町並みを歩く

本町の家並み(妻入りづくり)

【本 町】

 先の足助村見地帳に東町と記されているところで、西町とともに最初に形成された街区です。この町は、江戸時代には大商人が集まっており、大きな商家が建っていました。最も大きな商家は紙屋と呼ばれており。間口40m、奥行き100m、屋敷内には7つの土蔵があります。この辺りは妻入り、平入りが入り混じっていて、町並みの景観としては比較的よくまとまっているところです。

 足助郵便局は平成元年の建て替えの際に、やはり町並み風情に合わせて建て替えられたもの。反対側の三嶋屋と呼ばれるところは、最近まで旅館営業がされていたところで、旅籠の面影を留めています。

 この前の小道を海老屋小道といい、下りていくと足助川に出ます。足助川に沿ってやや下がると地蔵公園があります。8月14日には5000本余りものろうそくが灯る「万灯まつり」があります。

万灯まつり

 和菓子・加東家一帯は、江戸時代には白木屋宗七という人の造酒屋だったところで、現在は6軒の商店として使用されています.ここの床柱には、加茂一揆のときにつけられたという刀傷の跡があります。この裏手はかっつて本多7000石の陣屋が置かれていたところで、現在は県足助事務所が置かれています。

【田 町】

 田町も寛永の見地帳に記されている古くからの町です。最初に行き当たるのは豊田信用金庫足助支店。一見、昔の両替商を思わせる建物で、昭和54年に今の形に建てかえられました。

 やや行くと「足助中馬館」。大正元年に建てられた銀行社屋を改装して、足助の商業や金融・交通・町並み等の資料を展示しています。

 さらに進むと、やがて赤い鳥居が左手に見えます。この鳥居を潜って進むと右手にお釜稲荷が祀られています。このお釜稲荷には古い民話が残されています。

 江戸時代の旧道は、足助川右岸に沿った細い道で、今は石畳舗装がしてあります。この道沿いにはかって大庄屋を勤めた商人が住み、多くの人馬が行き交いました.明治以降田町新道が開削されて、裏道となってしまいました。

加茂一揆・・・天保7年(1836)9月20日に松平村、九久平村など加茂郡南部の有志20人が密かに集まって、米・酒などの安売り、頼母子の2年休会、領主に対する年貢金納相場の引き下げ等を要求して立ち上がったもの。六所山、炮烙山を囲む村々の庄屋・米屋・酒屋などを打ち壊し、さらに、各陣屋へ要求を突きつけて承認をさせました。 一揆は次第に勢力を増し、23日の午後足助に入ってきて、西町の造酒屋・山田屋与茂八宅、同じく西町の穀屋・木市屋仁兵衛宅、本町紙屋・鈴木利兵衛の空き家、本町酒屋・上田屋喜左衛門宅、本町造酒屋・白木屋宗七宅を次々に打ち壊し、 床の間の刀傷はその時のものです。  この一揆は5日間にわたり、247か村、11,457人もの規模に上った。

万灯と夏祭りの花火

地蔵公園・・・本町・紙屋裏に、平成6年に整備されました。土まんじゅうの上を拳大の川原石でおおった江戸時代初期のものと思われる墓があり、同中期に建てられたと思われる六地蔵や供養塔が祀られています。よく植栽が施され、付近を散策する人の休憩地ともなっています。

中馬館

足助中馬館・・・大正元年に稲橋銀行足助支店として建てられたもので、明治から大正にかけての地方銀行の姿をよく残しています。県の文化財指定。 かっては取り壊されて駐車場になる運命にあったのを、町並みの大事な顔であるということから、「足助の町並を守る会」の有志が利子補給をして取り壊しを延ばしてもらい、その後、町が取得し、資料館として残っています。
お釜稲荷・・・今から700年程前の昔、一升釜を下げた老人が現れて、占いから予言まで百発百中という能力持っていたという人で、付人がたくさん教えを乞いに来たということです。そして持っていた一升釜でご飯を炊いては「さあ、食べなされ」といってどんどん振る舞うが、一こうにご飯はなくならなかったということです。 村人が不思議に思って尋ねてみると、「我は、これより三十里離れた山奥に住む平八稲荷である」といって、姿を消してしまったそうです。  それから数百年後、足助の領主・本多淡路守様の夢枕にお告げがあり、淡路守様はこの釜を探し出され、陣屋の裏に祀られたということです。

 

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