このページは、日本のすしの歴史を解説しています。
「概説編」には、とりあえずは簡単な解説を入れておきますが、
そのうち、だんだん詳しく書き直してまいります。

リクエストがあれば、日比野までメールをください。
優先的に、詳しく書き直します。

「ルーツをたどれば」は、
日本経済新聞に連載した記事からの転載です。





すしのルーツ

 すしの故郷は東南アジア。東北タイからミャンマーあたりの稲作民が、雨季にたくさん捕れる魚を貯蔵しておくために生み出した技法だと言われています。魚肉を塩で味付けし、ご飯の中に漬け込んでおくと、漬物と同じ原理で腐敗は抑制され、代わりに酸味と臭気のある魚肉ができあがります。これがすしの原型で、今でもかの地では見ることができます。
 この食べ物が中国を経て日本に伝わります。時期はわかっていませんが、学者の中には「稲作とともに」とする人がいます。だとすれば、日本のすしは2000年以上の歴史を持っていることになりますね。なお、日本のすしの最古文献は、奈良時代のものです。


古代のすし

 当時のすしは、まさに東南アジアの貯蔵食と同じようなものだったでしょう。しっかりと押しをかけておけば魚肉が腐ることもなく、それゆえ、遠距離輸送に適した食べ物でもありました。長い時間をかけて、魚肉もご飯も自然に酸っぱくなっていったのです。
 注意すべきは、この食べ物は「魚肉のみを食べる」ということです。私たちが糠漬けたくあんの糠を食べないように、すしもまた、「漬け床」であるご飯を食べることはなかったのです。ご飯をこそげ落とす食べ方は、滋賀県のフナずしに残っており、こういう形態をナレズシ(発酵ずし)の中でも特にホンナレと言います。


すしの「第一革命」

 時代が下って室町時代になると、庶民階層にも米食が広がって、すしも、それまで米をふんだんに食べることができていた、ごく一部の貴族階層たち以外にも普及していきました。あこがれの米飯を見た彼らは、さすがに「ご飯を食べない」ことに抵抗感があったようです。ゆえに、魚を漬けたご飯も一緒に食べようということになります。
 しかしながら、ご飯を食べようにも、発酵によってご飯粒はペースト状に溶けています。そこで、ご飯がまだ粒のままで残っているくらいで発酵をやめて食べてしまおうとしました。これがナマナレと呼ばれる「新型のすし」で、すしが「魚とご飯の料理」になったのはこの時からなのです。
 これは、すしの歴史の中ではまさに革命的なことです。もちろん初めてのことで、いわば「第一革命」と言えましょう。


すしの「第二革命」

 とは言え、すしの酸味は自然に熟成されて醸し出されるものでしたから、いくら発酵を途中で止めると言っても、そこそこの時間は必要です。今度はこの不満を解消しようとします。暖めたり塩気を少なくしたりしましたが、次第に「発酵促進剤」を混ぜるようになりました。ひとつには糀。これを使ったすしは、ハタハタずしやカブラずしなど、東北地方から北陸地方で今でもよく食べられています。
 別の方法では、酒や酒粕を混ぜることもしました。酒は放っておくと酢になりますから、これらをすしに加えると、たしかに早く酸っぱくなります。そして、「それなら、最初から酢をふりかければ?」という発想が出てきます。こうして、すしに酢が使われるようになりました。すしは、「酸っぱくなるのを待つ食べ物」から「最初から酸っぱい食べ物」へと生まれ変わったのです。江戸時代初めのことでした。
 酢を使うすしは、最初は異端視されましたが、次第に世に普及し、ついには発酵させるすしを「過去の遺物」にまで追いやりました。このことは従来のすしの様子を一変させ、ナマナレの発生に次ぐ画期的なできごとでした。「すしの第二革命」ですね。


多様化するすし

 また、江戸初頭の頃のすしは、今でいう姿ずしと箱ずしの、2つの形態しかなかったのですが、江戸も半ばを過ぎる頃には新しいかたちを次々と生み出してゆきました。
 たとえば、魚身でご飯を巻くのを逆転させたらどうなるでしょう。魚が芯になってまわりをご飯が包むことになりますね。しかしそれだと、ご飯が手についてベタベタします。そこで、海苔を巻き付けるようになります。これが巻きずしです。油揚げで巻いたものが、後に稲荷ずしへと発展します。
 箱ずしは、箱型から抜き出して小さく切らねばなりません。その手間を省くためには、ひとつには箱型を小さくします。これが「押し抜きずし」です。また、乱暴な方法ですが、いったん押し固めたすしを箱から出さずに、しゃもじですくい起こす人もありました。こうなると、すしはバラバラになってしまいます。そこで最初から押しつけないすし、ちらしずしが出来上がります。
 こうして、1800年頃には現代とほぼ同じ種類のすしが出そろいました。


握りずしの登場

 その最後に登場したのが握りずしです。握りずしは、江戸の街で「発明」されました。
 もっとも、それまでにも「握るすし」がなかったわけではありません。箱ずしを切り分けるのが面倒であったので、箱に詰める前にあらかじめご飯を握っておき、魚身を貼ったものを箱で押しつけていたのです。これだと、せっかく握り分けたすしがくっついてしまいますから、ひとつひとつを笹の葉で仕切って詰め込んだといいます。なんだか、その方が面倒な気もしますよね。また、強く押しをかける従来の作り方では魚の脂が抜け出てしまい、旨味も少なくなります。
 こういう欠点を避けようとアイディアを出したのは、江戸ですし商を営んでいた華屋与兵衛だと言われています。与兵衛は箱で押しつけることをせず、手でしっかりと握ることで、手間と時間の省力化を図りました。そして、それはたちまち大流行するのです。
 が、握りずしも、所詮は「江戸の食べ物」で、しかも「職人が作る料理」。地方には地方のすしがあり、家庭ではそれらが作り続けられていたのでした。


握りずしの全国制覇

 維新後の明治政府は、東京の文化を日本文化のスタンダードにしました。ゆえに、握りずしは全国区の食べ物へと格上げされます。加えて、関東大震災や太平洋戦争の帝都空襲などで、東京のすし職人が地方へ流出しました。さらに握りずしの「全国制覇」を決定づけたのは、戦後の一時期に施行された飲食業統制令でした。
 当時は食糧難でした。アメリカから食料援助を受けねばならず、そのためには飲食業が派手に営業していては不都合でした。そこで、飲食業は営業停止を命じられます。もちろん、すし屋も営業できません。
 ところが、東京都のすし組合が「名案」を出しました。いわく、「客にお米を持ってきてもらい、われわれはそれをすしに"加工"してあげましょう。これならば"飲食業"ではなく"加工業"だから大丈夫でしょう?」と。これが当局(警視庁)に認められ、なんと、すし屋だけは堂々と営業できることになったのです。
 この「名案」に、全国のすし組合が「右ならえ」をしました。しかし、東京都の組合が許可を受ける際に提示した「米1合で握り10カン」という条件も、そのままならってしまいます。つまり、すし屋は握りずしでなければ正規の商売ができない状況になってしまったのです。
 こうして、すしの歴史の中では最も新参者の握りずしが、最も広範に行き渡る結果となりました。そして、その傾向は、食糧難が解決された現在でも、なぜか改まることがないのです。