すしの変遷
日本経済新聞・夕刊「ルーツをたどれば すし編」より(タイトルは変更になっています)

●発酵期間の短縮化を目指して、方法を模索
(平成12年5月6日掲載分)

 本来のすしは、発酵によって魚肉を長期保存させるための方法であった。それが、すでに古代においてその意味は薄れ、中世には、発酵時間を短縮するという、長期保存とは逆行する動きが現れた。前回紹介したナマナレの登場である。
 以後、この動きはどんどん進む。ただし、すしは「酸っぱい食べ物」でなくてはならず、発酵期間の短縮化と酸味の獲得の双方を満たす努力が重ねられた。

 すしや漬物は、塩気が足りなかったり暖かい場所に置いておいたりすると早く酸っぱくなるという経験からであろう。暖めるという手段を講じた場合もある。
 『料理物語』(寛永二〇年=一六四三以前の成立)にいわく。「魚には塩気をつけず、代わりに塩味のご飯を抱かせ、ワラづとで包んで、火であぶる」と。こうすると、「一夜でナレる(発酵する)」という。
 もちろんこんなことでは一夜で発酵するはずもなく、すしは酸っぱくもならない。そこで次に出てくるのは、発酵促進剤の混入である。

 ひとつには、糀を使用。今日、北海道から北陸の日本海沿岸地方で作られる飯(い)ずし・ハタハタずし・かゆずし・カブラずし・ニシンずしなどは、魚を漬けるご飯の中に糀を加える。これらが、発酵期間の短縮に努めていた時代の産物かどうかは別として、少なくとも、糀を混ぜないすしに比べて、早く酸っぱくなることは事実である。

 別の方法では、酒粕を混ぜた。この種のすしが現代の日本で残存している例を私は知らないので、本当に速く発するのか知らないが、次に紹介する方法を見ればさもありなんと思えてくる。

 それは酒を使う方法である。その酒は「古酒がよい」と言明している書物もある。なるほど、酒は放っておくと酸っぱくなる。だいたいが、酢の元は酒だ。古くなった酒をご飯や魚にふりかければ、すしは一挙に酸っぱさを得ることができる。
 ここにいたって、すしは「発酵によって酸味が出るのを待つ」という姿勢から、「積極的に酸味を付ける」という姿勢に転ずる。ならば、最初から「酸っぱいもの」を混ぜればよい。かくて、すしは酢という調味料と出会うことになる。



●庶民が起こしたすしの改革
(平成12年5月13日掲載分)

 元禄の頃(一七世紀末期)、すしに酢を使うことが普通になってくる。「何を当たり前のことを…」と思ってはいけない。すしは、もともと何ヶ月もかけて自然に酸味が出るのを待った食べ物。それを即時にして酸っぱくしてしまうとは、常識を覆すような発想だった。すしの歴史の中では、ナマナレの発生(室町期)に続く大変革なのである。

 その頃、すしはかなりの普及をみていたらしく、こうした改革は庶民の側から起こったようだ。
 いつの世にも、格式ばった古習にこだわる人はいるもので、とりわけ、庶民とは一線を画したがる「知識人」にその傾向がある。宝暦一〇年(一七六〇)の料理解説書『献立筌(せん)』には、酢を使うすしは「すしもどき」であるかのような記述がある。
 さらに時代が下った享和二年(一八〇二)の料理書『名飯部類』でも、「すしとは本来、発酵させるべきもので…」と解説する。しかし逆に言えば、こう説明せねばならないほど、発酵ずしは当時の市民生活から離れていたことがわかる。事実、その著者ですらも、「発酵ずしを食べたことがない」と告白している。

 人々にとって、発酵ずしはもはや過去の遺物でしかなかったのだが、その遺物のような習慣を守り続けていた人たちもいた。将軍・大名・公家といった「高貴な方々」である。
 岐阜のアユずしは家康ゆかりと伝えられる名品。尾張徳川家がこれを管理し、初代から一五代までのすべての将軍に贈り続けられた。製法は、明治維新までずっと同じで、中世さながらの発酵ずし。
 八代将軍の座を紀州家と争って負けた尾張家に対し、当時、江戸の街では「尾張は腰抜け」との戯れ歌が流行った。そこでは「将軍家へのアユずし献上を押しつけられている」との文句もある。かつての名品も、こんな評価しかなかった。

 参考までに言えば、岐阜の鵜匠たちは、献上ずしのアユを捕獲する名目で数々の特権を有していた。維新後もそれを守ろうと、彼らは有栖川宮家へアユの献上を打診したが、そこにアユずしの名はなかった。当事者たちでさえ、発酵ずしは敬遠していたのである。



●文政〜天保年間に完成された関西風押しずし
(平成12年5月20日掲載分)

 すしが酢を使わずに発酵によって酸味を出されていた古代、そこにはふたつの形態があった。

 ひとつは、姿漬けのすし。魚の腹や背を開き、その中にご飯を詰めて、全体が一匹の魚の姿を呈するものである。フナずしやアユずしがこれに相当する。
 もうひとつは、切り身漬けのすし。平安時代の法令『延喜式』(延長五年=九二七完成)にサケずしの記載があるが、これなどは姿ぐるみすしにしたとは思えない。切り身にして、それをご飯に混ぜるなり乗せるなりして、容器に詰め込んだのであろう。
 このふたつの形態は、時代が下って、すしに酢が使われるようになっても依然として残る。というより、これらは互いに独自の発達を遂げてゆく。

 切り身漬けのすしは、やがて「こけらずし」と呼ばれるようになった。「こけら」とは、ひとつには木クズの意味がある。ご飯に混ぜるために薄切りにした魚の身を木クズに見立てたのであろう。
 「こけら」には、もうひとつ、瓦代わりの薄い板を指す意味がある。現在でも「こけらずし」の異名を持つ大阪の箱ずしを取材した折、「具は、瓦板を並べるように、わずかに隣にかぶせながら置く」という話を聞いた。
 かつては木桶や焼き物のカメであったすし漬け容器は、次第に箱へと変わっていった。それとともに、切り身漬けの発酵ずしは、酢が使われるようになり、今日的な箱ずしへと変容してくる。

 当初はご飯にも魚にも塩味程度で、酢は上からふりかけたものだが、後に、酢飯の上に魚の身を貼るようになった。具も、生魚ばかりでなく、卵焼などを乗せるようにもなった。
 嘉永二年(一八四九)の『守貞漫稿』は、大坂の心斎橋筋の「福本」なるすし屋が、従来の箱ずしよりも具を厚くしたすしを売り始め、大好評を博したとの記している。頃は文政から天保の頃(一八三〇頃)だ。具は、それまではトリガイを使うのが常だったが、タイやアワビや卵焼きといった豪華版にしたものを「こけらずし」と呼び分けるとも伝えている。

 これをもって、関西風の押しずしは、一応の完成をみる。



●無精者が考えついた? ちらしずし
(平成12年5月27日掲載分)

 炊き込みご飯や混ぜご飯を見て、「ここに合わせ酢を混ぜれば、ちらしずしになる」と思われた方はいないだろうか。
 実際にこれをやってみれば、とりあえずちらしずしの体裁と味は整うから、ちらしずしの発祥を炊き込みご飯や混ぜご飯に求める見方もある。いや、現実にはこうして生まれたちらしずしもあるだろう。

 しかし、すしの歴史の流れを見る時、非常に面白い発生エピソードがある。原型は、箱ずしだという。
 箱にご飯を詰め、上に具を貼って押し、それを抜き出して小切りにする。ご飯と具との位置が逆転することもあるが、箱ずしの作り方は、だいたいこうだ。

 ところが、無精な者もいたもので、この「箱から抜き出して、小さく切り分ける」という工程を省略してしまった。押しをかけた後にふたを開けて、そこにできあがっているすしを、匙(さじ)ですくい取るのである。匙で寿司を起こすから「起こしずし」と呼ばれたこのやり方は、大坂の堂島では「すくいずし」と名付けられて商品化されたという。この話は、享和二年(一八〇二)の『名飯部類』に載っている。
 せっかく押しをかけて固めても、匙ですくいだされては、すしはバラバラになってしまう。さればいっそのこと、最初から押しつけなければよい。こうして、ちらしずしが生まれる。

 すしは、箱ずしはもちろん、姿ずしも巻きずしも稲荷ずしも握りずしも、多かれ少なかれギュッと押しつける工程を持っている。ちらしずしだけが、唯一その例外。だから、このすしの「発明」は、すしの歴史の中では画期的とも言える。

 箱の中にすしを作り、それを木ヘラですくい起こすという、まさにちらしずし発生直前の様子を思わせるすしを、現在、私はふたつ知っている。ひとつは静岡県中伊豆町の「切りだめずし」。盛んに作られる地区の名を取って「原保(わらぼ)ずし」とも呼ぶ。  いまひとつは、兵庫県但馬地方の「まつぶたずし」。「まつぶた」とは「切りだめ」と同じく、すしを入れる浅い木箱のことだ。  画期的な発想は、細々とながら、受け継がれている。