●庶民が起こしたすしの改革 (平成12年5月13日掲載分)
元禄の頃(一七世紀末期)、すしに酢を使うことが普通になってくる。「何を当たり前のことを…」と思ってはいけない。すしは、もともと何ヶ月もかけて自然に酸味が出るのを待った食べ物。それを即時にして酸っぱくしてしまうとは、常識を覆すような発想だった。すしの歴史の中では、ナマナレの発生(室町期)に続く大変革なのである。
その頃、すしはかなりの普及をみていたらしく、こうした改革は庶民の側から起こったようだ。
いつの世にも、格式ばった古習にこだわる人はいるもので、とりわけ、庶民とは一線を画したがる「知識人」にその傾向がある。宝暦一〇年(一七六〇)の料理解説書『献立筌(せん)』には、酢を使うすしは「すしもどき」であるかのような記述がある。
さらに時代が下った享和二年(一八〇二)の料理書『名飯部類』でも、「すしとは本来、発酵させるべきもので…」と解説する。しかし逆に言えば、こう説明せねばならないほど、発酵ずしは当時の市民生活から離れていたことがわかる。事実、その著者ですらも、「発酵ずしを食べたことがない」と告白している。
人々にとって、発酵ずしはもはや過去の遺物でしかなかったのだが、その遺物のような習慣を守り続けていた人たちもいた。将軍・大名・公家といった「高貴な方々」である。
岐阜のアユずしは家康ゆかりと伝えられる名品。尾張徳川家がこれを管理し、初代から一五代までのすべての将軍に贈り続けられた。製法は、明治維新までずっと同じで、中世さながらの発酵ずし。
八代将軍の座を紀州家と争って負けた尾張家に対し、当時、江戸の街では「尾張は腰抜け」との戯れ歌が流行った。そこでは「将軍家へのアユずし献上を押しつけられている」との文句もある。かつての名品も、こんな評価しかなかった。
参考までに言えば、岐阜の鵜匠たちは、献上ずしのアユを捕獲する名目で数々の特権を有していた。維新後もそれを守ろうと、彼らは有栖川宮家へアユの献上を打診したが、そこにアユずしの名はなかった。当事者たちでさえ、発酵ずしは敬遠していたのである。
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