●室町期に「ご飯料理」へ転身 (平成12年4月22日掲載分)
冷蔵技術が乏しく交通事情も悪かった時代、すしはナマモノの遠距離輸送に重宝された。当時のすしは、作ってから食べられるようになるまで長く発酵させたからである。運ぶ道中で日数がかかっても、すしにとっては不都合はない。むしろ、その間にゆっくりと熟成を進めることができる。
とは言え、すしは必ずしも「貯蔵・保存」といった消極的な目的のみで作られたわけではない。たとえば、近江国から平安の都にフナずしの原料となる塩フナが送られている。都ですしが作られたわけだ。
フナを長期保存するためだけであれば、塩フナのままでよい。それをわざわざすしにするというのは、ご飯との熟成発酵によって生まれる複雑な酸味を味わいたいという思いがあったからであろう。すしは、「酸っぱい魚料理」として、人々に愛好されていた。
すしは単なる貯蔵食・保存食の域を越えていた。このことは、その後のすしの変遷に強く関わっている。そして、その最初の大変革は室町時代に起こった。
それまでのすしは、魚とともに漬け込んだご飯は、こそぎ落として食べるものであった。それを、ご飯も一緒に食べてしまおうという動きが生まれたのである。すしが「ご飯料理」になるのは、これからである。
そうなると、何ヶ月も発酵させてご飯をベトベトにしてしまったのでは都合が悪い。したがって、発酵期間も短くなる。漬けた魚は、従来のすしよりも生々しい。よってこれを、生成(ナマナレ・ナマナリ)と呼んだ。
発酵期間が短くなれば、骨やヒレは固いままで残ってしまう。室町末期の医学書『医学天正記』に、小堀伊賀守(いがのかみ)が、フナずしの骨を喉に詰まらせたという記録があるが、「すしの骨はやわらかい」という、昔からの先入観があったがゆえの事故だったのではあるまいか。
室町時代は、米食が庶民にも普及した時代。かつては上流階級だけのものであったすしも、庶民の知るところとなった。しかし彼らにとって、ご飯を捨ててしまうことには抵抗があったはずだ。「もったいない」という発想が、ナマナレという新たな流れを切り開いたのであろう。
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