DISCLAIMER:「ベルサイユのばら」の著作権は、池田理代子先生および池田理代子プロダクションにあります。
この作品は作者が個人の楽しみのために書いたもので、営利目的はありません。

Author: miki

Email: miki@he.mirai.ne.jp

Date: 2/27/2002

Category: オスカルの“戦友”マルグリットの語る心情

Spoiler: 木崎喜代治著  「マルゼルブ〜フランス十八世紀の一貴族の肖像〜」 1986年 岩波書店

Authors note:
(まだ途中書きの作品です。すいません)

長文の上に、史実がくどいので、それに耐えられる方のみ、お読みいただけるとよろしいと思います(苦笑)。
malyn様に素敵なイラストをいただいてから、オスカル様とアンドレの仲を素直に祝福できない、 オスカル様に憧れる女性がいるとしたら、どんな女性が想像できるかと思って書いたファンフィクションです。
マルグリットは、実在の人物ですが、彼女の性格や容姿について書かれた書物は、日本語では殆ど存在しません。
多分フランスにも、殆ど存在しないと思います。ですから、彼女についての詳細は、 あくまでも私の妄想です。
できるだけ史実を基に書きましたが、あくまでファンフィクションとして、読んでいただければ幸いです。
compagnon d'armes(コンパニョン・ダルム)とは、“戦友”(男性形)を意味します。
この作品は、キリ番プレゼントとして、みずき様に捧げさせていただきます。大変遅くなってすいませんでした。
個人で楽しむ以外の無断転載・再配布は、ご遠慮願います。

Compagnon d'armes
コンパニョン・ダルム
〜戦友〜
 

 ファーブルの作った新しい暦でいえば、フロレアル(花月)1日(1794年4月20日)、夫であるルプティエ・ド・ロザ

ンボが処刑されたと、牢獄の中で人づてに聞いた。彼は、パリ高等法院の元部長評定官であり、立憲議会が

高等法院を廃止するという法案に抗議したために、「フランス人民の自由と主権に反対する陰謀を企てた」罪で

告発され、さらに、反革命文書を隠匿していたという理由で、昨年、私の父達と共に逮捕されたのだ。でも、私の

父があの「高徳のマルゼルブ」でさえなければ、彼はこれほど注目されることもなかったかもしれない…私とさえ

結婚していなければ…、或いは、助かる道も残されていたのかもしれない 。でも、どちらにしろ私達にも、さほど

時間は残されてはいまい。あと2、3日の命だろう。


 私は、放心しながら、ローブの下のポシェットから密かに一枚の絵を取り出し、月明かりの下で、誰に問いた

だすともなく、語りかけていた。 私の“戦友”オスカル…「あなたの望んだ革命は、こんなものだったの?」

私は、涙が止まらなかった。ヴィヴァンが銅板画として描いたオスカルとアンドレの絵は、既に何度も隠すために

折られた皺と、私の涙でかつての優雅な面影を留めてはいなかった。そのクシャクシャになった絵をみつめながら、

私は自分の人生に想いを馳せ、ただ一つ、私がオスカルに告げるべきだった言葉を発しなかったことを…ひどく

後悔していることを思い出していた。

*****************************************************************************

  私の父であるクレチアン・ギョーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブは、ルイ15世の治世のもとで、出版統制

局長でありながらも、ルソーと親交を持ち、また、ルソーも父に深い信頼と敬意を込めて自伝的書簡を送るほど

親密な間柄だった。つまり、ルソーの度を越えるような気むずかしさに対して、父も並外れた忍耐心と寛容を示し

続けたのだった。父は、大貴族ではあったが、出版の自由を保障しようとする自由主義的な風貌を持ち、父の

保護のもとにディドロの「百科全書」など哲学者達の著作が、刊行されたのだった。また、租税法院院長としても、

ルイ15世の治世の後半にあたる財政危機の際に、国王に勧告と抵抗の姿勢を示して、絶対王政の根本的な改革

を求めるなど時代に先駆けて革命思想家の先駆的地位を占めていた。政治家・行政官としてだけではなく、学者・

文人としても、アカデミー・フランセーズ、文芸アカデミー、科学アカデミーの三大アカデミーの会員を兼ねるという

稀な人物だった。


  それなのに、革命委員会は、自分たちが崇め奉るルソーの保護者であった父さえ、ギロチンの刃の下に送り

込まねば安心できないと思っているようだった。父は、ただ自分の信念に基づいて、かつて使えた主人であるルイ

16世の弁護を自ら引き受け、国王の窮状を少しでもましなものにしようとしただけだったのに…。 しかし、父のこの

態度は、世間の人々に「高徳のマルゼルブ」へのさらなる尊敬を呼び起こし、 ロベスピエールやフーキエ・タン

ヴィルに狙われる理由を与えただけだったのだ。


 私こと、アントワネット・テレーズ・マルグリット・ド・ロザンボは、マルゼルブの娘として、1756年2月6日に

パリに生を受けた。母は、美食家であり、ヴォルテールとの親交でも知られた、大金持ちの徴税請負人の

グリモ・ド・ラ・レニエール一族の出身であった。彼女は、嫁家の財政の窮乏を助けるために、50万リーブル

もの持参金付きで嫁いできた。つまり、私の父母の結婚は、政略結婚だったのだ。しかし、父は、家庭的な人で、

決して酷い父親や夫ではなかった。けれども、残念なことに、両親には、私と妹のフランソワーズ・ ポーリーヌ、

つまり、娘達しか誕生しなかった。ラモワニョン家は、元は剣帯貴族であったため、私とオスカル・フランソワは、

遠い姻戚関係にあり、わずか数ヶ月しか歳が離れていないため、私達は幼友達でもあった。


 ジャルジェ将軍は、娘を愛する優しい父親ではあったが、厳格な面があり、オスカルとアンドレには、 厳しい

教育をしていた。しかし、私の父は、子どもの教育に関してルソーのような自由な思想を持っており、時折共に

訪れる幼い二人を私達姉妹同様に遊んでくれた。

「ここでは、自由にしていいんだよ。おいで!」

忙しい仕事の合間をぬい、二人が滞在する間、彼自身も男の子を持たぬせいか、お腹や背中によじ登らせたり、

激しい遊びをして、二人を喜ばせるのが、彼の楽しみでもあった。 アンドレもまた幼くして両親と死に別れたため、

ジャルジェ将軍とはまた別の親近感を持って、私の父を見ていたようだった。


  法服貴族の家も、帯剣貴族と同じで、息子が生まれなければ、家督を継がせることはできない。 つまり、私と

オスカル・フランソワは、同じように名門に生まれながらも、家督を継ぐ資格のない女であった。そして、長女と

末娘という違いはあっても、私達は家を守る娘としての立場を共有していた。 ただ一つの違いは、私は家を守る

ために、同じような法服貴族の名門であるロザンボと結婚するという手段しか選択の余地はなかったが、オスカル

は、父親と同じように軍人として生きることが、さまざまな条件により幸運にも許されていたことだった。 ただ

それは、彼女にとっては、過酷とも言えるほどの努力と忍耐の連続なくしてはなりたたない幸運ではあったの

だが…。それでも、私は、正直言って、彼女が妬ましいほど羨ましかった。尊敬する父と同じように生きることが

許される機会があるだけでも、彼女は、私より恵まれていると思っていた。私には、そんな機会は一度も与えられ

なかったから。


 わずか13歳でロザンボ家に嫁ぐことになった1769年5月30日の結婚式の日、私は彼女に告げたのだった。

「オスカル、あなたは、これから軍人という立場で、私と同じ名を持つ新しい皇太子妃に仕え、それにより家を

守っていく。でも、私は結婚と言う手段で、マルゼルブ家の血を繋ぎ、この家を 守っていくわ。手段は違っても、

私達は、女性の家督相続を禁止する社会に対して、戦いを挑んで行くCompagnon d'armesだわ。

男達に負けないように、一族を守っていくことに挑戦するんですもの。」

「フフフ…ずいぶん勇ましい花嫁だね。ロザンボ氏にまで、その調子だと嫌われるぞ。気をつけたまえ。

トワネット(アントワネットの愛称)」

彼女は、あの宝石のような蒼い瞳を、他の子供のいたずらを見つけた子供のように輝かせながら、私に忠告した。


「大丈夫よ、心配はいらないわ。さすがの私も、夫となる人の前では、大人しくしているわよ。オスカル」

「でも、男どもに戦いを挑む前に、幼馴染には、まず幸せな花嫁になって欲しいというのが本音だよ。」

「ありがとう、オスカル。そうね、 それも重要ね。夫と仲良くして、必ず男の子を産まなくちゃ。」

「幸せにおなり、私の戦友さん。君の結婚に神の祝福を…トワネット」

25年経った今も、背の高い彼女が私の額にくちづけして、私の結婚を祝福してくれた、あの優しく美しい

笑顔が、私の記憶の中に鮮やかに蘇るようだ。



 1770年は、王太子の結婚がせまり華やかな年あけとなった。オスカルは、公人としての責任が
まし、その従者と

してのアンドレも忙しさをまして行ったようだった。そして、私の父の身辺もあわただしくなった。租税法院院長として、

国王の恣意的課税権に対抗したため、つまり、王権とパルルマン(高等法院)の抗争に巻き込まれたため、オス

カルの父であるジャルジェ将軍を始めとして、親戚・姻戚関係にある有力貴族たちのルイ15世への取り成しも功を

奏さず、父も頑固に国王に抵抗したため、次第にその立場を悪くしていったからだ。


 1771年は、私にとって忘れ得ぬ年となった。1月11日、母のマリー・フランソワーズが、自宅近くの森の中で

突然、謎の猟銃自殺を遂げたのだった。自殺の原因には様々な憶測が流れたが、結局はっきりとはしなかった。

オスカルも忙しい勤務の合間をぬい、私達家族へ深い哀悼の意を捧げるために立ち寄ってくれた。

「マリー・フランソワーズ様は、私達の世界を生きるには、きっと純粋過ぎたんだよ。トワネット、これからは、

君が今
以上に父上のお力にならなければならない。母上を失って悲しいとは思うが、くじけてはいけない。

君の父上にとっては、大法官モーブー殿との戦いは、まだ続いているのだから。君は私の戦友だろう。

君は君の一族を守らなければ…。」

私は、夫や家族の慰めとは違い、私を叱咤激励するような彼女のお悔やみの言葉に改めて、彼女の精神的な

成長を感じたのだった。私はその時、毎日、王太子夫妻の近くに侍り、いやがおうでも、ヴェルサイユ宮殿の

大貴族の、大人達の汚れた世界を垣間見なくてはならない純粋過ぎる彼女の心の重さを察したのだった。

私は彼女の胸で泣きながら、その時初めてはっきりと、自分の娘時代と別れを告げたのだった。


 母の死から、10日も過ぎぬうちに、高等法院は廃止され、4月8日には父が追放の憂き目となった。そして、

翌日、とうとう租税法院まで廃止されることとなった。封印令状により領地のマルゼルブ村の地から外に出ることを

禁じられた父は、パリに住むルソーとの手紙のやりとりや、植物学の研究に没頭して日々を過ごしていた。

父は元々文学や自然学等を愛しており、つねづね自分は公人には向かないと考えていたため、名門法服

貴族の一員の宿命として位置付けられた天職、つまり、司法官への道が閉ざされても、むしろ嬉々として

その状況を楽しんでいた。
時折、ヴェルサイユのオスカルからは、父へのご機嫌伺いにと、珍しい植物や

王太子妃とデュ・バリー夫人の仲違い事件等々の宮殿内の
、一見滑稽とさえ思えるような事態を揶揄した

手紙が届けられることがあった。


 1774年5月10日のルイ15世の崩御、そして、新国王ルイ16世の即位とともに、フランスには、再び春が

訪れたかのようであった。しかし、オスカルの手紙には、世間の華やかさとは違い、寂しく王家の墓所である

サン・ドニ教会へ運ばれて行った、かつての最高権力者であるルイ15世への哀悼の意が綴られていた。


 そして、私も父とともに、またその春の嵐に巻き込まれることとなった。1774年には再び、高等法院と

租税法院の再建がなされ、75年には、父が財務総監チュルゴの招きで、宮内大臣の職に就任したからだった。

その間の75年2月7日には、私の妹ポーリーヌが、16歳を待たずにモンボワシェ氏と結婚したので、久しぶりに

我が家にも華やぎがもたらされた。オスカルも久しぶりに我が家に滞在し、この結婚を祝福してくれた。

彼女は、もうすでに立派な近衛隊士となっており、その姿は凛々しく華やかで、優美でもあり、理想的な近衛兵の

ように、私の目には映った。私は誇らしかった。私の戦友は、見事に男性社会の軍隊で成果をあげ、新国王

夫妻のお気に入りの一人と目されていたからだった。しかし、父は、別の考えを持っているようだった。

「オスカルにとっては、これからが試練の時なのだ。近衛兵としても、人間としても、女性としても…

権力の中枢にいれば、嫌でも行わなければならないこともでてくる。彼女は純粋過ぎるだけに、どれほど

傷つくかしれないこともあるだろう。彼女の本当の悩みは、これから始まるんだよ。いや、彼女だけではある

まい。アンドレだって同じことだよ。 マルグリット」

父の言葉は、私には意外だった。あれほど武術でも、学問でも、美しさでも、男の誰よりも抜きん出ており、

新国王夫妻の信頼を得ているオスカルが、何を悩むことがあるのだろう?それに、アンドレは、近頃の召使と

しては珍しいほど、忠実に幼友達である女主人に仕えていた。二人に、あるいは、二人の間に何を

心配することがあるのだろうか? それは、父の杞憂に過ぎないと、私は軽く取り合わなかった。

後年、父のこの言葉を、私は感慨深く思い出すことになるのだが…。


 当時、心配事があるとすれば、政治的には、国王夫妻に後継ぎとなる王太子様が誕生しておらず、財政の

窮乏が政治の混乱を予想させたことだ。そして、個人的には、私にはまだ娘が3人生まれただけで、息子に恵

まれていないことだった。


 父が宮内大臣として宮廷にあがり、そこで過ごした10ヶ月の間、私は父の世話もあり、何度も宮廷へ伺候した。

そして、その度にオスカルとアンドレとの旧交を暖めたのだった。二人は、見知らぬ他人さえ同室しなければ、

相変らず仲の良い幼馴染で、主従であった。オスカルが美しい金髪をなびかせ、凛とした蒼い瞳で兵士達に

命ずる姿は、とても凛々しい理想的な近衛隊長としての活躍ぶりで、私にとっては我がことのように誇らしかった。

父は宮廷でも相変らず窮屈な礼儀作法や厳格な服装を嫌い、いつも垢まみれの茶色の外套に黒いタイツをはき、

大臣というより薬種商(これは、当時決して褒められた言葉ではなかった。)の姿でいたために、しばしば私や

オスカルからお小言を頂戴していた。すると、父は必ず彼女のそば近くに仕えるアンドレを味方につけようとして、

昔の遊びの数々を持ち出して、 二人の子ども時代に話題をそらそうとしたのだった。

「アンドレや、この哀れな老人を助けておくれ。女性二人に苛められているのだよ。昔は、君達を思う存分遊んで

やったというのに…。オスカルは、なかなか厳しい近衛隊連隊長だね。」

「マルゼルブ様、できれば私もお助けしたいとは思うのですが…。マルグリット様とオスカル様のお二人に

勝ったことは、残念ながら子どもの時からございません。私ごとき力弱き者の助力は期待しないで下さいませ。

申し訳ありません。」

「うむ…アンドレにまで見捨てられるとは…これでは、ジャルジェ将軍に援軍を頼むしかないな。ハハハ…」

そんなたわいのない会話は、窮屈な公人としての仕事の合間の楽しい一時として、父を慰めてくれたのだった。


  まもなくはっきりとしたことは、父が大臣に就任する前に予感していた通り、ルイ16世の優柔不断な性格では、

父が望むような改革がなんらなされず、宮廷経費を削ろうとする父に対して、王妃が圧力をかけ、父の退任を

国王に迫るようになったことだった。もともと大臣の地位に固執していなかった父は、幾度も国王に辞任を承認

してくれるように求めていた。父の立場を心配する私に対して、オスカルは、ガリアニの挨拶を持ち出して、安心

するように慰めてくれた。

「モールパ、チュルゴ、サルチーヌ、マルゼルブ…一人だけでも一帝国を再建するに十分な人間が、四人も

いるのだよ。心配ないよ。改革はうまくいくよ。それに、たとえ父上が大臣を辞しても、国王陛下が父上を再び

追放に処すことは絶対にない。トワネット、安心おし。」

確かに辞任後もオスカルのいう通り、追放などという処分はなかったが、父はその独立心のために官職を

手放した途端、南西部フランスへの徒歩旅行だの、ネーデルランドへの身分を隠した旅行だのに、出かける

ようになった。


  その後、私とオスカルの交流も彼女が忙しさをますにつれ、時折の手紙のやりとりのみになっていた。

1777年になり、私もやっと四人目の子どもで男子に恵まれ、彼女は久しぶりに、後継ぎの誕生祝に駆け

付けてくれた。

「おめでとう。トワネット…元気そうな男の子ではないか!これで一安心だね。君も元気そうでよかったよ。」

「ありがとう、オスカル。やっと後継ぎに恵まれたわ。これで、夫を安心させられたし、何より、ロザンボの家と

名門ラモワニョン家の血を引くマルゼルブの家の血統も絶やさずに済んだわ。私の戦いはひとまずの勝利を

得たような気がするわ。あとはこの子を立派に育てることだけだわ。」

「そうだね。君の使命はひとまず果された。ご苦労様だったね。私の戦友さん」

彼女は、私への労いの言葉を、溢れる笑顔の中に滲ませてくれた。私はふと以前の事件を思い出し、彼女に

問いかけた。

「いつかあなたが襲われた事件があったけれど、もう大丈夫なの?オスカル」

「君の耳にまで達していたのか?心配をかけてすまなかったね。もう大丈夫だよ。少し傷跡は残ったが、

もう何も不自由はないよ。」

「国王夫妻の信頼厚いジェルジェ家に恨みを持つなんて、そんなにいないはずなのに…って父も夫も心配して

いたわ。私達で何か力になれることがあれば、何でも言ってくださいね。オスカル」

「…ありがとう。でも、もうあの事件のことは忘れてくれ。それが一番なんだよ。トワネット」

私の危惧を払拭しようと、つとめて明るい笑顔を私に向けていた彼女だったが、 しばらくすると、少し顔を

曇らせて、本音を漏らし始めた。

「王妃様にも、君のように早くお世継ぎが授かるといいのだが…。今のままでは、あまりにも王妃様が

おいたわしい。 王妃様は、本来愛情あふれたお人柄なのだが、世間の人々はなかなか理解できないでいる。」

「本当にそうね。王妃となったからには、お世継ぎを王国に授けることこそが、一番の義務ですもの。それが

果せないとなると、王妃様もおつらい立場だわね。」

私には、王妃様の真実はよくわからなかったが、その立場には同情を禁じえなかった。そして、そんな本音を

もらさずにはいられないオスカルの立場にも、同情していた。

「…父を見ていても思うのだけど、宮仕えは大変ね、オスカル。王妃様にはフランスの今までの王妃様方の

ように、宮廷の礼儀作法を重んずるようなお気持ちは、あまりないようだし…。お気に入りのお取り巻きには、

ロザン公、アルトワ伯、ディロン、フェルゼン伯、ヴザンヴァル男爵、リーニュ公…女性では、ランバル公夫人、

ポリニャック夫人…宮廷の由緒正しい身分の方々よりも、外国人か成り上がり者が多くて、特に王妃様の

親友とされるポリニャク夫人の愛人との噂もあるヴォドルイユ伯のことは、私の耳にも入るくらいのゴシップ

だわ。王妃様は、王族の特権と放縦は手放したくないけれど、私人としてふるまう自由も欲しいようね。

一貴族の奥方ならば許されても、王妃というお立場では、あまり歓迎されないことだわ。私も今のお立場には、

ご同情は申し上げるけれど、今のままでは、フランスの大貴族からも、王妃様への批判がでかねないわ。」

「…王妃様はお取り巻きに囲まれていないと、お寂しいのだよ。お立場をよくするためにも、早くお子様が…

王子様がお生まれになるといいのだが…。」

昔の無口なオスカルからは、考えもつかない愚痴や心配事が語られたことに、私は少々驚いた。彼女は心底、

王妃様のことを心配しているようだった。そして、とうとうフランスがアメリカ独立戦争に介入することになりそう

な様子だと、彼女は心配そうに語った。


 まもなく王妃様の兄君ヨゼフニ世の来訪後、国王夫妻は真のご夫婦となられ、翌年の1778年末に、初めて

のお子様であるマリーテレーズ様が、ご誕生された。しばらくして、久しぶりに父の元を訪れたオスカルは、

私のご機嫌伺いにも来てくれた。

「やっとお子様が誕生されて、王妃様も少しは落ち着かれたのね。よかったわね。オスカル」

「…いや、それが、そうでもないのだよ。今度は、王妃様の義務の数々を拒否されて…お気に入りの人間達

しか出入りできないプチ・トリアノンに移られることになったんだよ。私もご意見申し上げたが…無理だったよ。

どうしたものか?お父上にご相談に来たのだよ。トワネット」

「私の戦友さんは、心配事からなかなか解放されないのね。大変そうだわ。」

「ここで愚痴っても仕方ないが、お子様が王子様でさえあれば、もう少し事態も違っていたかもしれないが…」

「でも、どうしてフランスでは、男子しか家督を継げないのかしら?隣国の英国では、けして歓迎されること

ではないけれど、一応女子の家督相続権も認められているわ。それに、フランスだって昔は、サリカ法の適用を

受けないブルターニュ公国では、アンヌ・ド・ブルターニュ様のように女性の正統の世継ぎが認められていたわ。

夫の話では、今でもゴール人(ケルト民族)の精神が残るブルターニュ地方では、特有の相続制度があって、

財産の3分の2は長男が相続するけれど、残りの3分の1を他の弟妹で均等に相続するそうよ。パリの貴族達が

後継ぎの長男の相続分を減らさぬように、結婚の際に持参金の必要になる娘達を修道院に入れて一生を

過ごさせるのとは、かなり違うわね。マリー・テレーズ様にも王国の相続権があれば、伝統的な貴族達が見る

王妃様への目もまた違ったことにもなるでしょうに…。」

「それは、難しい問題だね、トワネット。なんせそれを持ち出すと、14世紀のフィリップ5世や英仏百年戦争まで

遡らなければならないからね。」

「でも、サリカ法さえなければ、私やあなただって、これほどの苦労をする必要はなかったのに…」

「別に私は…自分の人生を悔いてはいないよ。私の性格には、軍人として生きることがあっているからね。」

私の子供達が、憧れのオスカルに会いたくて、私達のいる部屋へとやってきた。彼女は、冷たいほどの美貌とは

裏腹に子ども好きで、私の子供達も彼女の来訪を楽しみにしていた。ひとりひとり私の子供達に声をかけながら、

抱き上げて、ひとしきり遊び相手になってくれた。そして、子供達の去り際に、私が初めて見る彼女の表情が

印象に残った。彼女は、子供達のことを寂しげに見つめていたからだ。それは、まるで子供達が自分には許され

ない幸福な存在だとでも言いたげな表情だった。


  その晩、夫と話しながら、ふと彼女のことに話題が移った。夫は、男性としての意見を述べた。

「ジェルジェ准将も、もう20代半ばのはずだろう.。お父上のジャルジェ将軍は、未だに、あの美しい彼女を軍人と

して歩ませるつもりらしいが…。いくら口では軍人として生きるのが性に合っていると彼女が言ったとしても、

女性としての悩みもあるのではないのかい?彼女だって生身の人間だし、女性なのだから、男性を愛すること

もあるだろう。違うかい?マルグリット」

私は驚いた。彼女がただの女性としての幸せを求めることがあるなんて、私には想像できなかったからだ。

幼少の時、彼女は自分のことを本当の男性にいつかなれると信じていたし、王室に仕えるようになってからは、

それこそ、並の男性以上の統率力を現して、女性が軍人として存在することを反対する人々に決して文句を

言わせないほどの実力を示していたからだ。


 1781年には、国王夫妻に初めての後継ぎであるルイ・ジョゼフ・グザビエ殿下が誕生した。王妃様のお立場も

これで揺るぎ無いものとなるだろう。そして、1783年11月29日には、ヴェルサイユでアメリカの独立を承認する

条約が締結されて、独立戦争に終止符が打たれた。父は、これ以上、無駄な戦費の出費がなくなることに、

安堵したようだった。


  数年後、私はオスカルの女性としての一面を見ることになった。ある日、私がオスカルの父親の誕生祝いに、

父の名代で夫とともに出席した折に、彼女はいつもより華やいだ表情で過ごしていた。私はすぐにその理由に

気がついた。彼女の視線は遠慮がちではあるが、そこに出席していたフェルゼン伯に常に注がれていたからだ。

私の戦友にどんな心境の変化が起こっていたのだろうか? でも、彼女は何も私に話してくれなかった。

アンドレにも探りを入れてみたが、にべもない返事が返ってきただけだった。

「最近のオスカル様にかわったことがあったかですか?いいえ、何もございません。以前と変わりなく、国王

ご夫妻に仕えております。トワネット様は、相変らず戦友には、心配症でございますね。」

しかし、彼女を見つめるアンドレの表情が昔とは違い、女主人を見つめる顔ではないことに気づいてしまった。

彼の視線は、愛する女性を見つめる男性のそれだった。オスカルだけではなく、彼も昔とは変わっていたのだ。


 さらに数年の間に、オスカルの身辺には、私から見ると嵐のような変化が訪れていた。1785年に発覚した首飾

り事件は、世間の人々から王室への尊敬をさらに失わせる事態を招いた。オスカルは、犯人捜査の陣頭指揮を

とるために自ら出かけたと聞き、彼女の身を案じる私は、毎日、神に彼女の無事を祈っていた。その後、王妃様は、

民衆から「ピユタン・オトリシエンヌ(オーストリアの売女)」と呼ばれるありがたくない呼び名まで頂戴することに

なった。また、黒い騎士事件をきっかけに、オスカルは近衛隊を去り衛兵隊へ転属していた。その転属を私の

父に報告に来た彼女は、昔と違い何か憂いを帯びた表情だった。アンドレは、その美しかった瞳に傷を受け、

どこか翳りを纏う男性になっていた。二人の間には、かつてとは異なり、何かよそよそしい空気が流れていた。


  転属先の衛兵隊で、私の戦友オスカルが、部下には不服従で悩まされ、上司には女性であるということで

蔑まれ、いろいろと苦労しているようだと教えてくれたのは、父だった。父の元には、様々な人間が出入りして

おり、高等法院のことだけではなく、宮廷、軍隊、さらには庶民のこと細かな事情までが、情報として提供され

ていたからだった。


 時代は激しい変化を遂げ、私達一族も再び嵐の中に投げ込まれることになった。1787年に開かれた名士会は、

カロンヌの提案した改革案を退けた。そのため、国王陛下は4月にカロンヌを罷免し、ブリエンヌを財務総監に

任命した。それと同時に、私の一族に当たる父の従姉妹の息子であるクレティアン・フランソワ・ド・ラモワニョン

が、ブリエンヌの説得により、学者の道を諦めて国璽尚書に就任し、政府の改革に腕を振るうことになった。

そして、5月には父が無任所大臣に、私の従姉妹で父の甥に当たるセザール・アンリ・ド・ラ・リュゼルヌは海軍

大臣に、オスカルの上司にあたる陸軍大臣には、ブリエンヌ自身の弟が就任した。クレティアンは、パリ高等法院

の部長評定官の間では、広く賞賛と尊敬を受けていたため、法曹界との橋渡しとしての役割を期待されていた。


 ブリエンヌ達の提案したさまざまな改革は、王室費の削減では王妃様の怒りを買い、税制面では高等法院の

強固な反対に会い、とうとう彼は、8月にパリ高等法院をトロワに追放した。この事態は民衆の怒りを買い、

騒乱を引き起し、彼とラモワニョンの肖像画は、街灯で焼き捨てられた。結局、9月に高等法院は、パリに帰還を

許された。それが、反政府的な蜂起のきっかけとなり、フランス中が全般的な騒乱状態になっていった。11月

には、オルレアン公の介入もあり、政治的な譲歩と攻撃が何度も繰り返されていた。1788年5月ラモワニョンは、

かつて所属していたパルルマンの権限を削減することを決意した。これは、高等法院にあるうちには国王

権力に対抗し、政府閣僚となると、反対に高等法院の権限を弱めなければ、政策が実行できないという私達

法服貴族の矛盾を自ら露呈したようなものだった。私は、私達一族を襲うであろうこれからの事態を心配した。

6月7日には、とうとうグルノーブルで、後に「屋根瓦の日」と呼ばれることになる軍と民衆との衝突が起こった。

ラモワニョンの改革案を評価する声も多かったが、導入方法に無理があり、怒りの声にかき消されてしまった。

8月16日には、国庫は空っぽになり、政府債権の巨大な市場は騒然となった。8月24日にブリエンヌは国王に

より罷免され、父も翌日には大臣を辞任した。26日には、ネッケルが再任された。翌週にはパンの値段が高

騰し、さらに民衆の怒りに火をつけた。ブリエンヌ罷免の夜、ドーフィヌ広場を開放するために正規兵が起用され、

それ以前から徐々に動員されつつあったフランス衛兵隊や軍は、定期的に騎兵隊などが杖や石で立ち向かって

くる市民に立ち向かわねばならなかった。29日には、とうとう収集不可能な事態となり、司令官は空に向けて

一斉射撃を命じ、ようやく群集を退散されることができたありさまだった。パリの秩序維持にオスカル達衛兵隊

や軍の力が、深刻な試練にさらされることとなった。国王陛下は次々と大臣の首を挿げ替えて、結局、国民にも

貴族達にも譲歩をしつづけたのだった。


 親戚のラモワニョンは、既に精神的疲労も重なり、かなり身心に不調をきたしていた。心配したオスカルは、

暴徒の手から彼の家族や屋敷を守るために、司令官として自ら出向き、何度も彼の警護を行っていた。

ある日、父の元にパリの状態を説明しに来た彼女は、見るからに憔悴しきっていた。

「毎晩、ポン・ヌフの橋の上で、ブリエンヌ様とラモワニョン様の藁人形が燃やされて、燃やす物にことかくように

なると、歩哨の小屋まで奪われる始末です。もうラモワニョン様も辞任なさるしかありますまい…これ以上何か

あれば、お命の保証は、我ら衛兵隊といえどもいたしかねます。マルゼルブ様」

「…わかった。彼に伝えよう…陛下もここまで優柔不断だとは…事態がますます混乱するばかりだということが

ご理解いただけなかったようだ。王妹殿下のエリザベト様からもご心配のあまり、私に陛下へ進言するように

お手紙をいただいた。しかし、これでは…進言も意味があるかどうか不安だ…。国王という者は、一旦命じたこと

から、手をゆるめてはならない存在なのに…。」

オスカルは、何か言いたそうな表情をしていたが、その言葉を父の前では、飲み込んだようだった。

「それでは、失礼致します…」

父の前を去ろうと立ち上がりかけた途端、彼女は、大きく前に倒れこんだ。慌てて私が駆け寄ると、小さく囁いた。

「トワネット…アンドレを…彼を呼んで来てくれ…」

急いでかけつけたアンドレは、侍女の用意した部屋へオスカルを運ぶと、手際良く彼女を楽にさせて休ませた。

「アンドレ、今夜はここで休んでいったらいかが?屋敷と隊へは、連絡しておくわ。オスカルは、大丈夫?」

「では、お言葉に甘えて、そうさせていただきます。連日連夜、パリが荒れているので、休む間がなくて…でも、

明日からしばらく休暇を取りましたから、大丈夫でしょう。ご心配なく。」

「オスカルは、何か病気なのではなくて…」

「いえ、そういうわけではありません。…つまり…月のものが近くて調子が悪いのに、無理をしてこちらまで来た

ものですから。明日からは、無理をしないように、私が目を光らせておきますよ。」

「それならば、いいのだけれど…あなただけが頼りだわ、アンドレ。オスカルをよろしくお願いしますね。」

急に、気を失っているとばかり思っていたオスカルが、少々不機嫌そうに、アンドレを嗜めた。

「アンドレ、余計なことを言わなくともよい、少し休めば直るから。私も少々歳をとったんだよ。無理がきかなく

なってきただけさ。トワネット、君だって今年中には、孫が生まれるのだろう。87年に結婚したアリーヌ(・テレーズ

・ド・シャトーブリアン)から、嬉しそうに妊娠を知らせる手紙が届いていた。私のことより、一族のラモワニョン様

のことをもっと気遣って差し上げなさい。」

「はい、はい、わかりました。私はもう退散するわね。病人に怒られるなんて…立場が逆だわ。」

一時、オスカルの元を離れた私は、しばらくして、また心配になり、彼女の元を訪れた。扉の隙間からのぞくと、

アンドレが心配そうに彼女の手を握り、髪を梳かしながら、優しく彼女に休むように諭していた。。二人の間には、

以前のようなよそよそしさはなく、昔のように仲の良い二人だった。私は顔を出すのを止めて、安心して去った。


 9月18日、とうとうラモワニョンも国璽尚書を辞任した。翌年の春、彼は自殺を疑われる猟銃事故で亡くなった。

彼は、懸命な努力の末に力尽きて倒れた。父でさえ、彼の力にはなりえないほど、政治的孤立は深かったのだ。

父は狩猟中の事故だという公式の評決をすすんで受諾したが、彼の精神的疲労は、私でさえ想像してあまり

あった。私は、母の自殺を思い出さずにはいられなかった。


 1788年夏に我が家で体調を崩して以来、オスカルは忙しいらしく、なかなか会う機会に恵まれなかった。

私の耳に届いた噂では、父親のジャルジェ将軍が突然考えを変え、彼女を退役させて、結婚させるつもりだと

いうことだった。私には晴天の霹靂だった。オスカルが結婚…彼女がそれを望んでいるのだろうか?…とうてい

信じられなかった。急いで彼女に手紙をしたためたが、彼女の返事は、近々開かれるジャルジェ家の彼女への

求婚者を集めた盛大な舞踏会の結果を楽しみにしていて欲しいという、意味深なものだった。しばらくして、その

意味がわかった。舞踏会で彼女は派手な軍服を着込み、女性達と踊りあかし、あまつさえ、部下の衛兵隊員

達を乱入させて、舞踏会をメチャメチャにしたらしいという噂が、ヴェルサイユのみならず、パリにまで届いたから

だった。 彼女らしいやり方だわ。さすが私の戦友…私は、彼女の手腕を褒め称えた手紙をしたためた。


 1789年は、三部会の話で年が明けた。昨年の末から三部会の開催方法について、議論が分かれていた。

あちこちから、父に意見を求める人々があとを立たなかった。父は、この三部会がむしろ王権を強化し、立憲王政

への道を開くものとして期待さえしていた。1〜4月にかけて、昨年の天候不良のせいで収穫が悪く、穀物価格の

上昇がパンの高騰を促した。さらに、食糧不足も生じ飢饉の恐れが出始めた。マルゼルブ村も例外ではなかった。

三部会の召集とパンフレットの発行だけでなく、この飢饉への恐れも人々を騒乱に駆り立てた。4月26〜28日に

かけてのレヴェイヨン邸襲撃事件は、とうとうフランス衛兵隊が群集に発砲し、約300人もの死者と1000人ほどの

負傷者を出す大事件となった。幸いオスカルにけがはなかったようだが、彼女も第三身分の部下と、上官達に

挟まれて、次第に苦しい立場に追い込まれていったようだった。


 5月に開かれた三部会の警護で、オスカルは、またさらに忙しさをましたようだった。6月には王太子である

ルイ・ジョゼフ殿下が病気のためになくなった。しかし、王室には、その葬儀費用さえ既になかった。私も息子を

持つ母として、この時ばかりは王妃様の心情に同情を禁じえなかった。三部会の情勢は日々めまぐるしく変わり、

第三身分に合流する僧侶や貴族もあとをたたなかった。そして、6月17日には、第三身分議会は、国民議会を

名乗ることとなった。20日には、国王様は彼らに強腰で臨むことを決め、大広間を閉鎖した。オスカルからは、

疲れを隠せぬ文字で、この時の辛い心情をつづった手紙が、父の元へ届けられた。23日には、国王臨席の元で、

事態の収拾を図るために会議が開催されたが、もはや国王の命令では何も動かせない現実が、国民の前に

示されただけだった。24日には、2個中隊が軍務につくことを拒否し、28日には他の中隊が武器を投げ捨てて

パレ・ロワイヤルに駆け付けて、民衆から歓呼の声で迎えられた。そして、とうとう14人の兵士が連隊長の命令

によりアベイ牢獄に投獄された。


  オスカルが上官の命令に逆らい、軍を止めようとしたという知らせを受けた父と夫は、すぐにジャルジェ家へ

急いだ。父親であるジャルジェ将軍の厳格な性格を考えれば、彼女を手にかける心配があったからだ。父は

自由な気風を好む大貴族ではあったが、不思議と厳格な彼女の父親と、うまがあったのだった。多分、それは

二人が王家や政治や軍や世間に対して、常に誠実であろうとする人柄だったせいだろう。そのせいか、娘の

起した軍の規律違反が、彼女の父親にどんな行動をとらせるか、私の父には簡単に想像がついたらしい。

幸い彼女は、アンドレの捨て身の行動により父親の刃から守られ、王妃様の温情から、軍においても、お咎め

無しとされたらしい。私はその知らせを使者がもたらすまで、生きた心地がしなかった。でも、なぜいつも並の男性

以上に軍人たらんとした彼女が、こんな重大な軍規違反を犯したのか、その時は理解できなかった。

 6月30日には、アベイ牢獄に投獄された兵士達を救うために、群集数百人あまりが駆けつけ、兵士達は解放

された。看守であり、秩序回復のために派遣された竜騎兵達は、「国民万歳!」と叫び、群集に襲いかかるのを

拒否した。既にフランス衛兵隊の中では、司令官シャトレ公が公然と非難され、誰が上官なのかもわからない

ありさまだった。真の上官は、兵士達自らが選び取る事態になっていたのだ。


 パリの周辺には、王が集めた10個連隊が集結していた。世情は相変らず厳しかったが、オスカルの方は、やっと

3日ほどして、私的な事態が沈静化したらしい。彼女はアンドレを伴い、先日の礼を述べるために、パリのマルティ

ール街にある父の館を尋ねてきた。私は、彼女が馬車から降りるのを、2階の窓から見下ろしていた。彼女は明らか

に以前とは変わっていた。躊躇わずにアンドレの手に自分の手を重ね、後ろから抱きかかえられるのを嫌がりも

せずに馬車から降ろされていた。父を待つ間、二人は父の自慢の庭を見ることができる部屋へ通された。私は、

彼女の変化が不思議に思えて、庭の隅から二人を見つめていた。彼女は、アンドレに庭の説明をするように指で

示しながら、楽しそうに話しかけていた。それは、久しぶりに見る彼女の嬉しそうな笑顔だった。彼の方は、庭の

説明よりも、彼女の顔を見ている方が嬉しいとでも言いたげに、幸せそうに見つめていた。ふと彼が何か彼女の

耳元に囁くと、彼女は肩に置かれていた彼の手を取り、 頬を染めながらその手にくちづけていた。二人の間に何が

起こったか、私はすぐに理解した。


 私は、父とオスカルの話が終わる頃を見計らって、二人の待つ部屋を訪れた。

「お父様、子供達をお願いしますわ。それに、先日手に入れたすばらしい植物標本をアンドレにみせてはいかが

ですか。ご自慢の品でしょ?すいませんが、私とオスカルだけにしていただけませんか。」

「仕方ない、この二人の女性には勝てないのでね。私達は退散しよう。アンドレ」

アンドレは、何の疑いもなく、私とオスカルを二人だけにするために、父のあとを付いて部屋を出て行った。

私は、オスカルと二人きりになると、急に険しい顔つきになった。

「オスカル…今ならまだ間に合うわ。軍を退役して、普通の貴族の女性として、身分の釣り合う相手に嫁いでみる

ことを考えてはいかが?」

「…何を急に言い出すかと思えば…トワネット…今さら…何を言っているのだ?私の戦友は、昨年の舞踏会の様子

に大いに満足して、私へ賞賛を与えてくれたと思っていたがね、違うかい?」

「さきほど、あなたが馬車から降りる時と、部屋で父を待つ間のあなた達を見ていたわ。以前のあなたならば、

決してしないことばかりしていたわ。男性に手を取られ、男性の指先にくちづけるなんて…私には、あなた方の

間が、以前とは変化したのがわかったのよ。」

「良家の奥様が、のぞき見とは…趣味が悪いよ。トワネット」

「これは、冗談じゃないわよ。私の真剣な忠告よ。オスカル」

「…人妻の勘には恐れ入るが…ならば、私がなおのこと、もう彼と別れることなど、とてもできないことも理解して

くれないかね。」

「私の母を覚えている?」

「何を言いたいのだ?トワネット」

「身分違いの結婚は、いろいろと問題を生むわ。結局、母は自殺したのよ。身分違いは、不幸の元よ。それは、

アンドレにとっても同じよ…違う?オスカル…」

「…それは…」

「あなたの正式な夫にもなれず、今のままでは、子供すら得られないわ。たしかあなたは、彼には年老いた祖母

以外に肉親がないと言っていたでしょ?…これから、フランスはさらに混乱するわ。今ならばまだ間に合うでしょう。

考えなおしてみてはいかが?オスカル・フランソワ」

「…忠告はありがたいが…私は、彼を愛しているのだよ。彼も私を愛していると言ってくれた…私達は、もう離れる

ことなどできない。それは、私達にとっては、死を意味するのだよ。」

「…オスカル…」

「それに、いまさら軍人を辞めるなど…私にできるはずがないよ。」

「でも、あなたの体は、最後の血の一滴まで青い(貴族を意味する)のよ。誇り高い帯剣貴族の末裔なのよ。

平民の…しかも、従僕風情と愛し合うなんて、どだい無理よ。」

彼女は、私の言葉に怒っているようだった。しかし、しばらくすると、冷静さを取り戻し、自分の気持ちを語り出した。

「…私は他の女性とはかなり違う特殊な育てられ方をし、特別な人生を歩んできたが…若い頃は人並みに恋もした。

世慣れた人々からみたら、少女のような恋、恋に恋したように見えたかもしれない。でも、当時の私は、真剣に

彼を愛していた。ただ、私の愛した人は、別の女性を熱愛していたし、私は家のために軍人の道を捨てることは

できなかった。結局…自らその恋に幕を下ろした。私は、一人孤独と共に生きていかねばならないはずだった。

でも、アンドレは、こんな私を…自分の人生さえ犠牲にして、愛し続けてくれた。彼がいなければ、今の私は存在

しなかったはずだよ。」

「彼の犠牲に応えるために、彼の愛を受け入れたの?… それは、同情よ、愛ではないわ。オスカル」

「違う!それは違うよ。トワネット …昨年、急な結婚話が持ちあがった時、私達は、ともに暴徒に襲われた。

かつて愛した人が、たまたま通りかかり、私達を助けてくれた。でも、私の頭には、アンドレのことしかなかった。

あの事件で、私は…彼を失うことには、耐えられない自分を見つけた。彼の悲しい顔を見たくないために、

結婚話は私から断った。私は少し前から自分の気持ちの変化に気づいていた。でも、私達は、このまま女主人と

従僕として、時を過ごして行くことが、二人にとって一番いいと思っていた。でも、先日、彼が父から身を呈して

私を守ってくれた時…私は…もう自分に嘘はつけなかったのだよ・・・彼を愛している。彼にそばにいて欲しい…

私は彼に自分の気持ちを隠しておけなくなった…トワネット、君が幸せと感じることと同じことを・・・夫の体を

気遣い、夫のそばで、子供達や老いた父と共に暮らすことが、最高の幸せと思う…そんなことを私も感じたい

だけなのだよ。…私は、愛し愛されたいと願っているごく普通の人間なのだからね。」

「でも、ご両親は反対なさるでしょ?…あのジャルジェ将軍がそんなことをお許しになるはずがないわ。」

「父は、もう何も言わないよ。私が幸せなら、それで満足して下さるだろう。親とはそんなものではないかね?

…それに、心配してくれなくても大丈夫だよ。私達は、私達のやり方で生きていくからね。」

彼女は明るく微笑み、私の額にくちづけしてくれた。昔のように…。私の心配は、今の彼女にとっては、既に無駄な

話としか聞こえなかったらしい。

「…トワネット、そろそろ失礼するよ。…多分、軍が集結する2週間後には、私達にも出動命令が出るだろう。

サ・リュー…君は、私の唯一の女性の戦友だ。君の家族を大事にしてくれ。この混乱が落ちついたら…いつか

また会おう。それまで、元気でいておくれ。」

「オスカル、待って…待って……」

私の静止を軽く振りきると、彼女は、足早に部屋を後にした。私は、なぜあんなことを言ったのか、自分がわから

なかった。ただ、二人の仲を、オスカルに問いただしたかっただけだったのに…。あんな酷いことを言うつもりは、

全然無かったのに…。


 私はオスカルに手紙を書くこともせずに、ぼんやりとその後を過ごした。彼女は、再会を約束してくれたから。

まさか1ヶ月もせぬうちに、彼女の訃報を聞くことになろうとは、思っていなかった。私はただ呆然として

彼女の死を聞いた。そして、涙が枯れるのではないかと思うほど、泣き暮らした。彼女がなぜ死を賭してまで…

なぜ今までの軍人としての、帯剣貴族としての生き方をすべて否定してまで、民衆の側へ寝返ったか…

私には理解できなかった。その時、父は、私を慰めようと呟いた。

「オスカル・フランソワは、ただ彼女の信念にのみ殉じたのだよ。オスカルとアンドレは…二人は、天国でこれ

からのフランスを、私達を見守ってくれるだろう。彼らの冥福を祈りなさい。彼らは真の自由を得たのだから。」

オスカルから見れば、私はなんと情けない戦友だったのだろう。彼女の信念すら、理解できなかったのだから。

きっと父の方が、何倍も私より彼女達を理解していたのかもしれなかった。


バスティーユ攻撃をきっかけに、政治情勢は、急激に展開して行った。時間が経つにつれて、革命は、 まるで

血を求めて動き出した毒蛇のように、あらゆる人々を飲み込んで行くことになった。そして、私の真の戦い…

一族を、家族を守るという戦いは、彼女の死後、しばらく経ってからやってきたのだった。さらに、本当の悲しみ

は、もっと後に、大挙してやってきたのだった。  


 革命が始まっても、父は国民議会には参加せず、すべての公職から離れて、自由な人間として、パリとパリの

南方(約70km)にあるマルゼルブ村を行き来していた。 でも、革命の成り行きについては、常に冷静に見つめ

続けていた。

(まだ途中書きなのですが、現実生活の方、つまり、引越しが忙しくて、しばらく続きを書けそうにありません。
せっかくみずき様へのプレゼントのつもりだったのですが、また時間ができましたら、頑張りますので、お許し下さい
ませ。あとは、マルグリットの戦いと静かな最後と、彼女の後悔していることを書くつもりです。)

a suivre
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