が下がり、冷蔵庫が普及してからのことだ。



●回転ずしは江戸の屋台と同じ商法
(平成12年6月24日掲載分)

 すし屋の敷居が高いという人は少なくなかろう。その主たる原因はふたつ。職人の気むずかしさと不明瞭な価格である。例外も多々あることは承知の上だが、概して「すし屋のオヤジ」と言えば頑固一徹なイメージがあり、「すしの値段」と言えば「時価」に代表されるごとく、わかりにくい。
 しかも、そのオヤジのゴタクをありがたがり、「時価」を平然と食べることが「すし通」だと思う輩が、これまた少なからずいるから始末が悪い。すし屋はますます「特殊な場所」となって、カウンターで食べる握りずしは「超高級品」に祭り上げられる。

 すしが高級品となるのは江戸は深川で文化年間初頭(一八〇〇年頃か)に開店した「松がずし」なる店が始まりらしい。庶民には手の出ないような高価格を売り物にし、それがまた世の評判となった。以後、同じ路線を追う者が多くなったというわけだ。
 しかしながら、元来、握りずしとは気軽に食べられたものだった。ほろ酔いで屋台にふらりと立ち寄り、座りもしないで、食べて帰る。だからこそ「立ち食いずし」の異名がある。

 頑固オヤジと不明瞭会計を一掃して、握りずしを、「松がずし」以前の気軽な食べ物に引き戻したのは回転ずしである。これは、昭和三十三年、大阪の布施市(現・東大阪市)で生まれた。考案者は白石義明氏。二〜三年のうちに大阪市の繁華街にも支店ができるほどの人気だった。
 同様のアイディアを思いついたのは仙台の江川金鐘氏だが、すでに白石氏が特許を保持。その後、両者の話し合いで、東日本は江川氏、西日本は白石氏が商圏とすることになった。この協定は平成九年まで続く。
 東日本初の回転ずし屋は昭和四十四年に仙台で開店した。すぐに千葉県・東京都に分店。西日本では、大阪万博に出店して、その名を海外にまで知らしめた。以後の躍進は、説明するまでもなかろう。

 歌川広重の筆になる『東都名所 高輪』には、つけ台に握りずしを並べて客を待つすし屋の屋台が描かれている。客はその中から好みの者をピックアップしたのだろう。奇しくも、回転ずしは江戸時代の屋台の商法を踏襲しているのである。