すしの変遷
日本経済新聞・夕刊「ルーツをたどれば すし編」より(タイトルは変更になっています)

●すしご飯とは無縁だった古代のすし
(平成12年4月1日掲載分)

 平安期の代表的な説話文学『今昔物語』の中に、すし商人の話が出ている。いわく「気分のすぐれなかったその商人は、商品であるすしの上に反吐(へど)をはいてしまう。が、その反吐を手でこそげ落とし、そのまま商売を続けた」と。
 なんとも不衛生なこの話に、当時のすしの様子をうかがい知ることができる。

 まず、平安時代において、すでに「すし」なる食べ物があったということ。次に、当時のすしは、反吐にも負けぬ強烈なにおいを持っていたであろうということ。さらに、反吐を落としてそのまま商売が成立し得たことから、すしには反吐のような物体が付着していたことや、その反吐のようなものは食用に供しなかったことが憶測される。

 このような汚らしい話と並び称して恐縮であるが、この話に出てくるすしと、形態的に似ているのが、滋賀県が誇る郷土料理フナずしである。
 すしとは言いながら酢を使うことはなく、味付けは塩だけ。塩漬けのフナをご飯の中で長期間の熟成をさせ、自然にわき出る酸味を魚身に移らせる。漬け上がるまで最低半年。モノによっては二〜三年かける場合もある。一緒に漬けたご飯はペースト状になっており、そのご飯は食べない。そのにおいは、これを知らぬ者がかいだら「腐っている」と言いたくなるくらい、独特で強烈なものだ。

 今日、「すし」と聞けば多くの人は握りずしを連想することであろう。さもなくば、巻きずしか稲荷ずしか五目ずしといったところか。ともあれ、合わせ酢で味付けした「すしご飯」の料理が一般的だ。しかしながら、すしがご飯料理になったのは比較的新しいことで、さらに、これに酢という調味料が使われるのはずっと時代が下る。握りずしなど、すしの仲間の中では最も新参者なのである。

 古代日本のすしは、いわば「魚の漬物」。何ヶ月もかけてようやく食用になるものだった。それが、長い年月を経るうちに、巻きずしだの五目ずしだのに姿を変え、遂には「超ファーストフード」とも言うべき握りずしをも生み出すこととなった。それは実に華麗な変貌劇である。



●本来は別物であった「鮨」と「鮓」
(平成12年4月8日掲載分)

 「すし」ということばを漢字で標記しなさいと言われれば、皆さんはどんな文字を当てられることであろう。
 おそらく最も多いと思われるのが「寿司」ではないだろうか。しかしこれはいわば当て字。和製漢字であって、中国伝来の文字ではない。江戸時代に作られたものらしい。
 平安時代、「すし」と訓じた漢字は「鮓」と「鮨」であった。どちらも、とりわけ後者は、すし屋の屋号でよく見かけるから、うなずかれる方も多かろう。

 よく尋ねられるのだが、「すし」を表す場合、この「鮨」と「鮓」は、どちらが正しい漢字なのか。この質問に答えるには、実はすしのルーツの説明が不可欠になってくる。
 中国において「鮨」も文字が最初に現れるのは、紀元前五〜三世紀の頃の成立とされる『爾雅(じが)』という字典である。その意味は「魚のシオカラ」。すなわち魚類の塩蔵発酵食品を意味した。

 一方の「鮓」は、一〜二世紀頃の『説文解字(せつもんかいじ)』なる字典で「鮨」とは違う食べ物であることが記されているが、字義としては、三世紀頃の字典『釈名(しゃくみょう)』で初めて明らかとなる。こちらは、「塩と米とで馴らした、魚の漬物」という意味だ。
 したがって、前回紹介した滋賀県のフナずしのような、発酵によって酸味を得るすし、すなわち古代日本で作られたであろうすしは、「鮓」という文字が当てられることになる。

 ところが、三世紀に出た『廣雅(こうが)』という字典で、「鮨は鮓なり」と書かれてしまった。以後、このふたつの文字は明確な区別なく日本にもたらされたらしい。よって、平安時代の文献、たとえば『令義解(りょうのぎげ)』でも、「鮨」と「鮓」は同義と解説されている。
 さて、問題は、あの文字にうるさい中国で、字典を作ろうというような語学者が、なぜに「鮨は鮓なり」というウソを書き、それがまかり通ってしまったのか、である。

 紙幅が尽きてきた。その解答は、次回にまわすことにする。



●和食の代表格は、東南アジア生まれ
(平成12年4月15日掲載分)

 前回の続きである。

 本来は別の食べ物を表したはずの「鮨」と「鮓」という二つの漢字は、古代中国の字書『廣雅(こうが)』で混同されてしまった。偉大なる文字の国・中国の言語学者が、なぜにかようなミスをおかしたのか。
 「鮨」は、古く紀元前五〜三世紀の字書『爾雅(じが)』で、「魚のシオカラ」と明快に説明されている。一方の「鮓」はといえば、「塩と米で醸した、魚の漬物」と解説されるのは、三世紀の『釈名(しゃくみょう)』まで時代が下る。例の『廣雅』が書かれた頃だ。

 これらの事実から、私たちが想像する筋書きは、次のようなものだ。
 三世紀頃の中国人(漢民族)の間では、「鮓」なる食べ物はなじみが薄かった。おそらく『廣雅』の著者は「鮓」を食べたことも見たこともなかったのではないか。それでいて、魚の塩蔵発酵食品であることは聞き及んでいたので、彼はシオカラであるところの「鮨」を思い起こし、「鮨は鮓なり」と書いてしまった、と。

 ただ、同じ中国でも南部の方では「鮓」はポピュラーだったらしく、三世紀半ばの『詩経(しきょう)』には、呉(三国時代に江南を治めた国)の「蒲鮓」が紹介されている。
 『廣雅』は、三国時代、魏の国で編まれた。江北である。かのミスは、中国北部で起こった。そして、同時期の江南では「鮓」が食べられていた。ここに、中国の人々にとっての「鮓」は、南方から伝来してきた「外来の食べ物」であったことが想像される。

 中国の南は、東南アジアだ。そこで、かの地に目を転じてみると、魚をご飯などのデンプン質とともに発酵させる食べ物は、今でも盛んに作られている。「鮓」のルーツはここにあるらしい。すしは、タイやミャンマーあたりの水田耕作民が生み出した発酵貯蔵食に端を発するというのが、目下のところ、主流な学説だ。
 東南アジアから中国へ。そこからは、朝鮮半島経由でも琉球経由でもなく、直接海を渡って日本へ…。その時期は明らかでないが、推定伝来経路から、米とともに日本に伝わったと考える学者もいる。だとすれば、すしの日本上陸は、縄文晩期ということになる。



●室町期に「ご飯料理」へ転身
(平成12年4月22日掲載分)

 冷蔵技術が乏しく交通事情も悪かった時代、すしはナマモノの遠距離輸送に重宝された。当時のすしは、作ってから食べられるようになるまで長く発酵させたからである。運ぶ道中で日数がかかっても、すしにとっては不都合はない。むしろ、その間にゆっくりと熟成を進めることができる。

 とは言え、すしは必ずしも「貯蔵・保存」といった消極的な目的のみで作られたわけではない。たとえば、近江国から平安の都にフナずしの原料となる塩フナが送られている。都ですしが作られたわけだ。
 フナを長期保存するためだけであれば、塩フナのままでよい。それをわざわざすしにするというのは、ご飯との熟成発酵によって生まれる複雑な酸味を味わいたいという思いがあったからであろう。すしは、「酸っぱい魚料理」として、人々に愛好されていた。

 すしは単なる貯蔵食・保存食の域を越えていた。このことは、その後のすしの変遷に強く関わっている。そして、その最初の大変革は室町時代に起こった。
 それまでのすしは、魚とともに漬け込んだご飯は、こそぎ落として食べるものであった。それを、ご飯も一緒に食べてしまおうという動きが生まれたのである。すしが「ご飯料理」になるのは、これからである。
 そうなると、何ヶ月も発酵させてご飯をベトベトにしてしまったのでは都合が悪い。したがって、発酵期間も短くなる。漬けた魚は、従来のすしよりも生々しい。よってこれを、生成(ナマナレ・ナマナリ)と呼んだ。

 発酵期間が短くなれば、骨やヒレは固いままで残ってしまう。室町末期の医学書『医学天正記』に、小堀伊賀守(いがのかみ)が、フナずしの骨を喉に詰まらせたという記録があるが、「すしの骨はやわらかい」という、昔からの先入観があったがゆえの事故だったのではあるまいか。

 室町時代は、米食が庶民にも普及した時代。かつては上流階級だけのものであったすしも、庶民の知るところとなった。しかし彼らにとって、ご飯を捨ててしまうことには抵抗があったはずだ。「もったいない」という発想が、ナマナレという新たな流れを切り開いたのであろう。