すしの未来
『これからどうなる21 −予測・展望・夢−』より

私は経済学徒ではないので、
商売としてのすし業、商品としてのすしがいかなる道をたどるのか、予測しえない。
ここでは、文化現象としてのすしの将来について愚見を述べさせていただくが、
それを予見することは容易ではない。
すしという食べ物がこれまでになした変身が、あまりにも大きすぎるからである。
往時は貯蔵食として用いられていたのが、
時代とともに次々と新しい様態を生み出し、
ついには、最も保存のきかない握りずしにまでなってしまった。
「掟破り」の連続を容認してきたのが日本のすしの歴史である。

当世、見慣れたマグロの握りずし。
しかし、握りずしが生まれた江戸は文政年間に、
だれがこんなものを予測しえたであろう。
下魚としてだれも振り向かないマグロを、
何の下処理もしない切り身のままで飯の上に乗せる…。
当時としては、狂気の沙汰である。

よって、二十一世紀末には、
現代人が「狂気の沙汰としか思えない」ようなすしが王道を歩いていても、
一向に不思議ではない。
思いもつかなかった材料を、信じられない処理をして酢飯の上に乗せたマグロの握りずしのことを思えば、
たとえば、ダイコンやニンジンの皮をナマのまますしダネにして、
上からケチャップをかけたすしがすしの主役になっていることだって、考えられなくもない。

さて、多少固い話をすれば、従来のすしの変遷は、
「手抜き」すなわち「調理の簡略化」というキーワードで理解することができる。
要するに、後世のすしになればなるほど、短期間で作れて容易に食べられるようになっている。
握りずしはプロの職人が作るものであって家庭料理ではないから、
これなどは、調理行為を他者に依存させた「究極の手抜き」である。
また、かろうじて家庭料理として残った五目ずしやいなりずしなどにしても、
合わせ酢、具材、果ては甘煮した油揚げまで商品化されているばかりか、
それすらも「出来合い」を購入する人が後を絶たない。
「手抜き」は行き着くところまで行き着いている。

こうなると、注目されるのは付加価値である。
食の遊興化を背景にした「素材へのこだわり」もそのひとつの傾向であろう。
同じ握りずしでも、魚に、米に、調味料に、握り方に、なんらかの一家言を持つ職人に作ってもらいたい…。
数年前の米騒動の時期でさえ、
「やっぱり米は国産にかぎる」などと贅沢を言った国民性である。
日本に相当深刻な食糧不足が起こる直前までは、「こだわりのすし」は追求されることであろう。

いまひとつの付加価値は、家庭のすしについて言えることだが、
手づくりのよさである。
すしを作るには、酢飯を混ぜたり握ったり巻いたりするという多少の手間が要されるが、
その手間が、実は、「心を込めた」という実感を得さしめる効果を高めている。
愛情をシンボライズするための有効な手段として、
手作りのすしは生き延びる余地がある。

第三の付加価値は、創造性である。
すしという食べ物に定義もセオリーもないことは、歴史が証明している。
だれがいかように改変しようとも、すしと呼べるわけである。
食べる者、作る者の意のままに、ゲーム感覚で新たな形態を創造する楽しさは、
すしの持つ大きな魅力である。
やはり、現代人の想像をはるかに超えたすしが出てくる可能性は高い。

最後に、きわめて特殊なケースだと思うが、
時代に合わず、好んで食べる人もほとんどいなくなった状態ですら、
昔ながらの姿で存続されることも考えられるので書いておく。
それ自体が文化財的な価値を有する場合である。
隣国・韓国ではキムチ作りの名人が「人間文化財」の指定を受けているし、
わが国でも「食の文化財」の認定制度を設けている自治体がある。
何の変哲もなさそうな「田舎のすし作り名人おばさん」が
人間国宝に指定される時代が来るかもしれない。

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